居酒屋に入った途端、店員さんの威勢のいい挨拶が店内に響く。
晄はあっという間に両側を女の子たちに挟まれていて、俺は置いてけぼりになったような気分になった。
「深山くん。靴箱、ここ空いてるよ」
声をかけてくれたのは、前に大学で会った佐久本くんだった。
高い位置にあった靴箱に、佐久本くんが俺のスニーカーをしまってくれる。
その時、右手の薬指に指輪をしているのが見えて、思わず凝視してしまった。
「……ああ、これ? 年上の恋人がいるんだけど、すげーヤキモチ妬きで。
ほら、このグループの女子って結構肉食系だから」
佐久本くんが指を差した先で、晄の隣をめぐって、女の子たちが笑顔を張りつけたまま喧嘩している。
その様子に固まっていると、晄が手招きしてくれた。
上着と鞄を座布団の上に置き、先に俺の席を確保してくれている。
「お前、絶っ対飲むなよ。グラスも間違えるな」
「わ、分かってる……」
そう言ってビールを飲む晄は、隣にいる女子の話に軽く相槌を打つ。黒いロングヘアの、最初に会ったときもいた子だ。
「ねー、アキってまだ映画館でバイトしてんの? いつ遊べる?」
「三年先まで無理」
「えー、うそ。そんなに女子と遊んでんの?」
「うん、そうそう。遊ぶので忙しいの、俺は」
軽口で流す晄に、女子がウケている。隣で聞いている俺の口元は引き攣りそうになる。
女の子はそれでもめげずに笑顔を作りながら話を続ける。
「私、アキと一緒に映画観に行きたい。行こうよ」
「……一緒に観に行く奴は選んでるから」
晄がビールを流し込んで黙り込むと、女の子も押し黙った。
俺はウーロン茶のグラスについた水滴をじっと見つめる。
視界の端で、晄が俺の肩に手を置いた。
「宵。俺、払っておくから先に帰っても――」
途中まで言いかけたところで、さっきの子とはまた違う女子に、背中を軽く叩かれた。
「ごめんね。深山くん、席代わってくれる?」
「……あ、はい……」
拒否するわけにもいかず、おずおずとその場から離れる。
空いていた席に座り直すと、女の子は晄の腕に手を添えながら話している。
距離感が、理解できないくらい近い。そして、それを払いのけずに片膝を立てながら話し続ける晄のことも、理解できなかった。
「ビジュ良すぎんだって。アキー、試しで良いから付き合って」
「だってよ、アキ。告られてんじゃん」
酔った勢いでの大胆な告白に、男子陣が大声で盛り上げる。
いつもこんなノリなのか――ついていけない。遠巻きに見ながら、俺は内心ずっとハラハラしていた。
晄がどう答えるのか、不安だった。
「だるいって」
晄は肯定も否定もせず、軽くかわす。
周囲も笑いでごまかし、ついていけない俺は、まるで透明人間のようだ。
……これ一体何の時間なんだろう。
トイレにでも立って、ちょっとこの場から離れようかと考えた時、また女子たちが騒ぎ出した。
「アキってどんな子がタイプなの?」
核心をつく質問に、俺は思わずテーブルの下で作った拳に力が入る。
晄は「めんどくせぇ」と言っていたが、しつこく腕を引っ張られ観念したように答えた。
「……自分からガツガツこないやつ」
「何それ?」
「追いかけられるより、追う方が燃えるってこと」
晄の言葉に、女の子たちは一斉に黙り込んだ。
それを見た男子の一人が手を上げる。
「じゃあ、好きな外見は?」
「死ぬほど顔面が可愛くないと無理」
「うわ、マジで超面食い!」
「じゃあ三つ条件絞るとしたら?」
「色白、目でかい、大人しい」
周りは「清純派じゃん」と大爆笑。だけど、晄は眉ひとつ動かしていない。
ふと視線を感じて顔を上げると、テーブルを挟んで向かい側に座っている佐久本くんと目が合った。
スマホを片手に、頬杖をついたまま、じっと顔を見つめられて気まずい。
肩を竦めると、その視線は自然に晄へ移った。
この飲み会にちゃんと溶け込んでいるのに、佐久本くんはどこか俯瞰しているようで、状況を冷静に観察しているように見えた。
「……あ? 何だよ、佐久本」
「別に? ……面白いなと思って」
視線に気づいた晄が睨みつけても、ふっと笑って流す佐久本くんの笑顔は、どこか計算されているようで、ちょっと嘘っぽく感じる。
人当たりも良いし、穏やかだけれど、本心を隠しているような、ミステリアスさがある。
晄と佐久本くんの間でしか分からない、言葉のやり取りの意味は理解できず、俺は再びテーブルの上のグラスに視線を落とす。
「俺にも一本ちょうだい」
晄は友達に向かって手を伸ばすと、渡された煙草を指で軽く転がしながら口にくわえ、片手で覆ってライターを擦った。
ゆっくりと煙を吸い込み、唇の間から細く白い煙を吐きだす。指先で煙草をくるりと回しながら灰を落とすその所作は、まるで別人のように見えた。
これまで一緒に過ごしてきて、煙草を吸うところなんて一度も見たことがなかったからだ。
でも、これが大学にいる時の晄の姿なのだと、静かに思った。
「ねえ、二次会はカラオケ行こうよ!」
人と接するのは前ほど苦手じゃなくなったけれど、終始テンションが高めの飲み会の雰囲気には、全然ついていけない。そして、心のどこかで「ついていきたい」とも思わない自分がいて、また心の中で自己嫌悪する。
