まもなく、上映開始です。

 晄と俺が恋人になって、一ヶ月が経とうとしていた。
 冬休みに入ってからは、大学へ行かない代わりに、バイトのシフトが増えた。晄も同じように忙しくて、中々休みが合わない。
 会えたのは、たった三回だけ。それでも、その短い時間があるから頑張れた。
 駅前のベンチで顔を合わせる十五分のために、乗り切るような日々だった。

 帰宅してからは、レポートや課題に追われる毎日。
 短い言葉のやり取りでも、不思議と心が軽くなった。
 電話をつなぎっぱなしにしたまま、どちらともなく眠りに落ちた夜もある。声が聞こえるだけで安心できた。
 そんな日々の小さな繋がりが、会えない時間を埋めてくれた。

 そして今日、クリスマス。
 バイトが終わったら、晄の家で一緒に過ごす約束をしていた。
 内緒で、プレゼントも用意した。包みを鞄の中に入れるたび、少し照れくさくなる。
 カウンターの締め作業を終えて、両替袋を片手にバックヤードへ向かう。
 ドアを開けた瞬間、たばこの煙と一緒に、賑やかな笑い声が飛び込んできた。

「クリスマスにバイトって、マジであり得なくない?」

 有馬先輩が、パイプ椅子の背にもたれながら煙を吐く。

「無理無理。あー、帰りたい。今店に居るヤツら全員、“NETFLEX(ネットフレックス)”でも契約して配信観ればいいのに!」
「それはウチの店が潰れるだろ」

 隣でスマホをいじっていた遊佐先輩が、呆れたように頭を小突く。
 そんな二人を見ていると、少しだけ心があたたまる。
 先輩たちと俺は、以前より親しくなっていた。
 ふと、有馬先輩の右手の薬指に、視線が惹きつけられた。

「……有馬先輩、それすごく綺麗ですね」

「ああ、これ? 彼氏に貰ったんだ、記念日だったから」

 銀色のシンプルな指輪。有馬先輩の横顔は幸せそのものだった。

「見せびらかしてんじゃねぇよ。有馬の彼氏って何個下だっけ?」

「宵くんと同じ、大学二年生」

「うわ、マジか。どこ大?」

「明帝大。しかもイケメン、高身長、超優しい!最高!」

 晄と同じ大学の人だ、と心の中で思った。
 惚気まくる有馬先輩に、遊佐先輩が呆れたように息をつく。

「物好きだよな。お前みたいな生活力ゼロ男、俺なら三日で別れるわ」

「は? 嫉妬ですか? シングルこじらせ野郎」

 いつものように軽口を叩き合う二人。
 そんな掛け合いが、いつもより少しだけ微笑ましく感じた。

「宵くんは、クリスマスと年末年始でまた映画観まくるの?」

「連休だもんな。去年は大量レンタルしてたじゃん」

 先輩たちの視線が、一気に集まる。

「あ……今年は、しないです」

「え、なんで? まさか恋人でもできたとか?」

「えーっと……」

 その沈黙だけで、答えは伝わってしまったらしい。

「嘘、マジ⁉︎ 宵くんが⁉︎ 奇跡すぎん⁉︎」

「おいおい、あの深山がリア充化してんのかよ」

 有馬先輩と遊佐先輩の声が重なる。
 なんだか、親に報告してる気分になる。

「えっと……また今度話します! すみません、今日はこれで」

 時計を見ると、もう上がる時間だった。
 慌ててリュックを背負いながら、深々と頭を下げた。

「ちょ、デート!? クリスマスデート!? 報告絶対しろよー!」

「お幸せにー! 裏切り者ー!」

 先輩たちの興奮した声に、思わず吹き出しながら裏口のドアを閉めた。
 晄に一秒でも早く会いたくて、息を切らしながら三原シネマに向かった。



 映画館の従業員用出口の横で、館内の音がわずかに漏れているのが聞こえる。
 俺は吐く息を白くしながら、スマホを片手に晄を待っていた。
 ――カシャン、と金属音を立ててドアが開くと、中から晄が姿を現した。

