風向きが変わる時刻は、地面が先に知る。
 日向と日陰の縁で乾いた土の粒がほどけ、舞い、踊り方をわずかに変える。砂は軽く、埃は重い。馬の蹄は楕円の跡を残し、荷車の車輪は乾いた掌の線のように真っすぐ伸びる――その真っすぐが、ある一点から急に曲がっているのを、静は見た。

 上洛の途上、街道筋。松の影が縞を織り、潮の匂いが薄く混じる。
 御用の印を掲げた荷馬車が三。護衛はいるが、指の腹は汗で湿り、刀は鞘の中で息苦しげに黙っている。道の向こうでは土埃が壁になりかけていた。

 「静、道が詰まる前に片付けるぞ」
 矢野が槍を肩に担ぎ、顎で合図する。江戸っ子の声は、いつも時間より半歩だけ前を行く。
 静は小さく頷いた。白装束の帯を結び直し、草履の緒を親指で押し込む。荷馬車と賊の間に“音の薄い空白”――風だけが抜けられる幅を見つけ、そこへ歩み入る。

 最初の一人は、柄に触れた瞬間、自分がもう勝っていると信じた。
 抜く直前の一拍、そこには常に、誰かが指先を差し込める余地がある。静は鍔の先に相手の指を挟ませ、布越しに角度だけを渡した。抜く手は抜かない手へ変わる。
 同時に矢野の槍が飛ぶ。刃ではなく柄尻、顎にコツンと短い音。
 「一人」
 矢野は数えず、静は名乗らない。二人のあいだでは、数字も名前も、たいてい要らなくなる。

 賊頭が腰の袋から火薬玉を出した。最初は白い。指で揉まれて黒くなり、熱を移し、煙が生まれる。景色はふるいにかけられたみたいに薄れた。
 静は煙の流れを読む。左から右。風は松の枝で引っかかり、速度を落とす。煙は重い。足音の粒は土の上で弾け、規則性を失う。静は鞘のまま膝を払った。靴裏が空を掴もうとして掴めず、世界が一度だけ裏返る。転ぶ音は不思議と、人を正気に連れ戻す。その前に、相手は眠ってくれた。

 「煙幕ありがとよ! こっちは風上だ!」
 矢野の声は、煙よりも早く届く。突きの連打が輪を広げ、外側には怖気づいて退く足、内側には互いの背をぶつけ合う肩。静はその肩と肩の間を縫う。“抜ける”ことだけを考える。
 斬らずに済むなら、そのほうが速い。刃を進ませるのではなく、刃を“進ませない”。指に通りかけた「抜く」という意志を、膝や肩や顎や視線へ引っ越させる。呼吸を一度だけずらす。それだけで、人は刃を忘れる。

 護衛がようやく息を吸い直した。
 「御用か……御用の方か」
 矢野は笑って片手を振る。「名乗り? いらねぇよ。荷駄が無事ならそれでいいのさ」
 静は矢野の背に何も足さない。礼は、風に乗せると軽くなる。

 賊は七。うち五は転がり、二は逃げた。逃げた二人の足音は恐怖で力み、音が重く長い。矢野は追う素振りだけ見せて追わない。
 「静、追うな。道があるなら行かせろ。帰り道でまた会う」
 「はい。――今は、通すことだけ」
 荷馬車はしばらく止まり、やがて動き出す。荷主が礼を言いに近づいてきたが、静は首を振った。
 「道を通しただけです」
 「恩に着る。名は? せめて名は」
 「風です」
 荷主は困った顔で、それからすぐ笑った。「江戸は、粋だな」

 松の影は再び縞になり、土埃は何事もなかった顔で街道を歩きはじめる。

 ***

 焚き火は、よく本音を誘う。
 日が落ち、潮騒が遠くに引くころ、二人は道の外れに小さな火を起こした。矢野が火ばさみで薪をいじり、火を育てる。
 「静、名を隠して得はあるのか?」
 火の粉が夜の黒に散る。静は火の色を見ながら答えた。
 「刃が届く先にだけ、僕の存在があればいい。届かなければ、いなかったことに」
 「いなかったことに、ね」
 火は木の時間を燃やし、燃えるほど音がなくなる。矢野は薪を押し、笑った。
 「粋じゃねぇの。上洛前の景気づけにしちゃ出来すぎだ」
 「景気づけは祇園で」
 「おう、派手にな」
 火は二人の顔に影を作る。静の影は薄く、矢野の影は濃い。影の濃さは、いつか誰かの記憶の濃さに似ていた。