その時、晄が立ち上がった。壁沿いのハンガーから上着を二着掴むと、反対の手で俺の二の腕を軽く掴んで言った。
「いや、俺らもう帰るわ。これで払っといて」
煙草を灰皿に押し付ける晄に、周囲から大きなブーイングが飛ぶ。
本人は気にする様子もなく、テーブルにお札を置き、佐久本くんだけが「またね」と俺に手を振った。俺は軽く会釈して、晄に腕を掴まれたまま店を出る。
エレベーターを降り、駅に向かって歩き出す。
晄はいつもより早いペースで、俺より少し前を歩いている。まるで早く帰りたい、この場を離れたいと言っているみたいだ。
歩きながら、さっきの店内のやり取りを反芻する。
晄の数歩後ろを歩きながら、女の子達の絡みつくようなボディタッチや高い声を思い出して、気持ちはすっかり落ち込んでいた。
「……宵? どうした」
俺の足取りが少し重くなったことに晄が気付いて、振り返った。
「何でもないよ」
「……何でもないって言う時は、大体『何かがある』ってことなんですけど?」
へまをしたら、この先にある気持ちまでバレそうで怖い。
自分から言う勇気もないし、バレたくもないくせに、晄と過ごす時間は欲しいと思ってしまう。
矛盾している、と自分でも分かっているのに止まらない。
「つーかお前……顔、怖いんだけど。なんで不機嫌?」
晄が珍しく動揺していた。
俺自身も、今どんな顔をしているのか分からない。どんな顔をしたらいいのかも。
「不機嫌じゃない。ただ、あの子と映画行くのかなって」
「行ったらどうする?」
ただ、晄が他の誰かと笑い合う姿を想像しただけで、喉の奥がきゅっと詰まった。
「……俺には関係ないし。行けばいいんじゃないかな」
「いや、冗談だから。行くわけなくね?」
鼻で笑う晄を一瞥して、その答えに内心喜びつつも、責めたくなる気持ちが湧いた。
晄の気持ちを推し量りたい衝動が湧いて、目を合わせないまま言葉を投げつけた。
「……映画のこと話せる人が周りにいない、って最初の時言ってたけど……実際は、そうでもないんじゃない?
晄と話したい子も、一緒に観に行きたい子もたくさん居たじゃん」
子どもみたいな言い方だと分かっている。本当はただ、俺が晄を独り占めしたいだけだ。何の権利もないくせに。それを悟られたくなくて、言葉を飾るほど、余計に拗ねた響きになってしまう。
映画なら、嫉妬するキャラクターの行動も台詞も予測できる。でも、自分の気持ちになると、何ひとつ思い通りにいかない。頭より先に感情が走って、試すように、突き放すような言い方をしてしまう。
沈黙が落ちて、通りを行く人たちの話し声が遠くに流れた。その中で、晄はゆっくりと息を吸い、静かな声で言った。
「映画を一緒に観に行くのは、宵だけって決めてる」
その一言だけが、街の喧騒の中でまっすぐに届いた。胸の奥が、ほんの少し緩む。
何て返せばいいのか分からないけれど、思っていたよりずっとあたたかい言葉だった。
「……野外シネマの日、キッチンカーで何食べたい?」
不意に話題を変えられて、嬉しいような、でも少し困った気持ちになる。
それを悟られたくなくて、つい顔を背ける。
ああ、俺って、本当に面倒くさい。晄は、気まずい空気のまま帰らせないようにしてくれてるのに。
「チュロスと、たこ焼きと……フランクフルトと、ポテト」
「出たよ、食いしん坊」
呆れたように言いながら、晄が少し笑う。その声が、夜の冷たい空気をやわらかく溶かしていく。
「……その日、絶対空けとけよ。他の予定とか入れんな」
静かな、だけど強気な言葉に、顔を上げる。街灯に照らされた晄の顔は、疲れているはずなのに、俺を見る瞳がすごく優しかった。
その直後だった。
晄の手が伸びてきて、俺の頭にぽん、ぽんと二回だけ触れた。
柔らかい感触が髪を伝わり、ぴんと心が跳ねる。さっきまで抱えていた嫉妬や不満が、消え去ったみたいに心が軽くなる。
俺って、本当に単純だ。ただの、友達としてのスキンシップなのに。
「うん、ちゃんと空けとくよ」
俺の返事を聞くと、晄は前を向いてスマホを片手に黙って歩き出した。もう少しで、いつも別れる駅の改札に着いてしまう。
キャッチや酔っ払いの多いアーケードを避けるように、晄は横丁の並ぶ裏路地に入った。薄暗い電球だけの道を歩きながら、狭い路地を進んでいく。
――晄が俺に触るなら、俺だって晄に触ってもいいのかな。
触りたい理由は、好きだから。でも、「触れていい理由」は見つからなくて、必死に頭の中で探す。嫌がるかな。怒るかな。そんな不安を抱えたけれど、
「ま、待って……」
それらしい理由をつけて、飛び込むような気持ちで晄の上着の袖口を小さく指で摘んだ。
晄は何も言わないし、俺の方も見ない。まるで気づいていないみたいに。
だけど、さっきより晄の歩くリズムがゆっくりになった。
押し込めたはずの気持ちが、せりあがるように込み上げてくる。頭の中で、俺はずっと晄にぶつけたい気持ちを叫んでいた。
――好き。
好き、晄が好きだよ。
袖を掴んでいることも、晄がそれに気づいてるのに何も言わないことも。
全部ひっくるめて、苦しいくらいに好きだった。



