季節が二つ、静かに顔を入れ替えた。
夏の終わりの湿りは、いつのまにか土の下へ沈み、秋の乾きはひと冬を越えてから、春の薄い霞にほどけた。京の町は、そういう移り変わりの上に乗って、毎日、少しずつ違う呼吸を覚える。人の噂も同じで、呼吸の速さで伸び縮みする。
このところ、町には二つの物語が並行して広まっていた。
一つは、“無明隊の風雷小隊が手堅い”という話。
もう一つは、“白装束の幽霊が、盗人の足を止める”という話。
前者には署名があり、後者にはない。署名がある話は帳面に残り、署名のない話は胸の奥に残る。どちらが長く残るかといえば、町というものは、だいたい後者のほうを選ぶ。
祇園の女将・お蝶は、春初めに座敷の欄間を拭きながら、新客に笑って言った。
「白いのはね、礼がいいんだよ。名は言わないのにね」
新客は扇子を畳み、目を細める。
「名がないのに、礼がいい?」
「そうさ。礼を言われる前にいなくなる。礼を言えないと、人間は胸のどこかにそれを置いとく。それが、噂のカタチになるのさ」
お蝶は扇で灯を少しだけよけ、行灯の陰を作る。陰が濃くなるほど、言葉はよく染みる。
町医者は夜の往診の帰り、橋の真ん中で足を止めた。
「風が渡る前に、誰かが渡った跡がある」
誰に言うでもなく呟く。欄干の木目は夜露を吸い、板の端がわずかに反っている。先に誰かが手を置いたあとの温度だけが、まだ残っていた。
医者は懐から布を取り出し、金具の噛み合わせを拭いてからまた歩き出した。白い影がいるのなら、それはきっと、患者の枕元に先に着いて、呼吸の上ずりを一枚、撫で落としていくのだろう。彼はそう思って、笑いもせず、眉も寄せず、ただ歩いた。
子どもたちは、遊びの中で白い影をまねる。
「しゃべらないで、すうっと」
「雷役は俺!」
路地の端から端まで、二つの役が駆ける。ひとりは足音を消して曲がり角ごとに消え、ひとりはわざと足音を鳴らして追い越しざまに笑う。
「そっちは袋小路だぞ!」「風は袋小路を通るんだよ!」
意味など分かっていない。それでいい。遊びは伝承になり、伝承は作法になる。作法は、いざという時、人の刃より先に間合いを決める。
矢野蓮は、それを否定しない。だが肯定もしない。
問われれば、「夜は風が吹くもんだ」とだけ答え、盃を置く。盃の縁に唇を当てると、酒は舌より先に、喉の奥の砂利に触れる。砂利は昔からそこにあった。師の言葉と、静の沈黙が擦れて丸くなったやつだ。丸い石は、喉を傷つけない。けれど、飲み込めもしない。
ある晩、町角の古道具屋で、矢野は見覚えのある布包みに目を留めた。
白布に細い煤の筋。畳の目に沿わせて折る癖。端の重なりが半分だけずれる、あの几帳面な手。
店主は言う。
「旅人が置いてったんで、安くしときますよ」
矢野は買わない。買ってしまえば“名”になる。ただ、包みの上に手を添えて、しばらく黙る。指先が布の繊維の向きを読み、煤の線の細さを数える。店主が不思議そうに首を傾げた。
「どうかなされました?」
「風の具合を見てた」
そう言って笑い、店を出る。
春の風は、店の外で別の匂いを運んでいた。湯勢の立つ茶屋の湯気、苧殻を燃やす薄い煙、遠くの川で濡れた石が乾いていく匂い。どれにも、名はない。匂いは名を嫌う。
無明隊の屯所の夜、若い衆が焚き火を囲む。
「白装束、いつか名前が出るんですかね」
「出ねぇよ。出したら風が止む」
矢野は火の向こうで、短刀を取り出し、刃を灯にかざした。刃紋は静かに波打つ。折れば名になる。折らなければ、風のまま。
鞘に戻して、火を足で崩す。
「お前ら、覚えとけ。無敗ってのは、勝ちを数えねぇ奴のことだ。数えないから負けもしねぇ」
若い衆のひとりが笑い、ひとりが眉を寄せる。
矢野は続けた。
「勝った数は、刃の鈍りだ。数えると、刃は重くなる。重けりゃ、間に合わねぇ」
