雨は、音のつぶでできている。
 京の雨は江戸の雨よりも粒が細かく、風の曲がり角でほどける。軒の滴は、静の襟にだけ正確に落ちるように見える。
 今夜の見回りは、静ひとりだ。名簿にも連名にも載らない見回り。掟に照らせば、報告は短く、命令は速やかに、功は譲れ――短い三条が、雨の字で書かれている。

 石畳は黒い鏡になっていた。
 提灯の灯が揺れると、その揺れは地面の鏡にも映って、町全体が水面のようにうねる。うねりの底に、足音が沈んでいく。雨は音を増やし、同時に音を隠す。
 通りの角で、静は一度、呼吸をひとつ深くする。息の深さは、刃の長さを軽くする。矢野は「理屈の風は冷てぇ」と笑うけれど、冷たい風のほうが火には速い。

 裏長屋へ続く細い路地は、雨の日ほどよく喋る。
 桶の縁が鳴り、濡れた草履が板橋を叩く。猫が濡れ鼠の気配を追って、庇から庇へ跳ぶ。
 その奥――風のつまる行き止まりの一間で、気配が重なっていた。
 火皿の炭が赤く点じている。炭の赤は雨に弱いはずなのに、その赤には傘が差されているみたいに強情な芯がある。二人。言葉は交わさない。紙の音がして、畳の目に沿って送られる気配。

 戸口の前に立つ。
 叩かない。呼ばない。ただ、そこにいる気配を“減らす”。
 気配というのは不思議なもので、立てることは容易いが、減らすことには手間がかかる。肩の力を半枚落とし、踵の重さを爪先へずらし、視線の焦点を灯から半寸だけ外す。呼吸をひとつ置き、雨粒が戸の桟を二度叩くのを待つ。

 戸が、内側から開いた。
 浪士は目をレンズのように細め、雨の糸を透かして僕を見た。「誰だ」
 静は答えない。
 畳の目に沿って三歩。
 一歩目で灯りの背に回り、二歩目で火皿の位置を測り、三歩目で紙束の影の重さ――その“重さ”の所在を掴む。

 紙束は火に弱い。火皿は手に弱い。
 静は鞘の角で火皿を軽く弾いた。音はほとんど出ない。炭は四方に散って、赤い点が畳に小さな星座を描く。煙が立ち、目が煙を追う。
 煙を追う目は、必ず上に行く。その上を、僕が通る。

 「なに、っ――」
 声が煙を吸って咳になるより早く、僕は二人の肩口と柱の間に指を挟み込んだ。刃は使わない。骨の稼働を止める角度を、柱に借りて縫い付ける。
 「命は取りません。けれど紙は預かります」
 静が低く言うと、片方が逆上して短刀を抜いた。
 短刀は雨の夜でも早い。早いが、軽い。
 軽い刃は、重心で止まる。

 静は一歩も退かない。
 体の線に手首の動きを沿わせる。流して、落とす。
 短刀が畳に落ちる。音は雨に溶け、刃の光だけが静の白い袖で細く跳ねた。
 もう片方が紙束を口で引き裂こうとする。
 静はその口の前に、鞘の端をすっと差し入れた。
 「歯では負けます。紙は雨に勝ちませんが、歯より固い」
 訳の分からないことを言ったのは、わざとだ。怒りは言葉で早まる。早まった怒りは、早まった手より読みやすい。

 「おい、お前――」
 短刀を落とした男が膝で寄ってくる。
 膝の水は重い。重い膝は、畳に吸われる。
 静はその膝が吸われる瞬間に、襟を取って肩を落とす。
 柱に縫い付けた形のまま、二人は呼吸の角度だけで動きを奪われた。
 「ここで斬れば楽かもしれませんが、楽は道を細くします」
 静が言うと、短刀の男は顔を歪めた。
 「何を……言ってやがる」
 「雨の日は、道が狭いでしょう」
 「はぁ?」
 「だから、刃の通り道も狭いんです」
 男は唸り、肩を揺らした。揺れは柱に吸われ、力は自分に返った。返った力は、それを持った本人を静かに疲れさせる。

