まもなく、上映開始です。


 晄に会っていない時間も、毎日が少しずつ変わっていた。
 朝、窓から射す光の色も、大学へ向かう道の街路樹の影も、以前より鮮やかに見える。同じ景色なのに、何かを見つけたみたいに胸があたたかくなる。
 晄に会う日が特別なのは勿論だけど、それ以外の日も、頑張ってみようと思えるようになっていた。
 少しずつだけど、「人との距離感」も縮まった気がする。

 バイト先に新しく入った後輩は、大学一年生の男の子。初めの頃はどう声をかけたらいいか分からず、先輩の自分の方がぎこちなかった。
 でも、その子の困った顔を見ると、自然と言葉が出るようになっていた。

「すみません。なかなか、仕事覚えられなくて……」
「ううん、大丈夫。何回でも答えるから、いつでも聞いて」

 晄が自分にしてくれたこと、さりげない気遣いや優しさを思い出す。自分も、同じように出来るようになりたいって思う。
 後輩がほっとした表情を見せると、自分も嬉しくなる。
 誰かのために、自然に動ける喜びを感じていた。

「宵くん。最近、雰囲気変わったよね」
「え……そうですか?」
「うん、遊佐も言ってたよ」

 気づいてくれたのは、有馬先輩だった。照れくさくて、鼻先を手の甲で隠すように拭う。

「ありがとうございます」

 心が、ほかほかと暖かくなるのを感じる。
 人との関わりにも、少しずつ一歩を踏み出せているのは、晄のおかげだ。まだ完璧ではないけれど、自分の生活の中で、自分の居場所を見つけられた気がした。
 晄の表情や言動が、いつも頭のどこかにある。ふと思い出すだけで、背中をそっと押されるような気がする。
 心の中にあるのは、ただ「晄が好き」という気持ちだけじゃない。晄を想うことが、自分を変えていく力になっていた。

 目印のように進んで行けば、もっと自分のことも好きになれる気がした。



 金曜の夕方、「電車が来るまでの間でいいから話したい」と晄から急にメッセージが届いた。
 バイトが終わるまで、映画館の近くで待っていてほしいと言われたけれど、一度でいいから晄の働いている姿を見てみたくて、内緒で映画館の入り口へ向かっていた。

 館内はざわめきで溢れていた。ポップコーンの匂い、子どもたちの笑い声。
 その喧騒の中で、晄の姿を探す。受付、売店、ロビー。どこにも見当たらなくて、少しだけ不安になる。
 その時、エントランスに見覚えのある姿があった。

「本日も三原シネマにご来館いただき、誠にありがとうございます。ただいま、スクリーン8番の入場をご案内しております。半券を従業員までご提示ください」

 低く通る、晄の声だった。
 インカムを耳にかけ、淡々とアナウンスをするその横顔。いつもの軽口も、ふてぶてしい笑みもない。
 金髪の襟足は小さく結ばれ、ピアスは外されている。制服のシャツの襟元もきちんと留められていた。
 お客さんに視線を向けるたび、短く丁寧に会釈をしている。

 いつもの晄は、どこか危うくて気だるげで、目を離すとどこかへ行ってしまいそうな人。
 だけど今は、誰よりもこの場所に溶け込んでいて、凛としていて……普段とのギャップもあって、めちゃくちゃカッコいい、と見惚れてしまった。

