夜が、冷えていた。
 風のない京の夜は、息をするたびに空気が揺れない。
 提灯の火が、薄い水の中で燃えているように見えた。
 静は廊下に立ち、遠くの号鼓を聞いていた。
 夜番の交代を告げる音。その後に続くのは、誰かが歩く音。
 その歩みが自分を呼ぶものかどうか――彼にはもう、予感で分かっていた。

 「沖田、呼び出しだ」
 門番の声は低かった。
 矢野蓮が背後から現れ、肩を軽く叩く。
 「静、嫌な夜だな。風が動かねぇ」
 「風は、命令の前で止まります」
 「上の空気が淀んでるだけだ」
 「ええ。でも、淀んだ空気は燃えやすい」
 矢野が苦笑した。「お前の言葉はいつも火に油を注ぐんだか、消すんだか分かんねぇ」
 「僕も、まだ見極めてるところです」

 静は、隊長室の襖を静かに開いた。
 灯が一つ、低く燃えている。
 机の上には筆と紙と短刀が置かれていた。
 その順番が、すでに答えを示していた。

 「入れ」
 隊長の声は、風のない音だった。感情の揺らぎがない。
 「命令を伝える。羽黒、内通の疑いあり」
 「羽黒……」矢野が呟く。「証は?」
 「薄い。しかし、火の手が上がる前に火種を摘め。掟の文だ」
 「掟だぁ? 人の首を落とすのに、文一枚か」
 矢野が一歩踏み込む。
 隊長は目を上げず、「筋を問うな。戦に筋はない。あるのは秤だ。どちらの損が重いか、それだけだ」と淡々と答えた。
 「じゃあ俺らは、その秤の皿に乗る米粒かよ」
 「米も腐れば捨てる」

 沈黙。
 室の空気が音を失う。
 静は一歩前に出た。

 「……僕が行きます」
 「静!」矢野が制する。「待て、話も聞かねぇで首を刈るのか?」
 静は彼を見た。
 「行きます。掟を守るためではなく、掟が壊れぬうちに終わらせるために」
 その声には、感情の影がなかった。
 隊長は小さく頷く。「風雷小隊、先鋒。任を命ず」

 廊下に出ると、矢野が袖を掴んだ。
 「静。おめぇの刃は冷たすぎるって、いつか言われるぞ」
 静は振り向かずに答える。
 「冷たく見えるなら、それは余計な火を持たないからです。燃えれば影が長くなる」
 矢野は舌打ちし、「なら俺はお前の影を短くする。側で雷鳴らしてやる」
 「お願いします」
 静の声は穏やかだった。雷の音は、風に頼らずとも届く。

 ***

 羽黒は、明るい男だった。
 話がうまく、笑い方が人懐こい。
 誰にでも声をかけ、誰にでも分け隔てなく接した。
 雨の日は率先して炊き出しを手伝い、夜警の最中に眠る者がいれば肩に上衣を掛けた。
 そんな男に疑いがかかるというだけで、屯所の空気が冷えた。
 信じたくない者が多すぎて、誰も声を出せなくなる――そんな夜が続いていた。

 夜半。
 静は納戸の灯をひとつ灯し、羽黒を呼んだ。
 「夜にすまない。少し、話を」
 「おう、なんだ静。珍しいな、お前が人を呼ぶなんて」
 静は入り口に手を添えた。「誰にも聞かれないように」
 「……なんだ、怖ぇ話か」
 「ええ。火の話です」

 羽黒の顔が引き締まる。
 「内通の疑いが立ちました」
 「俺に、か?」
 「はい」
 羽黒は息を呑み、そして――笑った。
 「馬鹿言え。俺が何を漏らした。隊の飯の味か? それともお前の無口な癖でも報告されたか?」
 「証はありません。でも、火の手はあなたの名札に向いています」
 「信じるのか」
 「信じたい」
 「けど、掟がある」
 静は黙って頷いた。

