まもなく、上映開始です。


 遊園地での出来事から、もう五日が経っていた。
 あの夜の光、晄の手の温かさ、帰り道の沈黙を、頭の中で何度も繰り返していた。

 晄とは、約束をしなければ会えない。
 ただそれだけのことなのに、今はその“ただそれだけ”が胸に刺さっていた。
 スマホの通知欄を見るたび、無意識に晄の名前を探してしまう。

 自分からメッセージを送る勇気はなかった。
 “もう少し、時間を置こう”と自分に言い聞かせては、結局メッセージ画面を開いては閉じ、閉じては開くことを繰り返す。

 ――もし、晄が俺ともう会いたくないと思っていたら。

 そんな考えが頭をよぎるたび、胸が締めつけられるように苦しくなる。
 送れば返信が来るかもしれない。
 でも、もし来なかったら――その沈黙がすべての答えになる気がして、怖い。

 だから、今日もまた自分からは何もできないまま、一日が終わろうとしていた。
 けれど――結局、我慢できなかった。

 “この前はごめんね”

 震える指先で、ようやくスマホの画面に文字を打ち込み、送信ボタンを押す。
 胸の奥で、返信が来ることを小さく祈った。

 けれど、何十分経っても、何時間経っても、そのメッセージに既読はつかないままだった。
 画面を見つめるたび、気持ちが重く沈んでいく。
 晄が返信をしない理由を考えても、怒っているとか、嫌いになったとか、そんな悪い方の答えしか浮かばなかった。

 たった数日、晄の気配が日常から消えるだけで、こんなにも心が揺れるなんて。
 傷つくことが怖くて踏み出せなかったけれど、実際にこんな状況になったら、痛みよりも寂しさのほうが大きかった。

 大学からの帰り道、駅前の横断歩道を渡る。
 人の流れの向こう側で、ふと、見覚えのある穏やかな笑顔が目に留まった。

「深山くんじゃん」

 そこにいたのは、佐久本くんだった。
 夕陽がビルの隙間から差し込み、黒髪をやわらかく照らしている。
 会うのはこの前の飲み会以来。あのとき、途中で帰ってしまった自分を思い出して、少しだけ気まずさが胸をよぎった。

「こんにちは。えっと……佐久本くん」
「名前、憶えててくれたんだね。今日は、晄と一緒じゃないんだ?」

 その何気ない問いに、喉の奥がきゅっと詰まる。
 その名前を聞くだけで、胸の奥に沈んでいた痛みがじわりと浮かび上がってくる。

「えっと……ここ何日かは、連絡が来てなくて」

 思わず小さく息を吐く。
 自分の声が思っていたより弱々しく響いた。
 佐久本くんは眉を下げて首を傾げる。その声音は軽いのに、どこか探るようでもあった。

「……もしかして、晄とトラブってる?」

 佐久本くんは苦笑して腕を組みながら言った。
 即座に「はい」と答えるのは晄にも失礼な気がして、どう答えたらいいかと、目が泳いでしまう。

「あー、だからアイツ、あんな機嫌悪かったんだ。誰に話しかけられてもガン無視して、俺に八つ当たりしまくり。……晄にあんな顔させるなんて、深山くん、結構やるね」

「え、いや、俺は……」

 喉まで出かかったけれど、言葉にならない。何を言っても、晄を怒らせたのは事実だったから。
 でも、佐久本くんに八つ当たりするほど、晄がまだ怒っていると知って落ち込んだ。

「長いこと一緒に居るから分かるんだけど。アイツ、死ぬほど不器用なんだよね。連絡しないのは、考える時間が欲しいパターンが多くて、無視してるわけじゃない。
 ……多分、今は“どうやって向き合えばいいか”を整理してるんだと思う」

 その言葉は、冷たく張りつめていた心のどこかに、細い光が差すようだった。


「晄って、余裕があるように見せてるけど、ただのカッコつけだし、プライド高いし、臆病だよ。特に、自分が一番大事にしたいものに関しては、ヘタレだし」

「……へ、ヘタレ……?」

 佐久本くんは、爽やかな笑顔でズバズバと言った。そんな風に晄のことを思った事は、俺は一度もない。
 でも、中学校時代から一緒に居た佐久本くんが言うなら、そうなのかもしれない。