その言葉は矢野自身に向けたものでもある。口にして、はじめて胸の中の石が一つ、位置を変える。石の置き場所がよくなると、人は歩きやすくなる。
噂はやがて京から江戸へ、江戸から地方へ、形を変え、名もなく届く。
白装束の話は、誰の胸にも“自分だけが知っている誰か”として棲みつき、消えない。名前がないからこそ、消えない。名は旗だ。旗は風を必要とする。だが、白は旗ではない。旗を翻させるだけの、間合いの向こう側にいる。
***
春が一度、町の角を曲がると、雨が増えた。
雨の夜は、音が一枚、薄くなる。人の言葉が低くなり、足音が丸くなる。矢野はそういう夜のほうが好きだった。雷は鳴らなくていい。雨が鳴る。
その雨の夜に、女将のお蝶が差す傘の縁から、ことのほか細い滴が落ちていた。座敷へ通された新客が、傘を受け取りながら言う。
「白い狐って、本当にいるんですか」
「いるよ」
お蝶は即答する。
「狐は山にもいるし、人の中にもいる。白いのは、たいてい礼儀を知ってる」
「人の中の狐は、どうやって見分けるんです」
「名を言わないで礼を言うやつさ」
新客は笑い、扇を広げた。
「難しい」
「難しいことをやるのが、町を守るんだよ」
お蝶は声を落として続けた。
「この間ね、うちの若い子が夜道で怖い目に遭いかけて、でも何ごともなかった。あとで聞いたら、誰かが“すうっと”通っただけだって。……その“すうっと”が、どれだけ働いたか、誰も知らない。だから、うちは口を閉じる。目と耳だけは貸す」
新客は頷き、酒を一口飲む。
「それで十分だ」
そう言うと、お蝶はふっと笑って「いい客だね」と答えた。
町医者は、夜半に産婆と一緒に呼び出された。
生まれたばかりの子の泣き声は、夜のなかでいちばん強い。医者は包帯を解き、母の額の汗をぬぐった。
「外で風が鳴いてました」と産婆が言う。
「雨だ」
「いいえ、風です」
医者は窓に手をつき、木の濡れ具合を確かめる。
「……風だ」
夜の間に一度、誰かが戸口を開け、通りすがりに戸を戻していった痕がある。戸は少しだけ軽くなり、室の空気は深くなっていた。深い空気は、呼吸を助ける。母の胸が、一度だけ、楽に上下する。
医者は声を立てずに、礼を言った。誰に言ったのかは、自分でも分からない。言わねばならない礼というものは、名前を探さない。
***
夏に入ると、川の水が温む。
鴨川の橋の下で子どもたちが水遊びをし、川面に投げられた白い小石が太陽の角度で銀色に変わる。
「白狐の目だ!」
そう叫ぶ少年に、隣の子が「狐は目を置いていかないよ」と笑う。
「じゃあ、何を置くの」
「風」
少年はしばらく考えてから、濡れた手のひらを空にかざしてみる。
「分かんない」
「分かんなくていい」
分からないものの匂いは、夏の空気によく合う。
秋になると、古道具屋の棚に、旅人の置いていったものが増えた。
白い布の包みは、いつのまにか売れ残っている。
「珍しい手だよ」と店主は言う。「畳目に合わせて折るのは、関東の癖だね」
矢野は「そうか」と答え、やはり買わない。
「買わないんですか」
「買ったら、旗になる」
「旗?」
「風が必要になる」
店主は首をかしげ、笑って茶を出した。
「筆頭さん、たまに詩人みたいだ」
「詩なんか書けねぇよ」
茶は熱く、湯飲みは粗い。その粗さが、今はありがたい。滑り落ちない。
冬は短く、雪の代わりに霙が降る。霙は町の音を一段下げる。
その低い音のなかで、無明隊の夜回りは続く。
隊の若い衆は、矢野の歩幅をまねる。
「盥の水、盥の水」と口の中で言いながら、音を立てずに曲がり角を抜ける練習をする。
「筆頭、白い人は、冬でも白いんですか」
「冬は、白が多い」
「じゃあ、分かんないですね」
「分かんねぇもんのほうが、役に立つ」
若い衆はよけい分からない顔をし、それでも笑う。
分からない笑いは、町を温める。
***
春がもう一度、角を曲がった日。
矢野は、朝霧館の庭で竹を見上げた。
