まもなく、上映開始です。


 晄との電話から三日後。
 俺は洗面台で前髪に触りながら、晄の言葉を思い出していた。

 “前髪、短い方が似合う”

 美容室で話しかけられるのが苦手で、いつも担当してくれる美容師さんは、最低限の会話だけで済ませてくれる。それでも、俺にとってはハードルの高さを感じる場所だった。

「服も考えてなかった。会うとき何着て行こう……」

 晄はいつもお洒落だから、どうしても意識してしまう。クローゼットを開けても、白や黒、紺色ばかりでかわり映えがない。

 隣に立つときに、少しでも自分に自信を持てたら。
 そんな気持ちが、じわりと湧き上がっていた。

 晄との約束の日まで時間もない。そんな焦りもあって、その日の講義終わりに寄れる枠を予約した。

***

 スマホとロッカーの鍵を手に、カットの席に座ると、担当さんが俺の首元にタオルを巻きながら言った。

 「深山くんが当日予約で来るの、珍しいね。今日もいつも通りでいい?」

 思わず「はい」と口を開きかけたが、すぐに止まった。

 晄に、いつもと違う自分を見せたい――自然にそんな気持ちが湧き上がってくる。

 「あの……似合う髪型にして貰っていいですか?」

 声は小さく、最後の方はほとんど呟きになった。それでも担当さんは少し目を瞬かせ、優しく頷いてくれた。

 「え、本当ですか!……深山くん、目が大きいから、前髪を少し短めにした方が絶対似合うと思ってたんです。ゆるめのパーマにしていいですか?」

 「は、はい。お願いします」

 言われるままに頷く。仕上がりは想像できないけれど、担当さんに任せれば大丈夫だろう。気恥ずかしさを押しやって、身を委ねるしかなかった。

 それから一時間後、鏡に映った自分を見て、俺は胸が高鳴っていた。短くなった前髪に、整えられた襟足。初めてかけてもらったパーマで、髪がふんわりしている。

「いやー、深山くんこれ大優勝だね。SNSに載せてもいい?」

「え、えっと……恥ずかしいのでそれはちょっと」

「じゃあ、目元以外は手で顔は隠してもらって大丈夫だから、正面とサイドだけでも!」

 お願い!と頼み込まれて、断れなかった。何枚か写真をスマホで撮られて、帰り際にはドライヤーのコツを教えてもらった。

 外に出ると涼しい風が切り立ての髪に触れて、なんだか落ち着かない。ビルのガラス壁に映った自分を見ると、なんだかちぐはぐな感じがした。たぶん、服がこの髪型に合ってないんだと気付く。
 いつも服を買っている量販店を通り過ぎて、前から気になっていた服屋さんのドアを開けてみる。

「いらっしゃいませ」

 すぐに笑顔の店員さんが近づいてきた。優しそうだけど、話しかけられた瞬間、つい逃げ出したくなる。

「何かお探しでしたか?」

「あ、えっと……特にこれが欲しい、っていうのはないんですけど。
 髪型変えたら、服がちぐはぐなような気がしてて……」

 言葉を選びながら必死で話す俺に、店員さんは優しく頷きながら言った。

「その髪型、お客様にすごくお似合いですよ」

 いつもの癖で、反射的に「そんなことないです」と言いかけて、口が止まった。

 “――そんなことないって言うの、やめたら?”

 晄の声が、ふと頭の中で響いた。あの時の、真剣で優しい眼差しまで思い出す。小さく息を吐いて、微笑んだ。

「あ、ありがとうございます……」

 素直に伝えてみたら、店員さんも嬉しそうに頷き、「よかったら新作もご覧になってください」と言ってくれた。

「あの……えっと、服のこと、あんまり詳しくなくて。」

「私が、ご提案させて頂いてもよろしいですか?」

 笑顔に、小さく頷く。店員さんから最近の流行を教えてもらい、男性もパーソナルカラーや骨格を基に服を探す傾向が増えてきているという。

「これとか、どうですか? 是非、試着してみて下さい」

 試着室のカーテンを開けると、鏡の中にいるの自分が、別人のように見えた。
 淡いグレーがかったブルーのニット。肩のラインがゆるやかに落ちている。
 それに、オフホワイトのワイドパンツ。腰の黒いベルト。
 なんだかいつもより、大人っぽい印象になっていた。

「うん、やっぱりすごく似合いますね。色白だから、この色が映えますよ」

 いつもの自分じゃない。
 けれど、晄との約束がここまで気持ちを動かしてくれたお陰で――目の前に立つ自分を、前よりも好きになれた気がした。