 紙束を取る。
 火は移っていない。雨の気配が、紙の縁に小さく残っている。
 封の糊が甘い。甘い糊は、急いで貼られた証だ。急いだ手は、たいていよく震える。震えの残り香がある。
 「返してくれ……それはただの手形だ」
 「手形なら、明日また書けます」
 「てめぇ、無明の――」
 無明。
 この町で、その言葉は呪いにも誉れにもなる。
 静は答えない。

 「縄は後で入ります。雨が止むまで、ここで呼吸だけしていてください」
 柱に預けていた指を離すと、二人はその場で立っていることに汗をかきはじめた。自分がどれだけ柱に頼っていたかに気づくのは、誰だって遅い。
 静は戸を開け、雨の匂いに戻った。
 そのとき、細い路地の先で、傘のない影がむっと立った。

 矢野だった。
 濡れた髪が額に張りつき、槍袋は肩で雨を受けていた。
 「……言えよ」
 声が低い。
 「処理も密会も、一人で抱える癖やめろ」
 「矢野さんに濡れてほしくなくて」
 「馬鹿か。雷は濡れても鳴るんだよ」
 呆れた顔で言いながら、僕の手から紙束を受け取り、懐に入れた。
 「にしても、お前、顔が濡れてねぇな。風よけでも仕込んでんのか」
 「風が、僕の前だけ避けてくれます」
 「言うねぇ。……で、中の二人は」
 「柱に縫い付けてあります」
 「縫った? お前、夜に縫い物?」
 「ほどき方も教えました」
 矢野が噴き出し、すぐ真顔に戻る。
 「静、お前は火事場の火消しだ。燃え移らねぇのは上等だが、たまには叫べ」
 「叫びは、風に任せます」
 「そりゃ俺の出番だってか」
 「はい。雷のほうが、遠くまで届きます」
 「おだてても駄目だぞ。……いや、駄目じゃねぇな」
 そう言って彼は顎で示した。「歩くぞ。雨が“間”を広げてくれる」

 二人の足音が、雨音の粒に溶ける。
 歩幅は、京に来てから不思議と同じになった。
 江戸では、静のほうが半歩ほど小さかった。それが京では揃う。揃うと、話さなくてもよくなる。話さなくなると、余計な誤解が増える。矢野はそれを嫌って、わざと独り言で間を埋める。
「羽黒の件、まだ腹の底で燻ってやがる。火の粉がどっかに飛んでねぇか、見て回ってんだ」
「火の粉は、濡れた袖で払えます」
「払った袖は冷える」
「冷えれば、走れます」
「理屈か詩か分かんねぇな、お前の台詞は」
「たぶん、間です」
「は?」
「理屈と詩の間。雨と灯の間。掟と僕の足の間」
「……間だらけだな」
 矢野さんは笑い、雨の線の中で槍袋を持ち直した。

 川べりに出ると、石垣の苔が雨で息をしている。
 橋の下、渦の手前で、灯が細く揺れた。
 そこに、人の気配が三つ。
 知った匂い――無明隊の油。
 「静」
 「はい」
 「先に行っていい」
 「矢野さんは」
 「雷は、遅れて鳴るからな」
 いつものやり取り。
 静は頷いて、雨の縞の中に溶けた。

 橋脚の影にいたのは、若い隊士が二人と、年長のひとり。
 若いふたりは羽黒に可愛がられていた顔ぶれだ。目の下に雨とも涙ともつかない濡れがある。年長は、静を見るなり顔をしかめた。
 「……お前、また一人で出たのか」
 「はい。雨なので」
 「雨なら隊を出せ。傷を重ねる夜だ。お前のやり方は、隊のやり方にない」
 「掟は守ります」
 「言葉は守ってるが、心はどうだ」
 言いかけて、年長は口をつぐんだ。矢野さんが雨の向こうから歩いてきたからだ。
 「隊のやり方は、広がる夜に間に合ってねぇ。だからこそ風が先に走るんだろ」
 江戸っ子の声は、雨を押しのける。
 年長は矢野に視線を移し、肩を落とした。
 「……紙束は」
 矢野が懐を叩く。「預かった。明日、帳場に出す。報告書には“回収”の一文字でいいな」
 「名前は」
 「俺の連名に、空白ひとつ」
 年長は渋い顔をしたが、頷いた。「掟の範囲だ」

