電車の窓に映った自分の顔は、少し強張っていた。
晄から電話が来てからずっと、胸の奥が落ち着かない。
“会いたいんだけど”
電話越しに聞こえたあの声は、どこか震えていて――
まるでお願いするようだった。
いつものぶっきらぼうな調子に紛れていたけれど、そこには確かな必死さが滲んでいた。
怒っているでも、寂しがっているでもなくて。
ただ真っ直ぐに、俺に何か伝えようとしている、そんな感じだった。
晄の中でずっと整理できなかった気持ちの、その出口が“会いたい”だったのだと思う。
急だとか、夜遅いとか、そんなこと一つも引っかからない。
晄が“会いたい”と言ってくれた。それだけで、この数日の息苦しさが嘘みたいに軽くなっていく。
“駅まで迎えに行くから”
一方的なのに、結局は放っておけない。
そんな晄らしい不器用さが、どうしようもなく愛しかった。
電車が減速して、アナウンスが流れる。
嬉しさと緊張が入り混じって、指先が小さく震えた。鞄の持ち手をぎゅっと握って、ひとつ息を吐く。
――会ったら、晄はどんな顔してるかな。
仲直りの仕方も、何を話すかもまだまとまっていないのに、ホームの階段を駆け上がる。
素敵なものも、大事なものも、数え切れないくらい教えてもらったのに、俺があげられるものは何一つなくて。
でも、こうして晄の心に寄り添いに行くことが、今の自分にできることだと思った。
晄の“会いたい”に込められたすべてを、ちゃんと受け止めたかった。
*
改札を抜けた先の壁際に、晄が立っていた。
黒いパーカーのポケットに片手を突っ込み、もう片方の手にはスマホ。
俺を見つけた瞬間、目を合わせるのを少しだけ避けた。その仕草が、まだ測りかねている心の距離を物語っていた。
久しぶりに会えた喜びと、不安と、安堵が喉でつっかえて、声をかけるのに少し勇気がいる。
「……晄」
「悪い。呼び出して」
いつもより静かな声。目が合ったのはほんの数秒だった。謝罪よりもっと奥に、迷いみたいなものが滲んでいる気がした。
「ううん。……俺も、会いたかったし」
返した自分の声も、少しだけ震えていた。
晄は何も言わずに歩き出す。俺は二、三歩遅れて、その隣に並ぶ。
前にこの道を通った時は、どんなことで笑ってたんだっけと、ふいに思い返す。
何か話したいのに、言葉がまとまらない。晄も同じようで、息を吸ってはやめて、を繰り返していた。
「……大学とバイト、忙しかった?」
沈黙を埋めたくて絞り出すと、晄は少しだけ間を置いて答えた。
「まぁ……それなりに」
「そっか」
それだけ。また静かになる。
以前なら、どちらかが軽い冗談で空気を変えてたのに。今はまるで、互いに心へ触れないよう慎重に歩いているみたいだ。
「……宵は?」
「前ほどではないかな」
短いやりとり。
でも、晄の歩幅が俺に合わせられていることに気づいて、次第に二つの足音がわずかに重なっていく。
住宅街の角を曲がって、晄のアパートに着いた。
靴を脱いで部屋に上がる間も、お互い慎重に言葉を選んでいる気配だけが漂っていた。
「上着、そこ掛けて」
「あ、うん」
晄がキッチンへ向かい、冷蔵庫の扉を開ける音が響く。
「……もう飯食った?」
「まだ。さっきまで映画見てて、忘れてた」
「マジで何もねぇ……コンビニ寄ればよかった」
「……ご飯と牛乳ある? コンソメあれば、リゾットくらいなら」
「マジ? 食いたい」
自然と会話が生まれ、二人でキッチンに並んだ。
鍋の音、食器の音、袖が触れそうな距離。そんな些細なことが、やけに胸をざわつかせる。
「晄、卵、白身と黄身に分けて」
「は? 無理だって」
「やってみてよ。失敗してもいいから」
渋々手にした卵は、案の定ぐちゃっと混ざった。
「…………」
固まった晄を見て、吹き出してしまう。
「あはは! ひどい、これはひどい」
「笑ってんじゃねーよ」
「だって! ほんとにひどいもん」
二個目も同じ結果で、二人して笑いが止まらなかった。
不思議と、胸につかえてたものが少し軽くなっていた。
出来上がったリゾットの中央には、潰れた卵の黄身が乗っている。それを見ただけで、また思わず笑ってしまった。
ローテーブルに並べたご飯を前に、映画を観ながら並んで食べた。
「……あ、このシーン好き」
「わかる」
そんなやりとりで、心の温度がゆっくり元に戻っていく。
けれど晄がスプーンを置いた瞬間、空気が少し張り詰めた。リモコンを取って、映画の音を止める。
「……ちょっと、いいか。この間のこと」
晄の指先が、僅かに震えた。
「悪かった。怒鳴ったりして」
顔を上げないまま言葉を続ける。晄の拳は膝の上で強く握られて、関節が少し白くなっていた。
「あの時、宵のことを置いて離れたのが、そもそも間違いだった。
……危ない目に遭わせた自分にムカついて、怒りと後悔でぐちゃぐちゃで……
それを隠したくて、宵に訳わかんねぇ八つ当たりした。マジでダサいし最低だった」
自分を責め続けるような言葉を繰り返しす晄に、心はひりひりと痛かった。
「連絡しなかったのも、気持ちが整理できないまま話したら……また宵を傷つけると思った。
お前に嫌われんのが、怖かった」
“怖かった”。
その一言で、胸の奥が熱くなった。
俺は、ずっと“怒ってる”と思っていたのに。
「でも、宵の泣き顔と、駅で別れた後ろ姿が……ずっと離れなかった。
会いたくて、家行くか悩んだけど、もし宵に拒まれたら、もう終わりだと思うと出来なかった」
晄が、こんなに苦しんでいたなんて知らなかった。
「……俺こそ、ごめん。勝手に帰って。晄が怒るの初めてで、半分怖かった。
でも……半分は嬉しかった。晄が守ってくれたから」
晄がゆっくり顔を上げる。
怯えを含んだ目が、まっすぐ俺を捉えていた。
「俺、ずっと晄に嫌われたと思ってた。
返事がなくて……ここ数日、ずっと落ち着かなかった。
……だから、電話が来た時はすごく嬉しかったんだよ!
