朝は来た。けれど、池月屋の夜はまだどこかに残っていた。
無明隊の屯所の帳場には、湿った灰の匂いと、油紙のかすかな甘さが混じる。報告帳は開かれたまま、紙の端が夜露を吸ったみたいに冷たい。記録係が筆を走らせ、事実だけを行に並べていく。
――押収 火蓋部品 二十四。
――押収 両替商印札 十包。
――拘束 浪士 十七。
――負傷 軽微 四。
――鎮火 旅籠焼損 廊下一、座敷二。
欄の最後に、署名が三つ並ぶ。
「隊長」「記録」「先鋒筆頭・矢野蓮」。
もう一つ、そこにあるはずの名は、どこにもない。記録係が視線を上げるわけでも、ため息をつくわけでもない。空白は空白の顔で、ただそこにいる。
縁側から吹いてくる風が、紙を一枚だけめくった。若い隊士がそれを押さえ、ぼそりと口にする。
「筆頭の、相棒……どこ行きやした」
矢野は、つけていた筆を静かに置く。
「いねぇよ、もとから」
声は荒くない。けれど、いつもより低い。喉の奥に砂利をひとつ落としたみたいな、すこし重い音。
若い隊士は目を瞬かせ、黙った。空白は胸の奥のどこかにまで写り込み、妙に居心地の悪い静けさを作る。
矢野は報告帳を閉じると、表紙に掌を当てた。紙は体温を吸うが、空白は吸わない。空いた欄は、触れても重みを持たない。なのに、目を逸らすと追いかけてくる。
「……おい、外の片付け、手ぇ貸してこい。細けぇ灰が風で戻ってくる」
若い隊士が「はい」と出ていく。矢野は一拍待ってから、自分も立ち上がった。
町では、夜更けに白い影が駆けた噂がもう広がっている。
「祇園の白狐が池の月を食った」
「雷の槍と並んで走った」
酒肆では尾ひれが増え、名も姿も混ざり、近所の子らは夜更けまで起きていて親に叱られる。誰かが笑って、誰かが怖がり、誰かが信じる。名は一度も口に上らないのに、噂は勝手に成長していく。
隊長は私室の灯をしぼり、矢野を呼んだ。
「いないものを、いたと言うな」
「言いません」
「いないものを、探すな」
「探しません」
短い応答。嘘ではない。けれど、片側だけを真にしておくのは、矢野にとって簡単なことではなかった。
廊下の角に立つたびに、彼は風を読むのをやめない。
夜回りの路地、廃寺の井戸、朝霧館の庭。どこにも白はいない。なのに、足元の砂の寄り方、提灯の揺れ、縁側の板の“乾き”に、先に誰かが歩いた痕が残ることがある。踏まれていないのに、薄く折り目だけがついた布の端みたいに。そんな痕に出会う夜は、彼は酒をやめる。喉の奥の砂利が、水では流れないと知っているからだ。代わりに、静が語った難儀な言い回しを門弟に教える。
「盥の水だ。撥ねるな、形だけ残せ」
「形って、何の形で?」と若いのが首を傾げる。
「足だよ。突いた足の形。音の形。お前の“やったつもり”じゃなく、相手の耳に残る形だ」
説明はややこしい。だが、ややこしさの中に“残る”筋だけがあって、矢野の稽古は確かに変わった。突きは速さを増し、止めは柔らかくなり、柄尻は前よりも少しだけ低い位置で止まるようになった。
その変化を嗅ぎ取る鼻を持つ者は、隊の中にも町にもいる。
「筆頭、丸くなりましたかね」
「違ぇよ、風が強くなっただけだ」
若い衆同士のささやきは、夕餉の湯気に混じって天井へ消えた。
帳面には空白が続く。空白は虚ではない。必要なものを通す“門”だ。矢野はそれを理解している。空白を守るのは、雷の役目だとも。
その夜、彼は朝霧館の門前に立ち、小さく頭を下げた。
「師匠。名は残らねぇが、技は残った。俺はそれで十分だと思えるほど、大人じゃねぇよ。……でも、そういう約束だったんだ」
竹が一度鳴って、風が通った。
縁の角を白いものが折れて消えた――気がした。矢野は追わない。追ってはいけないものは、世にある。雷は空を見上げ、次に鳴るべき方角を探す。
***
昼下がりの屯所は、いつもより静かだった。
池月屋の後始末は長引かず、役目は予定どおりに町役へ渡った。だが、静かなのはそのせいだけではない。人は口を閉じることで、空白に合掌する。誰も言わないことで、誰かがいた事実を守る。そんな沈黙が、板間に薄く敷かれていた。
記録係の青年が、帳簿に挟む薄紙を数えながら言う。
「筆頭」
「ん」
「こういう“空き”って、どこまで空けていいんですか」
「どこまででも、だ。紙が破けねぇ範囲でな」
青年は笑って、「紙は強いです」と応じた。「紙は、たまに人より強い」
矢野は「そうだ」と答え、帯を結び直した。「だからよ、紙が持てねぇもんは、人が持つ」
「……“証”ですか」
「証も、責めも、冗談も」
「冗談?」
「冗談がねぇと、紙はすぐ硬くなる。硬くなると、折れて刺さる」
青年は筆を止め、息で笑った。
「筆頭って、たまに静さんみたいなこと言いますね」
矢野は眉を上げ、わざとらしく肩をすくめる。
「へぇ。聞かせてくれよ、そいつは」
「例えば、“盥の水”とか」
「おう。あれは俺の持ちネタになった」
「“名は風に。約定だけ人に”も、覚えてます」
矢野の掌が、袖の奥で一瞬、止まる。
「……そいつは、いい台詞だ」
「誰の言葉です?」
「俺の。今日からは」
青年は目を丸くし、それから笑って「承知」と言った。
***
夜。
矢野は見回りを一人で受け持った。祇園筋は雨上がりで、石畳が行灯の光を鈍く返す。水無月庵の前を通ると、女将が箒を持ったまま目礼した。
「筆頭さん」
「姐さん、商売は」
「ぼちぼち。白い狐が出たとか出ないとかで、客が早く帰っちまうよ」
「狐は人見知りだ。見たって言ってるのは、たいてい酒だ」
女将は笑って、箒の先で路地の砂を寄せる。
