そして、約束の当日。待ち合わせの場所に立つ自分は、なんだか落ち着かない。新しい髪型にはまだ慣れなくて、無意識に髪を触ってしまう。
「宵?」
その声に顔を上げると、晄が立っていた。その視線が、自然と俺の髪に止まる。
「髪切った?」
「う、うん……。」
照れくさくて、うまく目が合わせられない。晄の目が一瞬鋭くなり、心臓が少しだけ早く動き出していた。
「……不意打ち攻撃はどうかと思うわ」
「こ、攻撃? してないよ」
視線を反らし、無意識に髪を両手で押さえる。晄が口元を緩め、俺の手首を引き寄せた。
「いーじゃん。似合ってる」
そう言ったあと、晄は俺とは反対側に顔を背けた。
なんか、違う。俺を見た時の晄の目が、いつもと違ってた。
何が、とは上手く言葉に出来ない。視線がいつもより……柔らかいというか。
それがまた、無意識に胸をきゅっと締め付けるような感覚を覚えて、どうしても無視できない。
分かってる、髪型のことを褒めているだけ。
でも、心の中のどこかで、「好きな人」に褒められて喜んでいる自分がいた。
***
晄の家で観た、アメリカのSFホラー映画。
そのコラボカフェがあるのは全世界で日本だけ。一時間ごとの入れ替え制にも関わらず、会場があるテナントビルの前には、すでに入場待ちの列が出来ていた。
「宵はなんか欲しいグッズあんの?」
「実物みてから、決めようかなって。 晄は?」
「折角だし、一つくらいは記念に買っていくつもり」
列に並びながら、晄と喋っていると、意外と早く自分たちの番が来た。
店内は暗めのライティングで、劇中の小物やポスターが飾られていて、ファンにはたまらない空間だ。
「二人で頼んで半分にする?」
晄がメニューを覗き込む。その声に自然と顔がほころぶ。選んだのは、劇中でキャラクターたちが食べていたワッフルとハンバーガー。
「晄、これ結構熱いから気をつけてね」
注文の品が運ばれ、早速写真を撮ってから、包み紙を開いた。晄が食べやすいように少しだけ紙を折って渡してあげる。
「うわ、マジであっつ!」
「だから言ったのに!」
普段はクールな晄が、こうして気を緩めて見せる子供っぽい表情。視線をちらっと俺に向けて、少し恥ずかしそうに逸らすその仕草が、なんだか愛おしかった。
「晄、子どもみたいで可愛い」
思わず声を出して笑ってしまう。
「……可愛いのはどっちだよ」
「え?」
「何でもない。ほら、宵も食えば」
晄は視線を逸らしたまま、少し照れくさそうにワッフルを差し出す。
シナモンの香ばしい匂いにつられて口を開くと、シャッター音が鳴った。
「なんで食べてるところ撮んの、晄!」
片方の口角だけを上げながら、晄がスマホを構えている。
「宵の一口がデカくて面白い。“デルモルゴン”並み」
映画の中に出てくるモンスターを引き合いに出されてちょっと睨んでみせるけど、自分でも確かに頬張り過ぎた自覚があって、すぐに吹き出してしまった。
晄はその笑顔をまた撮って、カメラロールを見ながら笑う。
「永久保存版」
「何が?」
俺が聞き返すと、晄は「内緒」と言い、クリームソーダを口に運ぶ。
食事を終えたあとは、出口近くのグッズコーナーへ向かった。
会場限定の缶バッジやマグカップがずらりと並んでいて、財布の紐が緩みそうになる。
晄はビジュアルファンブックを手に取り、ページをめくっていた。
その横で、俺は飾られていたふわふわのぬいぐるみを見つけ、思わず声が出た。
「ねぇ、晄! 見てみて、デルモルゴンのぬいぐるみ。すっごい可愛いよ」
一番欲しかったやつだ。興奮しすぎて、つい晄の腕を何度も叩いて、上着を引っ張った。
「ん? どれ――」
覗き込むように晄が俺の近くまで屈む。
振り返ったその瞬間、ふいに柔らかいものが頬に触れた。
触れたというより、押し返すような感触。
何が当たったかは分からないけど、たぶん頬同士……?
