朝は来た。けれど、池月屋の夜はまだどこかに残っていた。
 無明隊の屯所の帳場には、湿った灰の匂いと、油紙のかすかな甘さが混じる。報告帳は開かれたまま、紙の端が夜露を吸ったみたいに冷たい。記録係が筆を走らせ、事実だけを行に並べていく。

 ――押収 火蓋部品 二十四。
 ――押収 両替商印札 十包。
 ――拘束 浪士 十七。
 ――負傷 軽微 四。
 ――鎮火 旅籠焼損 廊下一、座敷二。

 欄の最後に、署名が三つ並ぶ。
 「隊長」「記録」「先鋒筆頭・矢野蓮」。
 もう一つ、そこにあるはずの名は、どこにもない。記録係が視線を上げるわけでも、ため息をつくわけでもない。空白は空白の顔で、ただそこにいる。

 縁側から吹いてくる風が、紙を一枚だけめくった。若い隊士がそれを押さえ、ぼそりと口にする。
 「筆頭の、相棒……どこ行きやした」
 矢野は、つけていた筆を静かに置く。
 「いねぇよ、もとから」
 声は荒くない。けれど、いつもより低い。喉の奥に砂利をひとつ落としたみたいな、すこし重い音。

 若い隊士は目を瞬かせ、黙った。空白は胸の奥のどこかにまで写り込み、妙に居心地の悪い静けさを作る。
 矢野は報告帳を閉じると、表紙に掌を当てた。紙は体温を吸うが、空白は吸わない。空いた欄は、触れても重みを持たない。なのに、目を逸らすと追いかけてくる。
 「……おい、外の片付け、手ぇ貸してこい。細けぇ灰が風で戻ってくる」
 若い隊士が「はい」と出ていく。矢野は一拍待ってから、自分も立ち上がった。

 町では、夜更けに白い影が駆けた噂がもう広がっている。
 「祇園の白狐が池の月を食った」
 「雷の槍と並んで走った」
 酒肆では尾ひれが増え、名も姿も混ざり、近所の子らは夜更けまで起きていて親に叱られる。誰かが笑って、誰かが怖がり、誰かが信じる。名は一度も口に上らないのに、噂は勝手に成長していく。

 隊長は私室の灯をしぼり、矢野を呼んだ。
 「いないものを、いたと言うな」
 「言いません」
 「いないものを、探すな」
「探しません」
 短い応答。嘘ではない。けれど、片側だけを真にしておくのは、矢野にとって簡単なことではなかった。

 廊下の角に立つたびに、彼は風を読むのをやめない。
 夜回りの路地、廃寺の井戸、朝霧館の庭。どこにも白はいない。なのに、足元の砂の寄り方、提灯の揺れ、縁側の板の“乾き”に、先に誰かが歩いた痕が残ることがある。踏まれていないのに、薄く折り目だけがついた布の端みたいに。そんな痕に出会う夜は、彼は酒をやめる。喉の奥の砂利が、水では流れないと知っているからだ。代わりに、静が語った難儀な言い回しを門弟に教える。

 「盥の水だ。撥ねるな、形だけ残せ」
 「形って、何の形で?」と若いのが首を傾げる。
 「足だよ。突いた足の形。音の形。お前の“やったつもり”じゃなく、相手の耳に残る形だ」
 説明はややこしい。だが、ややこしさの中に“残る”筋だけがあって、矢野の稽古は確かに変わった。突きは速さを増し、止めは柔らかくなり、柄尻は前よりも少しだけ低い位置で止まるようになった。

 その変化を嗅ぎ取る鼻を持つ者は、隊の中にも町にもいる。
 「筆頭、丸くなりましたかね」
 「違ぇよ、風が強くなっただけだ」
 若い衆同士のささやきは、夕餉の湯気に混じって天井へ消えた。

 帳面には空白が続く。空白は虚ではない。必要なものを通す“門”だ。矢野はそれを理解している。空白を守るのは、雷の役目だとも。
 その夜、彼は朝霧館の門前に立ち、小さく頭を下げた。
 「師匠。名は残らねぇが、技は残った。俺はそれで十分だと思えるほど、大人じゃねぇよ。……でも、そういう約束だったんだ」
 竹が一度鳴って、風が通った。
 縁の角を白いものが折れて消えた――気がした。矢野は追わない。追ってはいけないものは、世にある。雷は空を見上げ、次に鳴るべき方角を探す。

