まもなく、上映開始です。


 野外シネマ当日、改札を抜けて駅前のベンチを見渡すと、晄は座ってスマホをいじっていた。
 会場の雰囲気に合わせたアノラックパーカーに、黒いワイドパンツ姿。

「晄、お待たせ」

 ちょん、と肩を指先で軽く叩くと、晄は顔を上げ、ふっと笑った。

「これ、昨日言ってたパーカー」

 晄はそう言いながら、袋からパーカーを取り出す。
 折角なら会場にぴったりな服で行こうと晄が提案してくれて、持っていない俺は貸してもらうことになっていた。
 黒地に映画のワンシーンが大胆にプリントされた一着は、野外シネマにぴったりだった。

「ありがとう。 ちょっと大きいかな?」

 自分の上着を脱ぎ、ロンTの上からそっと袖を通すと、晄は微笑んで言った。

「良いじゃん。 返すの、いつでもいいから」

 頷くと、二人で歩調を合わせながら電車を二度乗り換え、野外シネマの会場へ向かった。
 
 広大な森林に囲まれたキャンプ場の奥に、ライトアップの光がちらちらと見えてきた。
 野外シネマの他にも、メリーゴーランドのカラフルな灯、観覧車のゆったりと回る円形、通路沿いに揺れるランタンの温かな光――映画の世界に迎えられたみたいで、胸が弾んでいた。

 夕方で小腹が減っていたので、二人でキッチンカーに立ち寄り、チュロスを注文する。
 低く唸る発電機の音が夜の静けさに混ざり、温かい光の中で小さな活気を作っている。
 晄はシナモン味、俺はチョコ味。
 隣で晄が美味しそうに食べているのを見ると、つい自分のチュロスと比べてしまう。
 すると、晄がそっと手を伸ばし、俺の口元にチュロスを運んできた。

「食えば」

「いいの?」

「食いたいって顔に書いてある」

 見透かされているようで、恥ずかしい気持ちが込み上げる。
 口を開けると、甘い香りが鼻を抜け、頬を伝う熱はチュロスのせいだけではない気がした。

 その後、メリーゴーランドの前で、映画の中の二人のように写真を撮ることにした。
 俺がスマホを持ったけれど、自撮りに慣れていないうえに、身長差もあってうまく画面に収まらない。

「もっと、こっち来いよ」

 晄が軽く手招きする。
 言われるまま隣に立つと、晄が片手を伸ばして、ぽんと俺の頭に手を置いた。
 そのまま少し身をかがめて、俺の横に顔を寄せる。
 すぐ近くで、晄の息がかかる距離。心臓が勝手に速くなる。
 シャッター音が響いたその一瞬、頭に置いた晄の手がほんの少しだけ優しく撫でた気がした。
 撮り終わったあと、晄が画面を覗き込んでくる。

「後でそれ、エアドロしといて」

 晄の言葉に頷き、二人で会場を探検しながら歩く。
 通路沿いにはランタンの光が揺れ、キッチンカーの煙と甘い匂いが混ざる。
 メリーゴーランドの隣では子供たちの歓声が響き、観覧車の高いところではカップルが小さく手を振っている。本当に自分が映画の世界に居るみたいで、振り返って晄に笑顔を向けた。

「晄、楽しいね!」
「……良かったじゃん」

 晄の表情が、言葉よりもずっと気になった。
 楽しそうだけど、何故かいつもより緊張している気がする。
 その様子が気になったけれど、わざわざ聞くのも気が引けて、俺はスマホを片手に晄の隣を歩いた。

 木と木のあいだに吊るされた丸いランプが、柔らかく暗闇を照らしている。
 ポケットに手を入れたまま歩く晄の横顔を意識しながら、ふと胸の奥にひとつの思いが浮かんだ。

 ――晄は、俺のことをどう思っているんだろう。

 出会ってから、もう半年が経つ。
 毎日やりとりして、くだらない話で笑って、ときどき電話もする。
 こうして出かける日もある。
 ただの友達にしては、連絡の頻度は多い方だと思う。
 けれど、それ以上かと問われると、言葉に詰まる。
 どこかで「勘違いするなよ」と笑われそうで、考えれば考えるほど怖くなる。

「……宵、喉乾かね? ちょっと探してくるわ」

「あ、うん。一緒に行く?」

 晄は「いや、あの辺の席取っといて」とベンチを指さし、キッチンカーの方へ歩いていった。

 夜のフェスは人で賑わい、音楽と笑い声が混ざり合っている。
 ランタンの温かい光の輪が風に揺れて、どこか夢の中みたいだった。
 その光景があまりに綺麗で、スマホを持ったまま静かに眺めていると、ふと背後から声がかかった。

