夜の京は、江戸よりも“深い”。
 音が沈み、光が沈み、人の息まで沈む。上弦の月が瓦の峰でかすかに刃を光らせ、提灯の灯は風の指で細くされる。風の継ぎ目で、一度だけ金属の歯音が鳴った。

 「辻斬り、三名。酔っているが、腕は悪くねぇ」
 伝令の短い声が門を抜け、無明隊の夜番詰めで淡い灯が揺れた。
 静は筆先を紙から離し、墨のしずくが丸く落ちる前に文机を閉じた。矢野は腰の槍袋を片肩に担ぎ上げ、紐を二度、指の腹で確かめる。

 「静、行くぞ。灯が消えちまう」
 静は頷く。「矢野さんは左から。僕は正面で音を削ります」
 矢野が口の端を上げる。「削る、ねぇ。相変わらず風通しのいい言葉だ」

 京の町は、夜になると表情を封じる。
 昼は祇園囃子の名残が軒下に薄く貼り付くが、夜は路地が呼吸をやめる。障子は閉ざされ、人の気配は畳の下に沈み、残るのは灯と風だけ。
 その“間”を裂くように、酔いの混じった怒声が路地を蹴った。
 「どけぇ! この京は俺の通り道だ!」
 刃が抜け、灯が弾かれ、光そのものが裂けて細くなる。悲鳴が散り、足袋の音が石に跳ね、家々の陰がさらに濃くなる。

 浪人は三。肩の揺れが三様で、酔いの深さも三つ。いずれも「抜いた」という事実だけで体面を支えている。人はその一歩手前でいちばん危うい――静はそれをよく知っていた。

 静は提灯の被膜の向こうに立ち、五歩の距離を測る。
 上弦の月が瓦の筋を這い、石畳の細かい凹凸が足裏に言葉のように並ぶ。踏む音を消すかどうかではない。どの音だけを残すか――風のように、音を“選ぶ”。

 一歩目――耳たぶを撫でるほどのかすかな摺り。
 二歩目――地面の影の縁を踏み、影の形を崩す。
 三歩目――灯が細り、視線が灯へ一拍流れる。
 四歩目――その流れの帰り道に身を重ねる。
 五歩目――手首の腱が、そこにある。

 鞘の角で、静は腱を正確に叩いた。余計な痛みを与えず、角度だけを返す。それで十分だった。
 刀が手から離れ、金属音が遅れて鳴る。浪人の喉が音になる前に、風が次の音を連れていく。

 二人目が動く。酒の匂いが息の熱と混ざる。
 矢野がそこへ滑り込み、槍の柄で腹を押した。突きではない、押し――肺の空気がひと息で抜け、膝が意志より先に折れる。
 矢野は肩で呼吸を整え、声を張る。
 「お前ら、刀より酒が勝ってんぞ!」
 笑いながらも、穂先は誰にも向かない。ただ倒れた者と通行の間に風の道を作るように、黙って構えている。

 三人目は一瞬、刃よりも逃げを選んだ。
 そこを追わないのが静だった。逃走線を見て、その先に空く穴を読む。追うのではなく、道を作る。
 路地に転がった小石の一つを足の甲で弾き、風の角度で滑らせる。足裏が取られ、体が半歩だけずれる。ずれた支点に衣紋紐を拾い、地面の柔らかい場所へ転がす。乾いた音がして、竹の小枝が折れるように事は収まった。

 矢野が縄を投げ、手早く縛めを作る。
 「縛るぞ。……おい、今の見たか」
 周囲の町人は口を開けたまま、静の足先を見ている。
 「静の足が先に喋るんだよ」
 雷みたいな声が、路地の温度を人の温度へ戻した。

 「名を名乗れ!」と誰かが叫んだ。
 静は浅く会釈する。「職掌の者です」
 それだけ。名は、要らない。名を出せば風が止まる。
 町人の一人が涙を滲ませて手を合わせた。
 静は微笑まず、代わりに目だけで礼を返す。言葉にしない礼は、風と同じ速さで伝わる。

