春の朝は、江戸郊外の土の粒から始まる。
土は夜の湿りをほどき、陽の薄い金色を吸って軽くなる。朝霧館の庭はその軽さを一面にまとい、桜の花片は風の練習台みたいに、同じ枝から違う落ち方をしてみせる。廊下に差す光は木目の溝をなぞり、床板は指で撫でられたみたいに柔らかく見えた。
矢野蓮は、縁側に竹刀を立てかけたまま、靴足袋の親指で廊下の節を一つ踏んだ。乾いている。今日は、音がよく通る。
「――整列」
声は低い。けれど庭の端の石まで、軽く跳ねて届く声だった。子どもらはわらわらと並ぶ。背の順に並ばせたことは一度もないのに、毎朝だいたい同じ順になる。よく走る子は前にいたがるし、よく見る子は真ん中に来たがる。最後尾には、まだ朝の眠りを引きずっている子か、春の匂いを名残惜しんでいる子が立つ。
「まずは“間”を覚えろ」
矢野はすり足で前に出る。
「刀は振る前から始まってる。振る前の“間”で、勝ち負けの半分は決まる。もう半分は……」
子どもの一人が手を上げた。頬に味噌の名残を付けたままの雀斑だ。
「先生、半分の、もう半分は?」
「“止め”だ。振らずに終わらせる。勝ちより速い」
「勝ちより、速い?」
「そうだ。勝ちを数えてるうちは、負けも増える。数えないで済む“止め”は、負けもしねぇ」
笑い声がいくつか、小さく零れた。分かった子も、分からない子も、同じところで笑っていた。
「じゃ、やってみせような」
矢野は、板の間に盥を置いた。井戸から汲んできたばかりの水は、光を受けて白く見える。
「“盥の水”だ。撥ねさせるな。形だけ残せ」
右の人差し指を水面に落とす。輪がいくつも、重なっては消えていく。
「足の置き方も、これだ。音を立てず、形だけ残す。形は、見える時もあれば、見えない時もある。見えない時は、土が教えてくれる」
子どもの一人が廊下の板をそっと踏んだ。かすかな鳴りが、庭の竹に触れて止む。
「先生」
さっきの雀斑が、今度は真顔で手を上げる。
「先生の相棒の人は、どこに行っちゃったの」
子どもたちの視線が一斉に矢野に集まる。春の光で明るいはずなのに、目の中だけがどこか深い。
矢野は微笑んだ。
「最初から、どこにもいなかったさ」
きょとんとする顔、すぐ笑う顔、首を傾げて考える顔。それぞれの顔に、それぞれの春が宿っている。
「だけどな、いなかったはずの奴から、俺はいっぱいもらった。足の置き方、盥の水、旗と風の話――それはここに残ってる。見えるか?」
矢野は盥の水面にもう一度、指で輪を作った。輪は小さく、しかし確かに広がり、廊下の影まで届いて薄く消えた。
「無敗って、すごいね」
後ろのほうで、草履の紐を結び直していた小柄な子がぽつりと言った。
「ああ。無敗ってのは、勝ち星を数えねぇことだ。名を数えねぇことでもある」
稽古は剣を振るだけではない。走らせる。止めさせる。座らせる。黙らせる。笑わせる。
「もっと足、前。そう、そこだ。――止めろ」
「止めたら、勝ちですか」
「勝ちも負けもねぇ。そこが“ここまで”だ。そっから“ここから”を始めろ」
「同じ場所から?」
「同じ場所から」
言いながら、自分で自分の言葉に笑う。師・雪堂がよくやった、口角だけの笑いだ。雪堂は、もういない。いないけれど、庭の竹が鳴る時は師の咳払いに似て聞こえる。春先は特にそうだ。
稽古が一段落すると、子どもらは庭へ散った。竹刀を二本抱えて鬼ごっこに化ける者、桜の花びらを集めて皿に盛る者、縁側でおやつを待つ者。
矢野は縁側に腰を下ろし、庭の桜を眺めた。風が通り、壁に立てかけた竹刀が、かすかに鳴る。鳴った分だけ、音は空へ逃げた。
懐から短刀を取り出す。