「あのー、すみませーん。 ちょっといい?」

「えっ? あ、はい……」

 顔を上げると、フェス向けの軽やかな服装をした男性が、にこやかに立っていた。

「友達とはぐれて、スマホも電池切れてるから、今いる場所が分かんなくなっちゃって~」

 両手をひらひらと振って見せられ、困ったように笑う男性に、俺は慌ててスマホを取り出した。
 ホームページを開いて、会場のマップを表示しする。

「Cゲートってどこか分かる?」

「えっと……今いるのがこの辺りなので、メリーゴーランドのとこで右に曲がって――」

「ごめんね。俺、方向音痴でさぁ。 出来れば案内して欲しいんだけど」

 次の瞬間、その手が俺の手首に触れて、軽く握られた。

 ――え、なに? この人……。

 俺の戸惑った顔を、様子を伺うように見つめている。

「……それはちょっと出来ないんですけど」

「お願い、ちょっとでいいから!」

 その言葉のまま引っ張られ、驚いて足に力を入れて踏ん張る。
 振りほどこうと力を込めた瞬間、さらに強く握られて、無理やり前に進もうとする。

「暇そうにぼーっとしてたじゃん、俺らグループで来てるからさ、混ざって遊ぼうよ」

「は、離して下さい」

 こんな状況なのに、胸の奥がきゅっと縮み、か細い声でしか抵抗できない。
 体が揺れて、心臓がバクバクして、息が詰まりそうになる。
 自分じゃどうにもできない。

 ――晄。
 たすけて。助けて。

 縋るように心の中で晄の名前を口にした瞬間、掴まれた手首に強い衝撃が走った。

「触んな」

 息を切らした晄が、男の手を乱暴に払いのけていた。
 足元には、二人分の紙カップが転がり、まだ湯気が立っている。
 晄の低い声と鋭い視線に、その場の空気が一瞬で凍りつく。
 男は舌打ちしながら去っていった。
 けど、その背中が見えなくなっても、胸の鼓動は速いままだ。

「……何もされてねぇよな?」

 晄の声には、心配が滲んでいた。
 でも瞳の奥には、まだ怒りの余韻が残っていて、思わず俺は息をのんだ。

「うん、大丈夫……」

 かろうじてそう答えると、晄はちょっと強引に、俺の手首を握った。
 痣になっていないか、確かめるように上着とパーカーの袖を優しく捲る。
 けれどその表情は強張ったままで、俺は黙ってその顔を見つめるしか出来なかった。

 晄は落ちていた紙カップを拾い、近くのゴミ箱に放り込んで、どこに行くのかも告げずに歩き出した。
 背中からはまだ苛立ちが滲んでいて、急に不安になる。

「……晄、怒ってるの?」

 後ろから駆け寄って、思わず晄の服を掴む。
 晄が俺の掴んでいる手に視線を落とす。その鋭い視線に、怯みそうになった。

「怒ってねぇよ、別に」

 掴んだ手を振り払われ、拒絶の意思をはっきり突きつけられたようで、距離が開く。
 胸の奥がざわざわと不安で満たされ、思わず声が大きくなる。

「怒ってるじゃん!」

「マジでウザい、ちょっと黙ってろよ!」

 その言葉に、心臓が一瞬止まった気がした。
 いつもの晄なら絶対に言わない。
 どうして、晄がこんなに怒るのか分からない。俺のせいで、せっかくの一日を壊したから?
 その答えが欲しくて、思わず晄の肩に手を伸ばす。

「何で怒ってるのか、言葉にして言ってくれないと分かんないよ」

 晄は俺を見下ろし、眉間に皺を寄せる。
 会場のランプの光がその瞳に反射して、冷たく光った。
 まるで、俺がどう思おうと構わない――そんな無関心を装った顔だった。

「……じゃあ言うけど。お前、なにナンパ相手に普通に受け答えしてんだよ。
 ……バカじゃねーの?」

 晄の低い声が胸に突き刺さる。
 “バカ”って言葉。いつもなら軽口で済むのに、そう捉える雰囲気じゃない。
 苛立ちの裏に何があるのか、それを考える余裕もないほどショックだった。

「……そこまで言う必要ある?」

「あんなん無視しろよ。逃げもしないで、何してんの? お前」

「したって!」

「どこがだよ。手ぇ掴まれて引っ張られてただろうが!」

 晄の声が大きくなり、言葉が鋭く空気を切った。
 怒鳴り返してしまった自分にも驚く。

「それは――」

「まずお前の認識を改めろよ。ホント、お前って何も考えてねーのな。危機管理能力なさすぎ」

 矢継ぎ早に、本気で怒鳴る晄の視線に胸がきゅっと締め付けられる。
 息を吸っても肺の奥まで空気が届かない。喉の奥が熱くなる。

「……全部、俺が悪いってこと?」

「そういうことじゃ――」

 晄の声が一瞬だけ柔らかくなる。でも、もう顔を見られなくて、ぎゅっと目を閉じた。
 目の奥が熱くて、頬が焼けるように熱い。

「じゃあ、なんでそんなに怒るの……?
 俺、ああいうの初めてで……すごく……こ、怖かったのに……っ」

 声が震える。泣きそうなのを誤魔化そうとすればするほど、震えは強くなる。
 怖かった。
 助けてくれて安心した。
 でも、晄はなんでそんなに怒ってるの?
 ぐちゃぐちゃに混ざって、涙がこぼれそうになる。

