季節が二つ、静かに顔を入れ替えた。
 夏の終わりの湿りは、いつのまにか土の下へ沈み、秋の乾きはひと冬を越えてから、春の薄い霞にほどけた。京の町は、そういう移り変わりの上に乗って、毎日、少しずつ違う呼吸を覚える。人の噂も同じで、呼吸の速さで伸び縮みする。

 このところ、町には二つの物語が並行して広まっていた。
 一つは、“無明隊の風雷小隊が手堅い”という話。
 もう一つは、“白装束の幽霊が、盗人の足を止める”という話。
 前者には署名があり、後者にはない。署名がある話は帳面に残り、署名のない話は胸の奥に残る。どちらが長く残るかといえば、町というものは、だいたい後者のほうを選ぶ。

 祇園の女将・お蝶は、春初めに座敷の欄間を拭きながら、新客に笑って言った。
 「白いのはね、礼がいいんだよ。名は言わないのにね」
 新客は扇子を畳み、目を細める。
 「名がないのに、礼がいい?」
 「そうさ。礼を言われる前にいなくなる。礼を言えないと、人間は胸のどこかにそれを置いとく。それが、噂のカタチになるのさ」
 お蝶は扇で灯を少しだけよけ、行灯の陰を作る。陰が濃くなるほど、言葉はよく染みる。

 町医者は夜の往診の帰り、橋の真ん中で足を止めた。
 「風が渡る前に、誰かが渡った跡がある」
 誰に言うでもなく呟く。欄干の木目は夜露を吸い、板の端がわずかに反っている。先に誰かが手を置いたあとの温度だけが、まだ残っていた。
 医者は懐から布を取り出し、金具の噛み合わせを拭いてからまた歩き出した。白い影がいるのなら、それはきっと、患者の枕元に先に着いて、呼吸の上ずりを一枚、撫で落としていくのだろう。彼はそう思って、笑いもせず、眉も寄せず、ただ歩いた。

 子どもたちは、遊びの中で白い影をまねる。
 「しゃべらないで、すうっと」
 「雷役は俺!」
 路地の端から端まで、二つの役が駆ける。ひとりは足音を消して曲がり角ごとに消え、ひとりはわざと足音を鳴らして追い越しざまに笑う。
 「そっちは袋小路だぞ!」「風は袋小路を通るんだよ!」
 意味など分かっていない。それでいい。遊びは伝承になり、伝承は作法になる。作法は、いざという時、人の刃より先に間合いを決める。

 矢野蓮は、それを否定しない。だが肯定もしない。
 問われれば、「夜は風が吹くもんだ」とだけ答え、盃を置く。盃の縁に唇を当てると、酒は舌より先に、喉の奥の砂利に触れる。砂利は昔からそこにあった。師の言葉と、静の沈黙が擦れて丸くなったやつだ。丸い石は、喉を傷つけない。けれど、飲み込めもしない。

 ある晩、町角の古道具屋で、矢野は見覚えのある布包みに目を留めた。
 白布に細い煤の筋。畳の目に沿わせて折る癖。端の重なりが半分だけずれる、あの几帳面な手。
 店主は言う。
 「旅人が置いてったんで、安くしときますよ」
 矢野は買わない。買ってしまえば“名”になる。ただ、包みの上に手を添えて、しばらく黙る。指先が布の繊維の向きを読み、煤の線の細さを数える。店主が不思議そうに首を傾げた。
 「どうかなされました?」
 「風の具合を見てた」
 そう言って笑い、店を出る。
 春の風は、店の外で別の匂いを運んでいた。湯勢の立つ茶屋の湯気、苧殻を燃やす薄い煙、遠くの川で濡れた石が乾いていく匂い。どれにも、名はない。匂いは名を嫌う。

 無明隊の屯所の夜、若い衆が焚き火を囲む。
 「白装束、いつか名前が出るんですかね」
 「出ねぇよ。出したら風が止む」
 矢野は火の向こうで、短刀を取り出し、刃を灯にかざした。刃紋は静かに波打つ。折れば名になる。折らなければ、風のまま。
 鞘に戻して、火を足で崩す。
 「お前ら、覚えとけ。無敗ってのは、勝ちを数えねぇ奴のことだ。数えないから負けもしねぇ」
 若い衆のひとりが笑い、ひとりが眉を寄せる。
 矢野は続けた。
 「勝った数は、刃の鈍りだ。数えると、刃は重くなる。重けりゃ、間に合わねぇ」
 その言葉は矢野自身に向けたものでもある。口にして、はじめて胸の中の石が一つ、位置を変える。石の置き場所がよくなると、人は歩きやすくなる。