映画の話とか、くだらないこととか……これからも、晄ともっと過ごしたいって、俺は思ってるから」
仲直りしよう、という気持ちを込めて、その拳にそっと手を重ねた。
いつもより弱々しい表情の晄の顔を、下から覗き込む。
胸の奥に押し込めていた“特別”を抱きしめるように言葉を落とす。
少しの沈黙のあと、晄は静かなトーンで言った。
「……なんで俺にそんな優しくすんの?」
「え?」
「宵は、俺のどこが好き?」
その問いが、恋愛的な意味じゃないというのは分かっている。
ただ、どうして“俺じゃなきゃダメなのか”を確かめたいだけだ。
好きなところなんて、言い出したらきりがない。でも口にした瞬間、全部意味がちっぽけに聞こえる気がした。
「……どこが好き、とかじゃないよ。
晄だから、一緒にいたいんだよ」
言った瞬間、晄の肩が小さく揺れた。
でも、嘘偽りのないまっすぐな気持ちが届いてほしくて、俺はその瞳を見つめる。
晄は頬杖をついた手のひらで、自分の唇をそっと覆った。
照れ隠し、だとすぐに分かった。視線も居心地悪そうに揺れている。
しばらく沈黙が流れて、晄はぼそっと呟くように言った。
「……宵、今日泊まってけば」
「え、いいの?」
晄はその場から逃げるように立ち上がると、クローゼットの扉を開いた。
「いいよ。……着替え、これ使え」
渡されたのは、晄の部屋着。
袖が少し俺の指に触れて、心臓が跳ねる。
俺が受け取ると、晄は何事もなかったように向き直って皿をシンクに下げた。
*
シャワーを終えて晄の部屋着に袖を通し、髪を拭きながらリビングに戻ると、晄がソファに座っていた。
「……サイズ、デカすぎね?」
「大丈夫、限界まで絞って履いてるから」
紐が見えるようにスウェットを臍の上まで捲ると、晄はすぐに目を逸らした。
「……髪乾かせよ。風邪ひく。虚弱体質」
「優しいのか悪口なのか分かんないよ」
ため息をついた晄はドライヤーを持って戻ってきた。
「来いよ。乾かしてやるから」
「自分で出来るのに……」
「メシ作ってくれた、お礼」
手首を軽くつかまれ、晄の膝の間に座らされる。
温かい風と晄の指先が、髪を梳いていく。胸は高鳴りっぱなしだ。
「痛くねぇ?」
「うん」
「まぁ、俺、器用だしな」
「さっき卵……」
「それ言うな」
吹き出す俺に、晄も息を零す。
ああ、この感じ懐かしい。晄とのこんな軽口が、俺は好きだった。
「宵、俺のシャンプー使った?」
「え? うん……ダメだった?」
「いや……なんでだろ。同じはずなのに、違う気がして」
晄がそっと顔を寄せ、耳元に漂う髪を指先で持ち上げる。
晄は、きっと気付いてない。
その指で髪を梳かれる度に、静かに「好き」が心に積もって行くこと。
ぎゅ、と目を閉じて、爪先も、何かを堪えるように力を込めて丸めた。
ドライヤーの音が止まって、ゆっくり顔を上げると、晄の目とぶつかった。切羽詰まったような顔で、瞳が揺れている。
何かを言いかけて――その先が怖くて、俺のほうが先にその空気を誤魔化すように笑った。
「……もういいよ、ありがと」
晄は短く頷き、立ち上がる。
「俺も入ってくる」
黙ってその背中を見送る。
さっきの指先の感触だけ、残って離れてくれなかった。