 範囲という言葉は、雨の夜によく似合う。
 静は橋脚の冷たさに背を預け、雨の音をひとつ、またひとつ、数えた。
 風が橋の下で回り、提灯の灯が細くなったり太くなったりする。その度に、羽黒の笑顔が一瞬だけ浮かび、また沈んだ。
 「静」
 矢野が小さく呼ぶ。
 「はい」
 「羽黒のことは、風にやる。お前はもう、息を変えろ」
 「はい。変えます」
 息は刃だ。刃は、息で立つ。息が変われば、刃も変わる。
 雨の粒がひとつ、僕の睫毛についた。瞬くと、落ちた。

 裏長屋の表口では、縄を持った隊士たちが準備をしていた。
 静が柱に縫い付けた二人は、まだそこにいる。指で示したほどき方を忘れたらしい。忘れることは、雨の夜の特権だ。
 「ほどけません」と片方が情けない声を出す。
 「息を吐きながら、肘を外に回してください」
 「外って、どっちだ」
 「濡れているほうです」
 「全部濡れてる!」
 「では、僕が」
 静は一歩寄って、指先の角度だけで縫い付けた糸――目に見えない糸――を緩めた。
 男は座ったまま僕を見上げる。その目には、怒りと困惑と、少しの安堵があった。
 「お前……斬らねぇのか」
 「斬らなくて済むなら、そのほうが速いです」
 「速い?」
 「はい。遅れませんから」
 男は唇を噛み、やがて項垂れた。
 雨の音が、室内にまで入ってきたように思えた。

 縄がかかり、裏口が騒がしくなる。
 静は表へ出た。
 雨は少しだけ細くなっている。
 神社の鳥居が濡れて黒く、灯籠の火がその黒に小さく穴を開けていた。
 境内に向かって歩き、手水舎の水を柄杓で一度だけすくう。
 水は冷たい。指先から冷えが肘に上がり、肩に触れて、背へ消える。
 「静」
 背中から矢野の声。
 「はい」
 「手、冷てぇだろ」
 「冷えれば、走れます」
 「それ、さっきも聞いた」
 「理屈は繰り返すと、詩になります」
 「……どっちでもいいけどよ」
 矢野は静の肩に拳を軽く当てた。「腹へった。飯行くぞ」
 「雨が弱まったら」
 「弱まるのを待つのか? 風のくせに」
 「弱まらなくても、行けます」
 「行けるなら行くぞ」
 「はい」
 静たちは同時に歩き出し、同時に止まった。
 境内の隅――祠の屋根の影で、小さな影が縮こまっていたからだ。

 子どもだった。
 七つか八つ。肩に薄い布をかけ、裸足が濡れている。
 目が夜の灯みたいに明るく、口は泣き疲れたように固い。
 「お前、どうした」
 矢野がしゃがみ、怒鳴らない声で訊く。
 子は、静の白装束をまじまじと見た。
 「白い人、見たことある。雷の人といっしょに、うちの前を走った」
 「いつ」
 「火の夜」
 火の夜――羽黒の件の夜だ。
 子は布を握りしめた。「おかあが、帰ってこない」
 矢野は息を飲み、静を見た。
 静は、子の目の高さに腰を落とした。
 「帰ってくる道は、細いです。だから、ここで待っていると、すれ違ってしまう」
 子は首を傾げた。
 「一緒に、太い道に出ましょう」
 「太い道?」
 「雨でも、灯が多い道です」
 子は頷いた。「雷の人も来る?」
 矢野は笑い、「当たりめぇだ」と言った。
 「雷は、濡れても鳴るからな」
 子は泣き笑いになって、静の袖を掴んだ。
 白い袖は濡れて重い。それでも、引く力は軽い。
 「行こう」
 静が立つと、子は小さく跳ねた。
 境内を抜けると、町の灯が広がる。
 太い道は、雨でも明るい。明るい場所では、心が迷っていることに気づきやすい。