 噂はやがて京から江戸へ、江戸から地方へ、形を変え、名もなく届く。
 白装束の話は、誰の胸にも“自分だけが知っている誰か”として棲みつき、消えない。名前がないからこそ、消えない。名は旗だ。旗は風を必要とする。だが、白は旗ではない。旗を翻させるだけの、間合いの向こう側にいる。

 ***

 春が一度、町の角を曲がると、雨が増えた。
 雨の夜は、音が一枚、薄くなる。人の言葉が低くなり、足音が丸くなる。矢野はそういう夜のほうが好きだった。雷は鳴らなくていい。雨が鳴る。

 その雨の夜に、女将のお蝶が差す傘の縁から、ことのほか細い滴が落ちていた。座敷へ通された新客が、傘を受け取りながら言う。
 「白い狐って、本当にいるんですか」
 「いるよ」
 お蝶は即答する。
 「狐は山にもいるし、人の中にもいる。白いのは、たいてい礼儀を知ってる」
 「人の中の狐は、どうやって見分けるんです」
 「名を言わないで礼を言うやつさ」
 新客は笑い、扇を広げた。
 「難しい」
 「難しいことをやるのが、町を守るんだよ」
 お蝶は声を落として続けた。
 「この間ね、うちの若い子が夜道で怖い目に遭いかけて、でも何ごともなかった。あとで聞いたら、誰かが“すうっと”通っただけだって。……その“すうっと”が、どれだけ働いたか、誰も知らない。だから、うちは口を閉じる。目と耳だけは貸す」
 新客は頷き、酒を一口飲む。
 「それで十分だ」
 そう言うと、お蝶はふっと笑って「いい客だね」と答えた。

 町医者は、夜半に産婆と一緒に呼び出された。
 生まれたばかりの子の泣き声は、夜のなかでいちばん強い。医者は包帯を解き、母の額の汗をぬぐった。
 「外で風が鳴いてました」と産婆が言う。
 「雨だ」
 「いいえ、風です」
 医者は窓に手をつき、木の濡れ具合を確かめる。
 「……風だ」
 夜の間に一度、誰かが戸口を開け、通りすがりに戸を戻していった痕がある。戸は少しだけ軽くなり、室の空気は深くなっていた。深い空気は、呼吸を助ける。母の胸が、一度だけ、楽に上下する。
 医者は声を立てずに、礼を言った。誰に言ったのかは、自分でも分からない。言わねばならない礼というものは、名前を探さない。

 ***

 夏に入ると、川の水が温む。
 鴨川の橋の下で子どもたちが水遊びをし、川面に投げられた白い小石が太陽の角度で銀色に変わる。
 「白狐の目だ!」
 そう叫ぶ少年に、隣の子が「狐は目を置いていかないよ」と笑う。
 「じゃあ、何を置くの」
 「風」
 少年はしばらく考えてから、濡れた手のひらを空にかざしてみる。
 「分かんない」
 「分かんなくていい」
 分からないものの匂いは、夏の空気によく合う。

 秋になると、古道具屋の棚に、旅人の置いていったものが増えた。
 白い布の包みは、いつのまにか売れ残っている。
 「珍しい手だよ」と店主は言う。「畳目に合わせて折るのは、関東の癖だね」
 矢野は「そうか」と答え、やはり買わない。
 「買わないんですか」
 「買ったら、旗になる」
 「旗?」
 「風が必要になる」
 店主は首をかしげ、笑って茶を出した。
 「筆頭さん、たまに詩人みたいだ」
 「詩なんか書けねぇよ」
 茶は熱く、湯飲みは粗い。その粗さが、今はありがたい。滑り落ちない。

 冬は短く、雪の代わりに霙が降る。霙は町の音を一段下げる。
 その低い音のなかで、無明隊の夜回りは続く。
 隊の若い衆は、矢野の歩幅をまねる。
 「盥の水、盥の水」と口の中で言いながら、音を立てずに曲がり角を抜ける練習をする。
 「筆頭、白い人は、冬でも白いんですか」
 「冬は、白が多い」
 「じゃあ、分かんないですね」
 「分かんねぇもんのほうが、役に立つ」
 若い衆はよけい分からない顔をし、それでも笑う。
 分からない笑いは、町を温める。

