「宵、寝るぞ。もう結構遅いし」
シャワーを終えた晄が、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出しながら言った。
その声はいつもと同じ、淡々としていて、まるで何事もなかったかのようだ。
けれど、その平静さが逆に胸をざわつかせる。
さっきまで抑え込んでいた熱が、静かに暴れ出した。
――このまま一緒になんて寝たら、気持ちが溢れそう。
晄がリモコンで間接照明を落とす。薄暗い光の中、晄の横顔だけがくっきり浮かび上がった。
ベッドの上で膝を抱えながら、その横顔を見つめる。
この数日、ずっと胸に押し込めてきた感情が、ゆっくり、でも確実に、洪水のようにせり上がってくる。
手も足も、喉も、何もかもが震えて、どうにかなりそうだった。
膝を抱える腕に力が入った、その時。
「……宵?」
俺の様子に気付いた晄がペットボトルを置いて、静かにベッドへ腰を下ろした。
マットレスがふわりと沈み、すぐそばに体温の気配が広がる。
「……いや、あの……」
言葉を探すのに、喉が詰まって何も出てこない。
呼吸の仕方さえ分からなくなる。
代わりに、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。
――ああ、もう隠せない。
嗚咽をこらえる俺を見て、晄は驚かない。
まるで最初から分かっていたみたいに、そっと指先で涙を拭う。
ただ静かに、俺だけを見ていた。
「……ちゃんと聞く。ゆっくりでいいから、話せよ」
その一言が胸を震わせる。
晄には、もう全部バレてるような気がした。
息を整えようとしても、指先の震えは止まらない。
ぎゅっと握った拳を、晄が包み込む。その掌の温もりが迷いごと溶かしていく。
この寂しさも、打ち明ける怖さも、全部ひっくるめて、晄が「好き」な証なんだ。
溢れた想いが、涙の一粒一粒に溶けていくようだった。
「俺、最初にやりとりを始めた時は……晄と映画の話をするのが、ただ嬉しかったんだ」
「うん」
急かさない、遮らない、柔らかな声。
その優しさが沁みて、言葉が自然にこぼれていく。
「実際に会ってみたら、晄は想像と全然違ってて……でも話すうちに、次に会う約束をするたびに、もっと会いたいって思うようになってた」
拳に力を込めると、晄がそっと握り返してくれた。
その温もりに堰がゆるむ。涙が手の甲に落ちる。
「……晄が看病してくれた時に、好きなんだって気づいた。
でも傷つくのも、友達でいられなくなるのも怖いって思った。だから離れようと思ったのに……」
嗚咽混じりの声が震える。でも止まりたくなかった。
晄との時間がひとつずつ蘇る。
笑顔も沈黙も、不器用な優しさも全部。
袖口で涙を拭き、晄の手に指先を伸ばした。
「怖いのに、好きを止められない。
俺、晄のことが、すごく好き……」
白く残る傷跡を、そっとなぞる。
晄が俺を受け止めてくれたように、俺も同じだけ晄のことを大事にしたいと思った。
「だから、ずっと――」
言い終える前に、晄が俺を抱き寄せた。
「……一番大事なことは、俺から言わせてくんない?」
耳元で震える掠れ声に、心臓が暴れ出す。
晄は腕をほどき、正面から俺を見つめた。真剣で、逃げ場がない。
息が止まる。
「お前がその気持ちに気付くずっと前から、俺は宵のことが好き」
――嬉しいとか信じられないとか、そんな言葉じゃ足りない。
頭が真っ白になって、ただ晄の声だけが胸に落ちていく。
「俺も、最初はただ映画の話できる相手だと思ってた。
でも、初めて会った時……正直ビビったわ。
こんな可愛い顔した奴が来るなんて、想像してなかったし」
晄の頬が、見たことがないほど赤くなっていて、見ている俺の方までその熱が伝わるようだった。
いつも余裕があって、自信をみせる意地悪な晄はそこに居ない。
指先で時折頭を掻いて、すごく恥ずかしそうな顔で俺の方を見つめている。
「引っ込み思案だけど、内面は繊細で、無防備で……
そこが好きで、会うたびにもっと知りたくて。
絶対落としたいって思ったから、家に呼んで何回もアプローチかけたのに。
……お前、全然気づかねーし」
晄が、あぐらをかいて頬杖をついた。視線を外しながらぽつりぽつり言葉を紡ぐ。
その話に、俺は晄の家に初めて行った日からの出来事を、心の中で静かに思い浮かべた。
「でも、“単に落としたい”のとは違うって気づいたのは……看病した日だった。
“俺が、こいつを守りたい”って気持ちに変わってた。
……なのに、急に距離置かれたから、めっちゃ焦って。
それでも諦めきれなくて、デートに誘った。
コラボカフェも野外シネマも、夜に告白するつもりで誘ってた」
ただの、友達としての誘いじゃなかった。
すごく大切に想ってくれていて、俺が逃げようとしても追いかけて。
臆病で踏み込めずにいた俺を、晄も求めてくれていたなんて。
「なのに……クソ鈍感だし、俺のこと無自覚で煽ってくるし。
告ろうと思ったのにナンパされてるし、泣かせるし……」
また、視界が滲む。
でも悲しいんじゃない、嬉しい方のあたたかい涙だった。
「宵」
名前を呼ぶ声が優しくて、耳の奥まで沁みていく。
「お前のこと、もっと知りたい。
宵の心の奥で通じ合えるのは、俺だけがいい。
好きだから、ずっと一緒に居たい。
……だから、俺の恋人になって」
穏やかで、包み込むような声。その言葉だけが、静かな世界に響く。
涙がまた溢れる。今度は止めようなんて思わなかった。
呼吸を整えて、震える声で答える。
「晄……好き、大好き……っ」
涙声の小さな返事なのに、晄の表情がふっと崩れる。
「……ずっと、こうしたいって思ってた」
引き寄せられ、腕の中に閉じ込められるように抱きしめられる。
体温と鼓動が重なり、胸の奥がゆるくほどけていく。
晄の肩に額を預け、そっと目を閉じた。
いつもの晄の匂い。低くて静かな心音。
全部が心地よくて、あたたかくて、優しい。
――俺も、ずっと晄に抱きしめてほしいって思ってたよ。
言うより先に、晄にはもう届いている気がした。



