蝉の声が薄れ、江戸の空が硝子のように澄んでいく。
風の色が変わる季節だった。朝霧館の庭には、門人たちが手拭を首に巻き、旅支度に手を貸している。竹箒で土を掃く音が幾筋も重なり、道場の屋根では鳩が二羽、互いの間を確かめるように短く往復した。
この静けさの底で、誰もが気づいていた――今日が“別れ”の日になることを。声に出せば崩れてしまう、薄氷の上に立つような実感だった。
京より“治安組織・無明隊”の召しが届いたのは三日前。
無明隊――名を明かさず、影に立ち、乱の水脈に蓋をする新設の隊。師・雪堂はその知らせを受け取った夜、静と矢野を呼びつけ、短く言った。
「行け」
それだけだった。言葉を飾らず、余白を残す一言に、師の祈りはすべて収められていた。余白が深いぶん、二人の肩に乗る意味は重い。
朝の光の中、矢野が荷を背負い、結び目を確かめながら笑う。
「静、旅の支度ってのはな、半分は覚悟、半分は見栄だ。お前、白すぎんだよ、その装束」
静は袖口を眺め、いつもの調子で淡く返す。
「汚れが目立てば、掃除ができます」
「理屈は風みてぇにすり抜けるな」
矢野はため息をひとつ、草鞋の結び目をさらに締める。
「俺の草鞋は二度結びが信条だ。急ぐ時ほど、きつく締める」
「僕も学ばせていただきます」
「おう、けどな――お前の締めるべきは帯じゃねぇ、腹だ」
冗談めかした一撃に、静は小さく頷く。笑いの隙間に風が抜け、庭の木槿(もくげ)が音もなく花びらを落とした。花は、別れに賛成も反対もしない。ただ、落ちる。
道場の奥、板間の上に雪堂が立つ。
弟子たちが整列すると、師はゆっくりと口を開いた。
「旗は重い。だが、風があれば翻(ひるがえ)る」
それが送別の言葉だった。短く、しかし重さは旗そのもののように沈む。
静は白装束の袖を軽く絞り、深く一礼する。
「僕は旗にはならないでしょう。矢野さんが風なら、僕はただ布地の軽さでありたい」
「上等。俺が吹かす。お前は音を立てずに翻れ」
二人の言葉が重なったとき、雪堂の頬がわずかに緩む。
「お前たちは似ておらんが、同じ方角を見ている。……それで十分だ」
それきり、師は何も言わなかった。
別れに必要なものは、時として沈黙だけだ。沈黙は言葉より長く残る。
***
出立の前夜。
月は細く、雲の切れ間を泳いでいた。矢野が木刀を二本抱えて庭に出ると、静はすでに立っていた。白装束の裾が夜気を掬うようにわずかに揺れる。
「稽古、もう最後かもしれませんね」静が言う。
「馬鹿言え、京でもやりゃいい。――ただ、今夜は俺が勝つ」
「矢野さんは、いつもそう言います」
静は飄々と笑みを寄せ、木刀を静かに構えた。言葉は軽いが、構えは深い。互いの間に風が生まれ、風が二人を結び、試す。
最初の一合。
矢野の踏み込みが地を鳴らし、木刀と木刀が触れた刹那、静の体は水面の凹みのように沈み、間を詰める。
「早ぇな……」
矢野は笑いつつ一歩退き、柄を翻す。雷の二撃目。静は避けない。呼吸を合わせ、その二撃の“後ろ”に入り、音を丸ごと吸い取った。
空気が一枚、止まる。
雪堂の言葉――「争いの前に終わらせろ」が、ここで具体の形を取っていた。静の一拍の間に、矢野の雷は静まり、木刀の先は揺らぎもせずに空中の点へ止まった。
「……お前な」矢野は木刀を下ろし、笑う。「ほんとに風みてぇだ」
「風は音より早いんですよ」
「知ってる。けど雷は後から鳴るんだ。だから覚えてもらえる」
「ええ。鳴らない風は、ただの空気ですから」
二人の笑いが重なり、夜の庭に薄く浮いた。竹の葉が細かく音を立て、遠い軒の風鈴が応える。三合目の木刀が交わり、四合目の音はなかった――互いの呼吸が、音を先に飲み込んだからだ。
息が落ち着くと、静が低く呟く。
「矢野さん」
「あいよ」
「京で困ったら」
「困る前に突くさ」
「では困る暇すら与えません」
短いやり取りの裏に、言えない約束が積もる。矢野は木刀を肩へ乗せ、
「そういうとこ、ほんと面倒くせぇ」
と笑ってから、少し真顔を覗かせた。
