まもなく、上映開始です。

 エンドクレジットが流れ、劇場の照明がゆっくり灯った。

 ぞろぞろと立ち上がる人たちを見て、俺たちも席を立つ。
 ほんの少し沈黙が続き、何を話せば自然に会話が続くか、頭の中でぐるぐる考えていた。

 感想とか、もう言ってもいいのかな。
 いや、でも移動中だし、大きい声でも話せないし。
 ていうか、この後ってどうしたらいいんだろう――

 劇場内の階段を下りながら、目が泳ぎまくる俺。
 先に沈黙を破ったのは、晄だった。

「……どっかカフェでも入る?」

 その言葉に、思わず顔をぱっと上げる。
 射抜くような鋭い瞳と視線が合い、胸の奥がちくちくと熱くなる。緊張がなかなか解けず、声を出すのも勇気が必要だった。

「うん……! 行きたい、です」

「敬語やめろよ。喋りにくい」

 はっきり言われたのに、すぐには「うん」とタメ口に切り替えられず、こくんと小さく頷く。
 その仕草に、晄の目元が少し緩んだような気がした。



 映画館の近くのカフェに入り、注文口で一緒にメニューを眺めるけれど、文字はほとんど頭に入ってこない。

 晄が前屈みになって俺の手元を覗き込むと、長い前髪がさらりと落ちる。
 シルバーのチェーンが揺れ、首筋や肩のラインがくっきり見えた。

 ――なんで、こんな人が隣に立っているんだろう。

 俺より十センチ以上高い晄を見上げながら、そう思う。
 静かに立っているだけなのに、首の傾け方や指先の角度まで完璧で、まるで画面から抜け出した俳優みたいだ。
 どこを見ればいいのか分からないのに、目で追うのを止められない。

「何飲む?」

「えっと……抹茶ラテにしようかな」

「俺、頼んで来るから。……席、先に取っててくんねぇ?」

「は、はいっ」

 混み始めた店内で、空いている席を示すように顎で軽く指示される。
 ぴゅっと慌てて店内の奥へ向かい、どこに座ろうか迷った末、結局一番最初に見つけた隅の二人掛けの席に荷物を置いた。ちょっとそわそわしながら、注文の順番が回ってきた晄をこっそり見て、すぐに視線を落とす。
 やがて、トレイを片手に持った晄がやってきて、俺にカップを差し出しながら言った。

「どうぞ、人見知りさん」

「……え?」

 思わず顔を上げると、晄はマスクを外し、からかうような笑みを浮かべていた。

「さっきから『緊張しすぎて死にそう』って顔してるから」

「そ、そんなこと……」

「図星だろ」

 晄は俺を見つめたまま、カップに口をつける。
 俺はぎこちなく頷き、視線を自然に膝に落とした。

 ――ごめんなさい。
 コミュ障の俺には、こんなイケメンと目を合わせて話すなんてハードルが高すぎます。

「DMだとあんな喋るのにな」

「メッセージは、考える時間があるから大丈夫なんだけど……」

「せっかく会えたんだし……もっと映画の話、したいけど。俺は」

「が、頑張ります……」

 見た目は派手で近寄りがたい雰囲気なのに、こうして気遣いを見せてくれるのが意外だった。
 沈黙が少し長く感じられ、テーブル下で足先がもぞもぞと落ち着かない。

 カップに手を伸ばすと、晄がぽつりと声をかけてきた。

「……で、今日の映画、どう思った?」

 テーブルに頬杖をつき、視線を向けられる。
 心臓は相変わらずバクバクしているけれど、「喋らなきゃ」と両膝の上で拳を軽く握った。

「え、えっと……面白かった! 後半、怒涛の伏線回収がヤバすぎて……」
「分かる。あそこまで一気に畳みかけるとは思わなかった」

 顔を上げると、晄はじっと続きを待っているような表情でこちらを見ていた。

「あと、主人公の細かい仕草とか……動きが絶妙で、もう一回考察しながら見直したい!」

「俺も、考察すんの好き。 照明も計算されてたよな、光の色で感情の揺れを表してて」

「わかる! 家のシーンのセットも丁寧に映してたし、キャラクターの心情とリンクしてた気がする」

 晄は柔らかく笑った。
 初対面のときは無愛想に見えたけれど、こういう笑顔も見せてくれるんだと、少し胸を撫で下ろす。
 シラけさせちゃったらどうしよう、と会う前は不安だったけれど、不思議と自然に会話は続いていた。話題は少しずつ映画の細部から監督の意図、今回出演した俳優の他の出演作品、好きな映画のジャンルまで広がっていった。