 縄をかけ終えた矢野は、酔漢らを警邏へ引き渡しながら言う。
 「怪我は軽い。酒が抜けりゃ反省も早ぇ。夜は酒より灯に気ぃ遣え」
 軽口の下で、穂先は最後まで誰も傷つけない場所にあった。

 辻の灯は再び燃え、紙の肌に火が一度大きく揺れて、夜の温度がほんの少し戻る。
 静は刀を下げ、半分の月を仰いだ。
 「半分、残る光は誰のものですかね」
 矢野が笑って肩を並べる。「お前のだろ。俺のは音で残す」
 「では、今夜は半分ずつ」
 「上等。行くぞ、風。屯所の飯が冷める」
 「はい。雷の鳴るうちに」

 ***

 屯所に戻れば、報告の刻限。帳場の灯に筆の音が並ぶ。
 “命令は速やかに、報告は短く、功は譲れ”――三条の掟が板戸の裏に淡く影を作っている。
 矢野は墨を切り、さらさらと書く。
 「先鋒突入、敵三制圧、負傷軽微」
 それだけ。紙の余白は広く、そこに静の名はない。

 「おい矢野、連名はどうした」
 帳場の年長組が眉をひそめる。「片手じゃねぇだろう。二人で行ったんだろ」
 矢野は肩を竦めた。「掟の範囲です」
 「何がだ」声に湿りが乗る。
 空気がさざめく前に、奥の間から乾いた声が落ちた。隊長の声だ。
 「掟の範囲だ。功は譲る者に集まる。譲らん者は、その重みに沈む」
 言葉は短いが、秤の皿のように静かな重さがあった。
 帳場の空気が凪ぎ、筆の音が戻る。矢野は筆を置き、軽く礼。静は半歩、影へ退いた。名を持たぬ者の立ち位置は、たいてい風下にある。だが風下は悪くない。風は、下から吹き上がることもできる。

 廊下に出ると、灯の列が遠くまで伸び、雨戸の隙から虫の音が滲んでいた。
 静が口を開く。「矢野さん、名は置いてきました」
 矢野は鼻を鳴らす。「置き忘れじゃねぇ。最初から持ってねぇんだ」
 「はい」
「持たねぇ奴は失くさねぇ。けど、拾われもしねぇ」
 「拾われなくていいです。風は、吹かれればそれで」
 矢野は肩で笑って、静の肩に軽くぶつかった。「やっぱお前は風だな」
 静は少しだけ笑った。夜の灯より柔らかい笑みだった。

 外庭の向こう、細い川が瓦の隙間の星を奪い合いながら流れる。
 京の夜は深く、音の底が深い。無明――明けぬ光。その名のとおり、光は闇の底を細く流れている。

 ***

 更けてから、静は一人で中庭に立った。
 砂利に月の粉が降り、白装束の裾が風を掬って微かに揺れる。
 戦いの夜の記憶は、静の体には残らない。風が通った痕だけが残り、痕は形を持たずに確かだ。跡をつけずに跡を残す――風はいつだって矛盾を生きる、と静は思う。

 廊下の先で、矢野の笑い声が小さく転がった。
 「おい、静――寝るぞ。明日も早ぇ」
 静は振り向かずに答える。「はい。風上に向かいます」
 「風上?」
 「新しい夜風を吸いに」
 矢野の苦笑が闇に溶ける。「寝言でも理屈言うのかよ、風の坊主」

 静は灯を吹き消した。闇が広がる。
 けれど、そこには不思議な安心があった。闇は光を試す場所だ。光が勝てば朝になる。闇が勝てば、名を残さずに済む。静にとっては、どちらでもいい。どちらでも“間に合えば”いい。

 廊下に戻る途中、風鈴がひとつ鳴った。ほんのかすかな音。
 矢野が掛けた紅い房が月明かりで揺れ、音のない夜に、確かに一音だけが落ちる。
 それで十分だった。

 無明の夜は、まだ始まったばかり。
 風と雷は、闇の底を見えないままに流れ、誰にも見えない戦いのために、今夜も“間に合って”いた。