「でもな、静。お前の面倒くささは、悪くねぇ」
静は目を伏せて笑い、夜風を大きく吸う。蝋燭の火のように柔らかな笑み――消えやすいからこそ、記憶に焼きつく。
その夜更け、廊下に雪堂がひとり残り、障子越しの月を見上げて掌を合わせた。
「名を残さぬ者ほど、強く残る」
声は風に混じり、柱の木目の奥へ沈んでいく。
***
翌朝。
静と矢野が門前に立つと、雪堂は名札を二枚差し出した。
「旅先で身を証すためのものだ」
静は一枚を見つめ、わずかに首を振る。
「僕の名は要りません。記録に残らぬほうが、速く動けます」
雪堂は小さく息を漏らす。「強情な奴だ」
隣で矢野が笑い、片眉を上げる。
「ま、俺が二人分覚えといてやる」
静は目を細め、「それなら安心ですね」と返した。安心――と呼ぶには頼りなく、しかし確かに温い情。
門人たちが縁側に並び、声を出さずに合掌する。送る言葉を探すより、祈りを揃えることを選んだのだ。風が通り抜け、白と紅の房が短く揺れた。
「矢野さん、行きましょう」
「おう。旗と風、出発だ」
二人は東海道へ歩み出る。
朝露が草の葉を濡らし、道の先で光が割れる。静はふと立ち止まり、露に触れた。冷たい粒が指腹で砕け、朝日に溶ける。
「名は草の露と同じですね。陽が昇れば消える。けれど、濡れた跡は少しの間、肌に残る」
矢野は頷く。「そいつが“仕事”だ。跡だけあればいい」
静はわずかに微笑み、風上を確かめる。
「風上は、京ですね」
「おうよ。旗を翻す風の始まりだ」
影が二条、並んで伸びる。誰の記録にも残らない旅路。功も名誉も求めず、ただ“間に合う”ために歩く。
道中、矢野は冗談を差しはさみながら、ふいに真顔になることがあった。
「静、俺たち、何者になるんだろうな」
「さあ……名がなければ、何者でもないかもしれません」
「名がなくても、風は風だろ」
「ええ。けれど、風は誰のものでもない」
矢野は苦笑する。「じゃあ、雷は誰のものだ?」
「音を聞く人のものです」
「なら、聞く奴がいなくなったら?」
「風が代わりに吹きます」
「……お前はほんと、面倒な答えしか持ってねぇな」
「でも矢野さんは、それを聞いてくれます」
矢野は空を見上げ、眩しそうに目を細めた。「負けたよ」
松並木の切れ目から海が見える。白い波が寄せ、沖で帆が小さく翻る。静はしばらくそれを見つめ、
「矢野さん。あれが旗なら、僕らの風はまだ弱いですね」
と言った。
「だからこれから吹かせるんだろ、強ぇのを」
静は頷く。「旗が倒れても、風が残るならいい」
「風が止んでも、旗は覚えてる」
「なら、僕らは十分ですね」
ふたりの会話は詩のように連なり、波の反復が拍を刻んだ。はじまりの音楽は、静かにしか鳴らない。
夜、宿の灯の下で矢野は筆を取り、雪堂へ短い書状をしたためた。
――師匠へ。静は相変わらず音がねぇ。けど、音のねぇ奴がいると雷はよく響くもんですね。京の風は荒れそうです。風が迷ったら、雷で導きます。
筆を置き、寝息を立てる静に目をやる。白装束が月明かりを弾き、部屋の隅をわずかに照らす。
「お前、ほんとに風だな」
呟きは夜の海に溶け、返事は波の裏側でだけ聞こえた。
夜明け。鳥の声が先に立ち、東が白む。二人は再び歩き出す。
背に追い風、前に霞む都。矢野が口笛を鳴らし、静が小さく笑う。
「雷の音も、悪くありませんね」
「おう。旗を揺らすには、ちょうどいい」
ふいに静は振り返った。遠い江戸の空はまだ眠っている。朝霧館の屋根、竹林、雪堂の声――心の奥でいまだ輪郭を保つ風景が、淡い疼きとして戻ってくる。
「師匠……旗は重い。でも、風があれば翻る」
独り言のように呟き、ふたたび前を見る。足跡が朝露を踏み、光を弾いた。
矢野が振り向き、顎を上げる。
「静、行くぞ。風が止まっちまう」
「はい。――今、吹きます」
白と紅が並び、陽へ溶ける。
名を持たぬ旅人たちの背に、旗の影がそっと落ちる。その旗に刻まれるのは、誰の紋でもない。風の通り道だけだ。
風は、名のないものをよく運ぶ。