 辻の角で、子は立ち止まった。
 大人の影が二つ、向こうから来る。
 母と、隣の店の女将だった。
 互いに互いの名を呼び、子は母の胸へ飛び込む。
「よかったな」
 矢野の声が、雨の音を割ってやさしく落ちた。
 静は立ち居を少し下げ、二人の呼吸の高さが揃うのを待った。
 母は静に一礼し、言った。
「無明の方……ありがとうございます」
「僕ではありません。灯がありましたから」
「灯?」
「はい。雨でも、灯があれば」
 母は不思議そうに笑い、子を抱き直した。
 矢野が静の肩を叩く。「飯」
「はい」
「今度は、飯の灯だ」
「灯は、多いほどいいです」
「そういう意味じゃねぇがな」
 二人で笑った。

 屯所に戻る前に、屋台で温かい汁を取った。
 湯気は雨に弱いが、口の中では強い。
「静」
「はい」
「お前さ、今日ひとりで出たのは、やっぱ羽黒の余燼のせいか?」
「はい。雨だと、匂いが戻ります」
「匂い」
「油と、紙と、火の前の静けさの匂い」
「……分かる気がする」
 矢野は箸を止め、遠くの灯を見た。
「掟は秤だ。って、上は言ったな」
「はい」
「秤は必要だ。でも、風がなきゃ皿が動かねぇ」
「風は皿を揺らします。雷は重石になります」
「俺が重いってか」
「頼もしい、という意味です」
「うまいこと言いやがる」
 皿の味噌が、舌の上で夜の疲れをほどいた。

 屯所に着くと、帳場はまだ起きていた。
 矢野が紙束を差し出し、年長が受け取る。
 「報告は短く」
 年長が言い、矢野さんが頷く。
 「密会、抑止。紙束、回収。縄、施行」
 「署名は」
 「矢野蓮。――空白ひとつ」
 年長は筆を置き、僕を見た。
 「お前はそれでいいのか」
「はい。僕の名は、雨に弱いので」
「雨に」
「すぐ流れます」
 年長は苦笑に似た息を吐いた。「……無明だな」
 「はい」
 「誰も灯らねぇ、って顔をすんな。――灯してるよ」
 「僕ではない灯です」
 「灯は、誰のだっていい」
 年長の声は硬いのに、どこか温かかった。

 廊下に出る。
 雨は、弱くなっていた。
 僕は縁側に座り、袖を解いて絞る。
 白は、雨に弱い。弱いから、洗える。
 名は、雨に弱くない。弱くないから、洗えない。
 だから、持たない。
 縁側の先で、風鈴が一度だけ鳴った。
 矢野がやって来て、隣に腰を下ろす。
 「静」
 「はい」
 「雨が上がりゃ、明るくなる」
 「上がらなくても、明るいところは残ります」
 「理屈」
 「詩です」
 「また間か」
 「はい。雨と灯の間」
 矢野は肩で笑い、静の頭をこつんと小突いた。
 「寝ろ。明日も間に合え」
 「はい」
 「お前の“はい”は、風みてぇに軽い」
 「軽いので、遠くへ行けます」
 「……ほんとに、面倒くせぇ風だ」
 言いつつ、顔は嬉しそうだった。

 部屋に戻って灯を落とす。
 闇は、雨の音を少しだけ残す。
 羽黒の笑い声が、遠くでまた一度だけ灯り、雨で消えた。
 静は目を閉じる。
 息で立つ。
 斬らずに終える。
 名を置いていく。
 ――明日も、間に合うように。