 夜は、歩いた時間を冷やしてくれる。
 眠る前、静はふと考える。なぜ名を置いていくのか。名は風を鈍くする。誰かに呼ばれれば、そこに停まってしまう。停まらないでいたい。停まるなら“間に合う”場所にだけ――。火の音が小さくなり、眠りは刃より先に来た。

 ***

 東が白む頃、道はもう乾いていた。
 道の乾き具合は足の選び方を決める。濡れていれば音を吸い、乾いていれば音が立つ。
 「静、足の音を消すのは得意だが、出すのはどうだ」
 「出すのは、矢野さんの役目です」
 「上等。じゃ、ここから俺が鳴らす」
 矢野は草鞋の結び目を二度整える。「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」――口癖は、いつの間にか静の足にも染み込んでいた。

 道は町を外れ、田を抜け、また松に戻る。人は減り、鳥は増える。
 小さな柵。簡易な関所のような造り。百姓が二人、荷を背負って待つ。柵の向こう、御用荷駄を狙ったらしい別の賊の気配。石が飛び、百姓の肩を打つ。
 「痛っ」
 矢野が足を止める。「おう、やめときな。人の飯を叩くな」
 返事はない。静は柵をくぐり、硬い足音のする方へ進む。足音の硬さは靴底の薄さでも、心の固さでもある。
 「静、前は俺が──」
 「矢野さんは、音をお願いします」
 「任せろ」
 矢野が槍の石突で柵を二度、コツン、コツン。規則的な音は、影の呼吸を乱す。呼吸が乱れれば、影は甘くなる。
 静はそこへ入った。入る時は必ず、何かを置いていく。名の代わりの、ごく薄い礼だ。影の中に影より薄い礼を置いて通る。
 石を投げた男の手首を布越しに握る。石は地面へ戻る。地面はもともと石のものだ、嬉しそうだ。男の膝が折れ、口から息が漏れる。
 「静、右」
 矢野の声だけで、静は右の影を見る。影は誰のものでもないが、恐れだけは持っている。恐れは最短を選ぶ。最短は目の前の道。だが、その道は閉まるために開く。静は鍵になる。鍵は音を立てない。

 小競り合いはあっけなく終わった。
 百姓は肩をさすり、深く頭を下げる。
 「お侍さま、ありがてぇ。名を、名を……」
 「名は、ここには要りません」
 「そんなら、どこに」
「畑に残してください。明日、畝をひと筋。風上から。土の匂いが濃くなります」
 百姓は不思議そうに笑った。「なんだそりゃ。だが、覚えとく」
 矢野が肩を揺らして笑う。「静、名乗らねぇ話、うまくなったな」
 「褒められた気がしません」
 「褒めてるよ。名は重い。俺は重い。お前みたいには軽く歩けねぇ」
 「矢野さんの雷は、旗を揺らします」
 「だったら、旗は倒れねぇな」

 ***

 昼、道の脇の茶屋で餅を焼く。
 女将が冷や飯を湯でほぐし、味噌の塩気が湯気と混じる。
 「旅のお侍さん、白いねぇ。汚れが目立つだろ」
 「はい。だから、洗えます」
 「へぇ、変わったこと言うねぇ」
 矢野が笑う。「こいつは変わってて、そのへんの風が懐いてくるんですよ」
 女将は笑ってから急に真顔。「京の噂はここにも届く。物騒だよ。命は大事にしな」
 静は頷いた。「命は大事にします。名よりも」
 「名よりも?」
 「はい」
 女将は何かを言いかけ、やめた。焼けた餅の香りが、会話の角を丸くする。味噌の辛さは舌の先で、ごく薄い涙の味に似ていた。

 海が近づき、潮が白装束の裾を撫でる。
 矢野が口笛を吹き、ふっと足を止めた。
 「静、手合わせだ。旅は身体が鈍る」
 木立の間で向かい合う。矢野の槍は今日は木棒、静の手には野太刀に近い枝。
 雷はいつも先に来る。静は受けずに、少しだけ譲る。譲れば雷は強く鳴る。強ければ周囲が振り向く。その一拍で風が通る。静は通り、矢野は鳴る。この関係は、京でも変わらないだろう。
 「静、お前の足はいつも“次”に置いてある」
 「はい。そうしないと、間に合いません」
 「どこに間に合う」
 「人の呼吸に」
 矢野は木棒を下げて笑う。「難儀だが、好きだよ」
 潮の音が練習の終わりを告げ、二人は荷を背負い直した。