 ***

 昼下がりの屯所は、いつもより静かだった。
 池月屋の後始末は長引かず、役目は予定どおりに町役へ渡った。だが、静かなのはそのせいだけではない。人は口を閉じることで、空白に合掌する。誰も言わないことで、誰かがいた事実を守る。そんな沈黙が、板間に薄く敷かれていた。

 記録係の青年が、帳簿に挟む薄紙を数えながら言う。
 「筆頭」
 「ん」
 「こういう“空き”って、どこまで空けていいんですか」
「どこまででも、だ。紙が破けねぇ範囲でな」
 青年は笑って、「紙は強いです」と応じた。「紙は、たまに人より強い」
 矢野は「そうだ」と答え、帯を結び直した。「だからよ、紙が持てねぇもんは、人が持つ」

 「……“証”ですか」
 「証も、責めも、冗談も」
 「冗談?」
 「冗談がねぇと、紙はすぐ硬くなる。硬くなると、折れて刺さる」

 青年は筆を止め、息で笑った。
 「筆頭って、たまに静さんみたいなこと言いますね」
 矢野は眉を上げ、わざとらしく肩をすくめる。
 「へぇ。聞かせてくれよ、そいつは」
 「例えば、“盥の水”とか」
 「おう。あれは俺の持ちネタになった」
 「“名は風に。約定だけ人に”も、覚えてます」
 矢野の掌が、袖の奥で一瞬、止まる。
 「……そいつは、いい台詞だ」
 「誰の言葉です?」
 「俺の。今日からは」
 青年は目を丸くし、それから笑って「承知」と言った。

 ***

 夜。
 矢野は見回りを一人で受け持った。祇園筋は雨上がりで、石畳が行灯の光を鈍く返す。水無月庵の前を通ると、女将が箒を持ったまま目礼した。
 「筆頭さん」
 「姐さん、商売は」
 「ぼちぼち。白い狐が出たとか出ないとかで、客が早く帰っちまうよ」
 「狐は人見知りだ。見たって言ってるのは、たいてい酒だ」
 女将は笑って、箒の先で路地の砂を寄せる。
 「……あの子は、どうしたいんだい」
 「あの子?」
 「白いのさ」
 「狐のことか」
 「違うね。人間の子」
 箒の先が止まる。
 「名前は?」
 女将は扇で口元を隠して、「風に」と冗談めかす。
 矢野は笑い、空を見上げた。
 「風は、今夜は南」
 「じゃ、明日は晴れだね」
 「そう祈ろう」
 女将は箒を肩に担ぎ、「祈りはあんたの役目じゃないだろ」と言いながら、敷居の影に消えた。

 祇園の路地を抜け、鴨川の岸へ出る。
 夜の水は、名を持たない。
 橋の欄干に手を置くと、板の乾き方で昼の熱がどれくらい残ったかが分かる。矢野は板の端を指でたたき、かつて静がやったみたいに、音の短さを数えた。
 「……三」
 木は素直だ。素直なものは、誤魔化しが効かない。
 「なぁ、静」
 誰もいない川へ、呟く。
 「お前の“いなかったことにしてくれ”って頼みはよ、俺には無理だ。……でも、やる。お前が望んだなら、やる」
 言ってから、苦笑いが漏れた。
「勝手だよな。居ねぇ相手を相手に、勝手に約束してよ」

 風が、川面を一度だけ撫でた。
 袖の奥で、紅い小さな房が、短く揺れる。
 矢野はうなじの汗を手拭で拭い、橋を渡りきった。

 ***

 数日して、空白は町全体に薄く広がった。
 噂は寓話に変わり、寓話はおもちゃになる。
 子が石を積み、白い小石を一番上に置いては「狐のしっぽだ」と笑い、転がして「風だ」と叫ぶ。母親が「近所迷惑」と叱り、父親が「いいじゃないか」と笑う。その笑いを、町の灯が受け止める。

 無明隊の稽古場では、異変がひとつ。
 矢野が稽古の合間に、若い衆へ「止め」の方を長めに教えるようになった。
 「勝つより、止める。止めるほうが、場が速く収まる」
 「でも、勝たなきゃ」
 「勝ちは結果だ。止めは目的だ」
 静の言いそうな言い回しをわざと使い、若い衆が首を傾げるのを見届ける。分からない顔は、明日分かる顔になる。そういう“遅い速さ”も、町には必要だ。

