まもなく、上映開始です。


 晄がうちに泊まってから、一週間以上が経った。
 昼間なのに、部屋の中は少し薄暗い。窓の外では、低く垂れこめた雲の下、細かい雨が明け方から降り続けている。

 雨は嫌いじゃない。でも低気圧の日は、決まって体がだるくなる。自律神経が乱れるせいらしく、去年の入院のあと、難聴と一緒に後遺症として残った症状の一つだ。

 目を覚ました瞬間から、体の芯が重く、頭の奥にじんわりと痛みがある。喉も乾いているのに、起き上がる気力は湧かない。
 昨夜のうちにバイト先の店長には欠勤の連絡を入れたけど、シフト表を見ると、欠員が出ていて申し訳ない気持ちになる。

「あー……。結構しんどいな……。」

 腕を伸ばしてスマホを手に取り、薬を飲んだはずなのにいまいち効いていない体を確認する。
 明日には講義もバイトもあるのに、このまま行ける気がしない。
 通知をまとめて削除していると、画面に晄からのメッセージが届いた。


“『night fair(ナイトフェア)』観た? まじ最高 早く観た方が良い”


 作品の感動を共有したいという晄の言葉が、今の自分には遠い世界のことのように思えた。
 確かに俺も、その作品を観たいと思っていた。
 バイト先で次の入荷予定表のタイトルを見たときから、予告編もチェックしていて、心のどこかで「晄が好きそうだな」と感じていた。
 でも、頭の中で思考が絡み合い、うまく言葉が出てこない。震える指でようやく打った。

“ごめん、具合悪い。またあとで”

 シーツの上で天井をぼんやり見つめ、ひとつ大きく息を吐く。胸の奥がざらつくような、妙に心細い感覚。

――本当は、もう少し話したかった。
 晄と話す時も、会ってる時も……離れる前は、いつもそう思っちゃうの、なんでだろう。

 そのことに気づき、少しだけ動揺する。けど、今は痛みの方が勝った。
 枕元にスマホを置き、意識はゆっくりと薄れていった。静かに流れる時間の中、雨音が部屋に溶けるように響く。

***

 うっすら目を開けると、どれくらい寝ていたのか、電気をつけていない部屋は真っ暗だった。スマホの画面の光が目に刺さるように眩しく、思わず目を細める。確認すると、思ったよりずっと遅い時間を示していた。

「最悪……もう夜じゃん」

 返却期限の迫ったDVDもある。のそのそと起き上がろうとしたとき、ピンポーンと呼鈴が鳴った。こんな時間に誰だろう。実家からの仕送りか、とまだ眠い頭で考えながら、唸るようにベッドから這い出す。

 部屋着のまま玄関を開けると、そこには傘を畳んで持つ晄が立っていた。

「び、びっくりした……!」

 一瞬、理解が追い付かず、息をのむ。心臓がどくんと跳ねた。晄の黒い上着や髪の先から、まだ小さな雨粒が落ちている。

「バイト終わってからメッセージ送ったけど、返事なかったから。
 寝込んでるんじゃないかと思って来てみた」

 そう言うと、靴を脱ぎながらずかずかと上がり込んでくる。
 慌ててスマホを手に取ると、通知が光っていた。――晄からのメッセージ。

“心配だから、バイト終わったら寄る。無理すんなよ”

 確かに届いていた。でも、ベッドに伏せたまま見る余裕はなかった。

「ごめん……全然見てなかった」

「ぶっ倒れてたらと思って焦ったわ」

 晄は笑う。責めるでもなく、ただ安堵したように。

「具合、まだ悪いんだろ。見れば分かる」

「……ちょっとだけ」

「ちょっとの顔じゃねぇな」

 晄の声は、いつでも俺のしんどいところを正確に拾ってくれる。その優しさに、辛い時ほど寄りかかりたくなる。
 差し出された袋の中には、スポーツドリンクやゼリー、レトルトのお粥。
 その優しさに胸がぎゅっと締め付けられ、しばらく言葉が出せなかった。

「……わざわざ買ってきてくれたの?」

「しんどかったら買い物も行けないだろ」

 驚きで少し目を見開いた俺を、晄はじっと見つめ、ゆっくり頷く。ドアの隙間から冷たい空気が忍び込み、部屋に静かな寒さを運ぶ。

「……どこが痛い?」

「頭……。あんま薬が効かなくて」

 濡れた傘の先から、ぽたり、と一粒の滴が落ちる。

「顔色悪すぎ。もともと白い方だけど、なんつーか……青白いに近い」

 ぐっと顔を上げさせるように右頬に触れたその手の重みは包み込むようで、胸の奥に温もりがじんわりと広がる。
 外の冷たい空気と、晄の手の温かさ。不思議と心地よくて、体の芯までゆるやかに熱を帯びていくのを感じた。