雪堂の庭はいつだって風の通りがいい。師が最初に植えたという孟宗は太く、根が深い。
「師匠」
「何だ」
「白い話、まだ続いてます」
雪堂は湯をすすり、縁の下の暗がりを見た。
「名がない話は、続く。名がない祈りと同じだ」
「祈り、ですか」
「祈りは、言葉より前にある。……お前のところの白いのは、祈る前に終わらせるのが得意だろう」
矢野は笑った。
「ええ。祈りの邪魔をするくらいには」
雪堂は、笑っていない目で矢野を見た。
「邪魔でいい。祈りが要らない夜は、町を深くする」
「はい」
「ただ、覚えておけ。祈りが要る夜もある。……その時は、雷が鳴れ」
矢野は深く頭を下げた。
「承知しました」
***
その夜、矢野は町角で、ふと立ち止まった。
古道具屋の店先に、あの白い包みがない。棚の上には、別の古布が積まれている。
「売れたのか」
「さっき、旅人が」
店主は笑って、片付けの手を止めなかった。
「包み方がうまくてね、売れながら、売れなかったみたいな顔で出ていったよ」
「売れながら、売れない?」
「うちは金はもらった。客も包みを持ってった。でも、棚の顔が変わらない。そういう売れ方だ」
矢野は「なるほど」と頷き、店の外に出る。
風が、顔を撫でる。
「……そういうことだ」
言葉は誰にも向けず、夜の中にほどけた。
その足で、矢野は川べりに出た。
川の音は、いつも同じに聞こえるが、同じ夜はひとつもない。
橋の下の影に、子どもたちが石を積んでいる。
「崩れたらどうする」
「積み直す」
「崩れねぇように積め」
「崩れないと、飽きる」
矢野は笑って、橋の上へ戻った。
飽きない夜が続けば、町は疲れる。崩れる夜があれば、積み直せる。
白い影は、崩しはしない。ただ、崩れないように、積み直しやすいように、手を添える。
名を残さずに。
***
夏の入口、無明隊の屯所に一通の手紙が届いた。
差出人はない。封は薄く、紙は厚い。
開くと、墨は少なかった。
――白装束の話は、店の売りものになる。
――売りものになれば、刃になる。
――刃になる前に、口を閉じる。
最後に、小さな丸が一つだけ描かれている。盥の輪のように。
隊長は手紙を前にしばらく黙り、封を畳んで矢野に渡した。
「お前の知り合いか」
「誰でもないです」
「誰でもないなら、誰でもある。……お蝶に回せ」
「承知」
矢野は手紙を袖に入れ、庭から外に出る。
空は高く、雲は薄い。風は軽く、名は重い。
重いものは、置き場所を選ぶ。置き場所を間違えると、人は動けなくなる。
お蝶は手紙を受け取ると、扇で一度、紙の匂いを送った。
「いい紙だね」
「はい」
「うちの女たちには、言葉でなく作法で教えるよ」
「助かります」
お蝶は目を細める。
「あんた、最近、顔が整ってきた」
「褒めてるんですか」
「褒めてるよ。空白の顔をしてる」
「空白にも顔があるんですね」
「あるさ。人の話を、ちゃんと受け取れる顔」
お蝶の言葉は、いつだって、直接すぎないところで当たる。矢野は、扇の影に軽く頭を下げた。
***
真夏の夜、雷が遠くで鳴った。
稲妻は町に落ちない。山のほうで光り、数呼吸おいてから、低い唸りが腹に来る。
矢野は縁側で、紅い小房を指でなぞった。
ほどけば鳴る。
ほどかない。
鳴らない夜を覚えるのも、雷の稽古だ。
足元では、猫が一匹、背を丸めて眠っている。猫は音に敏いが、雷には慣れている。
「お前も、名はないのか」
猫は答えず、尻尾だけを小さく振った。
その頃、京の外へ出た旅人の背にも、白装束の話は軽く乗っていた。
宿場町の茶屋で、女中が言う。
「京には白い人が出るんでしょ」
旅人は笑って、茶を飲み干す。
「出るかもしれない。出ないかもしれない。……でも、風は出る」
女中は首を傾げ、茶碗を洗いに下がった。
旅人は立ち上がり、腰に手拭を差し込む。
名はどこにも書かれない。
けれど、白い話は、どこにでも書ける。
***
秋の始まりに、無明隊の若い衆が、報告帳の端に小さな印を見つけた。