「まぁ、今日のあの様子からして、そろそろアイツも限界だと思うから。そのうち連絡、来るんじゃないかな」

 佐久本くんは悪戯っぽく笑うと、「俺と会ったことは内緒だよ」と微笑んで、歩き出した。
 その背中が、夕方の雑踏の中に溶けていく。
 スマホのメッセージ画面は、まだ未読のまま。
 けれど、佐久本くんのアドバイスを信じて、晄が自分の気持ちを整理し終えるその時まで、もう少しだけ待ってみよう――そう心の中で静かに決めた。



 帰宅して、なんとか気を紛らわせようとDVDを再生してみたものの、画面の中の台詞はまるで耳に入ってこなかった。
 映像はただ流れているだけで、意識だけが別の場所に置き去りのままだ。

「……来てないかぁ」

 晄の返信を、待つと決めたはずなのに。
 気がつけば何度もスマホを手に取っては、通知のない画面を見てため息をついていた。

 やがて映画を止め、ソファに沈み込む。
 その気持ちを紛らわせるように、カメラロールを開いて晄との思い出に指を滑らせる。

 ――この日に、戻れたらいいのになぁ。

 最初に表示されたのは、コラボカフェのツーショット。
 俺が笑いながらピースをして、晄はわざと不貞腐れた顔。
 でも口元の端がほんの少し柔らかく上がっていて、その癖が懐かしくて胸が痛んだ。

 次に出てきたのは、野外シネマの日。
 メリーゴーランドの前で、晄が俺の頭に手を置いている一枚。

 スクロールする指先が止まる。
 その写真だけ“LIVE”のマークがついていた。
 何気なく長押しすると、たった三秒の映像が動き出す。
 風の音。メリーゴーランドの曲。
 
 シャッターが切れる直前、晄が俺を見て、ふっと笑う。
 どこか照れくさそうに、それでいて、優しくて。
 俺の表情を確かめるように見つめてから、写真の中のいつもの笑顔に戻っていた。

「……全然、分かんなかった……」

 小さく零れた声が、静かな部屋に溶ける。
 もう一度再生しようと、画面に触れた――その瞬間。

 スマホがぱっと切り替わり、着信画面が現れた。
 そこに映った名前を見た瞬間、息が止まる。

「えっ……あ、晄……!?」

 握る手が震えているのに、指は勝手に通話ボタンをスライドしていた。

「もしもし!」

「……声デケーよ」

 耳に飛び込んできた低い声。
 その瞬間、胸に溜まっていたものが一気にほどけ、鼻の奥がつんと痛む。

「……どうしたの?」

「この前のこと、謝ろうと思って」

 その言葉に、肌がひりつくような緊張が走った。

 ずっと晄が怒っていると思っていた。
 もう話したくないのかもしれないと、何度も考えた。
 なのに晄は、“謝るために”電話をくれた。

「な、なんで? 晄は悪くない――」

「あの時、俺が宵の側にいなかったのが悪かった」

 少し掠れた声が、余計に優しく聞こえた。
 泣いちゃダメだと思ったも、胸がじんと熱くなり、喉が詰まる。

「……でも、助けてくれたのは晄でしょ。だから、ありがとう」

「で……会いたいんだけど」

「え?」

「会いたい。宵に」

 息をのむ。
 いつもより低くて真剣な声。胸が跳ねる。

「う、うん。いいけど。いつ?」

「今から」

「今!? ……え、今?」

 唐突な言葉に慌てながらも、その唐突さがたまらなく嬉しかった。

「駅まで迎えに行くから」

「わ、分かった。着替えなきゃだし、ちょっと時間かかると思うけど――」

 通話を繋いだまま、ソファから飛び起きる。
 心臓が早鐘みたいに鳴って、手がうまく動かない。
 財布、イヤホン、鍵……カバンに突っ込むたび何かを落とし、拾って、また焦る。
 玄関で上着を羽織っていると、スマホ越しに晄の声が穏やかに響いた。

「慌てんなよ。俺、ゆっくり行くから」

 その一言でまた胸が熱くなる。
 ドアノブに手をかけた瞬間、自然と笑みがこぼれた。

 ついさっきまであんなに苦しかったのに、今はどうしようもなく会いたい。

 晄のことばかり考えて、苦しくて、でも忘れられなくて――。
 不安はまだある。それでも、もう会わずにはいられなかった。

 晄に出会わなければ、こんなに切ない気持ちも、思いが募るだけでこんなに強くなれることも、知らないまま、俺はこの部屋で膝を抱えて映画の世界に居ただろう。

 夜の冷たい空気の中へ、息を弾ませながら飛び出した。