雨は降っていなかった。だが、京の夜は濡れていた。
風が湿り、石畳が黒く光り、行燈の油がほのかに焦げる。夜更けの空は曇り、雲の裏で月が泳いでいる。沈んだ灯が、瓦と瓦の隙間で揺れた。
無明隊の屯所に戻ると、廊下の板が湿気で鳴った。矢野蓮が槍の柄を軽く叩く。
「静、また呼び出しだ。夜番交替の直後ってのが、きな臭ぇ」
「掟の三条が、また試される夜ですね」
矢野は苦笑する。「功は譲れ、命は捨てるな、光は持ち帰るな、だろ。どいつが考えたんだか」
静は肩をすくめた。「光を持ち帰ると、闇が怒ります」
「理屈の風が吹いたな」
「矢野さんの雷で、雲を割ってください」
矢野は槍を肩に担ぎ、笑った。その笑いの奥に、わずかに影があった。笑いながらも、目の奥だけが夜のように静かだった。
呼び出しに現れたのは、副長格の男。名は呼ばれない。呼称はただ、「筆頭」。
筆頭の声は、灯よりも冷たかった。
「闇討ちだ。報復の任だ」
「対象は?」
「先日、粛清命令で逃げた浪士。別組の小隊を潰し、民家に火を放った」
「火を……」矢野の声が濁る。
筆頭は淡々と続ける。「命は一つ。生け捕り不要。夜明け前に済ませろ」
掟の言葉には情がない。静は頷かず、ただ呼吸を整えた。吸い込んだ息の中に、すでに答えがあった。
屯所を出ると、空気が冷たい。夏の終わりと秋の入り口。風は柔らかく、夜虫が鳴く。矢野が口笛を鳴らした。
「闇討ちってのは、性に合わねぇな。雷は堂々と鳴るもんだ」
「風も、正面から吹くほうが速いです」
「だろうな。でも掟は掟だ」
「掟があるから、風は形を持てます」
「また理屈か。けど、お前の理屈は風通しがいい」
矢野は笑い、槍の布袋を外した。鉄の穂先が月光を弾く。
町外れの辻に、人影が三つあった。一人は浪士、残りは護衛か、傭われた連れ。松明の炎が横顔を赤く撫でる。酔っていない。むしろ覚悟を決めた顔。
「無明の犬どもか」浪士の声が夜気を裂いた。「仲間を殺しておいて、今度は俺の番か」
静は一歩出て、声を低くした。「殺しには来ていません。話を終わらせに来ました」
「話は刀でだ!」
浪士の刃が光る。夜風がそれを撫でた。風のほうが、速い。
静の姿が一瞬、消えた。
次の瞬間、浪士の刀が宙を舞い、月光を掠めた。
「抜きが遅れています」
浪士の右手首が痺れ、刀が石畳に落ちる。静の鞘がそこに軽く触れる。
「拾うなら、鞘からに」
刃は抜かない。静の声は、夜よりも静かだった。
護衛の一人がその様子を見て震えた。「化け物……!」
「違います。僕は人です。だから、斬らずに済むうちは人でいたい」
「貴様ぁ!」
もう一人が叫び、突っ込む。矢野の槍が雷鳴のように唸った。
穂先は相手の肩すれすれで止まり、柄尻で腹を打つ。鈍い音。呼吸が潰れ、男は膝をついた。
「殺してねぇぞ、静」
「ありがとうございます」
「お前の理屈、だんだんうつるな」
「それは風邪です」
「上等」矢野は笑った。
浪士は地に膝をつきながら、なお睨みつけていた。
「掟の下で、何を信じてる」
静は少し考え、「間に合うこと、です」と答えた。
「誰かが傷つく前に、止められたら、それでいい」
「止めて……何が変わる」浪士の声は掠れる。
「止まる風も、時に命を繋ぎます」
浪士が目を見開いた。その瞬間、ヒュ、と短い音。
矢が飛んだ。
浪士の胸に突き立つ。誰も弓を構えていない。川向こう、闇の奥。別組の影が動いた。
「っ……!」浪士が崩れ、血が石を染めた。
矢野が叫ぶ。「てめぇら、命令は生け捕り不要だが、殺せとは言ってねぇだろ!」
返事はない。闇の中で、ひとつ旗が揺れた。掟は、風よりも冷たく吹いていた。
浪士の体が静の足元で止まる。目は開いたまま。静は膝をつき、手を伸ばした。まだ温度があった。
「矢野さん……間に合いませんでした」
「静、誰の矢だ」
「……無明です」
言葉が重かった。
「掟が光を持たないのは、こういう意味ですかね」
矢野は空を仰ぎ、「無明――明けぬとは、よく言ったもんだ」と低く呟いた。
静は浪士の手をそっと閉じる。
「この人も、きっと誰かを守ろうとした」
「守る相手を間違えたんだ」
「僕も、間違えるかもしれません」
矢野が槍を担ぎ直し、「間違えたら雷で叩く」と笑った。
静も笑おうとしたが、唇が震えた。
帰途。京の風が湿っている。
小雨が降り出し、灯が滲む。