刃紋は静かに波打っている。折れば、名になる。名になれば、終わる。
矢野は鞘に戻した。
「お前の名は、俺の稽古の中にある」
声に出すと、腹の下の石が一つ、軽くなった。
門前を、風が抜けた。
白いものがひとひら、桜の花びらと混じって庭を横切る。
矢野は立たない。立たないで、笑う。
「また稽古つけろよ、馬鹿野郎」
返事はない。だが、返事のない返事が確かにある。風が返事を運ぶ時、人は耳でなく、背中で聞く。
***
昼餉の後、矢野は門弟の中から三人を選んだ。
一人は足の速い子、一人はよく見る子、もう一人はよく笑う子。
「“座敷迷路”だ」
広間の畳に、木札で簡単な通路を拵える。行灯を低くして、影の濃さを変える。
「灯の置き方、廊下の幅、畳の目。逃げたい奴は光へ向かう。俺らは光を偽り、影を本当の道にする」
子どもらは真剣に頷く。
「先生、難しい」
「難しいから、面白ぇ」
矢野は裸足で一歩踏み、足裏に畳の目を数えるよう意識を落とす。
「走るな。走る足音は、嘘をつく。歩け。歩く足音は、土に似る」
よく笑う子が、緊張のあまり笑顔を忘れている。
「笑え」
「え」
「笑え。笑うと、肩の余計な力が抜ける。抜けた分だけ、速い。速いけど、乱暴じゃねぇ」
子どもは言われるまま、口角を上げて歩く。ぎこちないが、肩が落ちた。
「よし」
矢野は三人の進む先に、軽く指を鳴らす。
「そこ、畳目の“止め”。――止めろ」
三人は同時に止まった。止まるのに、いい音がした。畳と足のあいだで、小さな盥の水が一度だけ揺れたような音だ。
稽古の合間、縁側に女が立った。
髪は結いあげ、着物は古い色。けれど手拭の畳み方が、祇園の香りを連れてくる。
「お蝶さんか」
「江戸まで来ると、名を呼ばれるのも遠慮がちになるもんだね」
女将・お蝶は笑い、腰を下ろした。
「変わらないね、あんた」
「変わったよ。背中に、子どもらの手が増えた」
お蝶は庭の桜を見た。
「祇園のほうは?」
「白い話は、まだ続いてる。“幽霊”は、時々“神様”になりそうになって、また“ただの風”に戻る。戻るところが、いい」
矢野は頷く。
「戻る“間”が、町を守る」
お蝶は扇で頬の汗を払って、声を落とした。
「ひとつだけ、持ってきたものがある」
懐から、白い布包みを出す。
端に細い煤の筋。畳目に沿って折る、見覚えのある手の跡。
「古道具屋で見たやつに、似てる」
「似てる。けれど、違う。こっちは“使い古し”だよ」
包みの中には、擦れて薄くなった手拭と、短い紐。紐の先に、小さな紅の房。
矢野は、指で房を撫でた。
「持ってて」
お蝶は目線を外したまま言う。
「持ってて、いらなくなったら、川に流して。祇園は、祠でそうする」
「江戸でも、そうする」
「――あの子は、元気かい」
「あの子?」
「いない子さ」
矢野は笑った。
「元気だよ。いないのに、元気だ」
「そうかい」
お蝶の目尻に、薄い笑い皺が一つ増えた。
***
午後の陽が少し傾き、庭石が短い影を持ち始めた頃、門前に旅人が立った。
草鞋の紐は新しく、着物の裾はよく洗われている。顔に癖がない。癖のなさは、ときに癖より目立つ。
「お稽古、見学を」
矢野は旅人を頭の天辺から足袋の先まで、一度だけ“止め”の目で見た。
「どうぞ」
旅人は縁側の端に座り、静かに子どもらの手つきを見た。
稽古が一巡して子どもらが水を飲みに走ると、旅人が口を開いた。
「“無敗”とは」
「勝ちを数えない」
「なぜ、数えない」
「重くなる。重いと、間に合わねぇ」
旅人は頷き、言葉を少し置いてから、もう一度尋ねた。
「“名”とは」
「旗だ。旗は風を要る。だが、旗のために風があるわけじゃねぇ」
旅人の目が笑った。
「風は、どこにある」