輪が一つ。盥の輪のように、墨は薄い。
記録係が首を傾げる。
「これは……」
矢野は、その上に掌を軽く置いた。
「風の印だ」
「書いていいんですか」
「いい。紙は強い」
若い衆が笑う。
「筆頭、最近、紙を褒めますね」
「紙を褒めると、人が救われることがある」
「どうして」
「紙に残せるなら、人に背負わせなくていい」
若い衆は「なるほど」と言いつつ、半分も分かっていない顔をした。
分からない半分は、明日、分かればいい。
その日、矢野は廊下の角で立ち止まり、空白の先に向かって、小さく頭を下げた。
――いないものよ。
――いたものよ。
どちらにもなれる言葉を、胸の中で折る。
折り目は、紙のためでなく、自分のためだ。折らないと、言葉は広がって、風に食われる。
夜、焚き火のそばで、矢野は若い衆にまたひとつ、難儀なことを教えた。
「“ここまで”って言葉と、“ここから”って言葉、同じ場所に置け」
「同じ場所に?」
「そうだ。足を置く場所の話だ。ここまで、って言ったら、そこに一度、止まる。ここから、って言ったら、同じ場所から歩く。止まりすぎるな。歩きすぎるな。……止め、は勝ちより速い」
若い衆は、火の粉を目で追いながら頷いた。
火の粉は、風に乗り、すぐに消える。
消えるから、残る。
残るのは、火の匂いだ。匂いは、名を嫌う。
***
冬の手前、冷たい風が町を細くする。
道の幅は同じでも、体の幅が少し縮む。
矢野はその細さを好む。細い町は、速い。余計な言葉が入る隙間がなく、足音だけが通る。
その夜、古道具屋の棚に、一枚の白い手ぬぐいがあった。
端に、紅の小さな房が一つ。
矢野は一瞬、指先を伸ばし、それから引っ込めた。
「それは、売り物じゃありません」と店主が言う。
「なら、置いておけ」
「置いておきます」
矢野は礼をして、外へ出た。
寒さは強くない。けれど、胸の石は少しだけ重い。
重いものを重いままにしておく力と、軽く持つ力は違う。
違うけれど、どちらも稽古が要る。
***
年が改まる前、隊長が矢野を呼んだ。
「白い話は、もう町のものだ」
「はい」
「町のものは、隊のものではない」
「承知しています」
「ただし、町が困ったら、隊が困れ。町が笑ったら、隊は黙れ」
「はい」
「雷は、遠くで鳴らしても聞こえる」
「風が、連れてきます」
隊長は盃を指で押しやり、灯をひとつ消した。
「お前の“証”は、折るな」
矢野は袖の中の短刀に指を添え、深く頭を下げた。
「折りません」
彼が折らないかぎり、名は風のままだ。
風のままなら、噂は続く。
続く噂は、ときに町を守る。
***
その冬の最後の夜、雪の代わりに白い息が町を漂った。
祇園の角で、お蝶が行灯の火を低くし、戸を半分だけ開ける。
通りがかった町医者が、それに軽く頭を下げる。
橋の上では、子どもが母親の手を引いて、白い石を探している。
古道具屋の棚の上では、紅の房が揺れないまま、夜を越す。
無明隊の焚き火は小さく、矢野の声は低い。
「無敗ってのは、勝ちを数えねぇ奴のことだ」
焚き火の火の粉がひとつ、空白に落ちる。
落ちた火は、音もなく消えた。
翌朝、風は向きを変える。
地面の粒が先に知らせる。
乾いた砂が踊り、濡れた土は呼吸を浅くする。
矢野は門を出て、足裏でその変化を拾った。
「今日も、間に合う」
誰にでもなく呟く。
雷は、鳴らなくていい。
町は、名のないまま、守られていく。
白い話は、今日もどこかで増える。
名前がないからこそ、消えない。
消えないからこそ、軽い。
軽いものは、速い。
速いものだけが、間に合う。
風が、廊下の角を折れていった。
そこに名はない。
けれど、こころには、ある。
その“ある”は、紙には載らない。
紙に載らないものが、町を厚くする。
噂は、今日も、やさしい。
雷は、今日も、遠い。
そして、白は、どこにもいないまま、誰の息の中にも、薄く残っている。