 「筆頭」
 稽古後、鴇田が珍しく、よそゆきの顔で近づいてきた。
 「あの件……すまなかった」
 濡れ衣の夜。あの時のことだ。
 矢野は手拭で首筋を拭い、少しだけ肩を回した。
 「掟の顔、保てたろ」
 鴇田は目を伏せる。
 「……ああ」
 「なら、それでいい」
 「だが、お前のほうは」
 「俺は証だ」
 「何の」
 「風の」
 鴇田は息を吐き、口の端をわずかに上げた。
 「お前、ほんと、丸くなったな」
 「風が強くなっただけだ」
 ふたりは笑い、背中で別れた。

 ***

 夜半の巡回で、矢野は廃寺へ寄り道した。
 灯籠の火は入れない。井戸の端に盥を置いた形の丸い跡だけが、土に残っている。指でなぞると、わずかな起伏がある。
 「盥の水」
 口の中で転がす。音は冷たく、少し甘い。
 井戸の中を覗き込むと、闇は深いが、水は澄んでいる。顔を映そうにも、月がない。映るのは、肩の線だけ。
 「師匠」
 小声で呼ぶと、風が来た。返事でなく、注意の合図のように。
 矢野は井戸の石に掌を置き、目を閉じた。
 朝霧館の庭で聞いた、師の声が、耳の奥でふっとよみがえる。
 ――名を残さぬ者ほど、強く残る。
 「……残っちまってるよ、師匠」
 自嘲とも、祈りともつかない笑いが喉で割れた。

 廃寺を出ると、風下から獣の匂いがした。畑の端に狐が一匹、尻尾をゆっくり揺らしている。
 「お前か」
 矢野が言うと、狐は一度だけ首を傾げ、それから暗いほうへ消えた。
 狐の足跡は、土にほとんど残らない。
 「……勉強になった」
 風が遠くで竹を鳴らす。雷は鳴らない。鳴らない夜も、悪くない。

 ***

 空白が続いて、十日が過ぎたころ。
 隊長が矢野を呼んだ。私室の灯は低く、茶は冷めかけている。
 「池月屋の続きが、まだある」
 「はい」
 「噂は収まりかけているが、火の手紙が町役の机に届いた。……“白狐は無明の手先。白狐を捕らえたる者には、銀二十”」
 矢野は鼻で笑った。
 「二十で足りるかよ」
 「足りない。だからこそ、手が出る」
 隊長は盃を手で覆い、ふたをした。
 「いないものの背中に刃を向けるのは、都合がいいからだ。都合のいい刃は、いつか都合の悪いほうへも転がる。……止める」
 「承知」
 「雷で脅すな。風で逸らせ」
 「やります」
 矢野は立ち上がり、襖に手をかける。
 「矢野」
 背に、隊長の声が落ちた。
 「お前が証だ。お前が折れたら、空白が虚になる」
 「折れません」
 「折れないのは刃だけでいい」
 矢野は振り向かずに頷き、部屋を出た。

 ***

 手紙の出どころは、町外れの紙問屋だった。
 油紙問屋の番頭は目を泳がせ、帳場で手をもてあそぶ。
 「これはうちじゃない。うちは油紙で、筆まではやってません」
 「筆がなくても書ける奴はいる」
 矢野は穏やかに言い、目を細めた。
 「銀二十って額、誰が決めた」
 「……知らない」
 「じゃ、銀十でどうだ」
 番頭がぎょっとする。
 「いや、その……」
 「数が変わると口が滑るのは、よくある。お前の問題じゃない。数の問題だ」
 番頭は扇を探すように視線を泳がせ、それから小さく首を振った。
 「すまない、本当に知らない」
 「いいさ」
 矢野は笑って立ち上がる。
 「ただ、覚えとけ。白いもんは印にならねぇ。印にならねぇもんを印にしようとすると、紙が泣く」

 紙問屋を出ると、夕立が来た。
 雨脚は強いが、長くは続かない。石畳が一気に黒くなり、また乾く。
 雨の匂いは、火の跡の匂いを薄める。
 「……お前、今どこだ」
 誰にでもなく呟いて、矢野は袖の房を指でつまんだ。
 ほどけば、雷が鳴る。
 ほどかない。
 ほどく必要がない夜まで、鳴りは溜めておく。