「足の裏と、盥の水と、相手の呼吸のあいだ」
旅人は礼をして立ち上がった。
「いい稽古場だ」
「いい旅を」
旅人は門の外で一度振り向き、深く頭を下げて去った。
お蝶が扇で口元を隠して囁く。
「今の、いい“いない”だったね」
「ああ。いないのに、礼ができるやつは、いい」
夕稽古の前、矢野は子どもらを縁側に座らせ、短い話をした。
「旗と風の話だ」
子どもらの目が、日暮れの灯みたいに揃ってこちらを向く。
「旗は重い。けれど、風があれば翻る。旗を持つのは、名を持つってことだ。名は重い。重いものは、置き場所を選べ。選べねぇなら、一度置け。置いて、軽くしてから、また担げ」
「先生は、名を持ってる?」
「持ってる。たまにな」
笑いが起きる。
「持ちすぎると、動けなくなる。動けなくなると、間に合わねぇ。――お前ら、間に合え。人の呼吸に間に合え。刀の前に間に合え。泣き声の前に間に合え。間に合えなかったら、せめて“止めろ”。それでいい夜がある」
雀斑の子がそっと手を上げた。
「先生の相棒の人は、間に合ったの?」
矢野は花びらをひとつ指にのせ、息で飛ばした。
「いつもだ。いつも間に合って、いつもいなかった」
***
日が落ちると、庭の匂いが一段濃くなる。
土と竹と、桜の幹の黒い香り。井戸の水は昼より冷たく、盥の水面は月の輪郭を覚え始める。
戸締まりを済ませると、門弟の一人が縁側で待っていた。
「先生。……喧嘩に巻きこまれたって、町の子らが」
言いにくそうだが、息の深さは整っている。よく見て、よく歩く子だ。
「場所」
「川沿いの、柳のところ」
矢野は竹刀を置き、草鞋の紐を二度、締め直した。
「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
「はい」
「行ってくる。お前は門番。誰が来ても、今夜は“いない”と言え」
「承知」
川沿いは、春の終わりの匂いがした。
柳の下に、若いのが四人。二人は顔見知り、二人はどこの誰やら。
「やめとけ」
矢野が言うと、四人の首が同時に動いた。
「先生……」
「先生じゃない。町のじじいだ。帰れ」
顔見知りの一人が言い訳を口にしようとして、矢野の目に止まった。
「止め」
若いのは口を噤む。
「理由はどうでもいい。お前らは“まだ”いない。いないうちに、帰れ」
「“まだ”?」
「名を持てば“いる”になる。“いる”は、刃にかかりやすい。今夜は“いない”でいろ」
矢野の背後で、柳が鳴った。川風が返事をする。
四人はしぶしぶ散り、足音は柳の影に紛れて薄くなった。
矢野は柳の幹に手を当て、目を閉じる。
「なぁ、静」
呼んだところで、白い影は出てこない。
「お前の“いない”は、便利すぎるぜ」
言いながら、笑っていた。
***
夜半、朝霧館に戻ると、門の前に灯が一つ。
背の高い男が、灯の中で背筋を伸ばしている。
「……隊長」
男は、昔の呼び名で笑った。
「もう“隊”はない。けれど、隊の顔が必要な夜は残る」
「江戸まで、何の風で」
「噂は風だ。噂に押されれば、旗は翻る」
男――かつての無明隊長は、庭に入らず、門の外で言葉を置いた。
「京で、白い話はまだ続いている。“祇園の白狐”は、最近は“祠の風”と呼ばれるそうだ」
「いい名だ。名じゃねぇけど」
「名じゃないから、いい」
隊長は矢野の肩を一度叩き、灯を扇で払って消した。
闇は深くない。春の闇は、眼が慣れるのが速い。
「――学びは、残ったか」
「残りました」
「なら、完了だ」
隊長は振り返らずに去った。足音は、朝霧の底に吸い込まれていく。
***
翌朝。
朝霧館の門を開けると、露が石畳の目に沿って光っていた。