「……超マイナーだけど、北欧の映画とか観る?」
「大好き。スウェーデンのをよく観るんだけど、この二つが特に好きで……」
「うわ、マジか。俺もコレはめっちゃ好き。やっぱリメイクよりオリジナルだよな」

 時折声を揃えて笑ったり、指摘に頷き合ったり。スマホで海外のレビューを見せ合い、同じ画面を覗き込むうち、テーブル越しに向かい合う距離も自然と縮まった。
 少し間が空いて、カップの縁を指でなぞりながら、晄がぼそりと言った。

「……宵、最初に俺のレビューにコメントしたの、『(またた)きのプロム』だったよな」

 ぶっきらぼうな調子なのに、言葉の奥に少しだけ探るような響きがある。

「うん。最後のダンスのシーンがすごく好きだなって思った」
「……体育館の照明、落ちるとこ?」

 晄は視線を窓の外に向けたまま言う。
 カフェのガラス越しに、夕方の光が斜めに差し込んでいた。

「主人公、自信が無くてずっと下向いてんのにさ。
 ヒロインはちゃんと目を逸らさずに主人公を見つめてるじゃん。あのシーンが俺は好き」

 笑っているのかどうか分からない声だった。
 俺は晄の気持ちをそっと想像しながら、ゆっくり頷く。
 第一印象は治安も口も悪い人……だったけれど、こういう人の心の機微に目を向ける辺り、意外と内面は繊細なのかな、と思った。

「分かる。誰も気づかないって思ってたのに、ちゃんと見てくれる人がいる感じ。
 自分以上に自分のことを理解してくれる人がいるって……素敵だよね」

 晄の指が一瞬止まった。
 小さく息を吐き、少しだけ視線を戻す。

「……こんなマニアックな話でも通じんのは、さすが映画中毒の宵だよな」

 短い言葉なのに、トーンは柔らかくなっていた。
 少し沈黙が続いたけれど、それは今まで恐れていた沈黙とは別物で。
 静かだけど、居心地のいい空気だった。

「……アプリのレビュー読んだ時から思ってたけど、やっぱいい感性してんな、お前」

「え?」

「映画、観る視点とか、解釈。細かいところまで見てるし」

 その言葉に何か返そうとしたけど、喉の奥がひゅっと詰まって、声にならなかった。
 晄はそれ以上何も言わず、手元のラテをゆっくり飲み干す。

 気づけば、二人の間にまた自然な沈黙が流れていた。
 その沈黙さえも心地よく、不思議な安心感がある。
 人と話して、そんな風に思えるのは初めてだった。

 そんな時、晄が軽く視線を合わせてきた。

「あのさ。映画以外のことで、一個聞きたい事があんだけど」

「うん」

「宵の半年くらい前のレビューに、“入院中に鑑賞しました”って書いてたじゃん?」

 喉の奥がひゅっと縮む感覚。
 まさか、そんな前のレビューまで読んでくれているとは思わなかった。
 そう、実は俺は半年前の冬に、ある事がきっかけで――大学病院に緊急入院した時期があった。

 自分の中でもあまりいい思い出ではないから、触れられたくなくて、思わず話を逸らそうとする。

「……あー、うん。してた、入院」

「え、怪我? 病気?」

「病気……みたいなものかな。でも、完治してるから、気にしないで」

 晄に心配させたくなくて、笑顔を作る。
 その笑顔が少しぎこちないことくらい、自分でも分かっていた。

 晄は一瞬だけ俺をじっと見つめ、それでもほんの少しだけ眉を寄せていた。

「体調は?」

「もう元気だよ。こっちの耳が……若干、聞こえにくい時もあるけど。聞こえないわけじゃないから」

 片耳に手を触れながら説明すると、晄は軽く頷き、「なら良いけど」とだけ呟いて。
 言葉は少ないけれど、それ以上話を広げない晄に、胸の奥で不器用な優しさを感じた。

 会話が一区切りついた後、二人で店内を見渡してから、見計らったように晄が中腰で席を立った。

「……結構喋ったな。そろそろ出るか」

「そうだね」

 続いて立ち上がると、二つのカップを片付けながら、さっきまでの緊張や動揺がふわりと溶けていくのを感じた。

「あ、悪い」

「え? いいよ、全然。晄も最初に運んでくれたじゃん」

 トレーを返却口に差し込んで店を出ると、春の風がやわらかく通り抜け、桜の花びらがスニーカーのつま先をかすめた。
 晄の長い前髪が風に揺れて、二人で駅まで一緒に歩いた。
 別れる時間が近づいていることを、俺はうっすら意識する。
 晄は三番線、俺は四番線で、反対方向に向かう電車に乗る予定だった。