 ***

 その夜、無明隊の食堂で、珍しく酒肆の女将・お蝶が差し入れを持って現れた。
 「お手を煩わせてすみませんねぇ。あの夜はうちの座敷もお世話になりましたから」
 矢野は礼を言い、湯漬けの碗を置く。
 「姐さん、紙の噂が流れてる」
 「知ってるよ。うちにも“白い狐を売れ”なんて手紙が来た。冗談好きな客が多いね」
 「冗談は、刀になりやすい」
 お蝶は目を細め、扇で軽く肩を叩く。
 「分かってる。だから、口は閉じる。目と耳は貸す」
 「助かる」
 「……それで、白い子は?」
 矢野は手元の箸を見た。木目の筋が、まっすぐに伸びている。
 「いねぇよ」
 「いないのかい」
 「もとから」
 お蝶は笑って、腰を上げた。
 「ならなおさら、手は出させないさ。うちの女たちは、おとぎ話に刀向ける男は嫌いだよ」

 矢野は女将の背中を見送りながら、ふと思った。
 ――静は、こういう時、どう言うだろう。
 「名は風に。約定だけ人に」
 口の中で再度転がす。
 それは、空白を守るための言葉だ。
 言葉は風になり、風は人の耳を通って、刃の先をわずかに重くする。重くなれば、刃は遅れる。遅れれば、間に合う人が増える。

 ***

 日が変わる。
 京の空は高く、朝は軽い。だが、軽さは薄さと紙一重だ。薄い朝は、風が一枚めくればすぐに破ける。
 矢野は、破けを先に見つける役目を自分に課して、路地の角を曲がる。

 路地の先で、振り分け荷を担いだ男が転びそうになっていた。
 足元に、わずかな段差。昨日の火消しで持ち出した水桶の跡が、土を持ち上げている。
 矢野は一歩、前へ。肩ひとつ分の場所を空ける。
 男はそこへ転がり込み、荷を守って転んだ。
 「危ねぇ」
 「すまねぇ、助かった」
 「助けちゃいねぇよ。道が助けただけだ」
 男は首を傾げ、それから笑って頭を下げた。
 矢野は手を振り、「行け」とだけ言う。
 人は、見えないものに助けられている時ほど、よく礼を言う。
 雷は、その礼を聞きながら、空白の方向を確かめる。

 ***

 夕刻。
 朝霧館の庭に戻ると、師・雪堂が縁側に座っていた。
 「戻ったか」
 「はい」
 「名は、置けているか」
 「置いてます」
 「拾う者は」
 「ひとり」
 雪堂は笑った。
「ひとりで十分だ」
 「でも」
 「“でも”は風に言え」
 矢野は喉の奥に止まっていた“でも”を、胸のほうへ押し戻した。
 「……師匠」
 「何だ」
 「空白は、どこまで広げていいんです」
 雪堂は庭の竹を見て、「竹やぶくらい」と言った。
 「広すぎれば、獣が住む。狭すぎれば、息が詰まる。人が歩ける幅で、風が通れる高さ。……忘れるな。空白は逃げ場ではない。間合いだ」
 「間合い」
 「お前が一番、よく知っている」
 矢野は黙って頷いた。

 縁側の板が、夜露の話をするように冷えてきた。
 雪堂は湯呑みを手に取り、茶をすすった。
 「静は」
 「いません」
 「いないものは、いない」
 「はい」
 「いないものは、いた」
 矢野は目を上げた。
 雪堂は笑っていなかった。
 「名を残さぬ者ほど、強く残る。言葉は同じでも、夜ごとに意味が変わる。……今日の意味で、覚えておけ」
 「承知」
 矢野は深く、頭を下げた。

 ***

 夜風が変わる日は、地面の粒が先に知らせる。
 乾いた砂が踊り、濡れた土は呼吸を浅くする。
 無明隊の屯所の門を出ると、矢野は足裏でその変化を拾った。
 「今夜は、速い」
 独り言は、合図でも呪でもない。雷は、鳴るか鳴らないかより先に、空の厚みを測る。