矢野は、門の柱に小さな紙片を見つける。
丸がひとつ。盥の輪のように、墨は薄い。
矢野は紙片を取らず、指で一度、輪郭をなぞってから、そっとそのままにした。
「紙は強い」
独り言は、門の外へ飛んで、竹の葉にぶつかり、やわらかく返ってきた。
稽古日和だ。
子どもらは走ってきて、勝手に整列して、勝手に笑い、勝手に黙る。
「まずは“間”を覚えろ」
矢野は繰り返し、盥に水を張り、輪を見せる。
「撥ねさせるな。形だけ残せ。これが“速いのに乱暴じゃねぇ”ってことだ」
同じ言葉を、少しずつ違う声で、毎朝言う。
言いながら、心の中で、もうひとつの声を聞く。
――“争いの前に終わらせろ”
師の声。
――“名は残すな、技だけ残せ”
隊の掟の声。
――“背中は俺が見る。お前は前だけ見ろ”
白い相棒の、ない声。
稽古が終わり、子どもらが庭に散ると、矢野はひとり縁側へ座った。
桜はまだ半分、枝に残っている。
風が通る。
竹刀が壁に立てかけたまま、かすかに鳴る。
懐から短刀を出す。
折らない。折れば名になる。名になれば、終わる。
鞘に戻す。
「お前の名は、俺の稽古の中にある」
くり返し、くり返し。
言葉は石のように重くならず、風のように軽くもならず、ただ、胸のちょうどいいところに置かれる。
門前を風が抜け、白いものがひとひら、桜の花びらと混じって庭を横切る。
矢野は立たない。
立たないで、笑う。
「また稽古つけろよ、馬鹿野郎」
返事はない。
けれど、返事のない返事が確かにある。
旗は竿で立つのではなく、風で翻る。
記録は紙で残るのではなく、呼吸で残る。
無敗の最強剣士は、今日もいない。
――だから、いる。
庭の端で、盥の水がふいに風を拾って、輪をひとつ作った。
輪はすぐに、見えなくなった。
だが、見えなくなっても、そこにある。
それで、十分だ。
土は夜の湿りをほどき、陽の薄い金色を吸って軽くなる。朝霧館の庭はその軽さを一面にまとい、桜の花片は風の練習台みたいに、同じ枝から違う落ち方をしてみせる。廊下に差す光は木目の溝をなぞり、床板は指で撫でられたみたいに柔らかく見えた。
矢野蓮は、縁側に竹刀を立てかけたまま、靴足袋の親指で廊下の節を一つ踏んだ。乾いている。今日は、音がよく通る。
「――整列」
声は低い。けれど庭の端の石まで、軽く跳ねて届く声だった。子どもらはわらわらと並ぶ。背の順に並ばせたことは一度もないのに、毎朝だいたい同じ順になる。よく走る子は前にいたがるし、よく見る子は真ん中に来たがる。最後尾には、まだ朝の眠りを引きずっている子か、春の匂いを名残惜しんでいる子が立つ。
「まずは“間”を覚えろ」
矢野はすり足で前に出る。
「刀は振る前から始まってる。振る前の“間”で、勝ち負けの半分は決まる。もう半分は……」
子どもの一人が手を上げた。頬に味噌の名残を付けたままの雀斑だ。
「先生、半分の、もう半分は?」
「“止め”だ。振らずに終わらせる。勝ちより速い」
「勝ちより、速い?」
「そうだ。勝ちを数えてるうちは、負けも増える。数えないで済む“止め”は、負けもしねぇ」
笑い声がいくつか、小さく零れた。分かった子も、分からない子も、同じところで笑っていた。
「じゃ、やってみせような」
矢野は、板の間に盥を置いた。井戸から汲んできたばかりの水は、光を受けて白く見える。
「“盥の水”だ。撥ねさせるな。形だけ残せ」
右の人差し指を水面に落とす。輪がいくつも、重なっては消えていく。
「足の置き方も、これだ。音を立てず、形だけ残す。形は、見える時もあれば、見えない時もある。見えない時は、土が教えてくれる」
子どもの一人が廊下の板をそっと踏んだ。かすかな鳴りが、庭の竹に触れて止む。