「……ごめん、嘘ついた。結構しんどいかも」

 ようやく絞り出した声は小さく、震えそうになりながら口からこぼれた。晄は「やっぱり」という顔をして、俺のことを見下ろす。

「飯は食った?」

「昨日の夜から食べれてない……」

「そんなことだと思った。ほら、これ食って早く寝ろ」

 手渡された袋を受け取ると、晄の手がゆっくり離れてドアノブに触れた。

「……じゃあ」

「え、待って」

 思わず声が零れ、晄の濡れた上着の裾を掴む。視線を落した晄が、驚いたように瞬きをする。その視線を受けた瞬間、胸の奥がざわついた。

「もう帰る?」

 か細く呟くように問いかけた声は、普段より正直で、どこか子どもっぽかった。具合が悪く弱っているとはいえ、素の自分が出たことに少し戸惑う。

「俺が居たら休めないだろ」

 晄の言い聞かせるような言葉に、唇を固く結ぶ。思い通りにならない状況に、眉根を寄せて俯く。
 気まずい沈黙が流れて、言わなきゃよかったと思った。
 焦りとじれったさが交差し、胸の奥で押し合いへし合いしている。
 晄は少し黙ったまま俺を見つめ、ゆっくり言った。

「……じゃあ、居るから。宵はベッドで寝てろ」

 穏やかで、迷いのない声。晄が玄関のドアを静かに閉めると、鞄を床に置いてキッチンに向かった。

「お粥、あっためるわ。少しでも腹に入れたほうがいい」

 ベッドに横たわりながら、その広い背中を見つめる。晄が自分の家のキッチンに立っているのは、何だか変な感じがする。
 普段料理はあまりしないというのが、その動きから伝わってきた。
 食器棚からお椀を取り、湯気の立つお粥を移し替える。スプーンを差し、テーブルに置くと、俺の体を支えるように起こしてくれる。

「口開けろ」

「自分で食べられる……」

「いいから」

 時折こめかみに走る痛みを堪えて、ぼんやりした頭で、晄に手伝ってもらいながらお粥を口に運ぶ。その一つひとつの動作が丁寧で、当たり前のように優しくて、胸がぎゅっとなる。
 半分残してしまったけれど、晄は「上出来」と言って布団をそっと掛けてくれた。

「晄、ごめんね」

「……もう謝らなくていいから、早く寝ろ」

 目を閉じかけても、眠りは訪れない。
 うっすらと瞼を開けたまま、天井の影をぼんやり眺める。
 体は布団の中でじっと固まっているのに、意識だけが冴えてしまっていた。

 視線を横に流すと、床にあぐらをかき、ベッドに背を預けるようにして座る晄の姿が見える。
 俺の本棚から適当に抜き取ったらしい文庫本を片手に、ページをめくる音だけが、静かな部屋に溶けていた。

 一晩、隣に居てくれる。
 その優しさに触れて、嬉しさと、なぜか少し切ない気持ちが、境目を失って溶け合っていく。

 ――晄。
 もっと側にいて。
 もっと、近くにきて。

 声にすれば簡単なはずなのに、喉はぴくりとも動かない。
 不安と体調の悪さが重なって、縋りたい気持ちが波のように押し寄せる。

 温かそうで、安心できそうで。
 でも、今の距離を越える勇気が出ない。

 目を細め、息を潜める。
 静けさの中で、心の奥にしまい込んでいた感情が、一斉にざわめき始めた。
 甘えたい。
 触れたい。
 でも、嫌われたくない。傷つきたくない。

 この手を伸ばしてしまえば、すぐに届くのに。
 それでも頭のどこかで、「今の距離を守れ」と警告する声が鳴り続けている。

 相反する気持ちがぶつかり合って、結局、俺にできたのは晄の横顔を見つめることだけだった。
 少し伸びた金髪が頬にかかり、目尻に淡い影を落としている。
 照明を落とした部屋の中で、そこだけが不思議と鮮やかに浮かび上がっていた。

 ずっと起きていてくれている。
 バイトで疲れているはずなのに、眠らず、こうして側にいる。
 何も言わなくても、その態度ひとつひとつから、言葉よりも確かな優しさが伝わってくる。

 ……触れたい。

 布団の端から、そっと指先を伸ばした、その瞬間だった。

 晄が顔を上げる。

「どうした? 水飲むなら取るけど」

 本を閉じ、ペットボトルに手を伸ばしかけながら、こちらを見ている。
 暗がりの中で、晄の瞳だけが静かに光っていた。

「……ううん、なんでもない」

 慌てて手を引っ込める。
 布団の中で握りしめた拳が、じんと熱を持つ。
 自分でも分かっている。
 これは、“なんでもない”なんて言葉で片付けられる気持ちじゃない。

 布団の向こう側にある温もりが、やけに恋しい。
 触れられない距離だからこそ、余計に強く意識してしまう。

 その瞬間、胸の奥に、すとんと何かが落ちた。

 ――ずっと一緒に居たいって、
 もしかして、こういうことなのかな。

 その言葉が浮かんだ途端、胸の奥に静かなときめきが広がっていく。今まで知らなかった感情が、音もなく芽吹くように、俺の中で息づいていくのを感じた。

 布団の温もりと、晄の気配に包まれて、少しだけ安心する。夜の分として飲んだ薬に眠らされるように、瞼を閉じかけた時、晄が俺の方を見て何か言った気がした。

 ぼんやりした意識の中で、晄の手が俺に伸びてくる。
 額をすり、と優しく親指で撫でられ、髪を梳くように指が通り抜ける。
 それがもう、夢なのかも分からない。
 だけど、目を閉じながら、もしこれが夢なら、このままずっと眠っていたいと思えた。