 外で、雷が遠く、細く鳴った。
 雷は濡れても鳴る。
 だから風は、安心して走れる。
 雨と灯の間で、無明は静かに、底を流れていく。

     ※

 雨が上がると、京は急に音を取り戻した。
 軒先の桶があふれ、瓦の隙間を抜ける風が、喉を鳴らすように通り過ぎる。夜の湿りを含んだ町の匂いは、鉄と花が混じった味をしている。その匂いの底に、昨夜回収した紙束の残り香がまだあった。焦げた糊の甘さ、墨の湿気、そして血ではない何か――約束のにおいだ。

 矢野は朝から帳場に籠もり、報告の仕舞いをつけていた。
 静は縁側で湯を飲み、濡れた白装束の袖を絞る。矢野が顔を上げた。

 「静、昨夜の紙、上がもう調べ始めたぞ」

 「早いですね」と静。

 「掟の“速さ”を、自分で試してやがる。――上の言い分だとよ、『京の西、祇園筋の座敷ひとつ。そこが根だ』」

 「座敷……迷路のような場所ですか」

 「そう。通りも裏も廊下でつながってて、誰がどこで座ってるか分からねぇ。お偉えの密談も、遊び人の博打も、あそこで混ざる」

 「つまり“明”がない」

 「うまいこと言うじゃねぇか。――で、紙束の主はそこにいるらしい」

 静は頷いた。「なら、風で行きます」

 矢野は苦笑して槍袋を背負う。「勝手な風だな。……よし、一緒に行くぞ。雷が鳴る前に風が走る。それで帳尻合わせだ」

 ***

 祇園の座敷は、昼でも薄暗かった。
 紅殻格子の外は夏の光が照っているのに、畳の上は常夜灯のように橙色。花の香が濃く、空気がねっとりと肌にまとわりつく。廊下の向こうから三味線が流れ、速くも遅くもない調べが、誰かの“間合い”を測っている。

 「目は合わせるなよ」と矢野。「ここは目で値踏みしてくる」

 「払うものがないので、払わずに帰ります」と静。

 「払う代わりに風を残す、ってか。……それ、ここじゃ嫌われるぜ」

 「嫌われるほど残ります」

 嘆息する矢野を伴い、静は案内に従って座敷に上がった。居並ぶのは無明隊の上役三名と町方の役人が一人。中央の座には隊長が煙管をくゆらせ、手元の紙束を二つに分けている。片方は昨夜、静が回収したもの。もう片方は、それを写した新しい紙だ。

 「昨夜はよくやった」と隊長。声は低く湿っていた。「だが、この紙束は妙だ。表向きは手形、裏に“口符”がある。読めるか」

 静は膝を進め、墨のにじみの下に隠された花印を見抜いた。「祇園の花印。裏帳簿の目印です」

 「そうだ。つまり、我らの誰かが祇園と繋がっていた証左になる」
 隊長の目が細くなる。「羽黒は独りではない。まだ“影”がいる。――お前たちは奥へ入れ。“迷路”の先で見たものを、斬れ」

 「誰を、ですか」と静は問う。
 「名は問うな」――掟の声だった。速く、短く、譲らず。

 ***

 座敷の奥は、確かに迷路だった。
 廊下が何重にも折れ、紙障子の先がまた別の座敷に続く。人の声と三味線が幾層にも重なり、表と裏の境が消える。足音は畳に吸われ、消えたはずの音だけが耳の奥に残る。

 「静、もし何かあったら――」矢野が言いかける。

 「斬りません」と静は先回りで返した。

 「だろうな。言うと思ったよ」

 矢野の背には雷が溜まり、静の袖には風が宿る。静は白装束の襟を軽く正し、呼吸をひとつ深く置いた。風は廊下の角で曲がり、誰かの吐息を拾っては消える。そのとき、障子の向こうから声。