意外と柔らかくて、温かかった。
「あ……えっと……」
驚いて固まっていると、晄もわずかに目を見開いて俺を見ていた。
けど次の瞬間には、いつもの落ち着いた表情に戻った。俺が何か謝ろうとするより先に、晄は小さく息をのんで言った。
「……今の、ただの事故チューな」
「だ、だよね……調子に乗り過ぎた。
さすがに自己中だったと思う、ごめん」
言い終えた瞬間、晄の動きがぴたりと止まった。
結構、腕叩いちゃったし、引っ張りすぎた。自己中だと言われても仕方がない。
「……は?」
低く漏れたその声は、怒りというより“理解不能”の色が濃かった。
晄はゆっくり瞬きをして、それから眉間を指で押さえる。
深く長い溜め息が、胸の奥まで響くくらい重く落ちた。
やばい。本当に呆れさせた。
喉がきゅっと縮んで、視線が自然と床に落ちる。
肩が小さくすぼまっていくのが自分でも分かる。
「俺が言ってんのはそうじゃなくて、口が……」
口……つまり言動が、自己中ってこと?
晄は額を押さえたまま、そこまで言ってまた息を吐いた。
苛立ちよりも、“どうしてお前はそうなんだ”という疲れを含んだ溜め息だった。
「強引すぎた? それとも、声がうるさいってこと?」
「いや、もういいわ。お前ほんと――なんでそうなんだよ……はぁ……」
晄は顔を上げることなく、またひとつため息を落とす。
このままいたら場の空気まで重くしてしまいそうで、せめて雰囲気だけでも変えたかった。
「あ、あのっ……これ。これを晄に見て欲しくて……!」
慌てて、さっき見せたかったぬいぐるみを両手で差し出す。
「可愛いよね?」
劇中に出てくるラスボス。頭部はまるで花が開いたように裂け、中央から鋭い牙が放射状に並んでいる。
数秒の沈黙のあと、晄が目を細めて言った。
「……ぐろ。宵の可愛いの基準がわかんねぇ。そいつ、絶対可愛くはないだろ」
「いや、可愛いよ!この口をぱかって開いてるところとか……」
思わず力説する俺を見つめた後、晄はふっと笑いをこぼした。
俺は晄に散々ディスられたぬいぐるみ、晄は会場限定のカバーがついたファンブックとキーホルダーをお迎えした。
コラボカフェの会場を出た後、「この後どうする?」と尋ねた俺に、晄がスマホをいじりながら答えた。
「ああ、うち来る?」
「え、っと……」
普段なら、二つ返事でオーケーしていただろう。でも、晄への気持ちに気づいてしまった今は、特別に意識せざるを得ない。返事に詰まっていると、晄の方が気まずそうに目を逸らした。
「……あ、ごめん。距離戻すとか言っておいて」
「……いや、あの……」
晄なりに、気を遣ってくれている。
今日一日が楽しくて、俺もすっかり忘れていた。離れたのは、俺の方だったのに。
離れたり、側にいて楽しいと思ったり――自分でもますます、どうしたいのか分からなくなる。
「どうする? 宵が帰るなら、ここで解散でもいいけど」
「……行く」
「……どっちに?」
「晄の家、行く」
まだ、帰りたくなかった。
晄は短く返事をして、俺たちは電車に乗り、晄の家の最寄り駅で降りた。
昼間はニット一枚でちょうど良かったのに、もう空気は冷たくなっていた。雲の切れ間から、オレンジと灰色が混ざったような光が街を染める。
頬に当たる風がひんやりして、思わず肩をすくめた。今日、勇気を出して袖を通した服に、首筋をなぞるように冷たい風が入り込む。
「うわ、寒い!」
「薄着すぎだろ。上着は?」
「……忘れてきました」
「バーカ。自業自得だな」
本当にその通りだと思う。服の上下しか頭になく、アウターまで用意するのをすっかり忘れていた。
「……映画だったらこういう時、上着貸してくれるシーンだよね」
「甘えんな。俺が寒くなるから無理」
「いいよ。あと少しで着くし」
俺の言い方は自分でも思うけど、本当に可愛げがない。
拗ねたように歩調も早まり、晄の数歩先を歩く。
「宵」
晄が名前を呼んだ。振り返ると、何も言わずに自分の上着を脱ぐ。
肩にかけられたのは、晄がいつも着ている黒いレザーのブルゾンだった。
「着とけ」
柔らかく響く低い声が、耳の奥にじんわり沁みる。
肩にかかる革の重みと、ほんのり残る晄の体温。大きな袖口から手の甲まで覆われ、指先が隠れる。そして、いつもの晄の匂い。