「……あの子は、どうしたいんだい」
「あの子?」
「白いのさ」
「狐のことか」
「違うね。人間の子」
箒の先が止まる。
「名前は?」
女将は扇で口元を隠して、「風に」と冗談めかす。
矢野は笑い、空を見上げた。
「風は、今夜は南」
「じゃ、明日は晴れだね」
「そう祈ろう」
女将は箒を肩に担ぎ、「祈りはあんたの役目じゃないだろ」と言いながら、敷居の影に消えた。
祇園の路地を抜け、鴨川の岸へ出る。
夜の水は、名を持たない。
橋の欄干に手を置くと、板の乾き方で昼の熱がどれくらい残ったかが分かる。矢野は板の端を指でたたき、かつて静がやったみたいに、音の短さを数えた。
「……三」
木は素直だ。素直なものは、誤魔化しが効かない。
「なぁ、静」
誰もいない川へ、呟く。
「お前の“いなかったことにしてくれ”って頼みはよ、俺には無理だ。……でも、やる。お前が望んだなら、やる」
言ってから、苦笑いが漏れた。
「勝手だよな。居ねぇ相手を相手に、勝手に約束してよ」
風が、川面を一度だけ撫でた。
袖の奥で、紅い小さな房が、短く揺れる。
矢野はうなじの汗を手拭で拭い、橋を渡りきった。
***
数日して、空白は町全体に薄く広がった。
噂は寓話に変わり、寓話はおもちゃになる。
子が石を積み、白い小石を一番上に置いては「狐のしっぽだ」と笑い、転がして「風だ」と叫ぶ。母親が「近所迷惑」と叱り、父親が「いいじゃないか」と笑う。その笑いを、町の灯が受け止める。
無明隊の稽古場では、異変がひとつ。
矢野が稽古の合間に、若い衆へ「止め」の方を長めに教えるようになった。
「勝つより、止める。止めるほうが、場が速く収まる」
「でも、勝たなきゃ」
「勝ちは結果だ。止めは目的だ」
静の言いそうな言い回しをわざと使い、若い衆が首を傾げるのを見届ける。分からない顔は、明日分かる顔になる。そういう“遅い速さ”も、町には必要だ。
「筆頭」
稽古後、鴇田が珍しく、よそゆきの顔で近づいてきた。
「あの件……すまなかった」
濡れ衣の夜。あの時のことだ。
矢野は手拭で首筋を拭い、少しだけ肩を回した。
「掟の顔、保てたろ」
鴇田は目を伏せる。
「……ああ」
「なら、それでいい」
「だが、お前のほうは」
「俺は証だ」
「何の」
「風の」
鴇田は息を吐き、口の端をわずかに上げた。
「お前、ほんと、丸くなったな」
「風が強くなっただけだ」
ふたりは笑い、背中で別れた。
***
夜半の巡回で、矢野は廃寺へ寄り道した。
灯籠の火は入れない。井戸の端に盥を置いた形の丸い跡だけが、土に残っている。指でなぞると、わずかな起伏がある。
「盥の水」
口の中で転がす。音は冷たく、少し甘い。
井戸の中を覗き込むと、闇は深いが、水は澄んでいる。顔を映そうにも、月がない。映るのは、肩の線だけ。
「師匠」
小声で呼ぶと、風が来た。返事でなく、注意の合図のように。
矢野は井戸の石に掌を置き、目を閉じた。
朝霧館の庭で聞いた、師の声が、耳の奥でふっとよみがえる。
――名を残さぬ者ほど、強く残る。
「……残っちまってるよ、師匠」
自嘲とも、祈りともつかない笑いが喉で割れた。
廃寺を出ると、風下から獣の匂いがした。畑の端に狐が一匹、尻尾をゆっくり揺らしている。
「お前か」
矢野が言うと、狐は一度だけ首を傾げ、それから暗いほうへ消えた。
狐の足跡は、土にほとんど残らない。
「……勉強になった」
風が遠くで竹を鳴らす。雷は鳴らない。鳴らない夜も、悪くない。
***
空白が続いて、十日が過ぎたころ。
隊長が矢野を呼んだ。私室の灯は低く、茶は冷めかけている。
「池月屋の続きが、まだある」
「はい」
「噂は収まりかけているが、火の手紙が町役の机に届いた。……“白狐は無明の手先。白狐を捕らえたる者には、銀二十”」
矢野は鼻で笑った。
「二十で足りるかよ」
「足りない。だからこそ、手が出る」
隊長は盃を手で覆い、ふたをした。
「いないものの背中に刃を向けるのは、都合がいいからだ。都合のいい刃は、いつか都合の悪いほうへも転がる。……止める」
「承知」
「雷で脅すな。風で逸らせ」
「やります」
矢野は立ち上がり、襖に手をかける。
「矢野」
背に、隊長の声が落ちた。
「お前が証だ。お前が折れたら、空白が虚になる」
「折れません」
「折れないのは刃だけでいい」
矢野は振り向かずに頷き、部屋を出た。
***
手紙の出どころは、町外れの紙問屋だった。
油紙問屋の番頭は目を泳がせ、帳場で手をもてあそぶ。
「これはうちじゃない。うちは油紙で、筆まではやってません」
「筆がなくても書ける奴はいる」
矢野は穏やかに言い、目を細めた。
「銀二十って額、誰が決めた」
「……知らない」
「じゃ、銀十でどうだ」
番頭がぎょっとする。
「いや、その……」
「数が変わると口が滑るのは、よくある。お前の問題じゃない。数の問題だ」
番頭は扇を探すように視線を泳がせ、それから小さく首を振った。
「すまない、本当に知らない」
「いいさ」
矢野は笑って立ち上がる。
「ただ、覚えとけ。白いもんは印にならねぇ。印にならねぇもんを印にしようとすると、紙が泣く」
紙問屋を出ると、夕立が来た。
雨脚は強いが、長くは続かない。石畳が一気に黒くなり、また乾く。
雨の匂いは、火の跡の匂いを薄める。
「……お前、今どこだ」
誰にでもなく呟いて、矢野は袖の房を指でつまんだ。
ほどけば、雷が鳴る。
ほどかない。
ほどく必要がない夜まで、鳴りは溜めておく。
***
その夜、無明隊の食堂で、珍しく酒肆の女将・お蝶が差し入れを持って現れた。