夏の終わりの湿りは、いつのまにか土の下へ沈み、秋の乾きはひと冬を越えてから、春の薄い霞にほどけた。京の町は、そういう移り変わりの上に乗って、毎日、少しずつ違う呼吸を覚える。人の噂も同じで、呼吸の速さで伸び縮みする。
このところ、町には二つの物語が並行して広まっていた。
一つは、“無明隊の風雷小隊が手堅い”という話。
もう一つは、“白装束の幽霊が、盗人の足を止める”という話。
前者には署名があり、後者にはない。署名がある話は帳面に残り、署名のない話は胸の奥に残る。どちらが長く残るかといえば、町というものは、だいたい後者のほうを選ぶ。
祇園の女将・お蝶は、春初めに座敷の欄間を拭きながら、新客に笑って言った。
「白いのはね、礼がいいんだよ。名は言わないのにね」
新客は扇子を畳み、目を細める。
「名がないのに、礼がいい?」
「そうさ。礼を言われる前にいなくなる。礼を言えないと、人間は胸のどこかにそれを置いとく。それが、噂のカタチになるのさ」
お蝶は扇で灯を少しだけよけ、行灯の陰を作る。陰が濃くなるほど、言葉はよく染みる。
町医者は夜の往診の帰り、橋の真ん中で足を止めた。
「風が渡る前に、誰かが渡った跡がある」
誰に言うでもなく呟く。欄干の木目は夜露を吸い、板の端がわずかに反っている。先に誰かが手を置いたあとの温度だけが、まだ残っていた。
医者は懐から布を取り出し、金具の噛み合わせを拭いてからまた歩き出した。白い影がいるのなら、それはきっと、患者の枕元に先に着いて、呼吸の上ずりを一枚、撫で落としていくのだろう。彼はそう思って、笑いもせず、眉も寄せず、ただ歩いた。
子どもたちは、遊びの中で白い影をまねる。
「しゃべらないで、すうっと」
「雷役は俺!」
路地の端から端まで、二つの役が駆ける。ひとりは足音を消して曲がり角ごとに消え、ひとりはわざと足音を鳴らして追い越しざまに笑う。
「そっちは袋小路だぞ!」「風は袋小路を通るんだよ!」
意味など分かっていない。それでいい。遊びは伝承になり、伝承は作法になる。作法は、いざという時、人の刃より先に間合いを決める。
矢野蓮は、それを否定しない。だが肯定もしない。
問われれば、「夜は風が吹くもんだ」とだけ答え、盃を置く。盃の縁に唇を当てると、酒は舌より先に、喉の奥の砂利に触れる。砂利は昔からそこにあった。師の言葉と、静の沈黙が擦れて丸くなったやつだ。丸い石は、喉を傷つけない。けれど、飲み込めもしない。
ある晩、町角の古道具屋で、矢野は見覚えのある布包みに目を留めた。
白布に細い煤の筋。畳の目に沿わせて折る癖。端の重なりが半分だけずれる、あの几帳面な手。
店主は言う。
「旅人が置いてったんで、安くしときますよ」
矢野は買わない。買ってしまえば“名”になる。ただ、包みの上に手を添えて、しばらく黙る。指先が布の繊維の向きを読み、煤の線の細さを数える。店主が不思議そうに首を傾げた。
「どうかなされました?」
「風の具合を見てた」
そう言って笑い、店を出る。
春の風は、店の外で別の匂いを運んでいた。湯勢の立つ茶屋の湯気、苧殻を燃やす薄い煙、遠くの川で濡れた石が乾いていく匂い。どれにも、名はない。匂いは名を嫌う。
無明隊の屯所の夜、若い衆が焚き火を囲む。
「白装束、いつか名前が出るんですかね」
「出ねぇよ。出したら風が止む」
矢野は火の向こうで、短刀を取り出し、刃を灯にかざした。刃紋は静かに波打つ。折れば名になる。折らなければ、風のまま。
鞘に戻して、火を足で崩す。
「お前ら、覚えとけ。無敗ってのは、勝ちを数えねぇ奴のことだ。数えないから負けもしねぇ」
若い衆のひとりが笑い、ひとりが眉を寄せる。
矢野は続けた。
「勝った数は、刃の鈍りだ。数えると、刃は重くなる。重けりゃ、間に合わねぇ」
その言葉は矢野自身に向けたものでもある。口にして、はじめて胸の中の石が一つ、位置を変える。石の置き場所がよくなると、人は歩きやすくなる。