「宵! 寒いんだから近くのカフェ入ってろって言ったじゃん」

「……ごめん、早く会いたくて」

 黒いダウンの前を閉めて、結んでいた髪を解く。
 その何気ない仕草に、心臓が一拍遅れて鳴る。

「お疲れ様。やっぱり激混みした?」

「……マジで死ぬ……ちょっと充電さして」

 ぼやきながら、晄がゆっくりと歩み寄ってくる。
 そしてそのまま、ふらりと俺の胸元に倒れ込むように抱きしめてきた。

「ちょ…ちょっと、晄。外だよ……」

「シフト的に誰も通んねーから大丈夫」

 ぎゅ、と腕に力を込められる。
 凍えるような夜気の中で、その抱擁だけがやけにあたたかい。

「疲れた?」

「いや、そうじゃなくて」

「ん?」

「……宵不足。一週間会えないのは流石に無理」

 耳元にかすかにかかった声が、寒風よりもずっと熱かった。
 頬が一瞬で火照る。息を吸っても、胸の奥まで熱が冷めない。
 「頑張ったね」と笑って、つま先立ちで労うように晄の頭を撫でると、晄はようやく腕をゆるめた。
 
 そして、何もなかったみたいに隣に並んで歩き出す。
 少しの沈黙の後、晄が小さく息を吐いて言った。

「……手、繋いでいい?」

 不意にそう言われて、胸がきゅっと締め付けられる。
 俺の気持ちを確かめるような声音。
 その優しさが嬉しくて、息を整えるみたいに小さく頷いた。

 晄の上着のポケットの中に手を滑り込ませる。
 指先が触れ合った瞬間、晄がそっと指を絡めてくる。
 まだほんの少し冷たい手。でも、すぐに体温が伝わってきた。

 晄がすり、と親指を撫でた。
 強く握られたわけじゃない。
 まるで「大事にしてる」と伝えるような穏やかな力加減だった。
 晄のそういうところが、たまらなく好きだった。

 駅の階段を降りると、構内の暖かい空気が頬に触れた。
 電車に乗り込むと、晄は俺の肩にそっと凭れかかってくる。連勤だし、疲れているんだと思った。

「着いたら起こすから、寝ていいよ」

「……もう寝てる」

 くぐもった声に、思わず小さく笑う。
 いつも通り最寄駅で降りて、コンビニで夜食とケーキを買い、晄の部屋へ向かった。



 玄関を開けた瞬間、外気とは違う、ふんわりとした温かさに包まれる。
 靴を脱いで、鞄とコートをハンガーに掛けながら、晄が電気のスイッチを押す音がした。
 並んで座り、コンビニで買ってきたものを並べる。プロジェクターを点けると、壁一面に映画のタイトルが映った。

「やっぱクリスマスと言ったらコレだよね」

「わかる。ガキの頃から、何十回も観てるのにな」

 小さな男の子が、たった一人で泥棒から家を守るクリスマスの定番映画。台詞も、展開も、オチも全部知っている。それでも、何度だって観たくなる。
 映画が始まってしばらくすると、晄がそっと俺の手首を掴んだ。

「晄?」

「……こっち来いよ」

 返事をするより早く、晄の膝の間に引き寄せられた。
 背中に感じる体温は、冬の空気よりもずっと暖かくて、心の奥までじんわり染みる。

「あの……恥ずかしいんですけど……」

「知ってる」

 低く囁かれた声が耳の奥でこだまする。
 晄の腕がそっと俺の胸の前で組まれ、軽く抱き寄せるように力がこもった。
 映画の音はぼんやりと背景になり、心臓の鼓動だけが大きく響く。
 首筋にかかる息、ふわりと揺れる髪。その距離の近さに、心まで溶けてしまいそうだった。