「晄が寒くなるよ」
「貸せって言ったの、宵だろ」
「……ありがとう」
視線を合わせられず、指先でジャケットの袖をそっと握りしめる。
風の音も、遠くの車の音も、すべてが薄れ、鼓動だけが耳の奥で響く。
「行くぞ」
肩が触れないくらいの距離を保ちながら歩く。ひんやりした風と、晄のぬくもりが混ざり合い、胸の奥がどうしようもなく熱くなる。
喉まで出かかっている言葉を、どうしても口にできない。もし口にしたら、この空気が壊れてしまいそうで怖い。なのに、黙っているだけで思いはどんどん膨らんでいく。
――晄が好き。
心の奥で、季節外れの線香花火の火のように、チリチリと小さく揺れる。頼りなくて、小さくて、消えそうで消えない。
河川敷の道を歩きながら、足元の白いスニーカーを見つめて気持ちを押し殺す。晄のふとした仕草や、名前を呼ばれるたび、火の粒が一気に弾けそうで怖い。
だけど今は、その怖さごと抱きしめていたかった。
*
晄の家のドアを開けた。少し緊張してしまって、足音がやけに大きく感じる。
「……お邪魔します」
「どーぞ」
そのまま、二人で食べながら映画をダラダラ観ていた。終わってからシャワーを先に借りて、晄と交代する間に俺は洗い物を済ませる。
晄に借りた大きめのTシャツと柔らかいスウェットは、晄の匂いがかすかに染みていた。
もう何度も嗅いだことのある香りなのに、もう一度その香りを嗅ぐように鼻に左手の袖口を寄せてみる。
この匂いが前より好きになっている。
香りをかいでそう思った瞬間、窓ガラスに映った自分をみて我に返った。
――俺、なに匂いなんか嗅いでんの。
晄に見つかったら絶対変なヤツだと思われる。
ソファに腰かけて、今日買ったモンスターのぬいぐるみを袋から取り出す。
購入特典のショップバッグは黒地に赤で映画のロゴと映画のジャケットが印刷されている。
晄は電車の中でも、このぬいぐるみが袋からチラリと見える度に「キモいからこっち向けんな」と言っていたけれど、やっぱり可愛い。
まじまじと見つめて、俺は今日のコラボカフェの余韻に浸っていた。
ふと部屋の中に視線を移すと、テレビボードの上にあるトレーが目についた。
ステンレスで出来た楕円形のトレーの上に、いつも晄が付けているピアスや指輪、ネックレスが置かれている。
「……あ、これ」
トレーの端に、香水が一本だけあるのを見つける。そっと顔を近づけて香りを嗅ぐと、自分の着ているスウェットと同じ匂いがした。
思わず目を細めていると、背後から低い声がした。
「何してんの」
びっくりして振り返ると、晄がタオルで濡れた髪をかき上げ、上裸にスウェット姿で立っていた。まだ少し濡れている金髪が、光の角度で艶やかに輝いている。
見てはいけないような気がして、慌てて床へ目を逸らした。……服越しには全然気づかなかったのに、意外と鍛えてるみたいだった。
「これ、晄がいつもつけてるやつ?」
誤魔化すように香水を指さすと、晄は何でもないようなトーンで言った。
「ああ、うん。他にもあるけど、最近はそれしか付けてない」
白くてマットなガラスのボトル。無駄のないシンプルな形で、ブランド名が控えめに刻まれている。
オシャレのことはよく分からないけれど、そのボトルのデザインは晄に似合っていると思った。
「前から思ってたけど、良い匂いだよね。俺、この匂い結構好きかも」
言葉にしたあと、少しの沈黙。晄の顔を見ると、なぜか面食らったような顔をしている。
「……どうかした?」
晄は黒いTシャツを着ながら俺の隣に来て、腰を下ろすと香水の瓶を指でつまんだ。
「手首、出せよ」
「え?」
「つけてやる」
思わず目を瞬かせる。けれど、晄の表情はいたって真面目だった。遠慮したくても、出来ないような圧のある視線で、言われるままに右の手首を差し出す。
晄が香水のキャップを外して、ノズルを押す。
シュッ、と霧のように香りと水が俺の手首に広がった。
「……これ、つけすぎると重くなるから、これくらいでいい」
「あ、ありがとう。香水初めてつけた……」
「マジで? 一本くらい持っとけば」
「でも高そうだし……。買うなら、そのお金で映画が観れちゃうじゃん」
「ははっ。やっぱ映画が一番かよ」
珍しく、晄が楽しそうに笑っている。いつもなら笑うのを我慢したり、顔を背けたりしているのに。