 売店の棚の陰に隠れてその様子を見ていると、晄のもとに女の子が母親に手を引かれてやって来た。チケットを差し出して、元気な声で言う。

「お兄さん、おねがいします」

 晄はインカムを耳から外し、ゆっくり膝を折って目線を合わせた。

「……映画、楽しみ?」

 低くてあたたかい声。晄が目を細めて優しく笑うと、女の子はコクンと頷く。晄はその顔を見つめながらチケットを受け取った。

「いいな、俺も観たいやつなんだ」

 そう言って、まるで本当に友達に話しかけるみたいに、もぎって半券を差し出す。何気ない仕草なのに、見ているだけで心がほかほかと優しい気持ちになる。

「ありがとう、バイバーイ」

 晄は親子を見送ってから、ほんの一瞬だけ、ふっと息を吐いた。
 横顔に僅かな疲れは見えるけれど、優しさの余韻が残っていた。

「……宵?」

 隠れて棚から顔だけ出していた俺に、晄が気づいて怪訝そうな顔をした。

「ごめん。どんな風に働いてるのか見てみたくて」

「来るなら来るって言えよ。疲れすぎて、幻覚でも見えたのかと思ったわ」

 ため息をつく晄に、俺は笑顔を返す。晄は腕時計で時間を確認した。

「あと少しで終わるから」

 晄が従業員スペースに戻るのを見て、俺も映画館の外で終わるのを待つことにした。



 仕事を終えた晄は息を弾ませていて、その姿を見た瞬間、嬉しさを感じた。
 ふたり並んで、駅の外にあるベンチまでゆっくり歩いた。晄の肩越しに、街の灯りが静かにともり始める。
 電車が来るまでのつもりだったのに、夢中で話し込んでいるうちに、気付けばもう何本も見送っていた。

「オープニングからして、既に名作だよね」

 以前、俺が体調を崩した時に晄が言っていた『night fair(ナイト・フェア)』。
 スマホで画像検索しながら、好きなシーンをお互いに見せ合う。

「ここのシーンが一番好き」
「わかる! このメリーゴーランドの場面、いいよね」

 物語の後半、主人公は意中の相手と野外シネマにやってくる。
 窓のない小型の観覧車に、ぬいぐるみの射的。鏡の迷路と花火。手をつなぐ二人の周りには、色とりどりのライトが灯っている。

「野外シネマ、いつか行ってみたいね」
「……じゃあ、今日の本題」

 俺が呟くと、晄はスマホを操作して画面を見せてくれた。
 覗き込んだ画面には、一週間後の日付が書かれたイベントのページが表示されている。
 芝生広場に設置された大きなスクリーン、そして夜に幻想的に輝くメリーゴーランドと観覧車の写真。
 “新進気鋭の若手クリエイターによるショートフィルム五本上映”の文字。
 頭の中に、さっきまで話していた映画の世界のようなイメージが広がった。

「これ、宵と行きたいんだけど」

 予想していなかったタイミングでの誘いに、思わず頬が赤くなる。
 晄にとってはいつもの遊びの感覚だと分かっていても、好きな人から誘われたことに心が弾む。

「い、行く!」

 晄はいつも通り黒いマスクをしていたけど、その下で微笑んでいるように見えた。
 浮かれて大きな声を出した自分が恥ずかしい。けれど嬉しさは隠しきれない。

「晄がいつも、こういうの誘ってくれて嬉しい。ありがとう」

 勢いで、心の中にあることを素直に口にした。
 晄は少し驚いたように目を丸くしている。その背後に、見覚えのある人影が近づいてきた。

「アキ、お疲れーい!」

 前に晄の大学で会った、一軍グループの人たちだった。でも、その時より人数が増えている。
 晄はその大声に、ため息をつき少しげんなりした表情で足を組み直した。

「……何か用」

「華金なんだから飲み行こーぜ」

 がしっと晄の肩に腕組みをした男子が、やたらとハイテンションで絡んでいる。
 晄が低い声で断るのをよそに、隣にいる俺と目が合う。

「この前、居た子じゃん。相変わらずめっちゃ綺麗。名前は?」

「み、深山です」

 俺は自然に晄の隣に立ちながら、女子たちのキャピキャピした声に押され気味になる。
 名前を名乗った俺に、晄は小さく舌打ちして「答えてんじゃねーよ」とマスク越しに低く呟いた。
 思わず視線を返すけど、言葉にするのはためらう。答えたのは俺が悪いわけじゃないのに、胸の奥がちくりと痛む。

「えー、深山くんも一緒に飲もうよ」

「無理。こいつ一年っつったろ」

「じゃあウーロンとかソーダとか。この前も断られたし、今回は来てよ」

 甘ったるい声が夜の空気に溶けて漂う。
 ふと漂ってきた、香水の匂い。
 不安になって晄を見ると、女の子たちが晄のパーカーの紐を引っ張ってふざけていた。
 高い声で笑って、それがさり気ないアプローチなんだと分かる。
 俺と目が合った晄は、その手から逃れるように立ち上がって言った。

「……じゃあ俺が行く代わりに、コイツは帰してやって」

 その一言に少し救われた気がしたのも束の間、すぐに別の声が上がる。

「人数多い方が楽しいって。えーと……深山くん入れて十人? 行けるいける」

 あっけなく却下され、流れに押されるように足が動く。
 駅前の明かりの下、笑いながら歩く人たちの中で、隣にいるはずの晄の横顔だけが不思議と遠く見えた。