 ***

 夕暮れ、空の端がはがれるように赤くなる。
 道の先で、また埃。今度は人足が倒れ、荷車が横倒し。子どもが泣いている。木箱が川へ転がる。
 矢野が躊躇なく走る。雷は迷わない。静は子を抱え上げ、泣き声の高さから喉の渇きを測る。水を唇に触れさせると、音が半音だけ下がり、息が戻る。
 矢野は川際で踏ん張り、箱の角を蹴って反転。波が跳ね、箱は岸へ戻った。
 「礼はいらねぇ。道が通ればいい」
 名を問う声には、静はやはり風で応えた。「風上から来ました。風下へ向かいます」
 「……難しいねぇ」
 「すみません」
 笑いは軽く、すぐ空へ昇る。

 ***

 その夜の火は小さく、よく燃えた。
 「静、隊ではどう名乗る?」
 「名乗りません。矢野さんの名の隣に、空白を置いてください」
 「空白か」
 「誰でも通れるから。僕は、誰でもないほうが速い」
 矢野は火を見て「……そうか」とだけ言い、星を見上げた。
 「俺は、お前が“いなかった”ことにされるのが、ちょっと怖ぇ」
 「静も、少しだけ怖い」
 「少し?」
 「怖いと速いは、仲がいいので」
 矢野は低く笑った。「お前の理屈は、たまに俺を泣かせる」
 「泣かせるつもりはありません」
 「知ってる」

 静は白装束の袖を外して川で洗い、火のそばに掛けた。白は火の色を受けて桃色に見える。名は洗えない。だから持たない。夜は濡れたものの時間をやさしく奪い、乾きを残す。

 翌朝は高い空。道の脇で子らが白い小石を積んでいた。
 「高く積むと崩れやすいぞ。低く広く、だ」
 矢野の言葉に、子は「なんで」と首を傾げる。
 「広けりゃ、風が通っても倒れねぇ」
 静は子らの手つきを見ていた。積む手と守る手、倒す手と斬る手――似ているが、息で違う。違いは、息が決める。静は胸の奥で、深さだけを数えた。

 関所の町に入る。雑踏は音の練習だ。焼き餅の匂い、旅籠の呼び込み。
 「泊まりなさいよ、安くしとくよ」
 「明日は早いので」
 「京かい」
 「はい」
 女将は首を傾げ、「京は、名を欲しがる町だよ」と言う。
 静は微笑む。「名はいつも風上に置きます」
 「風上?」
 「届かない場所に」
 女将は笑った。「難しいこと言うねぇ。……気をつけな」
 「ありがとうございます」

 夕日が格子を編み目に変える。矢野が影を踏んで呼ぶ。
 「俺が旗を担ぐ」
 「旗は重いですよ」
 「知ってる。だからお前が翻れ」
 「はい」
 二人の返事は短く、意味は長い。師の言葉に似ている――「争いの前に終わらせろ」「名は残すな、技だけ残せ」。二つの言葉が、東海道の風と一緒に、ゆっくり二人の背を押す。

 夜になると、町の灯は家々の呼吸になる。静は灯を見ながら、名のない祈りを胸に折り畳む。
 ――どうか明日も間に合うように。
 ――どうか刃が抜かれる前に終えられるように。
 ――どうか風がまだ、足の下で迷わないように。
 矢野の寝息は一定で、焚き火の残り火に似ていた。雷は鳴らぬ時も厚みがある。それが静の救いだった。

 翌朝、犬の遠吠えを聞きながら静は外へ出る。土はまだ夜の名残を抱く。素足で立ち、息を吸って吐く。
 「行こう」
 誰にでもなく口にした時、背後で木戸がきしむ。矢野が草鞋を結び直しながら笑う。
 「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
 「はい」
 「静、今日も“間に合う”か」
 「ええ」
 「なら、旗は翻る」
 「はい」
 足音が朝の街道に混じる。道は真っすぐで、ほんの少しだけ曲がる。松の縞は時々破れ、風はいつもどおり、二人の前へ吹いていた。

 この先に京がある。
 京の闇は江戸と違い、闇であることをうまく隠す。だから風がいる。だから雷がいる。二人は同じ方角を見て歩く。名は置いていく。跡だけを持っていく。跡は誰かの呼吸に残り、やがて見えなくなる。見えなくなっても、そこにある――それで十分だ。

  ※

 関所は町はずれの土手を折れた先。木柵は粗く、二枚の高札は雨で角が丸い。「行き来の者、名と行き先を申せ」「刃物、火薬、要届け」。
 朝の靄は上がっているのに、柵の向こうは薄暗く、鼻の奥に冷えた鉄の匂いが貼りつく。矢野は眉をひとつ動かし、槍袋の口をそっと閉じた。