「晄って、意外と甘えん坊だよね」

「……だったら何だよ」

「あはは、否定しないんだ」

 付き合い始めてから知らなかった晄の一面。
 メッセージは即既読だし、電話口の声も前より少し甘くて、
 スキンシップも、思っていたよりずっと好きらしい。

 ――こういう姿を見られるのは、俺だけなのかな。

 そう思うと、胸の奥がくすぐったくて、嬉しくて、自然に顔が緩む。

 映画の中では子どもが泥棒を撃退して大騒ぎしている。
 でも、俺の世界は静かで、暖かくて、甘ったるい空気が漂っていた。

 映画がエンドロールに差し掛かる頃、俺はちょっとそわそわしながら、リュックの奥から小さな包みを取り出した。

「晄、これ……。クリスマスプレゼント」

「俺に?」

「うん。開けてみて」

 晄が包みを開くと、中にはくすんだブルーの厚みのある本革カバーのノート。
 手触りのいい革の香りがほんのり漂い、ページをめくるとファイルが綴じられている。

「……チケットノート?」

「うん。……これから晄と観る映画の半券を、思い出に残したいなって」

 言いながら、頬が熱くなる。
 晄はノートの質感を指先で確かめるように撫で、そしてゆっくりと俺を正面から抱き寄せた。

「……マジで嬉しい。幸せすぎて死ぬかも」

「そんなに喜んでくれると思わなかった」

「サンキュ……大事にするから。プレゼントも、宵のことも」

 そのまま晄は俺を抱きしめ、手のひらで何度も髪や頭を優しく撫でる。
 掌から伝わる温もりに、俺もそっとその背中に腕を回した。

「……宵。俺も、プレゼント用意してきた」

 晄がそう言って、そっと差し出してきたのは、手のひらに収まる小さな箱だった。
 深いターコイズブルーに金の箔押しでブランド名が入っていて、細いネイビーのリボンが丁寧に結ばれている。
 晄が指先でリボンを解き、ゆっくり蓋を開ける。
 中にあったのは――星が一粒、そっと閉じ込められたような、澄んだブルーの石だった。
 銀色の細いチェーンが、その光を縁取るように静かに揺れている。
 水面みたいに透明で、でも中心には深い青が沈んでいて……見ているだけで、息が止まりそうだった。

「……晄、これ……すごく綺麗」

 思わず、震えた声で呟いていた。
 晄を見ると、ほんの少しだけ口角を上げていた。
 自分の選んだものを褒められて、どこか安心したような、嬉しそうな笑顔。

「それが一番、宵っぽいなと思って選んだ」

 ただのアクセサリーじゃない。
 俺のためだけに選んでくれて、似合う色を考えてくれたこと。石の形を見比べて、迷って、何度も手に取って決めてくれたこと。知らない時間のひとつひとつが、この小さな箱の中に詰まっている気がした。
 胸がきゅっと締めつけられて、息を吸うのもゆっくりになる。

「……ありがとう。大切にするね」

 笑おうとしたのに、うまくいかなかった。喉の奥が熱くて、気づいたら視界がにじんでいた。
 ぽた、と涙が落ちる。
 晄は驚いたように少し目を見開いたあと、何も言わずに、そばで静かに微笑んでくれた。
 あたたかい、冬に灯したあかりみたいな笑顔。

 映画のエンドロールがゆっくり流れていて、クリスマスソングが鳴っている。
 プロジェクターの光に照らされて、ネックレスのブルーが瞬く。
 その光は、まるで夜空を横切る流れ星みたいだ。

「宵」

 名前を呼ばれて顔を向ける。
 照明の柔らかな光に照らされた晄の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめていた。
 少しだけ眉間に皺を寄せて、晄の頬が赤らんでいる。
 いつもなら照れ隠しに顔を逸らすのに、今日は目を逸らさない。
 その表情だけで、何を言おうとしているのか分かった。

「……キスしたい」

 喉が詰まって、息が浅くなる。心臓が暴れるように高鳴っているのが、自分でもわかる。
 それでも晄は急がない。
 その瞳だけで、ちゃんと俺の気持ちを待ってくれているのが伝わった。

「あの、俺……」

 言いながら、思わず肩を竦める。
 晄が、俺を見つめている。恥ずかしさを隠すように口元を袖で隠すと、小さな声を振り絞って言った。

「……その、初めてで……」

 その瞬間、晄の喉がわずかに動いた。

「……大丈夫、俺がするから」

 低くて少し掠れた声が、静かな部屋の中に落ちる。
 晄はそっと手を伸ばして、俺の頬に触れた。
 そのまま引き寄せられるように瞼を閉じると、顎をそっと持ち上げられ、唇がそっと触れた。
 柔らかくて、慎重で、あたたかい。
 ほんの一瞬のはずなのに、時間が止まったように長く感じた。
 離れたあとも、胸はぽうっと熱く、唇の感覚が残って離れない。

「……宵」

「うん?」

「好き。すげぇ好き」

 その声がまっすぐに届いて、息が詰まる。
 晄の瞳の奥が少しだけ揺れて、それでも真剣で、優しかった。

 スクリーンの光が二人の影を壁に映し、揺れている。
 エンドロールの文字が白く静かに流れるなか、言葉を交わさなくても、息づかいで互いの心が触れ合う。
 笑ったり、ふと視線が合ったり、軽く手を握ったりするたび、胸の奥で小さな火が弾ける。

  どんな映画よりも、この瞬間の方が心に刻まれている。
 見つめ合う時間が、まるでフィルムを一コマずつ進めるように、ゆっくりと流れていく。
 これからの二人の時間も、きっとこうして積み重なっていくと思った。
 笑ったり、言葉を交わしたり、手を握ったり、ただ隣にいるだけで、日常の一瞬一瞬が特別な映像になる。

 映画のスクリーンの光と、二人の影と、雪と、静かに流れる音楽――すべてが重なり合ったこの瞬間が、二人だけの新しい物語の幕開けのようだった。





fin.