晄が少しだけ息を吐いて、俺の手首を見つめたまま言った。
「こうして、反対側の手首にもつけんの」
そう言って、晄自身の手首を重ねると、そっと俺の手首から垂れそうな滴をポンポン、と手首で叩いた。
掠め取るように、すり……と俺の手首の上を、晄の手首がゆっくり滑っていく。
その仕草がやけに丁寧で、優しくて――思わず息を飲む。
晄の横顔もいつもより間近にあって、心臓の音がどんどんうるさくなっていく。
「……で、ここにも」
低い声が耳元をかすめた瞬間、息が止まる。晄は手首で、俺の耳の後ろを器用にゆっくりとなぞった。
「いいじゃん。宵にも似合ってる、この匂い」
耳まで赤くなってるのが、自分でも分かる。この至近距離で顔を隠すこともできなくて、俯くことしかできない。
俺の体温に反応して香りは拡散していくのに、晄が触れた肌の熱だけはまだそこに残っているみたいだった。
*
秋の夜は、思ったより肌寒かった。間接照明だけに薄暗く照らされた部屋の空気がひんやりして、ベッドに潜り込むと少しほっとする。俺は壁側――窓の近くに寝そべった。晄が横に眠れそうなくらいのスペースを開けて、背中を向ける。
「おい、寒がり。これ使え」
短くぶっきらぼうな声なのに、クローゼットから追加で持ってきてくれた布団を、そっと俺の肩にかけてくれる。手が触れるたびに心臓がちくりと跳ねる。布団の厚みや感触よりも、晄の指先の温もりや、触れ方の優しさに、つい意識が持っていかれてしまう。
「ありがとう」
ギシ、とベッドが軋む音。晄がそっと隣に横になった。この前とは違って、体の向きは自然に俺の方を向いている。
「そっち、狭い?」
「狭くない、大丈夫」
小さな声に緊張が混じる。晄の体温が背中越しに伝わってきて、俺の心臓は跳ねる。布団の重みと一緒に、体温がじんわりと重なり合う感覚。
足先が触れそうで触れない距離で、晄の体温を感じる。
心臓がまだドキドキする。けど、黙ってると余計に緊張が増すから、思わず今日一日のことを話し始める。
「コラボカフェのメニュー、すごく美味しかったよね。
あと、店員さんの制服とか凄いリアルで……」
声が少し早くなる。言葉の端々に照れが混ざって、自然と笑いながら話す。
「さっきの映画も面白かったよね。……えっと、あのシーンの……あー、キャラの名前が出てこないや。とにかく、なんか全部楽しかったなって」
言葉が途切れる。息が上がっているのを自分でも感じる。晄の存在を前に、焦ってばかりいる。
「……俺も」
普段の落ち着いた声とは少し違う。鼻にかかった甘さが混ざっていて、思わず耳まで熱くなる。
その声はずるい。心の中でそう呟きながら、俺はまだ背中を晄に向けたままでいた。
しばらくの沈黙のあと、後ろから低めの声で問いかけられた。
「……なんでこっち見ねぇの?」
――好きだから。
そんな風に答えることが出来たらいいのに。思わず顔の横に置いた片手で拳を作る。
「こっち向きじゃないと寝られないから」
言葉は平然を装っているつもりでも、声が少し震えているのを自分でも感じる。
「宵」
その言葉に俺は寝たまま、枕に髪を擦りつけるようにして首を横に振った。
晄は小さく息を吐き、ちょっとだけ俺の肩を掴んだ。そのあとしばらく無言になったけど、何か言いたげな空気が伝わる。暗い部屋の中で、息遣いと体温だけが伝わってくる。
「話しにくい。俺がそっちに寄る」
俺の肩越しに囁く声に、息が一瞬止まる。話すことで少し落ち着いたつもりだったのに、今度はその声でまた心臓がドキドキしてしまう。思わず背中を少し丸めて、肩をすくめてしまう。決して嫌なわけじゃないけど、好きな人とこんなに近くにいる緊張で、体を小さくしたくなる。
たった二文字の「うん」という返事すら恥ずかしくて、黙って頷いた。それを見た晄は、静かに身をずらしてくる。
背中を向けたままの自分のこわばった体が、知らず知らず晄の存在を感じ取っている。もう意識せずにはいられない。
急に俺が喋らなくなったから、晄の表情は見えないけれど、緊張しているのが伝わっていると思った。
「寝られない?」
「……うん、まだ眠くないかも」
布団がわずかに擦れる音、爪先がぶつかる微かな感触、そしてお互いの体温。すべてが神経を研ぎ澄ませる。