噂はやがて京から江戸へ、江戸から地方へ、形を変え、名もなく届く。
白装束の話は、誰の胸にも“自分だけが知っている誰か”として棲みつき、消えない。名前がないからこそ、消えない。名は旗だ。旗は風を必要とする。だが、白は旗ではない。旗を翻させるだけの、間合いの向こう側にいる。
***
春が一度、町の角を曲がると、雨が増えた。
雨の夜は、音が一枚、薄くなる。人の言葉が低くなり、足音が丸くなる。矢野はそういう夜のほうが好きだった。雷は鳴らなくていい。雨が鳴る。
その雨の夜に、女将のお蝶が差す傘の縁から、ことのほか細い滴が落ちていた。座敷へ通された新客が、傘を受け取りながら言う。
「白い狐って、本当にいるんですか」
「いるよ」
お蝶は即答する。
「狐は山にもいるし、人の中にもいる。白いのは、たいてい礼儀を知ってる」
「人の中の狐は、どうやって見分けるんです」
「名を言わないで礼を言うやつさ」
新客は笑い、扇を広げた。
「難しい」
「難しいことをやるのが、町を守るんだよ」
お蝶は声を落として続けた。
「この間ね、うちの若い子が夜道で怖い目に遭いかけて、でも何ごともなかった。あとで聞いたら、誰かが“すうっと”通っただけだって。……その“すうっと”が、どれだけ働いたか、誰も知らない。だから、うちは口を閉じる。目と耳だけは貸す」
新客は頷き、酒を一口飲む。
「それで十分だ」
そう言うと、お蝶はふっと笑って「いい客だね」と答えた。
町医者は、夜半に産婆と一緒に呼び出された。
生まれたばかりの子の泣き声は、夜のなかでいちばん強い。医者は包帯を解き、母の額の汗をぬぐった。
「外で風が鳴いてました」と産婆が言う。
「雨だ」
「いいえ、風です」
医者は窓に手をつき、木の濡れ具合を確かめる。
「……風だ」
夜の間に一度、誰かが戸口を開け、通りすがりに戸を戻していった痕がある。戸は少しだけ軽くなり、室の空気は深くなっていた。深い空気は、呼吸を助ける。母の胸が、一度だけ、楽に上下する。
医者は声を立てずに、礼を言った。誰に言ったのかは、自分でも分からない。言わねばならない礼というものは、名前を探さない。
***
夏に入ると、川の水が温む。
鴨川の橋の下で子どもたちが水遊びをし、川面に投げられた白い小石が太陽の角度で銀色に変わる。
「白狐の目だ!」
そう叫ぶ少年に、隣の子が「狐は目を置いていかないよ」と笑う。
「じゃあ、何を置くの」
「風」
少年はしばらく考えてから、濡れた手のひらを空にかざしてみる。
「分かんない」
「分かんなくていい」
分からないものの匂いは、夏の空気によく合う。
秋になると、古道具屋の棚に、旅人の置いていったものが増えた。
白い布の包みは、いつのまにか売れ残っている。
「珍しい手だよ」と店主は言う。「畳目に合わせて折るのは、関東の癖だね」
矢野は「そうか」と答え、やはり買わない。
「買わないんですか」
「買ったら、旗になる」
「旗?」
「風が必要になる」
店主は首をかしげ、笑って茶を出した。
「筆頭さん、たまに詩人みたいだ」
「詩なんか書けねぇよ」
茶は熱く、湯飲みは粗い。その粗さが、今はありがたい。滑り落ちない。
冬は短く、雪の代わりに霙が降る。霙は町の音を一段下げる。
その低い音のなかで、無明隊の夜回りは続く。
隊の若い衆は、矢野の歩幅をまねる。
「盥の水、盥の水」と口の中で言いながら、音を立てずに曲がり角を抜ける練習をする。
「筆頭、白い人は、冬でも白いんですか」
「冬は、白が多い」
「じゃあ、分かんないですね」
「分かんねぇもんのほうが、役に立つ」
若い衆はよけい分からない顔をし、それでも笑う。
分からない笑いは、町を温める。
***
春がもう一度、角を曲がった日。
矢野は、朝霧館の庭で竹を見上げた。
雪堂の庭はいつだって風の通りがいい。師が最初に植えたという孟宗は太く、根が深い。