 ***

 春がもう一度、角を曲がった日。
 矢野は、朝霧館の庭で竹を見上げた。
雪堂の庭はいつだって風の通りがいい。師が最初に植えたという孟宗は太く、根が深い。
 「師匠」
 「何だ」
 「白い話、まだ続いてます」
 雪堂は湯をすすり、縁の下の暗がりを見た。
 「名がない話は、続く。名がない祈りと同じだ」
 「祈り、ですか」
 「祈りは、言葉より前にある。……お前のところの白いのは、祈る前に終わらせるのが得意だろう」
 矢野は笑った。
 「ええ。祈りの邪魔をするくらいには」
 雪堂は、笑っていない目で矢野を見た。
 「邪魔でいい。祈りが要らない夜は、町を深くする」
 「はい」
 「ただ、覚えておけ。祈りが要る夜もある。……その時は、雷が鳴れ」
 矢野は深く頭を下げた。
 「承知しました」

 ***

 その夜、矢野は町角で、ふと立ち止まった。
 古道具屋の店先に、あの白い包みがない。棚の上には、別の古布が積まれている。
 「売れたのか」
 「さっき、旅人が」
 店主は笑って、片付けの手を止めなかった。
 「包み方がうまくてね、売れながら、売れなかったみたいな顔で出ていったよ」
 「売れながら、売れない?」
 「うちは金はもらった。客も包みを持ってった。でも、棚の顔が変わらない。そういう売れ方だ」
 矢野は「なるほど」と頷き、店の外に出る。
 風が、顔を撫でる。
 「……そういうことだ」
 言葉は誰にも向けず、夜の中にほどけた。

 その足で、矢野は川べりに出た。
 川の音は、いつも同じに聞こえるが、同じ夜はひとつもない。
 橋の下の影に、子どもたちが石を積んでいる。
 「崩れたらどうする」
 「積み直す」
 「崩れねぇように積め」
 「崩れないと、飽きる」
 矢野は笑って、橋の上へ戻った。
 飽きない夜が続けば、町は疲れる。崩れる夜があれば、積み直せる。
 白い影は、崩しはしない。ただ、崩れないように、積み直しやすいように、手を添える。
 名を残さずに。

 ***

 夏の入口、無明隊の屯所に一通の手紙が届いた。
 差出人はない。封は薄く、紙は厚い。
 開くと、墨は少なかった。
 ――白装束の話は、店の売りものになる。
 ――売りものになれば、刃になる。
 ――刃になる前に、口を閉じる。
 最後に、小さな丸が一つだけ描かれている。盥の輪のように。
 隊長は手紙を前にしばらく黙り、封を畳んで矢野に渡した。
 「お前の知り合いか」
 「誰でもないです」
 「誰でもないなら、誰でもある。……お蝶に回せ」
 「承知」
 矢野は手紙を袖に入れ、庭から外に出る。
 空は高く、雲は薄い。風は軽く、名は重い。
 重いものは、置き場所を選ぶ。置き場所を間違えると、人は動けなくなる。

 お蝶は手紙を受け取ると、扇で一度、紙の匂いを送った。
 「いい紙だね」
 「はい」
 「うちの女たちには、言葉でなく作法で教えるよ」
 「助かります」
 お蝶は目を細める。
 「あんた、最近、顔が整ってきた」
 「褒めてるんですか」
 「褒めてるよ。空白の顔をしてる」
 「空白にも顔があるんですね」
 「あるさ。人の話を、ちゃんと受け取れる顔」
 お蝶の言葉は、いつだって、直接すぎないところで当たる。矢野は、扇の影に軽く頭を下げた。

 ***

 真夏の夜、雷が遠くで鳴った。
 稲妻は町に落ちない。山のほうで光り、数呼吸おいてから、低い唸りが腹に来る。
 矢野は縁側で、紅い小房を指でなぞった。
 ほどけば鳴る。
 ほどかない。
 鳴らない夜を覚えるのも、雷の稽古だ。
 足元では、猫が一匹、背を丸めて眠っている。猫は音に敏いが、雷には慣れている。
 「お前も、名はないのか」
 猫は答えず、尻尾だけを小さく振った。

 その頃、京の外へ出た旅人の背にも、白装束の話は軽く乗っていた。
 宿場町の茶屋で、女中が言う。
 「京には白い人が出るんでしょ」
 旅人は笑って、茶を飲み干す。
 「出るかもしれない。出ないかもしれない。……でも、風は出る」
 女中は首を傾げ、茶碗を洗いに下がった。
 旅人は立ち上がり、腰に手拭を差し込む。
 名はどこにも書かれない。
 けれど、白い話は、どこにでも書ける。