「先生」
さっきの雀斑が、今度は真顔で手を上げる。
「先生の相棒の人は、どこに行っちゃったの」
子どもたちの視線が一斉に矢野に集まる。春の光で明るいはずなのに、目の中だけがどこか深い。
矢野は微笑んだ。
「最初から、どこにもいなかったさ」
きょとんとする顔、すぐ笑う顔、首を傾げて考える顔。それぞれの顔に、それぞれの春が宿っている。
「だけどな、いなかったはずの奴から、俺はいっぱいもらった。足の置き方、盥の水、旗と風の話――それはここに残ってる。見えるか?」
矢野は盥の水面にもう一度、指で輪を作った。輪は小さく、しかし確かに広がり、廊下の影まで届いて薄く消えた。
「無敗って、すごいね」
後ろのほうで、草履の紐を結び直していた小柄な子がぽつりと言った。
「ああ。無敗ってのは、勝ち星を数えねぇことだ。名を数えねぇことでもある」
稽古は剣を振るだけではない。走らせる。止めさせる。座らせる。黙らせる。笑わせる。
「もっと足、前。そう、そこだ。――止めろ」
「止めたら、勝ちですか」
「勝ちも負けもねぇ。そこが“ここまで”だ。そっから“ここから”を始めろ」
「同じ場所から?」
「同じ場所から」
言いながら、自分で自分の言葉に笑う。師・雪堂がよくやった、口角だけの笑いだ。雪堂は、もういない。いないけれど、庭の竹が鳴る時は師の咳払いに似て聞こえる。春先は特にそうだ。
稽古が一段落すると、子どもらは庭へ散った。竹刀を二本抱えて鬼ごっこに化ける者、桜の花びらを集めて皿に盛る者、縁側でおやつを待つ者。
矢野は縁側に腰を下ろし、庭の桜を眺めた。風が通り、壁に立てかけた竹刀が、かすかに鳴る。鳴った分だけ、音は空へ逃げた。
懐から短刀を取り出す。
刃紋は静かに波打っている。折れば、名になる。名になれば、終わる。
矢野は鞘に戻した。
「お前の名は、俺の稽古の中にある」
声に出すと、腹の下の石が一つ、軽くなった。
門前を、風が抜けた。
白いものがひとひら、桜の花びらと混じって庭を横切る。
矢野は立たない。立たないで、笑う。
「また稽古つけろよ、馬鹿野郎」
返事はない。だが、返事のない返事が確かにある。風が返事を運ぶ時、人は耳でなく、背中で聞く。
***
昼餉の後、矢野は門弟の中から三人を選んだ。
一人は足の速い子、一人はよく見る子、もう一人はよく笑う子。
「“座敷迷路”だ」
広間の畳に、木札で簡単な通路を拵える。行灯を低くして、影の濃さを変える。
「灯の置き方、廊下の幅、畳の目。逃げたい奴は光へ向かう。俺らは光を偽り、影を本当の道にする」
子どもらは真剣に頷く。
「先生、難しい」
「難しいから、面白ぇ」
矢野は裸足で一歩踏み、足裏に畳の目を数えるよう意識を落とす。
「走るな。走る足音は、嘘をつく。歩け。歩く足音は、土に似る」
よく笑う子が、緊張のあまり笑顔を忘れている。
「笑え」
「え」
「笑え。笑うと、肩の余計な力が抜ける。抜けた分だけ、速い。速いけど、乱暴じゃねぇ」
子どもは言われるまま、口角を上げて歩く。ぎこちないが、肩が落ちた。
「よし」
矢野は三人の進む先に、軽く指を鳴らす。
「そこ、畳目の“止め”。――止めろ」
三人は同時に止まった。止まるのに、いい音がした。畳と足のあいだで、小さな盥の水が一度だけ揺れたような音だ。
稽古の合間、縁側に女が立った。
髪は結いあげ、着物は古い色。けれど手拭の畳み方が、祇園の香りを連れてくる。
「お蝶さんか」
「江戸まで来ると、名を呼ばれるのも遠慮がちになるもんだね」
女将・お蝶は笑い、腰を下ろした。
「変わらないね、あんた」
「変わったよ。背中に、子どもらの手が増えた」
