まもなく、上映開始です。


 朝、目を覚ますと、晄の方が先に起きていた。
 カーテンの隙間から差し込む淡い光が、見慣れた部屋をやわらかく照らしている。
 ソファの上には晄の上着と、ぐしゃぐしゃになったブランケットが無造作に置かれていて――昨日、晄がそこで寝たのだと気づいた。
 寝ぐせを手櫛で整えながら、その背中に声をかけた。

「晄、おはよう」

「……具合は」

「薬、効いたみたい。だいぶ良くなった」

 晄は本をめくる手を止め、顔を少し上げる。
 けれど、目が合うとすぐに視線を逸らし、また残り少なくなったページに戻る。
 指先の動きがわずかにぎこちなく、照れを隠すように文字を追っているように見えた。

「昨日……ありがとね。色々してくれて」

「……別に。放っとけなかっただけ」

 小さく返された声は、朝の静かな空気に溶け込むように柔らかかった。
 ソファの背もたれに凭れかかり、咳払いをしながら晄は言った。

「俺、授業あるからそろそろ出るわ。宵も行く?」

「あー……。ううん、俺は後から出ようかな」

 普段なら自然に答えられるはずの言葉も、今はどこかよそよそしく、少し距離を置こうとしている自分がいた。

「まだ、本調子じゃねーの?」

 晄の声が優しく、でも少しだけ不安そうに揺れる。

「なんでもない、大丈夫」

 自分に言い聞かせるように、“大丈夫”が頭の中で繰り返し響く。
 本当は、色んな意味で大丈夫じゃない。
 だけど、それを言ったらどうなるかわからない。

 ――晄のことが好きなのかもしれない。

 この気持ちを伝えたら、きっと困らせる。関係が壊れてしまうかもしれない。
 友達でいられることが、今は何より大事なんだ。
 だから、この気持ちはしまっておかなきゃ。

 自分の心の中に、見えない箱を用意して、その気持ちをそっと押し込める。絶対に、誰にも開けられないように。見られないように。
 紐でぐるぐる巻きにして、鍵をかけるみたいに、そっと閉じ込めた。

 笑顔も声も、普段通りにしておかないと。
 目を伏せて、肩の力を少し落とす。こうやって、気持ちを自分の中に封じておけば、少なくとも今は大丈夫だと思っていた。



 あの後も何回か晄は連絡をくれたけど、もう前みたいに晄に自然に話せなくなっていた。

 “週末空いてる?”
 “ごめん、バイトある”

 会いたいのに、なんとなく躊躇してしまう。
 送ろうと思ったメッセージも、送る直前で消してしまう。
 少し前なら冗談交じりにやり取りできた内容も、今はどこかよそよそしく、ぎこちなくなる。

 “分かった。また今度な”

 優しい返事にどう答えたらいいのかもまた分からなくて、既読をつけるのをためらう。

 お互い別の大学に通っているし、授業もバイトもある。
 無理に約束を作らなければ、会わないまま何日も過ぎていく。その距離が、逆に安心だった。
 これ以上気持ちが膨らんだら、どうしていいかわからない。

 それでも、心の奥ではまだ晄のことを考えてしまう。
 声を聞きたい。
 会えなくても存在を感じていたい。
 なのに、その気持ちを悟られたくなくて、避けてしまう。

 “そろそろ映画観に行かね?”
 “試験前だから難しいかも”

 誘われるたびに、理由をつけて断る自分がいた。
 毎日のちょっとした連絡も、慎重に、慎重に。
 簡単な挨拶だけで終わらせたり、少しのやり取りでもすぐ切り上げたりするたび、胸の奥がざわついた。

 ――本当に、これでいいのかな。

 晄はたぶん、俺の気持ちには気づいてない。
 だからこそ、晄は何も悪くないのに、俺が勝手に動揺して突き放すような態度を取ってしまうことが、申し訳なかった。

 好きだと言えない。胸の奥でざわつくこの感情に、触れられたくない。触れたら壊れてしまいそうで怖い。
 前みたいに自然に振る舞えない。笑顔も軽口も、ぎこちなくなるばかり。だったら――離れるしかない。
 自分の中で色んな気持ちの糸が絡み合って、解けなくなっている。