「師匠」
「何だ」
「白い話、まだ続いてます」
雪堂は湯をすすり、縁の下の暗がりを見た。
「名がない話は、続く。名がない祈りと同じだ」
「祈り、ですか」
「祈りは、言葉より前にある。……お前のところの白いのは、祈る前に終わらせるのが得意だろう」
矢野は笑った。
「ええ。祈りの邪魔をするくらいには」
雪堂は、笑っていない目で矢野を見た。
「邪魔でいい。祈りが要らない夜は、町を深くする」
「はい」
「ただ、覚えておけ。祈りが要る夜もある。……その時は、雷が鳴れ」
矢野は深く頭を下げた。
「承知しました」
***
その夜、矢野は町角で、ふと立ち止まった。
古道具屋の店先に、あの白い包みがない。棚の上には、別の古布が積まれている。
「売れたのか」
「さっき、旅人が」
店主は笑って、片付けの手を止めなかった。
「包み方がうまくてね、売れながら、売れなかったみたいな顔で出ていったよ」
「売れながら、売れない?」
「うちは金はもらった。客も包みを持ってった。でも、棚の顔が変わらない。そういう売れ方だ」
矢野は「なるほど」と頷き、店の外に出る。
風が、顔を撫でる。
「……そういうことだ」
言葉は誰にも向けず、夜の中にほどけた。
その足で、矢野は川べりに出た。
川の音は、いつも同じに聞こえるが、同じ夜はひとつもない。
橋の下の影に、子どもたちが石を積んでいる。
「崩れたらどうする」
「積み直す」
「崩れねぇように積め」
「崩れないと、飽きる」
矢野は笑って、橋の上へ戻った。
飽きない夜が続けば、町は疲れる。崩れる夜があれば、積み直せる。
白い影は、崩しはしない。ただ、崩れないように、積み直しやすいように、手を添える。
名を残さずに。
***
夏の入口、無明隊の屯所に一通の手紙が届いた。
差出人はない。封は薄く、紙は厚い。
開くと、墨は少なかった。
――白装束の話は、店の売りものになる。
――売りものになれば、刃になる。
――刃になる前に、口を閉じる。
最後に、小さな丸が一つだけ描かれている。盥の輪のように。
隊長は手紙を前にしばらく黙り、封を畳んで矢野に渡した。
「お前の知り合いか」
「誰でもないです」
「誰でもないなら、誰でもある。……お蝶に回せ」
「承知」
矢野は手紙を袖に入れ、庭から外に出る。
空は高く、雲は薄い。風は軽く、名は重い。
重いものは、置き場所を選ぶ。置き場所を間違えると、人は動けなくなる。
お蝶は手紙を受け取ると、扇で一度、紙の匂いを送った。
「いい紙だね」
「はい」
「うちの女たちには、言葉でなく作法で教えるよ」
「助かります」
お蝶は目を細める。
「あんた、最近、顔が整ってきた」
「褒めてるんですか」
「褒めてるよ。空白の顔をしてる」
「空白にも顔があるんですね」
「あるさ。人の話を、ちゃんと受け取れる顔」
お蝶の言葉は、いつだって、直接すぎないところで当たる。矢野は、扇の影に軽く頭を下げた。
***
真夏の夜、雷が遠くで鳴った。
稲妻は町に落ちない。山のほうで光り、数呼吸おいてから、低い唸りが腹に来る。
矢野は縁側で、紅い小房を指でなぞった。
ほどけば鳴る。
ほどかない。
鳴らない夜を覚えるのも、雷の稽古だ。
足元では、猫が一匹、背を丸めて眠っている。猫は音に敏いが、雷には慣れている。
「お前も、名はないのか」
猫は答えず、尻尾だけを小さく振った。
その頃、京の外へ出た旅人の背にも、白装束の話は軽く乗っていた。
宿場町の茶屋で、女中が言う。
「京には白い人が出るんでしょ」
旅人は笑って、茶を飲み干す。
「出るかもしれない。出ないかもしれない。……でも、風は出る」
女中は首を傾げ、茶碗を洗いに下がった。
旅人は立ち上がり、腰に手拭を差し込む。
名はどこにも書かれない。
けれど、白い話は、どこにでも書ける。
***
秋の始まりに、無明隊の若い衆が、報告帳の端に小さな印を見つけた。