 羽黒は、灯に照らされた静の目を覗き込む。
 「お前、掟の中にいるくせに、掟の外の目をしてるな」
 「外から見ないと、形が分からないので」
 「形が分かってどうする」
 「壊れそうな時に、手を添えます」
 羽黒は笑った。「優しいな」
 「優しくなければ、速く動けません」
 「皮肉だな」
 「ええ。速さは優しさの裏返しです」

 静は刀を抜かなかった。
 鞘ごと、床に置いた。
 羽黒の目が揺れる。
 「抜かねぇのか」
 「抜けば、掟は守られます。あなたは倒れ、隊は続く。でも――」
 静は一歩近づいた。灯が二人の間で揺れる。
 「僕は、名を残さず、あなたを送る」
 「送る……?」
「はい。掟より先に、あなたを見ます」

 羽黒の喉が鳴った。
 やがて、口角が上がる。
 「無明だな」
 「はい」
 「誰も灯らねぇ」
 「だからこそ、灯を拾う人が必要です」
 「それが、お前か」
 静は答えず、ただまっすぐ見つめた。

 短い音がした。
 床板が一度だけ鳴った。
 灯が揺れ、羽黒の影が細く伸びる。
 静の手は震えなかった。
 刀を拭かず、鞘に納めた。血の跡は板の木目に溶けていく。
 香の煙だけが、細く立ちのぼった。

 ***

 廊下には、矢野がいた。
 壁に背を預け、腕を組んでいた。
 「終わったか」
 「はい。終わらせました」
 「……そうか」
 矢野は何も聞かなかった。
 静も、何も言わなかった。
 ただ、二人の間を夜風が通り抜けた。
 その風の冷たさに、どちらも動じなかった。

 翌朝、羽黒の名は報告書から消えた。
 「体調不良による除隊」――それだけが残る。
 代筆の字は粗く、筆圧が強すぎた。
 矢野は紙を見つめながら、低く呟いた。
 「風の名がない報告書ってのは、どうにも落ち着かねぇ」
 「風は、残りません」
 「残らねぇが、感じる。お前の風は、冷てぇけど確かだ」
 「ありがとうございます」
 矢野が顔を上げ、「褒めちゃいねぇ」と続けた。
 「掟を守るための刃より、掟を壊さねぇための刃のほうが、よっぽど重てぇんだぞ」
 「……分かっています」
 「分かってねぇ顔だ」
 「はい。まだ、風上が見えません」
 矢野は苦笑し、槍の石突きを軽く床に打ちつけた。
 「ま、いいさ。風が止まれば雷も鳴らねぇ。お前が吹いてくれるなら、俺は鳴らす」

 ***

 夜。静は一人で庭に立った。
 月が低く、松の影が地面を這っている。
 刀の柄に指を添え、鞘を軽く引く。音はしない。
 音を立てないことが、彼にとっての“祈り”だった。

 掟を守る手でありながら、掟に名を刻まぬ影。
 人を斬るためではなく、掟が壊れる前に終わらせるための刃。
 その手を恐れる者は多く、しかし誰も名を呼ばない。

 ただひとり――矢野蓮だけが、その影の輪郭を、誰より濃く覚えていた。
 矢野の声が背から届く。
 「静」
 「はい」
 「お前、今日の風は優しいな」
 「掟を一人、見送った風です」
 矢野は笑い、しばし黙った。
 「……そいつ、救われたと思うか?」
 「救いは分かりません。でも、痛みは速く過ぎました」
 「お前はほんと、無明だな。光らねぇのに、照らす」
 「矢野さんが鳴れば、少しは光ります」
 「おう。雷鳴は風がいねぇと鳴らねぇからな」

 矢野の言葉に、静がわずかに笑った。
 その笑みが、夜の月よりも淡く、美しかった。

 灯が庭の隅で揺れた。
 掟が人を律し、人が掟を生かす。
 その境に立つ者の姿は、風よりも儚い。
 静は目を閉じ、息を吐いた。
 息の音が風に混ざり、夜がわずかに明るくなった。

 風は、まだ吹いている。
 たとえ名を残さずとも――
 その音は、確かに矢野の胸に届いていた。