「お手を煩わせてすみませんねぇ。あの夜はうちの座敷もお世話になりましたから」
矢野は礼を言い、湯漬けの碗を置く。
「姐さん、紙の噂が流れてる」
「知ってるよ。うちにも“白い狐を売れ”なんて手紙が来た。冗談好きな客が多いね」
「冗談は、刀になりやすい」
お蝶は目を細め、扇で軽く肩を叩く。
「分かってる。だから、口は閉じる。目と耳は貸す」
「助かる」
「……それで、白い子は?」
矢野は手元の箸を見た。木目の筋が、まっすぐに伸びている。
「いねぇよ」
「いないのかい」
「もとから」
お蝶は笑って、腰を上げた。
「ならなおさら、手は出させないさ。うちの女たちは、おとぎ話に刀向ける男は嫌いだよ」
矢野は女将の背中を見送りながら、ふと思った。
――静は、こういう時、どう言うだろう。
「名は風に。約定だけ人に」
口の中で再度転がす。
それは、空白を守るための言葉だ。
言葉は風になり、風は人の耳を通って、刃の先をわずかに重くする。重くなれば、刃は遅れる。遅れれば、間に合う人が増える。
***
日が変わる。
京の空は高く、朝は軽い。だが、軽さは薄さと紙一重だ。薄い朝は、風が一枚めくればすぐに破ける。
矢野は、破けを先に見つける役目を自分に課して、路地の角を曲がる。
路地の先で、振り分け荷を担いだ男が転びそうになっていた。
足元に、わずかな段差。昨日の火消しで持ち出した水桶の跡が、土を持ち上げている。
矢野は一歩、前へ。肩ひとつ分の場所を空ける。
男はそこへ転がり込み、荷を守って転んだ。
「危ねぇ」
「すまねぇ、助かった」
「助けちゃいねぇよ。道が助けただけだ」
男は首を傾げ、それから笑って頭を下げた。
矢野は手を振り、「行け」とだけ言う。
人は、見えないものに助けられている時ほど、よく礼を言う。
雷は、その礼を聞きながら、空白の方向を確かめる。
***
夕刻。
朝霧館の庭に戻ると、師・雪堂が縁側に座っていた。
「戻ったか」
「はい」
「名は、置けているか」
「置いてます」
「拾う者は」
「ひとり」
雪堂は笑った。
「ひとりで十分だ」
「でも」
「“でも”は風に言え」
矢野は喉の奥に止まっていた“でも”を、胸のほうへ押し戻した。
「……師匠」
「何だ」
「空白は、どこまで広げていいんです」
雪堂は庭の竹を見て、「竹やぶくらい」と言った。
「広すぎれば、獣が住む。狭すぎれば、息が詰まる。人が歩ける幅で、風が通れる高さ。……忘れるな。空白は逃げ場ではない。間合いだ」
「間合い」
「お前が一番、よく知っている」
矢野は黙って頷いた。
縁側の板が、夜露の話をするように冷えてきた。
雪堂は湯呑みを手に取り、茶をすすった。
「静は」
「いません」
「いないものは、いない」
「はい」
「いないものは、いた」
矢野は目を上げた。
雪堂は笑っていなかった。
「名を残さぬ者ほど、強く残る。言葉は同じでも、夜ごとに意味が変わる。……今日の意味で、覚えておけ」
「承知」
矢野は深く、頭を下げた。
***
夜風が変わる日は、地面の粒が先に知らせる。
乾いた砂が踊り、濡れた土は呼吸を浅くする。
無明隊の屯所の門を出ると、矢野は足裏でその変化を拾った。
「今夜は、速い」
独り言は、合図でも呪でもない。雷は、鳴るか鳴らないかより先に、空の厚みを測る。
路地に出ると、細い影が三つ、行灯を避けるように動いていた。
「おい」
呼ぶと、一人が肩をすくめる。少年だ。懐に何か固いものを抱えている。
「それ、返しな」
「なんだよ」
少年の背後で、友達が小さく笑う。
「返す場所は、こっちだ」
矢野は手で合図し、細い路地を一本、指した。
「逃げ道はそっちじゃない」
「逃げてねぇ」
「じゃあなおさら」
少年はひと呼吸ぶん迷い、それから懐からこっそり木札を取り出した。店の看板の小さな札だ。
「……持ってくだけ」
「持ってく前に、持ってかれたら、それは盗みだ」
「違う」
「違わねぇ」
少年の足が石に脈を打つみたいに震えた。
矢野は肩の力を抜き、声を落とした。
「盥の水、って知ってるか」
「なにそれ」
「撥ねず、形だけ残す。お前の足音、今、撥ねてる。形が残らねぇ。だから捕まる」
少年はきょとんとし、それからおどおどと札を差し出した。
「返してこい。俺はここで雷を鳴らす。皆が俺を見る。お前は背中だけ見とけ」
少年は頷き、路地の影に消えた。
矢野は大きく一度、咳払いをして、路地の反対側へわざと足音を立てて歩いた。
「こっちは見回りだぁ、こっちだこっち!」
行灯の影が揺れ、人の顔が窓からのぞく。
その隙に、少年は札をもとに戻し、影の中に溶けた。
「……おい」
矢野が振り向くと、少年はもういない。
かわりに、目線の高さの風だけが、ひとつぶん変わっていた。
「風のあと」
口に出すと、笑えるほど気障だ。
けれど、言葉は言葉でしか届かない時がある。
矢野は自分で苦笑し、帯を結び直した。
***
空白は、いつのまにか町の作法になりつつあった。
花街での揉め事は、名を競うより先に、影を譲る。
「こっちの灯を低く」「その行灯はあっちへ」「戸は今夜だけ外から閉める」
女将たちは誰に言われるでもなく、夜の動線を少しずつ“遅いほう”へずらす。遅い夜は、人を殺さない。
祇園の端で、噂はさらに変質していく。
「白狐は、名を食う」
「食われると、楽になる」
「名が軽くなると、歩ける」
誰が言い出したのか、誰も知らない。
だが、名を抱えすぎて歩けなくなった者が、町には少なからずいた。
ある晩、ひとりの町医者が屯所を訪ねた。