静は白装束の袖を濡らしながら歩いた。
町家の軒先で、猫が鳴いた。
「矢野さん、猫は掟を知ってると思いますか」
「なんの話だ」
「生き延びるために、止まる場所を選ぶんです。風もそうかもしれません」
矢野は苦笑した。「猫も風も、お前も、つかまらねぇな」
屯所に戻ると、帳場の灯がまだ消えていなかった。
報告書に淡々と文字が並ぶ。――敵一名、討伐。味方負傷なし。任務完遂。
静の名は、どこにもない。筆頭が静かに言った。
「風雷、任務完了。掟は守られた」
静は顔を上げる。「筆頭。掟は誰を守るためのものですか」
筆頭は筆を止めず、「掟に“誰か”はない。掟は掟だ」と答えた。
「では、風は吹けません」
「風が止めば、闇も止まる」筆頭の声は、鉄のように冷たかった。
静は言葉を飲み込み、廊下を出た。
月が雲の切れ間から顔を出す。
矢野が柱に背を預けていた。
「風が止まると、どうなる?」
「雷も鳴らねぇ」
「困りますね」
「困る前に突くのが俺だ」
「では、僕は吹きます」
矢野は笑った。「風と雷、今日も間に合ってねぇな」
「はい。けれど、遅れても届く風が、あってもいい」
静は庭に出て、夜風を受けた。
灯が彼の頬を照らす。
誰にも見えないほど薄い笑み。
「……矢野さん」
「ん?」
「もし僕が風じゃなくなったら、何になりますか」
矢野は少し考え、「雨だな」と言った。
「理由を聞いても?」
「風は通り過ぎる。雨は残る。……たまには、誰かの肩を濡らしてやれ」
静は目を伏せて笑った。「それは、優しさですね」
「違ぇねぇ。お前に似てる」
その夜、静は中庭で一人、濡れた石畳を見つめていた。
浪士の手の温もりがまだ掌に残る。
風が吹き抜け、行燈の火がわずかに揺れた。
矢野が掛けた紅の房が、月明かりで細く光る。
音のない夜に、ひとつだけ音があった。
――風鈴が鳴った。
静は目を閉じた。
風は掟よりも静かに、闇の底を渡っていく。
京の夜は深く、だがその深さの中で、確かにひとつの呼吸が続いていた。
人を斬らず、人を守るための呼吸。
名のない風のように。
無明の夜は、まだ終わらない。
風と雷は、掟の闇を抜けながら、
誰にも見えぬ場所で、今日も“間に合って”いた。
風が湿り、石畳が黒く光り、行燈の油がほのかに焦げる。夜更けの空は曇り、雲の裏で月が泳いでいる。沈んだ灯が、瓦と瓦の隙間で揺れた。
無明隊の屯所に戻ると、廊下の板が湿気で鳴った。矢野蓮が槍の柄を軽く叩く。
「静、また呼び出しだ。夜番交替の直後ってのが、きな臭ぇ」
「掟の三条が、また試される夜ですね」
矢野は苦笑する。「功は譲れ、命は捨てるな、光は持ち帰るな、だろ。どいつが考えたんだか」
静は肩をすくめた。「光を持ち帰ると、闇が怒ります」
「理屈の風が吹いたな」
「矢野さんの雷で、雲を割ってください」
矢野は槍を肩に担ぎ、笑った。その笑いの奥に、わずかに影があった。笑いながらも、目の奥だけが夜のように静かだった。
呼び出しに現れたのは、副長格の男。名は呼ばれない。呼称はただ、「筆頭」。
筆頭の声は、灯よりも冷たかった。
「闇討ちだ。報復の任だ」
「対象は?」
「先日、粛清命令で逃げた浪士。別組の小隊を潰し、民家に火を放った」
「火を……」矢野の声が濁る。
筆頭は淡々と続ける。「命は一つ。生け捕り不要。夜明け前に済ませろ」
掟の言葉には情がない。静は頷かず、ただ呼吸を整えた。吸い込んだ息の中に、すでに答えがあった。
屯所を出ると、空気が冷たい。夏の終わりと秋の入り口。風は柔らかく、夜虫が鳴く。矢野が口笛を鳴らした。
「闇討ちってのは、性に合わねぇな。雷は堂々と鳴るもんだ」
「風も、正面から吹くほうが速いです」
「だろうな。でも掟は掟だ」
「掟があるから、風は形を持てます」
「また理屈か。けど、お前の理屈は風通しがいい」
矢野は笑い、槍の布袋を外した。鉄の穂先が月光を弾く。
町外れの辻に、人影が三つあった。一人は浪士、残りは護衛か、傭われた連れ。松明の炎が横顔を赤く撫でる。酔っていない。むしろ覚悟を決めた顔。
「無明の犬どもか」浪士の声が夜気を裂いた。「仲間を殺しておいて、今度は俺の番か」
静は一歩出て、声を低くした。「殺しには来ていません。話を終わらせに来ました」
「話は刀でだ!」
浪士の刃が光る。夜風がそれを撫でた。風のほうが、速い。
静の姿が一瞬、消えた。