 路地に出ると、細い影が三つ、行灯を避けるように動いていた。
 「おい」
 呼ぶと、一人が肩をすくめる。少年だ。懐に何か固いものを抱えている。
 「それ、返しな」
 「なんだよ」
 少年の背後で、友達が小さく笑う。
 「返す場所は、こっちだ」
 矢野は手で合図し、細い路地を一本、指した。
 「逃げ道はそっちじゃない」
 「逃げてねぇ」
 「じゃあなおさら」
 少年はひと呼吸ぶん迷い、それから懐からこっそり木札を取り出した。店の看板の小さな札だ。
 「……持ってくだけ」
 「持ってく前に、持ってかれたら、それは盗みだ」
 「違う」
 「違わねぇ」
 少年の足が石に脈を打つみたいに震えた。
 矢野は肩の力を抜き、声を落とした。
 「盥の水、って知ってるか」
 「なにそれ」
 「撥ねず、形だけ残す。お前の足音、今、撥ねてる。形が残らねぇ。だから捕まる」
 少年はきょとんとし、それからおどおどと札を差し出した。
 「返してこい。俺はここで雷を鳴らす。皆が俺を見る。お前は背中だけ見とけ」
 少年は頷き、路地の影に消えた。
 矢野は大きく一度、咳払いをして、路地の反対側へわざと足音を立てて歩いた。
 「こっちは見回りだぁ、こっちだこっち!」
 行灯の影が揺れ、人の顔が窓からのぞく。
 その隙に、少年は札をもとに戻し、影の中に溶けた。
 「……おい」
 矢野が振り向くと、少年はもういない。
 かわりに、目線の高さの風だけが、ひとつぶん変わっていた。

 「風のあと」
 口に出すと、笑えるほど気障だ。
 けれど、言葉は言葉でしか届かない時がある。
 矢野は自分で苦笑し、帯を結び直した。

 ***

 空白は、いつのまにか町の作法になりつつあった。
 花街での揉め事は、名を競うより先に、影を譲る。
 「こっちの灯を低く」「その行灯はあっちへ」「戸は今夜だけ外から閉める」
 女将たちは誰に言われるでもなく、夜の動線を少しずつ“遅いほう”へずらす。遅い夜は、人を殺さない。
 祇園の端で、噂はさらに変質していく。
 「白狐は、名を食う」
 「食われると、楽になる」
 「名が軽くなると、歩ける」
 誰が言い出したのか、誰も知らない。
 だが、名を抱えすぎて歩けなくなった者が、町には少なからずいた。

 ある晩、ひとりの町医者が屯所を訪ねた。
 木箱を抱え、額に汗をにじませている。
 「筆頭殿」
 「どうした」
 「この箱、池月屋の夜に紛れて、うちに紛れ込んだもののようで」
 箱の中には、火薬玉が三つ。
 矢野は箱を閉じ、紐を結び直した。
 「気づいて、持ってきた」
 「はい。名は、書きません」
 矢野は医者の手を見た。指先に薬の粉がつき、爪の間に白い粉が残る。
 「ありがとな」
 医者は頭を下げ、すぐに帰っていった。
 背中の骨が、どこか軽く見えた。

 ***

 夜風がいつもとは違う方向から吹いたのは、池月屋から数えて二十七夜目だった。
 小さな結界が破れるみたいに、町の空気がひとすじ、軽くなる。
 矢野は廊下の角で立ち止まり、気づいた。
 ――先に誰かが歩いた。
 足元の板が、乾ききる前に一度、柔らかくなって、また乾いた足音を持つ。そんな歩みがある。
 「静」
 名前は呼ばない。
 呼ばないまま、胸だけで発音する。
 風鈴が一度鳴り、廊下の先の灯が微かに揺れた。
 その揺れ方は、知っている。
 「……いるなら、いない顔でいろ」
 矢野はわざと背を向け、歩き出した。
 足音は二つにならない。
 それでいい。
 それで、いいのだ――と、自分に言い聞かせる。

 その夜、矢野は酒を飲まなかった。
 代わりに、筆を持った。
 報告帳の白い欄に、何も書かないまま、指で軽く撫でる。紙の繊維が、爪の腹にすこしだけ引っかかる。
 「空白の帳」
 口に出す。
 紙は返事をしない。
 けれど、返事のない場所のほうが、長く耳に残る。

 ***

 翌朝。
 東が白む少し前、矢野は朝霧館の庭に立った。
 竹の葉が露を落とし、砂はまだ夜の匂いを持っている。
 「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
 帯を結び直し、草鞋の緒を二度締める。
 「……よし」
 独り言は、今日の空気を体に馴染ませる儀式だ。