木箱を抱え、額に汗をにじませている。
「筆頭殿」
「どうした」
「この箱、池月屋の夜に紛れて、うちに紛れ込んだもののようで」
箱の中には、火薬玉が三つ。
矢野は箱を閉じ、紐を結び直した。
「気づいて、持ってきた」
「はい。名は、書きません」
矢野は医者の手を見た。指先に薬の粉がつき、爪の間に白い粉が残る。
「ありがとな」
医者は頭を下げ、すぐに帰っていった。
背中の骨が、どこか軽く見えた。
***
夜風がいつもとは違う方向から吹いたのは、池月屋から数えて二十七夜目だった。
小さな結界が破れるみたいに、町の空気がひとすじ、軽くなる。
矢野は廊下の角で立ち止まり、気づいた。
――先に誰かが歩いた。
足元の板が、乾ききる前に一度、柔らかくなって、また乾いた足音を持つ。そんな歩みがある。
「静」
名前は呼ばない。
呼ばないまま、胸だけで発音する。
風鈴が一度鳴り、廊下の先の灯が微かに揺れた。
その揺れ方は、知っている。
「……いるなら、いない顔でいろ」
矢野はわざと背を向け、歩き出した。
足音は二つにならない。
それでいい。
それで、いいのだ――と、自分に言い聞かせる。
その夜、矢野は酒を飲まなかった。
代わりに、筆を持った。
報告帳の白い欄に、何も書かないまま、指で軽く撫でる。紙の繊維が、爪の腹にすこしだけ引っかかる。
「空白の帳」
口に出す。
紙は返事をしない。
けれど、返事のない場所のほうが、長く耳に残る。
***
翌朝。
東が白む少し前、矢野は朝霧館の庭に立った。
竹の葉が露を落とし、砂はまだ夜の匂いを持っている。
「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
帯を結び直し、草鞋の緒を二度締める。
「……よし」
独り言は、今日の空気を体に馴染ませる儀式だ。
門の外から、足音。
朝早くに訪う客は、ふつうは好まれない。だが、音は穏やかだった。
現れたのは、朝の風をまとった少女だった。十五か十六か。
「ごめんください」
「どうした」
「ここに……白い人、いますか」
矢野は眉を上げる。
「狐なら、山のほうだ」
「人です」
「いねぇよ」
少女は唇を噛み、それから胸の前で手を合わせるようにして言った。
「ありがとうございました」
「何に」
「昨夜、路地で。……うちの弟が、木札を」
矢野は目を細め、頷いた。
「返したな」
「はい。風が」
「風?」
「誰も、いませんでした。ただ、風が」
矢野は笑って、「それならよかった」とだけ言った。
少女は深く頭を下げ、走り去る。
走り去る足音が、盥の水面に落ちるように、静かに広がって消えた。
門を閉める前、矢野は空を見上げた。
今朝の風は、北から南へ。
「行くか」
誰にともなく言って、槍袋の紐を引いた。
白は見えない。
だが、風はいる。
風のあとを、雷が歩く。
それが、この町の呼吸の仕方だ。
***
その夜、隊長は再び、私室で矢野を呼び止めた。
「空白の扱いは、難しい」
「はい」
「だが、お前はやれている。……一つだけ、言っておく」
「何を」
「空白に甘えるな」
矢野は目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「甘えません」
「“いないこと”は、楽だ。責められない。褒められない。――だが、楽は、いつか町の筋を腐らせる」
「承知」
「いないもののぶん、いる者が立て。お前がそれをやるなら、俺は掟の顔を持つ」
矢野は深く頭を下げた。
「やります」
隊長は盃を置き、灯を指でしぼった。
「雷は、遠雷でいい夜もある」
「はい」
部屋を出ると、廊下の角で風鈴がひとつ鳴った。
紅い房が、短く揺れる。
矢野は歩く。
空白は、もう怖くない。
怖くないということが怖い――と、彼は自分の胸の奥を、ときどき覗き込む。油断は雷を鈍らせる。雷が鈍れば、風は戻らない。
***
空白の帳は、めくられるたびに、紙の繊維を強くする。
名を記すために用意された欄に、名が書かれない夜が、何夜も続く。
それでも、町は動く。
店は開き、人は食べ、眠り、また起きる。
白いものは、次第に「いたような気がするもの」に変わり、やがて「いつもいたもの」へと裏返る。存在の向きが、風で入れ替わる。
ある日、記録係が新しい帳を持ってきた。
「紙屋の新作です。繊維が細かくて、墨が浮きにくい」
矢野は一枚めくり、指で端を撫でた。
「……いい紙だ」
「空白も、綺麗に見えます」
矢野は笑って、「お前、いやなこと言うな」と肩をすくめる。
「空白は、綺麗じゃねぇぞ。汚れてる」
「汚れ?」
「色がないだけで、汗も涙も血も、ぜんぶ吸ってんだ。紙の顔して、腹の中で消化してる」
記録係は目を丸くし、それから目を細めた。
「……紙は、強いですね」
「だから、甘えるなよ」
「はい」
矢野は、帳の最後の頁をそっと閉じた。
名はない。
けれど、風の向きは記された。
紙ではなく、町に。
町ではなく、人に。
人ではなく、呼吸に。
呼吸ではなく、ひとつの間合いに。
「……行くぞ」
帯を締め直し、草鞋の緒を二度結び、槍袋の紐を引く。
門を出ると、風は少し湿っていた。
雨になる。
雨は、火の跡を薄め、足跡を消す。
消えるもののなかで、残るものがある。
雷は、空を見上げた。
空白の帳は、今夜もめくられる。
白い欄は、何も語らない。
けれど、そこに書かれている。
――ここまで。
――ここから。
その二つの言葉だけが、風と雷のあいだで行き来している。
名は残らない。
技は残る。
そして、友も。