お蝶は庭の桜を見た。
「祇園のほうは?」
「白い話は、まだ続いてる。“幽霊”は、時々“神様”になりそうになって、また“ただの風”に戻る。戻るところが、いい」
矢野は頷く。
「戻る“間”が、町を守る」
お蝶は扇で頬の汗を払って、声を落とした。
「ひとつだけ、持ってきたものがある」
懐から、白い布包みを出す。
端に細い煤の筋。畳目に沿って折る、見覚えのある手の跡。
「古道具屋で見たやつに、似てる」
「似てる。けれど、違う。こっちは“使い古し”だよ」
包みの中には、擦れて薄くなった手拭と、短い紐。紐の先に、小さな紅の房。
矢野は、指で房を撫でた。
「持ってて」
お蝶は目線を外したまま言う。
「持ってて、いらなくなったら、川に流して。祇園は、祠でそうする」
「江戸でも、そうする」
「――あの子は、元気かい」
「あの子?」
「いない子さ」
矢野は笑った。
「元気だよ。いないのに、元気だ」
「そうかい」
お蝶の目尻に、薄い笑い皺が一つ増えた。
***
午後の陽が少し傾き、庭石が短い影を持ち始めた頃、門前に旅人が立った。
草鞋の紐は新しく、着物の裾はよく洗われている。顔に癖がない。癖のなさは、ときに癖より目立つ。
「お稽古、見学を」
矢野は旅人を頭の天辺から足袋の先まで、一度だけ“止め”の目で見た。
「どうぞ」
旅人は縁側の端に座り、静かに子どもらの手つきを見た。
稽古が一巡して子どもらが水を飲みに走ると、旅人が口を開いた。
「“無敗”とは」
「勝ちを数えない」
「なぜ、数えない」
「重くなる。重いと、間に合わねぇ」
旅人は頷き、言葉を少し置いてから、もう一度尋ねた。
「“名”とは」
「旗だ。旗は風を要る。だが、旗のために風があるわけじゃねぇ」
旅人の目が笑った。
「風は、どこにある」
「足の裏と、盥の水と、相手の呼吸のあいだ」
旅人は礼をして立ち上がった。
「いい稽古場だ」
「いい旅を」
旅人は門の外で一度振り向き、深く頭を下げて去った。
お蝶が扇で口元を隠して囁く。
「今の、いい“いない”だったね」
「ああ。いないのに、礼ができるやつは、いい」
夕稽古の前、矢野は子どもらを縁側に座らせ、短い話をした。
「旗と風の話だ」
子どもらの目が、日暮れの灯みたいに揃ってこちらを向く。
「旗は重い。けれど、風があれば翻る。旗を持つのは、名を持つってことだ。名は重い。重いものは、置き場所を選べ。選べねぇなら、一度置け。置いて、軽くしてから、また担げ」
「先生は、名を持ってる?」
「持ってる。たまにな」
笑いが起きる。
「持ちすぎると、動けなくなる。動けなくなると、間に合わねぇ。――お前ら、間に合え。人の呼吸に間に合え。刀の前に間に合え。泣き声の前に間に合え。間に合えなかったら、せめて“止めろ”。それでいい夜がある」
雀斑の子がそっと手を上げた。
「先生の相棒の人は、間に合ったの?」
矢野は花びらをひとつ指にのせ、息で飛ばした。
「いつもだ。いつも間に合って、いつもいなかった」
***
日が落ちると、庭の匂いが一段濃くなる。
土と竹と、桜の幹の黒い香り。井戸の水は昼より冷たく、盥の水面は月の輪郭を覚え始める。
戸締まりを済ませると、門弟の一人が縁側で待っていた。
「先生。……喧嘩に巻きこまれたって、町の子らが」
言いにくそうだが、息の深さは整っている。よく見て、よく歩く子だ。
「場所」
「川沿いの、柳のところ」
矢野は竹刀を置き、草鞋の紐を二度、締め直した。
「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
「はい」
「行ってくる。お前は門番。誰が来ても、今夜は“いない”と言え」