 “じゃあ試験終ってから”
 “うん”

 距離を置くことで、自分の心を守ろうとする。でも同時に、それは晄を遠ざけることでもある。
 それを分かっているのに、胸の奥のざわつきは収まらない。

 そんなある日の夕方、バイト帰りの歩道でスマホが震えた。
 画面を見ると、晄からの着信。胸がびくっと跳ねて、手が止まる。
 呼吸が少し詰まったまま、指先を震わせて通話ボタンをスライドした。出るまでに、十秒以上かかってしまった。

「……もしもし」

「今、時間ある?」

「うん……どうしたの」

「……最近さ、なんか冷たくね?」

「え?」

 息が詰まった。ちょうどその瞬間、頭上を電車が通過して轟音を立てる。
 街のざわめきの中で、晄の声だけがやけに近く、逃げ場のない感覚に胸が押し潰されそうになる。

「前みたいに話してくれないし、メッセもすぐ返ってこないし。なんか、俺やらかした?」

「そ、そんなことない」

 思わず言葉が小さくなる。心臓の速さが手元まで伝わって、文字通り指先が震える。

「じゃあ、なんで避けんの」

 その問いは、真っ直ぐで痛かった。
 何か誤魔化そうとする言葉は、喉の奥で固まり、どうしても出てこない。

 静かな沈黙のあと、晄の声がそっと続く。

「俺、宵に嫌われるようなことした?」

「し、してない」

「じゃあ、傷つけた?」

「違う……」

「違うなら、ちゃんと言えよ」

 胸の奥がぎゅっと締め付けられる。違う、本当に違う。ただ怖いだけだ。
 晄を好きだという気持ちが、どうしようもなく大きくなっていくのを、このまま知られたら、全部壊れてしまう気がした。

「……ごめん」

「謝らなくていい。理由、言ってほしいだけ」

「……晄の前だと、うまく話せないの」

「え?」

「だから避けてて……嫌いになった訳じゃなくて、」

 沈黙が長く続く。街路灯の淡い光が、スマホ越しにぼんやりと手元を照らす。
 自分の心臓の音が、晄の声の隙間に重なるたびに、胸の奥がざわつき、指先の震えが止まらない。
 ――距離を置こうとする自分と、好きな気持ちの間で揺れる感情は、晄へちゃんと言葉にできないまま、夜の空気に溶けていった。

 やっと聞こえた声は、思っていたより穏やかだった。

「……そっか。じゃあさ」

「え?」

「距離、戻すために出かけんのは?」

「でも……」

「“Stranger Gate(ストレンジャー・ゲート)”のコラボカフェ。期間限定のやつ。前行きたいって言ってただろ」

「い、言った。でも……」

「行くぞ。日曜、昼から。あとでチケット取る」

 あっさりした口調で言われて、返事が詰まった。
 その誘いに、胸の奥の冷たい塊が少し溶けるような気がした。
 でも、怖さもまだ残っている。今のままじゃ、また取り繕ってしまうかもしれない。
 
 「俺が宵と行きたいから」

 あまりに真っ直ぐで、返す言葉が見つからなかった。
 少し笑いながら「強引だね」と呟くと、電話の向こうで晄も息を吐いたように笑った。

 「じゃ、決まりな。日曜、駅前、十時」

 「……うん」

 通話が切れたあと、スマホを持つ手が小さく震えていた。
 ほんの少し前まで、自分から離れようとしていたくせに。たった数分の会話で、胸の奥があたたかく満たされている。

 ――会いたい。
 本当は、ずっとそう思ってた。
 ただ、その言葉を怖くて言えなかっただけだ。
 次に会うとき、どんな顔で晄を見ればいいんだろう。考えるだけでまた心が忙しくなる。

 けれど、不思議と今はもう、逃げたいとは思わなかった。