紙の外で、確かに。
無明隊の屯所の帳場には、湿った灰の匂いと、油紙のかすかな甘さが混じる。報告帳は開かれたまま、紙の端が夜露を吸ったみたいに冷たい。記録係が筆を走らせ、事実だけを行に並べていく。
――押収 火蓋部品 二十四。
――押収 両替商印札 十包。
――拘束 浪士 十七。
――負傷 軽微 四。
――鎮火 旅籠焼損 廊下一、座敷二。
欄の最後に、署名が三つ並ぶ。
「隊長」「記録」「先鋒筆頭・矢野蓮」。
もう一つ、そこにあるはずの名は、どこにもない。記録係が視線を上げるわけでも、ため息をつくわけでもない。空白は空白の顔で、ただそこにいる。
縁側から吹いてくる風が、紙を一枚だけめくった。若い隊士がそれを押さえ、ぼそりと口にする。
「筆頭の、相棒……どこ行きやした」
矢野は、つけていた筆を静かに置く。
「いねぇよ、もとから」
声は荒くない。けれど、いつもより低い。喉の奥に砂利をひとつ落としたみたいな、すこし重い音。
若い隊士は目を瞬かせ、黙った。空白は胸の奥のどこかにまで写り込み、妙に居心地の悪い静けさを作る。
矢野は報告帳を閉じると、表紙に掌を当てた。紙は体温を吸うが、空白は吸わない。空いた欄は、触れても重みを持たない。なのに、目を逸らすと追いかけてくる。
「……おい、外の片付け、手ぇ貸してこい。細けぇ灰が風で戻ってくる」
若い隊士が「はい」と出ていく。矢野は一拍待ってから、自分も立ち上がった。
町では、夜更けに白い影が駆けた噂がもう広がっている。
「祇園の白狐が池の月を食った」
「雷の槍と並んで走った」
酒肆では尾ひれが増え、名も姿も混ざり、近所の子らは夜更けまで起きていて親に叱られる。誰かが笑って、誰かが怖がり、誰かが信じる。名は一度も口に上らないのに、噂は勝手に成長していく。
隊長は私室の灯をしぼり、矢野を呼んだ。
「いないものを、いたと言うな」
「言いません」
「いないものを、探すな」
「探しません」
短い応答。嘘ではない。けれど、片側だけを真にしておくのは、矢野にとって簡単なことではなかった。
廊下の角に立つたびに、彼は風を読むのをやめない。
夜回りの路地、廃寺の井戸、朝霧館の庭。どこにも白はいない。なのに、足元の砂の寄り方、提灯の揺れ、縁側の板の“乾き”に、先に誰かが歩いた痕が残ることがある。踏まれていないのに、薄く折り目だけがついた布の端みたいに。そんな痕に出会う夜は、彼は酒をやめる。喉の奥の砂利が、水では流れないと知っているからだ。代わりに、静が語った難儀な言い回しを門弟に教える。
「盥の水だ。撥ねるな、形だけ残せ」
「形って、何の形で?」と若いのが首を傾げる。
「足だよ。突いた足の形。音の形。お前の“やったつもり”じゃなく、相手の耳に残る形だ」
説明はややこしい。だが、ややこしさの中に“残る”筋だけがあって、矢野の稽古は確かに変わった。突きは速さを増し、止めは柔らかくなり、柄尻は前よりも少しだけ低い位置で止まるようになった。
その変化を嗅ぎ取る鼻を持つ者は、隊の中にも町にもいる。
「筆頭、丸くなりましたかね」
「違ぇよ、風が強くなっただけだ」
若い衆同士のささやきは、夕餉の湯気に混じって天井へ消えた。
帳面には空白が続く。空白は虚ではない。必要なものを通す“門”だ。矢野はそれを理解している。空白を守るのは、雷の役目だとも。
その夜、彼は朝霧館の門前に立ち、小さく頭を下げた。
「師匠。名は残らねぇが、技は残った。俺はそれで十分だと思えるほど、大人じゃねぇよ。……でも、そういう約束だったんだ」
竹が一度鳴って、風が通った。
縁の角を白いものが折れて消えた――気がした。矢野は追わない。追ってはいけないものは、世にある。雷は空を見上げ、次に鳴るべき方角を探す。
***
昼下がりの屯所は、いつもより静かだった。
池月屋の後始末は長引かず、役目は予定どおりに町役へ渡った。だが、静かなのはそのせいだけではない。人は口を閉じることで、空白に合掌する。誰も言わないことで、誰かがいた事実を守る。そんな沈黙が、板間に薄く敷かれていた。
記録係の青年が、帳簿に挟む薄紙を数えながら言う。
「筆頭」
「ん」
「こういう“空き”って、どこまで空けていいんですか」
「どこまででも、だ。紙が破けねぇ範囲でな」
青年は笑って、「紙は強いです」と応じた。「紙は、たまに人より強い」
矢野は「そうだ」と答え、帯を結び直した。「だからよ、紙が持てねぇもんは、人が持つ」
「……“証”ですか」
「証も、責めも、冗談も」
「冗談?」
「冗談がねぇと、紙はすぐ硬くなる。硬くなると、折れて刺さる」
青年は筆を止め、息で笑った。
「筆頭って、たまに静さんみたいなこと言いますね」
矢野は眉を上げ、わざとらしく肩をすくめる。
「へぇ。聞かせてくれよ、そいつは」
「例えば、“盥の水”とか」
「おう。あれは俺の持ちネタになった」
「“名は風に。約定だけ人に”も、覚えてます」
矢野の掌が、袖の奥で一瞬、止まる。
「……そいつは、いい台詞だ」
「誰の言葉です?」
「俺の。今日からは」
青年は目を丸くし、それから笑って「承知」と言った。
***
夜。
矢野は見回りを一人で受け持った。祇園筋は雨上がりで、石畳が行灯の光を鈍く返す。水無月庵の前を通ると、女将が箒を持ったまま目礼した。
「筆頭さん」
「姐さん、商売は」
「ぼちぼち。白い狐が出たとか出ないとかで、客が早く帰っちまうよ」
「狐は人見知りだ。見たって言ってるのは、たいてい酒だ」
女将は笑って、箒の先で路地の砂を寄せる。