「……ふたりで終電逃したあの日まで、言うつもり、無かったんだけどさ」
晄が静かに笑った。
それはいつもの強がりや軽口じゃなくて、どこか遠くを見ているような、痛みを含んだ笑いだった。
胸の奥がざわついて、目が離せなくなる。
「俺も、大学一年の冬に入院してたんだ」
その言葉に、息が止まる。
晄が語り始める声は穏やかだけど、奥に沈んだ傷の気配を隠せていなかった。
「……雪道でバイク走らせてたら、スリップして車と衝突して。
バイクはぶっ壊れて、骨は折れるわ、手は縫うわで散々だった」
晄が袖をまくり、右手を少し掲げる。
手首から手の甲にかけて、うっすらと白い線が走っていた。
言われなければ気づかないほど薄いけれど、光がわずかに当たるたび、その跡だけがかすかに浮かび上がっていた。
「……この前、大学で声かけてきたグループの奴ら居ただろ。
あれ、前はもっと大人数だったんだよ」
晄は淡々と話すけれど、その奥に沈んだ温度差が痛いほど伝わってくる。
「あんなに大勢でつるんでたのに、見舞いに来たのは佐久本だけだった」
それを聞いて、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
俺が何か言おうとしても、言葉がうまく出てこない。
晄は天井を見つめたまま、額に手の甲を当てて、続けた。
「俺の見た目とか雰囲気で勝手に寄ってきて、グループの中心にされてた。
でも、コイツらは俺のことなんか、顔以外はどうでもよかったんだって、そのとき気づいた」
晄の声は静かで、感情を抑えていた。
けれど、その静けさの奥には、燃え尽きた怒りの灰みたいなものが残っている気がした。
「……その時病室で観た映画のラストに、モールス信号で会話するシーンがあって」
晄の目が、ほんの少し遠くを見ていた。
「全部どうでもよくなってたけど……あのシーンだけは、胸に響いた。
ちゃんと話せない状況でも、どうにかして“伝えよう”とするんだよな。
会いたいとか、そばにいてほしいとか。
言葉にできない分だけ、その一個一個の音が……まっすぐで」
晄は少し息を吸って、言葉を紡ぐ。
「自分でも驚いたけど……あの時だけは、
“俺も、誰かとこんな風に心で繋がれたら”って思った。」
声が、わずかに震えていた。
晄の中にある寂しさと、誰かに届きたいという願いが、まっすぐに伝わってくる。
俺はそっと晄を見た。
暗がりの中で見えるその横顔は、普段よりも少し大人びて見えた。
「……俺は、晄のことを全部わかってるなんて言えない。
でも……分からないままでいるのは、嫌だな。
晄がどんな気持ちでいるのか、ちゃんと受け取りたい。ちゃんと知りたいって思う」
晄の目が、わずかに揺れる。
強がりも軽口も、今はどこにもなかった。
いつもは人を寄せつけないようなその瞳が、今はどこか不安げで、柔らかかった。
「何でそういうこと言うかなぁ……」
「え?」
「優しすぎるんだよ、お前。……ずるいって、ほんと」
晄の声は小さく笑っていた。
でも、その笑い方には少し切なさが混じっていて、胸の奥が静かに疼いた。
「……宵、俺さ……」
低く囁かれた声。それだけで鼓動が跳ねる。
暗くてもわかる。晄がこっちを見ている。
目が合った瞬間、視線が絡んで、時間が少しだけ止まった気がした。
優しいのに、どこか戸惑ったような目だった。
なにかを言いかけて、晄は唇を噛み、視線を外した。
そして、ほんの一拍の間を置いて、いつもの調子に戻った声で言う。
「……明日起こして欲しいんだけど」
「えっ?」
思わず声が裏返って、自分でも笑ってしまう。
さっきまでの静けさが嘘みたいに、空気が少し軽くなった。
「俺、明日は一限だから始発で帰るよ?」
「いいから。ちゃんと起こせよ」
「そしたら晄が全然眠れないじゃん。だめ」
そんなやり取りをしながら、晄が小さく笑う。
暗闇の中で、表情は見えないのに、その笑い声が心に触れるように近い。
沈黙が続いて、「もう寝よう」と言葉にした訳じゃないのに、互いの呼吸が重なっていく。
晄の寝息が、ゆっくりと整っていくのを聞きながら、俺もまぶたを閉じた。
布団の中で分け合うぬくもりが、少しじれったくて、静かに幸せだった。