「……電車来たし、帰るわ。それじゃ」

 別れの言葉はあっさりしていて、映画のラストシーンのような名残惜しさはない。
 でも、今日一日でこれだけ話せたこと、その中心でリードしてくれたのは間違いなく晄だった。

 斜めにかけたバッグのベルトをぎゅっと握る。
 次に会う約束はしていないし、もう会えないかもしれない。
 なら、ちゃんと伝えたい――
 そう思う気持ちが、胸の奥で静かに膨らんだ。

「あの、晄……」

 自分では少し大きめの声で呼びかけたつもりだった。
 でも、その声は細く、駅のアナウンスや話し声にかき消され、晄は気づかないまま歩き続ける。

 咄嗟に後ろから、そっと晄の服を掴んだ。
 くい、と服を引っ張られて振り返った晄は、目を大きく見開き、驚いた表情でこちらを見た。

「今日、うまく話せなくてごめん!
 でも、楽しかったから……ありがとう」

 言葉は小さく、最後は尻すぼみになってしまったけれど、晄は足を止め、黙って耳を傾けてくれる。
 その立ち姿や雰囲気から、優しさが暖かい空気のように伝わってきた。

「……こっちこそ、サンキューな」

 そう言って、晄はゆっくり電車に乗り込む。
 ホームと車内で視線が一瞬だけ重なり、互いの存在を確かめ合う。

 走り出した電車に向かって小さく手を振ると、晄は微かに目線を逸らした。
 でも、風に揺れる髪と横顔のシルエットが、まるで映画のワンシーンのように、心に残った。

 ――あぁ、行っちゃった。

 そんな風に思う自分に、少しだけ違和感を覚える。
 なぜか、ちょっとだけ寂しいような気持ち。
 でも、その理由は自分でもうまく説明できない。
 今日たくさん話せたし、楽しかったから……なのかもしれない。

 その時、バッグの中でスマホが小さく振動し、画面に晄からのメッセージが表示されていた。

 “また誘うかも”

 自然と口元が緩む。
 返信する指先が少し震えながらも、タップして打ち込む。

 “すごく楽しかった。また行こう”

 差し込む夕日をぼんやり眺めながら、今日観た『future mind』を思い返す。
 胸の中に残るシーンを整理するように、フィルメモリーを開き、文字を打ち込んだ。

 “今日は友だちと三原シネマで鑑賞。
 ラスト十五分、怒涛の展開で心臓がバクバクした。
 照明やカメラワークも素晴らしかった。
 絶対劇場で観るのがオススメ!”

 打ち終わった瞬間、“友だち”という単語が心に引っかかる。
 DMでのやり取り、今日の直接の会話、盛り上がった時間――でも、友だちって思ってるのは俺だけかもしれない。
 だとしたら、“知人”の方が無難かも。

 迷いながら長押しでカーソルを合わせ、削除しようと親指を伸ばす。
 しかし、タップがわずかにずれて投稿されてしまった。

「あ、やば。ミスった……」

 一瞬、心臓が止まったように感じる。
 急いで鉛筆マークを押して編集していると、画面に通知が滑り込んできた。

 “オータムさんがあなたのレビューにいいね!しました”

 編集する間もなく、晄に先に読まれてしまった。
 “友だち”って書いたこと、嫌じゃなかったかな。
 でも、「いいね」してくれたということは、少なくとも共感してくれたということ。
 晄も自分を、友だちとして見てくれていたら嬉しい。

 今日、晄に会えて本当に良かった――そう思いながら、電車の揺れに身を任せ、ポケットにしまったスマホに手を添える。

 外の景色がゆっくり流れていく。
 駅前のビルの窓の明かり、遠くを行き交う人々。
 晄と交わした映画トークを思い出しながら、ふと口元が緩む。
 電車の揺れに合わせて、今日一日の思い出が光を帯びて揺れているような気がした。