「……あの子は、どうしたいんだい」
「あの子?」
「白いのさ」
「狐のことか」
「違うね。人間の子」
箒の先が止まる。
「名前は?」
女将は扇で口元を隠して、「風に」と冗談めかす。
矢野は笑い、空を見上げた。
「風は、今夜は南」
「じゃ、明日は晴れだね」
「そう祈ろう」
女将は箒を肩に担ぎ、「祈りはあんたの役目じゃないだろ」と言いながら、敷居の影に消えた。
祇園の路地を抜け、鴨川の岸へ出る。
夜の水は、名を持たない。
橋の欄干に手を置くと、板の乾き方で昼の熱がどれくらい残ったかが分かる。矢野は板の端を指でたたき、かつて静がやったみたいに、音の短さを数えた。
「……三」
木は素直だ。素直なものは、誤魔化しが効かない。
「なぁ、静」
誰もいない川へ、呟く。
「お前の“いなかったことにしてくれ”って頼みはよ、俺には無理だ。……でも、やる。お前が望んだなら、やる」
言ってから、苦笑いが漏れた。
「勝手だよな。居ねぇ相手を相手に、勝手に約束してよ」
風が、川面を一度だけ撫でた。
袖の奥で、紅い小さな房が、短く揺れる。
矢野はうなじの汗を手拭で拭い、橋を渡りきった。
***
数日して、空白は町全体に薄く広がった。
噂は寓話に変わり、寓話はおもちゃになる。
子が石を積み、白い小石を一番上に置いては「狐のしっぽだ」と笑い、転がして「風だ」と叫ぶ。母親が「近所迷惑」と叱り、父親が「いいじゃないか」と笑う。その笑いを、町の灯が受け止める。
無明隊の稽古場では、異変がひとつ。
矢野が稽古の合間に、若い衆へ「止め」の方を長めに教えるようになった。
「勝つより、止める。止めるほうが、場が速く収まる」
「でも、勝たなきゃ」
「勝ちは結果だ。止めは目的だ」
静の言いそうな言い回しをわざと使い、若い衆が首を傾げるのを見届ける。分からない顔は、明日分かる顔になる。そういう“遅い速さ”も、町には必要だ。
「筆頭」
稽古後、鴇田が珍しく、よそゆきの顔で近づいてきた。
「あの件……すまなかった」
濡れ衣の夜。あの時のことだ。
矢野は手拭で首筋を拭い、少しだけ肩を回した。
「掟の顔、保てたろ」
鴇田は目を伏せる。
「……ああ」
「なら、それでいい」
「だが、お前のほうは」
「俺は証だ」
「何の」
「風の」
鴇田は息を吐き、口の端をわずかに上げた。
「お前、ほんと、丸くなったな」
「風が強くなっただけだ」
ふたりは笑い、背中で別れた。
***
夜半の巡回で、矢野は廃寺へ寄り道した。
灯籠の火は入れない。井戸の端に盥を置いた形の丸い跡だけが、土に残っている。指でなぞると、わずかな起伏がある。
「盥の水」
口の中で転がす。音は冷たく、少し甘い。
井戸の中を覗き込むと、闇は深いが、水は澄んでいる。顔を映そうにも、月がない。映るのは、肩の線だけ。
「師匠」
小声で呼ぶと、風が来た。返事でなく、注意の合図のように。
矢野は井戸の石に掌を置き、目を閉じた。
朝霧館の庭で聞いた、師の声が、耳の奥でふっとよみがえる。
――名を残さぬ者ほど、強く残る。
「……残っちまってるよ、師匠」
自嘲とも、祈りともつかない笑いが喉で割れた。
廃寺を出ると、風下から獣の匂いがした。畑の端に狐が一匹、尻尾をゆっくり揺らしている。
「お前か」
矢野が言うと、狐は一度だけ首を傾げ、それから暗いほうへ消えた。
狐の足跡は、土にほとんど残らない。
「……勉強になった」
風が遠くで竹を鳴らす。雷は鳴らない。鳴らない夜も、悪くない。
***
空白が続いて、十日が過ぎたころ。
隊長が矢野を呼んだ。私室の灯は低く、茶は冷めかけている。
「池月屋の続きが、まだある」
「はい」
「噂は収まりかけているが、火の手紙が町役の机に届いた。……“白狐は無明の手先。白狐を捕らえたる者には、銀二十”」
矢野は鼻で笑った。
「二十で足りるかよ」
「足りない。だからこそ、手が出る」
隊長は盃を手で覆い、ふたをした。
「いないものの背中に刃を向けるのは、都合がいいからだ。都合のいい刃は、いつか都合の悪いほうへも転がる。……止める」
「承知」
「雷で脅すな。風で逸らせ」
「やります」
矢野は立ち上がり、襖に手をかける。
「矢野」
背に、隊長の声が落ちた。
「お前が証だ。お前が折れたら、空白が虚になる」
「折れません」
「折れないのは刃だけでいい」
矢野は振り向かずに頷き、部屋を出た。
***
手紙の出どころは、町外れの紙問屋だった。
油紙問屋の番頭は目を泳がせ、帳場で手をもてあそぶ。
「これはうちじゃない。うちは油紙で、筆まではやってません」
「筆がなくても書ける奴はいる」
矢野は穏やかに言い、目を細めた。
「銀二十って額、誰が決めた」
「……知らない」
「じゃ、銀十でどうだ」
番頭がぎょっとする。
「いや、その……」
「数が変わると口が滑るのは、よくある。お前の問題じゃない。数の問題だ」
番頭は扇を探すように視線を泳がせ、それから小さく首を振った。
「すまない、本当に知らない」
「いいさ」
矢野は笑って立ち上がる。
「ただ、覚えとけ。白いもんは印にならねぇ。印にならねぇもんを印にしようとすると、紙が泣く」
紙問屋を出ると、夕立が来た。
雨脚は強いが、長くは続かない。石畳が一気に黒くなり、また乾く。
雨の匂いは、火の跡の匂いを薄める。
「……お前、今どこだ」
誰にでもなく呟いて、矢野は袖の房を指でつまんだ。
ほどけば、雷が鳴る。
ほどかない。
ほどく必要がない夜まで、鳴りは溜めておく。
***
その夜、無明隊の食堂で、珍しく酒肆の女将・お蝶が差し入れを持って現れた。