次の瞬間、浪士の刀が宙を舞い、月光を掠めた。
「抜きが遅れています」
浪士の右手首が痺れ、刀が石畳に落ちる。静の鞘がそこに軽く触れる。
「拾うなら、鞘からに」
刃は抜かない。静の声は、夜よりも静かだった。
護衛の一人がその様子を見て震えた。「化け物……!」
「違います。僕は人です。だから、斬らずに済むうちは人でいたい」
「貴様ぁ!」
もう一人が叫び、突っ込む。矢野の槍が雷鳴のように唸った。
穂先は相手の肩すれすれで止まり、柄尻で腹を打つ。鈍い音。呼吸が潰れ、男は膝をついた。
「殺してねぇぞ、静」
「ありがとうございます」
「お前の理屈、だんだんうつるな」
「それは風邪です」
「上等」矢野は笑った。
浪士は地に膝をつきながら、なお睨みつけていた。
「掟の下で、何を信じてる」
静は少し考え、「間に合うこと、です」と答えた。
「誰かが傷つく前に、止められたら、それでいい」
「止めて……何が変わる」浪士の声は掠れる。
「止まる風も、時に命を繋ぎます」
浪士が目を見開いた。その瞬間、ヒュ、と短い音。
矢が飛んだ。
浪士の胸に突き立つ。誰も弓を構えていない。川向こう、闇の奥。別組の影が動いた。
「っ……!」浪士が崩れ、血が石を染めた。
矢野が叫ぶ。「てめぇら、命令は生け捕り不要だが、殺せとは言ってねぇだろ!」
返事はない。闇の中で、ひとつ旗が揺れた。掟は、風よりも冷たく吹いていた。
浪士の体が静の足元で止まる。目は開いたまま。静は膝をつき、手を伸ばした。まだ温度があった。
「矢野さん……間に合いませんでした」
「静、誰の矢だ」
「……無明です」
言葉が重かった。
「掟が光を持たないのは、こういう意味ですかね」
矢野は空を仰ぎ、「無明――明けぬとは、よく言ったもんだ」と低く呟いた。
静は浪士の手をそっと閉じる。
「この人も、きっと誰かを守ろうとした」
「守る相手を間違えたんだ」
「僕も、間違えるかもしれません」
矢野が槍を担ぎ直し、「間違えたら雷で叩く」と笑った。
静も笑おうとしたが、唇が震えた。
帰途。京の風が湿っている。
小雨が降り出し、灯が滲む。
静は白装束の袖を濡らしながら歩いた。
町家の軒先で、猫が鳴いた。
「矢野さん、猫は掟を知ってると思いますか」
「なんの話だ」
「生き延びるために、止まる場所を選ぶんです。風もそうかもしれません」
矢野は苦笑した。「猫も風も、お前も、つかまらねぇな」
屯所に戻ると、帳場の灯がまだ消えていなかった。
報告書に淡々と文字が並ぶ。――敵一名、討伐。味方負傷なし。任務完遂。
静の名は、どこにもない。筆頭が静かに言った。
「風雷、任務完了。掟は守られた」
静は顔を上げる。「筆頭。掟は誰を守るためのものですか」
筆頭は筆を止めず、「掟に“誰か”はない。掟は掟だ」と答えた。
「では、風は吹けません」
「風が止めば、闇も止まる」筆頭の声は、鉄のように冷たかった。
静は言葉を飲み込み、廊下を出た。
月が雲の切れ間から顔を出す。
矢野が柱に背を預けていた。
「風が止まると、どうなる?」
「雷も鳴らねぇ」
「困りますね」
「困る前に突くのが俺だ」
「では、僕は吹きます」
矢野は笑った。「風と雷、今日も間に合ってねぇな」
「はい。けれど、遅れても届く風が、あってもいい」
静は庭に出て、夜風を受けた。
灯が彼の頬を照らす。
誰にも見えないほど薄い笑み。
「……矢野さん」
「ん?」
「もし僕が風じゃなくなったら、何になりますか」
矢野は少し考え、「雨だな」と言った。
「理由を聞いても?」
「風は通り過ぎる。雨は残る。……たまには、誰かの肩を濡らしてやれ」
静は目を伏せて笑った。「それは、優しさですね」
「違ぇねぇ。お前に似てる」
その夜、静は中庭で一人、濡れた石畳を見つめていた。
浪士の手の温もりがまだ掌に残る。
風が吹き抜け、行燈の火がわずかに揺れた。
矢野が掛けた紅の房が、月明かりで細く光る。
音のない夜に、ひとつだけ音があった。
――風鈴が鳴った。
静は目を閉じた。
風は掟よりも静かに、闇の底を渡っていく。
京の夜は深く、だがその深さの中で、確かにひとつの呼吸が続いていた。
人を斬らず、人を守るための呼吸。
名のない風のように。
無明の夜は、まだ終わらない。
風と雷は、掟の闇を抜けながら、
誰にも見えぬ場所で、今日も“間に合って”いた。