 頭の中では「泣いたらダメだ」という言葉がぐるぐる回っているのに、コントロールできない。
 涙が目の奥で小さく揺れ続けて、ついに零れてしまった。
 唇をぎゅっと固く閉じて、目じりから頬、頬から顎に伝う涙を袖口で拭う。
 泣き顔を見られるのが嫌で、両手の甲で目元を覆うように擦る。

「……っふ、うぅっ……」

 自分でも情けないほどに、しゃくりあげて肩が震える。
 早く涙を止めたくて深呼吸を一つしてみたけれど、意味をなさなかった。
 晄はその間何も言わずに俺の前に立っていて、ため息をつくと頭を掻いた。

「……ごめん、言い過ぎた」

 人混みの中、周囲の笑い声や音楽は聞こえるのに、俺だけが涙をこぼす。
 嗚咽混じりに泣く俺の隣で、晄は黙ったまま俯いていた。

 この状況をどうにかしなくちゃ、と思いながら、ゆっくりと息を整える。

 胸の奥に残る動悸と熱が、まだ完全に鎮まったわけではないけれど、涙はなんとか引いた。
 言葉にしたい気持ちは山ほどある。
 怒られて驚いたこと、怖かったこと、でも守られて嬉しかったこと――全部、口に出せばまた空気が重くなるかもしれない。

 晄の手がわずかに動いたような気がしたけれど、そのままポケットに戻るのが見えた。
 地面に視線を落とし、そっと呼吸を整えながらも、胸の奥のもやもやは消えない。

 結局、野外シネマは見ないまま帰ることになった。
 帰ろう、とお互いに言葉を交わした訳でもないのに、二人とも自然と足が帰り道のゲートに向かっていた。

 駅へ向かう真っ暗な道を、並んだ外灯が淡く照らす。
 車のライトが後ろを駆け抜け、風に乗って冷たい匂いが鼻をかすめる。
 俺は晄の数歩後ろを、静かに歩いた。言葉を交わすこともなく、ただ晄の背中を見つめながら、自分の不安や後悔、涙の余韻が心を占める。

 しばらく歩いて駅に着くと、晄が何か言いたげに立ち止まる。
 それだけで、胸の奥がじわりと痛くなる。嫌われた。きっと、呆れられた。
 晄が言葉を発した瞬間、一番大切にしたかったものが壊れてしまいそうで、怖かった。

「……今日、泊まりにいくの、やめるね」

 かろうじて先制したその言葉は、喉の奥で擦れて、震えていた。
 晄から逃げるように脚は動くのに、心だけ捩じ切れそうで、背中を向けて改札を抜ける。
 振り返らないままホームに出ると、電車の明かりが近づいてきた。その音に背中を押されるように乗り込む。車内の蛍光灯の白さがやけにまぶしく感じた。

 窓の外、街灯の光が流れていく。
 目で追っているうちに、視界が滲んで、光がぼやけていく。
 泣きたくなくて、唇を噛んだ。

 ――自分が傷ついたことよりも、晄を傷つけたことが苦しい。

 そう思いながら、上着の袖で何度も頬を拭う。
 けれど、拭いても拭いても、涙はまた滲んで、晄が貸してくれたパーカーに丸い跡を残す。
 家に着く頃には、もう目の奥が痛いほど泣き疲れていた。

「あーあ……映画、見れなかったなぁ」

 泣き笑いみたいに声が震れて、倒れ込んだベッドの上で、俺はしばらく動けなかった。
 晄に会える、晄と過ごせる目的があれば、いくらでも立っていられるような気がしていたのに。

 うつ伏せで腕枕に顔を埋めると、借りた服から晄の香りが漂ってくる。
 その香りに胸がぎゅっと締め付けられて、涙がまた溢れる。

 ふと、パーカーのポケットに固い感触があって手を入れた。
 指先に何か小さなものが触れて、取り出してみると、左耳用のイヤホンが一つだけ入っていた。

「晄……」

 晄は、どんな気持ちでこれを用意してくれていたんだろう。
 きっと今頃、一緒に電車で帰りながら、映画のサントラを隣で聞いているはずだったのに。
 嗚咽をこらえながら、ベッドの上で体を丸める。そっとイヤホンを耳に差し込んだ。
 二人で共有するはずだった時間が、眠るまで頭の中で淡く光っていた。
 思い浮かべる晄の姿は、俺の左隣で、目が合うとちょっとだけ微笑んでくれる、いつものあの笑顔だった。

 傷つくことを、あまりにも長いあいだ避け続けてきたせいで、
 ようやく分かったことが二つある。

 一つは、
 自分が、こんなにも泣き虫だったということ。

 もう一つは、
 好きな人と離れることが、
 こんなにも苦しいということ。

 傷つかないように距離を取ってきたはずなのに、
 守ってきたはずの心は、今、はっきりと痛んでいる。

 それでも――。

 この痛みが、誰かを好きになった証だとしたら。
 逃げ続けてきた時間の中で、
 ようやく触れられた感情だとしたら。

 涙が止まらないのも、
 離れるのがこんなにつらいのも、
 それだけ本気で恋をした証なんだと思えた。