 門の外から、足音。
 朝早くに訪う客は、ふつうは好まれない。だが、音は穏やかだった。
 現れたのは、朝の風をまとった少女だった。十五か十六か。
 「ごめんください」
 「どうした」
 「ここに……白い人、いますか」
 矢野は眉を上げる。
 「狐なら、山のほうだ」
 「人です」
 「いねぇよ」
 少女は唇を噛み、それから胸の前で手を合わせるようにして言った。
「ありがとうございました」
 「何に」
 「昨夜、路地で。……うちの弟が、木札を」
 矢野は目を細め、頷いた。
 「返したな」
 「はい。風が」
 「風?」
 「誰も、いませんでした。ただ、風が」
 矢野は笑って、「それならよかった」とだけ言った。
 少女は深く頭を下げ、走り去る。
 走り去る足音が、盥の水面に落ちるように、静かに広がって消えた。

 門を閉める前、矢野は空を見上げた。
 今朝の風は、北から南へ。
 「行くか」
 誰にともなく言って、槍袋の紐を引いた。
 白は見えない。
 だが、風はいる。
 風のあとを、雷が歩く。
 それが、この町の呼吸の仕方だ。

 ***

 その夜、隊長は再び、私室で矢野を呼び止めた。
 「空白の扱いは、難しい」
 「はい」
 「だが、お前はやれている。……一つだけ、言っておく」
 「何を」
 「空白に甘えるな」
 矢野は目を伏せ、すぐに顔を上げた。
 「甘えません」
 「“いないこと”は、楽だ。責められない。褒められない。――だが、楽は、いつか町の筋を腐らせる」
 「承知」
 「いないもののぶん、いる者が立て。お前がそれをやるなら、俺は掟の顔を持つ」
 矢野は深く頭を下げた。
 「やります」
 隊長は盃を置き、灯を指でしぼった。
 「雷は、遠雷でいい夜もある」
 「はい」

 部屋を出ると、廊下の角で風鈴がひとつ鳴った。
 紅い房が、短く揺れる。
 矢野は歩く。
 空白は、もう怖くない。
 怖くないということが怖い――と、彼は自分の胸の奥を、ときどき覗き込む。油断は雷を鈍らせる。雷が鈍れば、風は戻らない。

 ***

 空白の帳は、めくられるたびに、紙の繊維を強くする。
 名を記すために用意された欄に、名が書かれない夜が、何夜も続く。
 それでも、町は動く。
 店は開き、人は食べ、眠り、また起きる。
 白いものは、次第に「いたような気がするもの」に変わり、やがて「いつもいたもの」へと裏返る。存在の向きが、風で入れ替わる。

 ある日、記録係が新しい帳を持ってきた。
 「紙屋の新作です。繊維が細かくて、墨が浮きにくい」
 矢野は一枚めくり、指で端を撫でた。
 「……いい紙だ」
 「空白も、綺麗に見えます」
 矢野は笑って、「お前、いやなこと言うな」と肩をすくめる。
 「空白は、綺麗じゃねぇぞ。汚れてる」
 「汚れ?」
 「色がないだけで、汗も涙も血も、ぜんぶ吸ってんだ。紙の顔して、腹の中で消化してる」
 記録係は目を丸くし、それから目を細めた。
 「……紙は、強いですね」
 「だから、甘えるなよ」
 「はい」

 矢野は、帳の最後の頁をそっと閉じた。
 名はない。
 けれど、風の向きは記された。
 紙ではなく、町に。
 町ではなく、人に。
 人ではなく、呼吸に。
 呼吸ではなく、ひとつの間合いに。

 「……行くぞ」
 帯を締め直し、草鞋の緒を二度結び、槍袋の紐を引く。
 門を出ると、風は少し湿っていた。
 雨になる。
 雨は、火の跡を薄め、足跡を消す。
 消えるもののなかで、残るものがある。

 雷は、空を見上げた。
 空白の帳は、今夜もめくられる。
 白い欄は、何も語らない。
 けれど、そこに書かれている。
 ――ここまで。
 ――ここから。
 その二つの言葉だけが、風と雷のあいだで行き来している。

 名は残らない。
 技は残る。
 そして、友も。
 紙の外で、確かに。