 「おい旅人、止まれ」
 紺の羽織の役人が二人。袖口は新しいが、腰の刀はぶら下がっているだけの角度。
 「御用の関所だ。名と行き先を」
 「江戸・朝霧館の者、京へ」矢野が短く言う。
 「名は」
 「矢野蓮」
 「そっちの白いのは」
 視線が静に刺さる。
 「風です」
 「は?」
 「名は置いてきました」
 片方が鼻で笑い、もう片方は不機嫌に顎をしゃくる。「書き付けがねえと通せねえ」――決まりに寄りかかる者の声だった。

 矢野が一歩前へ。
 「書き付けはある。だが、ここじゃ見せらんねぇ」
 「何だと?」
 矢野はわざと大きく息を吐き、木札を見上げる。「字、薄れてるぜ。雨ざらしが長ぇ。仕事が増えてるんだろ。通行人から“紙の手数料”取りてぇ気持ちも分かるが、俺ら御用荷駄を通してきた。道は詰めねぇ」
 役人の視線が一瞬、矢野の肩へ流れ、静から外れた。静はその隙間に入る。柵の端、抜けかけた釘、板の節。薄い砂の帯――足音が吸われる場所。

 「矢野さん」
 静の声は風より薄い。
 「おう」
 雷の前触れのように短い返事。二人の役人が同時に柄へ手をかける。脅しと本気。横に泳ぐ目と、一点を穿つ目。静は“本気”のほうの呼吸の深さに指先を差し込んだ。
 鞘の縁で手首の腱を押し、布越しに角度を変える。抜く意志が手の中で迷子になる。膝が遅れて折れ、砂が音を飲む。脅しのほうが狼狽して吠え、抜刀しかける。
 矢野の柄尻が柵をコツ、と叩く。「おっと。柵が壊れる。直すのはお前らだろ?」
 軽い一言で、抜刀の勢いが一枚、剥がれる。静はその薄皮の下に潜り、肘裏を撫でるように押した。肘は腕の膝だ。膝が折れれば、人は立てない。刀は鞘のままだった。

 沈黙。
 関所の内で風鈴がひとつ鳴る。吹いてもいないのに、音だけが落ちた。
 矢野は笑顔の形を保ったまま、笑っていない目で役人の袖口を見る。
 「新調か。似合ってる。……だからこそ、血で汚すな。お前らの仕事は、紙を汚さずに人を通すことだ」
 役人は口を開きかけ、閉じる。もう片方が不器用に笑い、「……通れ。ただし、京で御用の者に会ったら、ここが厳しいと伝えろ」
 「おう、厳しくて助かった」矢野は軽く礼をとり、静は影に入る前と同じ速度で影から出た。足跡は、風で消える。

 土手の向こうに川。広く浅い水面は薄い金の皺を寄せ、渡し舟が遠くで黒い点になる。茶屋で麦湯を受け取ると、女中が囁く。
 「偽物の関所が増えてます。御用のふりで、名と銭を盗るんです」
 矢野は肩で笑い、「だろうな。紙と声の高さしか違いがねぇ」と頷く。
 静は湯の縁に指を添え、「紙は風でめくれます。声は雷で割れます」とだけ言った。女中は意味を測りかねつつも、なぜかほっとした顔をした。

 渡し舟に揺られ、川の匂いが装束に移る。水には名前がない。
 「静、京の手前で一つ、景気づけをやるぞ」
 「景気づけは祇園で」
 「その前座だ。道の悪いやつを片付ける」
 矢野の目が川面の反射を切るように細くなる。