「承知」
川沿いは、春の終わりの匂いがした。
柳の下に、若いのが四人。二人は顔見知り、二人はどこの誰やら。
「やめとけ」
矢野が言うと、四人の首が同時に動いた。
「先生……」
「先生じゃない。町のじじいだ。帰れ」
顔見知りの一人が言い訳を口にしようとして、矢野の目に止まった。
「止め」
若いのは口を噤む。
「理由はどうでもいい。お前らは“まだ”いない。いないうちに、帰れ」
「“まだ”?」
「名を持てば“いる”になる。“いる”は、刃にかかりやすい。今夜は“いない”でいろ」
矢野の背後で、柳が鳴った。川風が返事をする。
四人はしぶしぶ散り、足音は柳の影に紛れて薄くなった。
矢野は柳の幹に手を当て、目を閉じる。
「なぁ、静」
呼んだところで、白い影は出てこない。
「お前の“いない”は、便利すぎるぜ」
言いながら、笑っていた。
***
夜半、朝霧館に戻ると、門の前に灯が一つ。
背の高い男が、灯の中で背筋を伸ばしている。
「……隊長」
男は、昔の呼び名で笑った。
「もう“隊”はない。けれど、隊の顔が必要な夜は残る」
「江戸まで、何の風で」
「噂は風だ。噂に押されれば、旗は翻る」
男――かつての無明隊長は、庭に入らず、門の外で言葉を置いた。
「京で、白い話はまだ続いている。“祇園の白狐”は、最近は“祠の風”と呼ばれるそうだ」
「いい名だ。名じゃねぇけど」
「名じゃないから、いい」
隊長は矢野の肩を一度叩き、灯を扇で払って消した。
闇は深くない。春の闇は、眼が慣れるのが速い。
「――学びは、残ったか」
「残りました」
「なら、完了だ」
隊長は振り返らずに去った。足音は、朝霧の底に吸い込まれていく。
***
翌朝。
朝霧館の門を開けると、露が石畳の目に沿って光っていた。
矢野は、門の柱に小さな紙片を見つける。
丸がひとつ。盥の輪のように、墨は薄い。
矢野は紙片を取らず、指で一度、輪郭をなぞってから、そっとそのままにした。
「紙は強い」
独り言は、門の外へ飛んで、竹の葉にぶつかり、やわらかく返ってきた。
稽古日和だ。
子どもらは走ってきて、勝手に整列して、勝手に笑い、勝手に黙る。
「まずは“間”を覚えろ」
矢野は繰り返し、盥に水を張り、輪を見せる。
「撥ねさせるな。形だけ残せ。これが“速いのに乱暴じゃねぇ”ってことだ」
同じ言葉を、少しずつ違う声で、毎朝言う。
言いながら、心の中で、もうひとつの声を聞く。
――“争いの前に終わらせろ”
師の声。
――“名は残すな、技だけ残せ”
隊の掟の声。
――“背中は俺が見る。お前は前だけ見ろ”
白い相棒の、ない声。
稽古が終わり、子どもらが庭に散ると、矢野はひとり縁側へ座った。
桜はまだ半分、枝に残っている。
風が通る。
竹刀が壁に立てかけたまま、かすかに鳴る。
懐から短刀を出す。
折らない。折れば名になる。名になれば、終わる。
鞘に戻す。
「お前の名は、俺の稽古の中にある」
くり返し、くり返し。
言葉は石のように重くならず、風のように軽くもならず、ただ、胸のちょうどいいところに置かれる。
門前を風が抜け、白いものがひとひら、桜の花びらと混じって庭を横切る。
矢野は立たない。
立たないで、笑う。
「また稽古つけろよ、馬鹿野郎」
返事はない。
けれど、返事のない返事が確かにある。
旗は竿で立つのではなく、風で翻る。
記録は紙で残るのではなく、呼吸で残る。
無敗の最強剣士は、今日もいない。
――だから、いる。
庭の端で、盥の水がふいに風を拾って、輪をひとつ作った。
輪はすぐに、見えなくなった。
だが、見えなくなっても、そこにある。
それで、十分だ。