そして、名を置いていく者ほど、長く残す。
風の色が変わる季節だった。朝霧館の庭には、門人たちが手拭を首に巻き、旅支度に手を貸している。竹箒で土を掃く音が幾筋も重なり、道場の屋根では鳩が二羽、互いの間を確かめるように短く往復した。
この静けさの底で、誰もが気づいていた――今日が“別れ”の日になることを。声に出せば崩れてしまう、薄氷の上に立つような実感だった。
京より“治安組織・無明隊”の召しが届いたのは三日前。
無明隊――名を明かさず、影に立ち、乱の水脈に蓋をする新設の隊。師・雪堂はその知らせを受け取った夜、静と矢野を呼びつけ、短く言った。
「行け」
それだけだった。言葉を飾らず、余白を残す一言に、師の祈りはすべて収められていた。余白が深いぶん、二人の肩に乗る意味は重い。
朝の光の中、矢野が荷を背負い、結び目を確かめながら笑う。
「静、旅の支度ってのはな、半分は覚悟、半分は見栄だ。お前、白すぎんだよ、その装束」
静は袖口を眺め、いつもの調子で淡く返す。
「汚れが目立てば、掃除ができます」
「理屈は風みてぇにすり抜けるな」
矢野はため息をひとつ、草鞋の結び目をさらに締める。
「俺の草鞋は二度結びが信条だ。急ぐ時ほど、きつく締める」
「僕も学ばせていただきます」
「おう、けどな――お前の締めるべきは帯じゃねぇ、腹だ」
冗談めかした一撃に、静は小さく頷く。笑いの隙間に風が抜け、庭の木槿(もくげ)が音もなく花びらを落とした。花は、別れに賛成も反対もしない。ただ、落ちる。
道場の奥、板間の上に雪堂が立つ。
弟子たちが整列すると、師はゆっくりと口を開いた。
「旗は重い。だが、風があれば翻(ひるがえ)る」
それが送別の言葉だった。短く、しかし重さは旗そのもののように沈む。
静は白装束の袖を軽く絞り、深く一礼する。
「僕は旗にはならないでしょう。矢野さんが風なら、僕はただ布地の軽さでありたい」
「上等。俺が吹かす。お前は音を立てずに翻れ」
二人の言葉が重なったとき、雪堂の頬がわずかに緩む。
「お前たちは似ておらんが、同じ方角を見ている。……それで十分だ」
それきり、師は何も言わなかった。
別れに必要なものは、時として沈黙だけだ。沈黙は言葉より長く残る。
***
出立の前夜。
月は細く、雲の切れ間を泳いでいた。矢野が木刀を二本抱えて庭に出ると、静はすでに立っていた。白装束の裾が夜気を掬うようにわずかに揺れる。
「稽古、もう最後かもしれませんね」静が言う。
「馬鹿言え、京でもやりゃいい。――ただ、今夜は俺が勝つ」
「矢野さんは、いつもそう言います」
静は飄々と笑みを寄せ、木刀を静かに構えた。言葉は軽いが、構えは深い。互いの間に風が生まれ、風が二人を結び、試す。
最初の一合。
矢野の踏み込みが地を鳴らし、木刀と木刀が触れた刹那、静の体は水面の凹みのように沈み、間を詰める。
「早ぇな……」
矢野は笑いつつ一歩退き、柄を翻す。雷の二撃目。静は避けない。呼吸を合わせ、その二撃の“後ろ”に入り、音を丸ごと吸い取った。
空気が一枚、止まる。
雪堂の言葉――「争いの前に終わらせろ」が、ここで具体の形を取っていた。静の一拍の間に、矢野の雷は静まり、木刀の先は揺らぎもせずに空中の点へ止まった。
「……お前な」矢野は木刀を下ろし、笑う。「ほんとに風みてぇだ」
「風は音より早いんですよ」
「知ってる。けど雷は後から鳴るんだ。だから覚えてもらえる」
「ええ。鳴らない風は、ただの空気ですから」
二人の笑いが重なり、夜の庭に薄く浮いた。竹の葉が細かく音を立て、遠い軒の風鈴が応える。三合目の木刀が交わり、四合目の音はなかった――互いの呼吸が、音を先に飲み込んだからだ。
息が落ち着くと、静が低く呟く。
「矢野さん」
「あいよ」
「京で困ったら」
「困る前に突くさ」
「では困る暇すら与えません」
短いやり取りの裏に、言えない約束が積もる。矢野は木刀を肩へ乗せ、
「そういうとこ、ほんと面倒くせぇ」
と笑ってから、少し真顔を覗かせた。
「でもな、静。お前の面倒くささは、悪くねぇ」