「お手を煩わせてすみませんねぇ。あの夜はうちの座敷もお世話になりましたから」
矢野は礼を言い、湯漬けの碗を置く。
「姐さん、紙の噂が流れてる」
「知ってるよ。うちにも“白い狐を売れ”なんて手紙が来た。冗談好きな客が多いね」
「冗談は、刀になりやすい」
お蝶は目を細め、扇で軽く肩を叩く。
「分かってる。だから、口は閉じる。目と耳は貸す」
「助かる」
「……それで、白い子は?」
矢野は手元の箸を見た。木目の筋が、まっすぐに伸びている。
「いねぇよ」
「いないのかい」
「もとから」
お蝶は笑って、腰を上げた。
「ならなおさら、手は出させないさ。うちの女たちは、おとぎ話に刀向ける男は嫌いだよ」
矢野は女将の背中を見送りながら、ふと思った。
――静は、こういう時、どう言うだろう。
「名は風に。約定だけ人に」
口の中で再度転がす。
それは、空白を守るための言葉だ。
言葉は風になり、風は人の耳を通って、刃の先をわずかに重くする。重くなれば、刃は遅れる。遅れれば、間に合う人が増える。
***
日が変わる。
京の空は高く、朝は軽い。だが、軽さは薄さと紙一重だ。薄い朝は、風が一枚めくればすぐに破ける。
矢野は、破けを先に見つける役目を自分に課して、路地の角を曲がる。
路地の先で、振り分け荷を担いだ男が転びそうになっていた。
足元に、わずかな段差。昨日の火消しで持ち出した水桶の跡が、土を持ち上げている。
矢野は一歩、前へ。肩ひとつ分の場所を空ける。
男はそこへ転がり込み、荷を守って転んだ。
「危ねぇ」
「すまねぇ、助かった」
「助けちゃいねぇよ。道が助けただけだ」
男は首を傾げ、それから笑って頭を下げた。
矢野は手を振り、「行け」とだけ言う。
人は、見えないものに助けられている時ほど、よく礼を言う。
雷は、その礼を聞きながら、空白の方向を確かめる。
***
夕刻。
朝霧館の庭に戻ると、師・雪堂が縁側に座っていた。
「戻ったか」
「はい」
「名は、置けているか」
「置いてます」
「拾う者は」
「ひとり」
雪堂は笑った。
「ひとりで十分だ」
「でも」
「“でも”は風に言え」
矢野は喉の奥に止まっていた“でも”を、胸のほうへ押し戻した。
「……師匠」
「何だ」
「空白は、どこまで広げていいんです」
雪堂は庭の竹を見て、「竹やぶくらい」と言った。
「広すぎれば、獣が住む。狭すぎれば、息が詰まる。人が歩ける幅で、風が通れる高さ。……忘れるな。空白は逃げ場ではない。間合いだ」
「間合い」
「お前が一番、よく知っている」
矢野は黙って頷いた。
縁側の板が、夜露の話をするように冷えてきた。
雪堂は湯呑みを手に取り、茶をすすった。
「静は」
「いません」
「いないものは、いない」
「はい」
「いないものは、いた」
矢野は目を上げた。
雪堂は笑っていなかった。
「名を残さぬ者ほど、強く残る。言葉は同じでも、夜ごとに意味が変わる。……今日の意味で、覚えておけ」
「承知」
矢野は深く、頭を下げた。
***
夜風が変わる日は、地面の粒が先に知らせる。
乾いた砂が踊り、濡れた土は呼吸を浅くする。
無明隊の屯所の門を出ると、矢野は足裏でその変化を拾った。
「今夜は、速い」
独り言は、合図でも呪でもない。雷は、鳴るか鳴らないかより先に、空の厚みを測る。
路地に出ると、細い影が三つ、行灯を避けるように動いていた。
「おい」
呼ぶと、一人が肩をすくめる。少年だ。懐に何か固いものを抱えている。
「それ、返しな」
「なんだよ」
少年の背後で、友達が小さく笑う。
「返す場所は、こっちだ」
矢野は手で合図し、細い路地を一本、指した。
「逃げ道はそっちじゃない」
「逃げてねぇ」
「じゃあなおさら」
少年はひと呼吸ぶん迷い、それから懐からこっそり木札を取り出した。店の看板の小さな札だ。
「……持ってくだけ」
「持ってく前に、持ってかれたら、それは盗みだ」
「違う」
「違わねぇ」
少年の足が石に脈を打つみたいに震えた。
矢野は肩の力を抜き、声を落とした。
「盥の水、って知ってるか」
「なにそれ」
「撥ねず、形だけ残す。お前の足音、今、撥ねてる。形が残らねぇ。だから捕まる」
少年はきょとんとし、それからおどおどと札を差し出した。
「返してこい。俺はここで雷を鳴らす。皆が俺を見る。お前は背中だけ見とけ」
少年は頷き、路地の影に消えた。
矢野は大きく一度、咳払いをして、路地の反対側へわざと足音を立てて歩いた。
「こっちは見回りだぁ、こっちだこっち!」
行灯の影が揺れ、人の顔が窓からのぞく。
その隙に、少年は札をもとに戻し、影の中に溶けた。
「……おい」
矢野が振り向くと、少年はもういない。
かわりに、目線の高さの風だけが、ひとつぶん変わっていた。
「風のあと」
口に出すと、笑えるほど気障だ。
けれど、言葉は言葉でしか届かない時がある。
矢野は自分で苦笑し、帯を結び直した。
***
空白は、いつのまにか町の作法になりつつあった。
花街での揉め事は、名を競うより先に、影を譲る。
「こっちの灯を低く」「その行灯はあっちへ」「戸は今夜だけ外から閉める」
女将たちは誰に言われるでもなく、夜の動線を少しずつ“遅いほう”へずらす。遅い夜は、人を殺さない。
祇園の端で、噂はさらに変質していく。
「白狐は、名を食う」
「食われると、楽になる」
「名が軽くなると、歩ける」
誰が言い出したのか、誰も知らない。
だが、名を抱えすぎて歩けなくなった者が、町には少なからずいた。
ある晩、ひとりの町医者が屯所を訪ねた。
木箱を抱え、額に汗をにじませている。