 「入れ。話は聞いている」

 若い男がひとり、薄墨の羽織で座していた。涼やかな顔。腰には無明隊の印。静は一歩、正面に出る。

 「あなたが“影”ですね」

 男は口元だけで笑った。「影など誰にでもある。お前もだ。――掟の犬にしては、詩人の顔だな」

 「犬ではありません。風です」と静。

「風も命令で吹くのか」

「命令があれば、その方向に。けれど、吹き方は選びます」


 男の笑みが薄くなる。「羽黒を消したのもお前だな」

 「消してはいません。送りました」

 「同じことだ」

 「違います。跡が残るのが“消す”。風が残らないのが“送る”」

 「――風が語るな」

 袖の影で、刃が閃いた。扇のように折り畳まれた短剣が、障子の白を裂く。矢野が半歩沈むより先に、静の体が消え、畳の目と目の間を滑った。

 鞘の角が、男の膝にふれる。
 膝が鳴る。
 鳴った音の中で、男の刃は上へ――だが袖の布が刃を包み、軌道を変えさせる。白布の撓みが刃をくわえ、刃は牙を抜かれた犬のように沈黙した。

 「掟の速さは、命令の速さではありません」と静。

 「なら、なんだ」男の息が乱れる。

 「迷いを捨てる速さです」

 木目がその言葉を吸い込む。男はよろめき、柱に寄る。矢野はその腕を掴み、短剣を払い落とした。

 「話してもらおう。羽黒の次は、お前か」

 男の瞳に、揺れる灯の赤が刺さる。「俺は……掟を守っただけだ……速さが命だろう……?」

 「命より速く走る掟なんざ、誰が決めた」と矢野。雷のように低い。

 矢野は男の肩をねじ、座敷の外へ引きずり出す。「静、こいつは外に出す。報告は“誤報”にしとく」

 「名は空白で」と静。

 男は微かに笑った。「空白……いい名だな……」

 笑みは短く、座敷は元の静けさに戻った。三味線だけが、知らぬふりで弦を撫でている。

 ***

 外に出ると、夕立の名残がふたたび細く降り始めていた。祇園の灯が濡れ、街の端が薄く霞む。矢野は槍袋を肩に掛け直し、空を見上げる。

 「静、迷路を抜けるのが早ぇな」

 「風は壁を探さないので」と静。

 「掟の壁はどうだ」

 静はわずかに間を置いた。「いま、見つけました」

 「壊すか?」

 「風では、壊せません」

 「でも吹ける」

 「ええ。吹けば、音が残ります」

 「それでいい」

 矢野は笑い、頬を伝う雨粒を指で払った。遠くで雷が小さく鳴る。濡れても、雷は鳴る。だから風は、安心して走れる。

 ***

 夜更け、屯所に戻ると隊長が待っていた。

 「祇園の件、聞いた」

 「掟に背いた者は」と矢野。

 「処理した。報告は“誤報”にする。――静、お前の名は、やはり無い」

 静は軽く頭を垂れる。「名がないほうが、速く動けます」

 隊長は片口で笑った。「……お前、羽黒に似てきたな」

 「なら、風向きを変えます」と静。

 「好きにしろ」

 灰皿に押しつけられた火は、音もなく消えた。煙だけが雨の匂いを連れてくる。

 廊下へ戻ると矢野が待っていた。

 「終わったか」

「ええ。掟の“速さ”は、まだ残っていました」と静。

「次は?」

「風を、少し遅くします。雨上がりは、風が湿るので」

「湿った風、ね。そいつは雷も優しく鳴る」


 矢野は肩を軽く叩いた。「飯だ。祇園じゃないぞ」

 「風が吹くところなら、どこでも」

 「なら、屋根の下だ」

 二人は同時に笑い、同じ歩幅で暗がりへ消えた。白と紅の房が、灯の手前で短く揺れる。

 ――その夜遅く、京の北で小さな火の手が上がる。
 それが後に、池田屋の夜へと繋がる火種だと、まだ誰も知らない。ただ、雨上がりの風は少し湿り、灯は柔らかく揺れ、風と雷の歩幅は変わらず並んでいた。