静は目を伏せて笑い、夜風を大きく吸う。蝋燭の火のように柔らかな笑み――消えやすいからこそ、記憶に焼きつく。
その夜更け、廊下に雪堂がひとり残り、障子越しの月を見上げて掌を合わせた。
「名を残さぬ者ほど、強く残る」
声は風に混じり、柱の木目の奥へ沈んでいく。
***
翌朝。
静と矢野が門前に立つと、雪堂は名札を二枚差し出した。
「旅先で身を証すためのものだ」
静は一枚を見つめ、わずかに首を振る。
「僕の名は要りません。記録に残らぬほうが、速く動けます」
雪堂は小さく息を漏らす。「強情な奴だ」
隣で矢野が笑い、片眉を上げる。
「ま、俺が二人分覚えといてやる」
静は目を細め、「それなら安心ですね」と返した。安心――と呼ぶには頼りなく、しかし確かに温い情。
門人たちが縁側に並び、声を出さずに合掌する。送る言葉を探すより、祈りを揃えることを選んだのだ。風が通り抜け、白と紅の房が短く揺れた。
「矢野さん、行きましょう」
「おう。旗と風、出発だ」
二人は東海道へ歩み出る。
朝露が草の葉を濡らし、道の先で光が割れる。静はふと立ち止まり、露に触れた。冷たい粒が指腹で砕け、朝日に溶ける。
「名は草の露と同じですね。陽が昇れば消える。けれど、濡れた跡は少しの間、肌に残る」
矢野は頷く。「そいつが“仕事”だ。跡だけあればいい」
静はわずかに微笑み、風上を確かめる。
「風上は、京ですね」
「おうよ。旗を翻す風の始まりだ」
影が二条、並んで伸びる。誰の記録にも残らない旅路。功も名誉も求めず、ただ“間に合う”ために歩く。
道中、矢野は冗談を差しはさみながら、ふいに真顔になることがあった。
「静、俺たち、何者になるんだろうな」
「さあ……名がなければ、何者でもないかもしれません」
「名がなくても、風は風だろ」
「ええ。けれど、風は誰のものでもない」
矢野は苦笑する。「じゃあ、雷は誰のものだ?」
「音を聞く人のものです」
「なら、聞く奴がいなくなったら?」
「風が代わりに吹きます」
「……お前はほんと、面倒な答えしか持ってねぇな」
「でも矢野さんは、それを聞いてくれます」
矢野は空を見上げ、眩しそうに目を細めた。「負けたよ」
松並木の切れ目から海が見える。白い波が寄せ、沖で帆が小さく翻る。静はしばらくそれを見つめ、
「矢野さん。あれが旗なら、僕らの風はまだ弱いですね」
と言った。
「だからこれから吹かせるんだろ、強ぇのを」
静は頷く。「旗が倒れても、風が残るならいい」
「風が止んでも、旗は覚えてる」
「なら、僕らは十分ですね」
ふたりの会話は詩のように連なり、波の反復が拍を刻んだ。はじまりの音楽は、静かにしか鳴らない。
夜、宿の灯の下で矢野は筆を取り、雪堂へ短い書状をしたためた。
――師匠へ。静は相変わらず音がねぇ。けど、音のねぇ奴がいると雷はよく響くもんですね。京の風は荒れそうです。風が迷ったら、雷で導きます。
筆を置き、寝息を立てる静に目をやる。白装束が月明かりを弾き、部屋の隅をわずかに照らす。
「お前、ほんとに風だな」
呟きは夜の海に溶け、返事は波の裏側でだけ聞こえた。
夜明け。鳥の声が先に立ち、東が白む。二人は再び歩き出す。
背に追い風、前に霞む都。矢野が口笛を鳴らし、静が小さく笑う。
「雷の音も、悪くありませんね」
「おう。旗を揺らすには、ちょうどいい」
ふいに静は振り返った。遠い江戸の空はまだ眠っている。朝霧館の屋根、竹林、雪堂の声――心の奥でいまだ輪郭を保つ風景が、淡い疼きとして戻ってくる。
「師匠……旗は重い。でも、風があれば翻る」
独り言のように呟き、ふたたび前を見る。足跡が朝露を踏み、光を弾いた。
矢野が振り向き、顎を上げる。
「静、行くぞ。風が止まっちまう」
「はい。――今、吹きます」
白と紅が並び、陽へ溶ける。
名を持たぬ旅人たちの背に、旗の影がそっと落ちる。その旗に刻まれるのは、誰の紋でもない。風の通り道だけだ。
風は、名のないものをよく運ぶ。
そして、名を置いていく者ほど、長く残す。