 ***

 秋の始まりに、無明隊の若い衆が、報告帳の端に小さな印を見つけた。
 輪が一つ。盥の輪のように、墨は薄い。
 記録係が首を傾げる。
 「これは……」
 矢野は、その上に掌を軽く置いた。
 「風の印だ」
 「書いていいんですか」
 「いい。紙は強い」
 若い衆が笑う。
 「筆頭、最近、紙を褒めますね」
 「紙を褒めると、人が救われることがある」
 「どうして」
 「紙に残せるなら、人に背負わせなくていい」
 若い衆は「なるほど」と言いつつ、半分も分かっていない顔をした。
 分からない半分は、明日、分かればいい。

 その日、矢野は廊下の角で立ち止まり、空白の先に向かって、小さく頭を下げた。
 ――いないものよ。
 ――いたものよ。
 どちらにもなれる言葉を、胸の中で折る。
 折り目は、紙のためでなく、自分のためだ。折らないと、言葉は広がって、風に食われる。

 夜、焚き火のそばで、矢野は若い衆にまたひとつ、難儀なことを教えた。
 「“ここまで”って言葉と、“ここから”って言葉、同じ場所に置け」
 「同じ場所に?」
 「そうだ。足を置く場所の話だ。ここまで、って言ったら、そこに一度、止まる。ここから、って言ったら、同じ場所から歩く。止まりすぎるな。歩きすぎるな。……止め、は勝ちより速い」
 若い衆は、火の粉を目で追いながら頷いた。
 火の粉は、風に乗り、すぐに消える。
 消えるから、残る。
 残るのは、火の匂いだ。匂いは、名を嫌う。

 ***

 冬の手前、冷たい風が町を細くする。
 道の幅は同じでも、体の幅が少し縮む。
 矢野はその細さを好む。細い町は、速い。余計な言葉が入る隙間がなく、足音だけが通る。
 その夜、古道具屋の棚に、一枚の白い手ぬぐいがあった。
 端に、紅の小さな房が一つ。
 矢野は一瞬、指先を伸ばし、それから引っ込めた。
 「それは、売り物じゃありません」と店主が言う。
 「なら、置いておけ」
 「置いておきます」
 矢野は礼をして、外へ出た。
 寒さは強くない。けれど、胸の石は少しだけ重い。
 重いものを重いままにしておく力と、軽く持つ力は違う。
 違うけれど、どちらも稽古が要る。

 ***

 年が改まる前、隊長が矢野を呼んだ。
 「白い話は、もう町のものだ」
「はい」
 「町のものは、隊のものではない」
 「承知しています」
 「ただし、町が困ったら、隊が困れ。町が笑ったら、隊は黙れ」
 「はい」
 「雷は、遠くで鳴らしても聞こえる」
 「風が、連れてきます」
 隊長は盃を指で押しやり、灯をひとつ消した。
 「お前の“証”は、折るな」
 矢野は袖の中の短刀に指を添え、深く頭を下げた。
 「折りません」
 彼が折らないかぎり、名は風のままだ。
 風のままなら、噂は続く。
 続く噂は、ときに町を守る。

 ***

 その冬の最後の夜、雪の代わりに白い息が町を漂った。
 祇園の角で、お蝶が行灯の火を低くし、戸を半分だけ開ける。
 通りがかった町医者が、それに軽く頭を下げる。
 橋の上では、子どもが母親の手を引いて、白い石を探している。
 古道具屋の棚の上では、紅の房が揺れないまま、夜を越す。
 無明隊の焚き火は小さく、矢野の声は低い。
 「無敗ってのは、勝ちを数えねぇ奴のことだ」
 焚き火の火の粉がひとつ、空白に落ちる。
 落ちた火は、音もなく消えた。

 翌朝、風は向きを変える。
 地面の粒が先に知らせる。
 乾いた砂が踊り、濡れた土は呼吸を浅くする。
 矢野は門を出て、足裏でその変化を拾った。
 「今日も、間に合う」
 誰にでもなく呟く。
 雷は、鳴らなくていい。
 町は、名のないまま、守られていく。
 白い話は、今日もどこかで増える。
 名前がないからこそ、消えない。
 消えないからこそ、軽い。
 軽いものは、速い。
 速いものだけが、間に合う。

 風が、廊下の角を折れていった。
 そこに名はない。
 けれど、こころには、ある。
 その“ある”は、紙には載らない。
 紙に載らないものが、町を厚くする。
 噂は、今日も、やさしい。
 雷は、今日も、遠い。
 そして、白は、どこにもいないまま、誰の息の中にも、薄く残っている。