「筆頭殿」
「どうした」
「この箱、池月屋の夜に紛れて、うちに紛れ込んだもののようで」
箱の中には、火薬玉が三つ。
矢野は箱を閉じ、紐を結び直した。
「気づいて、持ってきた」
「はい。名は、書きません」
矢野は医者の手を見た。指先に薬の粉がつき、爪の間に白い粉が残る。
「ありがとな」
医者は頭を下げ、すぐに帰っていった。
背中の骨が、どこか軽く見えた。
***
夜風がいつもとは違う方向から吹いたのは、池月屋から数えて二十七夜目だった。
小さな結界が破れるみたいに、町の空気がひとすじ、軽くなる。
矢野は廊下の角で立ち止まり、気づいた。
――先に誰かが歩いた。
足元の板が、乾ききる前に一度、柔らかくなって、また乾いた足音を持つ。そんな歩みがある。
「静」
名前は呼ばない。
呼ばないまま、胸だけで発音する。
風鈴が一度鳴り、廊下の先の灯が微かに揺れた。
その揺れ方は、知っている。
「……いるなら、いない顔でいろ」
矢野はわざと背を向け、歩き出した。
足音は二つにならない。
それでいい。
それで、いいのだ――と、自分に言い聞かせる。
その夜、矢野は酒を飲まなかった。
代わりに、筆を持った。
報告帳の白い欄に、何も書かないまま、指で軽く撫でる。紙の繊維が、爪の腹にすこしだけ引っかかる。
「空白の帳」
口に出す。
紙は返事をしない。
けれど、返事のない場所のほうが、長く耳に残る。
***
翌朝。
東が白む少し前、矢野は朝霧館の庭に立った。
竹の葉が露を落とし、砂はまだ夜の匂いを持っている。
「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
帯を結び直し、草鞋の緒を二度締める。
「……よし」
独り言は、今日の空気を体に馴染ませる儀式だ。
門の外から、足音。
朝早くに訪う客は、ふつうは好まれない。だが、音は穏やかだった。
現れたのは、朝の風をまとった少女だった。十五か十六か。
「ごめんください」
「どうした」
「ここに……白い人、いますか」
矢野は眉を上げる。
「狐なら、山のほうだ」
「人です」
「いねぇよ」
少女は唇を噛み、それから胸の前で手を合わせるようにして言った。
「ありがとうございました」
「何に」
「昨夜、路地で。……うちの弟が、木札を」
矢野は目を細め、頷いた。
「返したな」
「はい。風が」
「風?」
「誰も、いませんでした。ただ、風が」
矢野は笑って、「それならよかった」とだけ言った。
少女は深く頭を下げ、走り去る。
走り去る足音が、盥の水面に落ちるように、静かに広がって消えた。
門を閉める前、矢野は空を見上げた。
今朝の風は、北から南へ。
「行くか」
誰にともなく言って、槍袋の紐を引いた。
白は見えない。
だが、風はいる。
風のあとを、雷が歩く。
それが、この町の呼吸の仕方だ。
***
その夜、隊長は再び、私室で矢野を呼び止めた。
「空白の扱いは、難しい」
「はい」
「だが、お前はやれている。……一つだけ、言っておく」
「何を」
「空白に甘えるな」
矢野は目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「甘えません」
「“いないこと”は、楽だ。責められない。褒められない。――だが、楽は、いつか町の筋を腐らせる」
「承知」
「いないもののぶん、いる者が立て。お前がそれをやるなら、俺は掟の顔を持つ」
矢野は深く頭を下げた。
「やります」
隊長は盃を置き、灯を指でしぼった。
「雷は、遠雷でいい夜もある」
「はい」
部屋を出ると、廊下の角で風鈴がひとつ鳴った。
紅い房が、短く揺れる。
矢野は歩く。
空白は、もう怖くない。
怖くないということが怖い――と、彼は自分の胸の奥を、ときどき覗き込む。油断は雷を鈍らせる。雷が鈍れば、風は戻らない。
***
空白の帳は、めくられるたびに、紙の繊維を強くする。
名を記すために用意された欄に、名が書かれない夜が、何夜も続く。
それでも、町は動く。
店は開き、人は食べ、眠り、また起きる。
白いものは、次第に「いたような気がするもの」に変わり、やがて「いつもいたもの」へと裏返る。存在の向きが、風で入れ替わる。
ある日、記録係が新しい帳を持ってきた。
「紙屋の新作です。繊維が細かくて、墨が浮きにくい」
矢野は一枚めくり、指で端を撫でた。
「……いい紙だ」
「空白も、綺麗に見えます」
矢野は笑って、「お前、いやなこと言うな」と肩をすくめる。
「空白は、綺麗じゃねぇぞ。汚れてる」
「汚れ?」
「色がないだけで、汗も涙も血も、ぜんぶ吸ってんだ。紙の顔して、腹の中で消化してる」
記録係は目を丸くし、それから目を細めた。
「……紙は、強いですね」
「だから、甘えるなよ」
「はい」
矢野は、帳の最後の頁をそっと閉じた。
名はない。
けれど、風の向きは記された。
紙ではなく、町に。
町ではなく、人に。
人ではなく、呼吸に。
呼吸ではなく、ひとつの間合いに。
「……行くぞ」
帯を締め直し、草鞋の緒を二度結び、槍袋の紐を引く。
門を出ると、風は少し湿っていた。
雨になる。
雨は、火の跡を薄め、足跡を消す。
消えるもののなかで、残るものがある。
雷は、空を見上げた。
空白の帳は、今夜もめくられる。
白い欄は、何も語らない。
けれど、そこに書かれている。
――ここまで。
――ここから。
その二つの言葉だけが、風と雷のあいだで行き来している。
名は残らない。
技は残る。
そして、友も。
紙の外で、確かに。



