待ち合わせの時間より、少し早く着いた。
三原シネマのロビーは、モーニングショーを観終えた人たちで溢れている。
邪魔にならないよう、俺はグッズ売り場の壁際でオータムちゃんを待つことにした。
正直、かなり緊張していた。
どんな人が来るのか、うまく話せるのか。
落ち着かず、さっきからスマホの時計ばかり見ている。
何分経ったんだろう。いや、まだ二分も経っていない。
メッセージ画面を開き、前日までのやり取りを読み返す。
映画を観に行く約束をしてから、やり取りは毎日続いた。
お互い話が盛り上がりすぎて、気づけば日付が変わっていることもあった。
オータムちゃんはいつも明るく返事をくれて、たまに真剣な映画談義もした。
話している時間は、いつも明るくて、笑いもたくさんあって。ただただ、楽しかった。
きっと、実物も穏やかで優しい人なんだろうな――なんて思いながら、その姿をぼんやりと頭の中に浮かべる。
“着きました~ グッズ売り場で待ってるね”
俺の地味な服装には目立つ目印はなく、待っている場所だけを伝えた。
さすがに十分前は早すぎたかな、と考えていたその時――手の中のスマホに、いつの間にか既読がついていた。
“俺も着いた”
その返信に顔を上げ、辺りを見渡す。
ロビーを行き交う人の流れの中で、一際目を引く男性がゆっくりこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「え……」
思わず声が漏れた。
最初は、「この人じゃないかもしれない」と考えた。
けれど、その視線は俺に向かっている――逸らす気配は一切ない。
洋画に出てくる俳優みたいな、プラチナブロンドが歩くたびにさらりと揺れる。
目力のある鋭い瞳が自分をまっすぐ見据えていて、目が離せない。
黒いマスクに、首筋のシルバーのチェーンが小さく揺れている。
スマホを握りしめたまま固まっていると、彼は目の前で立ち止まった。
「yoiさんで合ってる?」
低く落ち着いた声。
その瞬間、止まっていた世界が一気に音を取り戻し、心臓の鼓動が爆ぜるように早まった。
待って、どうしよう。この人がまさか――
「オータムです」
彼は指先でマスクを顎の下まで下ろした。
くっきりとした二重瞼、高く通った鼻筋、薄く引き締まった唇。
危うげな雰囲気で、同じ男性なのにドキリとするような色気があって、その顔立ちをつい見つめてしまう。
――本当に、この人が“オータムちゃん”?
ピアス、めちゃくちゃ開いてる。指輪もいっぱい。腰にもシルバーのチェーンが覗いている。
こんな治安悪めのイケメンが目の前に現れるなんて、完全に予想外だった。
「顔面国宝級」「ビジュ優勝」?
頭の中でネットスラングを思い浮かべるほど、思考は完全にパニック状態だ。
ただでさえコミュ障なのに、フリーズして言葉が出ない。
とにかく、何か話さなきゃ。
手の中のスマホを握り込み、震える声で小さく呟いた。
「は、初めまして……」
俺より頭ひとつ分以上高く、見下ろすようにじっと瞳を見返してくる。
ちょっとどころじゃない。かなり威圧感があって、怖い。
“オータムちゃん”は愛想笑いを浮かべるでもなく、握手する雰囲気でもない。
「えっと……」
俺が言葉に詰まっていると、彼はマスクを上げて耳に紐をかけ直しながら言った。
「嶋根晄。晄でいいから」
「晄……さん」
「いやタメじゃん。ダルいから敬語もナシで」
俺もそうするから、と右手にスマホを持った“晄”に視線を送る。
同じ大学二年生だと言っていたけど、俺より断然、年上に見えた。
「あ、……深山宵です」
「え、yoiって本名?」
「はい、あの……“今宵”の宵っていう字で……」
少しの沈黙の後、晄は視線を少しだけ上に向けた。
多分、俺の漢字を頭の中で想像している。
「……じゃあ宵って呼ぶわ」
そのまま自然な流れで、晄は先に歩き出し、それに続いて俺も奥のエスカレーターに乗り込んだ。
緊張と期待、そして言葉にできない熱が込み上げる。
勢いで会ってしまえばどうにかなるかと思ったけど、こういう人が来るのは予想外だった。
「えっと……その、今日はよろしくお願いします」
「うん。てか、緊張しすぎ。目ぇ合わせらんない?」
「すみません……」
「別にいいけど。ガチの人見知りじゃん」
ちょっと馬鹿にされたような気がして、チケットを持つ手に力を込める。
目が合うと体が熱くなるような感覚があって、顔がこわばるのを俯いて隠さずにはいられなかった。
「えっと、あの……本当にオータムちゃん、なんですよね?」
黒いマスクと長い前髪の間で、晄の片眉がふっと上がった。
「え、何? 俺、想像と違った?」
「は、はい……」
「へぇ。どんな想像してたか知らねーけど、お前も想像の斜め上だわ。……色んな意味で」
なんだか、ちょっと言い方がきついような……。
耳慣れない「お前」って呼び方に、胸の奥がちくっと痛む。
やり取りしてた時は、もう少し柔らかい感じだったのに。
それに、“色んな意味で斜め上”って……もしかして、俺って思った以上に陰キャ丸出しってこと……?
たった一言で心がぎゅっと縮こまった俺をよそに、晄はスマホで時間を確認して、相変わらず軽く俺を見下ろすように言った。
「チケットは?」
「あ、さっき発券してきました」
半券を見せると、ちらりと俺の手元を見て、視線を戻した。
「じゃあ行くぞ」
「は、はいっ」
何もかもが、晄のペースだった。
劇場に入り、中央のシートに並んで座る。
上映案内が始まっても落ち着かず、ちらりと晄の横顔を盗み見るけれど、その視線はスクリーンに向けられていた。
この人が、“本物のオータムちゃん”。
頭の中でそう言い聞かせても、現実感は追いつかない。
メッセージでやり取りしてた時の優しいイメージと、目の前にいる彼がどうしても結びつかない。
俺の視線に気づいた晄と目が合い、軽く首を傾げて見つめ返される。
「……何?」
「な、何でもない、です……」
慌ててそう返すけれど、視線を外すと胸の奥で鼓動が一段と速まるのを感じた。
晄が「ならいいけど」と、あまり納得していないトーンで座席に座り直すと、ふわっと香水の匂いが鼻を掠めた。
いい匂いだ。香水はキツいのが苦手だけど、晄のは嫌いじゃない。
おしゃれな人って、やっぱりそういうの選ぶのも上手なのかな。
そんなことに気を取られているうちに、館内の照明がゆっくり落ち、上映開始のブザーが鳴る。スクリーンに配給会社のロゴが照らされた。
――この人と、今日一日を一緒に過ごすんだ。
緊張と小さな不安が混ざり合うのを感じる。
物語の序盤が始まった頃、ようやく俺は映画に集中し始めた。