 半日先、峠道で荷駄の列が道を塞いでいた。先頭でもめる。旅の僧を装った三人。袈裟は新しいが、数珠は煤で曇る。「祈りの時刻だ、通せ」と言いながら、目は箱の荷札ばかりをなぞる。
 矢野は肩を伸ばし、鳴らしてから静に目配せした。
 「静、道が詰まる前に片付けるぞ」
 「はい」
 二人は列の脇を抜け、先頭へ。僧姿の男が振り返る。
 「何者だ」
「風と雷」
 矢野の声は冗談の形、しかし目だけが本気。僧の肩が硬くなる。静は荷の隙間に入り、駄馬の鼻先を撫で、耳の汗を指で掬う。踏み直しが柔らかくなる。
 「お坊さま。祈りの時刻は伸びますか」
 「何だと」
 「祈りは風、時刻は紙。紙は破れますが、風は破れません」
 舌打ち。杖が振り上がる。杖の重心が本性を暴く――握りは杖ではなく棍。
 矢野の槍が袋の口から半身を見せ、横から軽くはたく。
 「南無阿弥陀仏、って言う前に、道を開けな」
 僧装のひとりが足元を薙ぐ。静は後ろではなく横へ半歩。そこにいるもう一人の腕の袖口をつまみ、肘を回す。
 「合掌」
 相手の両手を自分の前で合わせさせた。数珠が場違いに高い音で鳴る。矢野の柄が別の男の膝外を軽く叩き、「祈りは座ってやるのが礼儀だ」と言えば、男はその場に座った。残る一人は刃をちらつかせるが、荷の影から老人の声が飛ぶ。「やめなされ!」――震えながら芯のある声。その芯で刃が止まる。止まりの上から、静が鞘で手首を撫でる。刃は鞘に帰りたがる。道を示せば帰る。

 風一陣より短く終わり、列は生き物を取り戻す。
 「助かった」と老人が頭を下げ、若い衆が矢野の背を叩く。「名を教えてくれ。礼をしたい」
 「名乗り? いらねぇよ。道が通れば気が通る」
 静は老人にだけ小さく囁く。「明日、畝を一筋、風上から。作物が迷わないように」
 老人は「迷わないように、か」と笑い、「畑が喜びそうだ」と頷いた。

 峠を越えると風の温度が半分だけ下がり、土に水の匂いが混じる。
 遠く、灯りが線になって山裾を曲がる。京の外郭。名の取引所。名は飾りにも武器にも札にも鎖にもなる。静は歩を緩めず、帯をもう一度締め、矢野は草鞋を二度結び直す。
 「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
 「はい」
 「静、京に入ったら俺が先に鳴る。お前は鳴らないところで全部やれ」
 「いつも通りですね」
 「いつも通りでいられるうちは、まだ平和だ」
 「ええ」

 京手前の川原で火を起こす。街の灯は遠い星のように小さく流れる。
 「静。お前、いなくなる練習をしてるのか」
 「“いなかった”時のための練習です」
 「どう違う」
 「前者は今からいなくなる覚悟。後者は最初からいなかったことに耐える覚悟」
 矢野は笑い、笑いを短く切る。「どっちにしろ、俺は証人だ。静がいたって、何度でも言う」
 静は礼を言い、矢野は「礼はいらねぇ。怖くねぇのか」と続ける。
 「少しだけ」
 「少し?」
 「怖いと速いは仲がいいので」
 「……お前の理屈は、たまに俺を泣かせる」
 「泣かせるつもりはありません」
 「知ってるよ」

 風が川面の皺をほどき、装束の袖は火の色で桃に染まる。矢野は懐から紅の小房のついた細紐を出し、差し出した。
 「これ、持て。房をほどけば音が出る。俺がどこにいても聞こえる」
 「矢野さんの雷は、房で鳴るんですね」
「うるせぇ。いいから持て」
 静は袖裏に縫う場所を探す。「いざという時まで、鳴らしません」
 「いざという時は鳴らす暇がねぇ。だから鳴らせ」
 「……考えておきます」
 「考えんな。鳴らせ」
 火の粉みたいなやり取りは、すぐ闇に消え、温度だけが残った。

 川霧が降り、裾を冷やす。静は半ば眠り、半ば起きている。夢の手前で声が重なる。
 ――争いの前に終わらせろ。
 ――名は残すな、技だけ残せ。
――背中は俺が見る。お前は前だけ見ろ。
 三つの声は、一筋の風に聴こえた。風の向きは、京。

 朝。東の端に薄い金、川は眠気を払い落とす。
 矢野が草鞋を、静が帯を結び直す。
 「急ぐ時ほど」
 「結びなおすんだ」
 同時に言って、笑う。笑いは短いから、遠くへ届く。
 京の手前で二人は肩を並べた。白と紅が朝の光に細く溶ける。
 「静」
 「はい」
 「今日から、雷はうるさく鳴るぞ」
 「お手柔らかに」
 「やだね。旗が重いんだ」
 「翻します」
 「頼んだ」

 土の粒が立ち、風は東から南へ向きを変える。見えぬ喧騒が耳の底で泡立つ。
 名を欲しがる町へ、名を置いていく二人が入っていく。旗は重い。だが、風があれば翻る――その言葉を胸に、風は前へ、雷は高く。
 東海道は、もう背中の彼方だった。