輪が一つ。盥の輪のように、墨は薄い。
記録係が首を傾げる。
「これは……」
矢野は、その上に掌を軽く置いた。
「風の印だ」
「書いていいんですか」
「いい。紙は強い」
若い衆が笑う。
「筆頭、最近、紙を褒めますね」
「紙を褒めると、人が救われることがある」
「どうして」
「紙に残せるなら、人に背負わせなくていい」
若い衆は「なるほど」と言いつつ、半分も分かっていない顔をした。
分からない半分は、明日、分かればいい。
その日、矢野は廊下の角で立ち止まり、空白の先に向かって、小さく頭を下げた。
――いないものよ。
――いたものよ。
どちらにもなれる言葉を、胸の中で折る。
折り目は、紙のためでなく、自分のためだ。折らないと、言葉は広がって、風に食われる。
夜、焚き火のそばで、矢野は若い衆にまたひとつ、難儀なことを教えた。
「“ここまで”って言葉と、“ここから”って言葉、同じ場所に置け」
「同じ場所に?」
「そうだ。足を置く場所の話だ。ここまで、って言ったら、そこに一度、止まる。ここから、って言ったら、同じ場所から歩く。止まりすぎるな。歩きすぎるな。……止め、は勝ちより速い」
若い衆は、火の粉を目で追いながら頷いた。
火の粉は、風に乗り、すぐに消える。
消えるから、残る。
残るのは、火の匂いだ。匂いは、名を嫌う。
***
冬の手前、冷たい風が町を細くする。
道の幅は同じでも、体の幅が少し縮む。
矢野はその細さを好む。細い町は、速い。余計な言葉が入る隙間がなく、足音だけが通る。
その夜、古道具屋の棚に、一枚の白い手ぬぐいがあった。
端に、紅の小さな房が一つ。
矢野は一瞬、指先を伸ばし、それから引っ込めた。
「それは、売り物じゃありません」と店主が言う。
「なら、置いておけ」
「置いておきます」
矢野は礼をして、外へ出た。
寒さは強くない。けれど、胸の石は少しだけ重い。
重いものを重いままにしておく力と、軽く持つ力は違う。
違うけれど、どちらも稽古が要る。
***
年が改まる前、隊長が矢野を呼んだ。
「白い話は、もう町のものだ」
「はい」
「町のものは、隊のものではない」
「承知しています」
「ただし、町が困ったら、隊が困れ。町が笑ったら、隊は黙れ」
「はい」
「雷は、遠くで鳴らしても聞こえる」
「風が、連れてきます」
隊長は盃を指で押しやり、灯をひとつ消した。
「お前の“証”は、折るな」
矢野は袖の中の短刀に指を添え、深く頭を下げた。
「折りません」
彼が折らないかぎり、名は風のままだ。
風のままなら、噂は続く。
続く噂は、ときに町を守る。
***
その冬の最後の夜、雪の代わりに白い息が町を漂った。
祇園の角で、お蝶が行灯の火を低くし、戸を半分だけ開ける。
通りがかった町医者が、それに軽く頭を下げる。
橋の上では、子どもが母親の手を引いて、白い石を探している。
古道具屋の棚の上では、紅の房が揺れないまま、夜を越す。
無明隊の焚き火は小さく、矢野の声は低い。
「無敗ってのは、勝ちを数えねぇ奴のことだ」
焚き火の火の粉がひとつ、空白に落ちる。
落ちた火は、音もなく消えた。
翌朝、風は向きを変える。
地面の粒が先に知らせる。
乾いた砂が踊り、濡れた土は呼吸を浅くする。
矢野は門を出て、足裏でその変化を拾った。
「今日も、間に合う」
誰にでもなく呟く。
雷は、鳴らなくていい。
町は、名のないまま、守られていく。
白い話は、今日もどこかで増える。
名前がないからこそ、消えない。
消えないからこそ、軽い。
軽いものは、速い。
速いものだけが、間に合う。
風が、廊下の角を折れていった。
そこに名はない。
けれど、こころには、ある。
その“ある”は、紙には載らない。
紙に載らないものが、町を厚くする。
噂は、今日も、やさしい。
雷は、今日も、遠い。
そして、白は、どこにもいないまま、誰の息の中にも、薄く残っている。



