炎が鎮まる頃には、夜は深く、星が薄い。
池月屋の庭は、水と灰でまだ温い。縁側には囚人が一列に並び、縛り緒の結び目だけが白く目に刺さる。土間では隊長が監督印を冷やしてから押し、紙の上に真円の冷たい光を増やしていく。印が紙に沈むたび、夜が一拍、深くなる。
矢野は額の汗を手拭で拭い、あたりを見回した。
煙はもう立たない。けれど火がいた痕は、建具の節、梁の筋、畳縁の黒に薄く、確かに残っている。
「静――」
喉の手前で名が転び、唇の裏に刺さって止まった。廃寺の灯の夜、互いに交わした約束が、喉の奥で棘みたいにひっかかる。
静は二階の梁の上にいた。
最後の“見落とし”を探す目だった。押し入れの奥板、壁の裏紙、釘の光り、唐紙の折れ。埃の粒の挙動。
何も残さず、何も奪わない。
それが彼の仕事だ。
梁の上で息を半歩浅くする。瓦の裏で寝る風の向きを、一息ごとに確かめる。上から見た座敷は、さっきまで戦場で、今はただの部屋に戻りつつある。静はその“戻る途中”を見届けるのも、仕事のうちだと思っていた。
ふと、廊下の角で風が曲がった。戸の控えの隙間をとおった風が、薄く「かさり」と音を作る。
静は梁から落ちる影を踏まない位置で、音を置いたまま降りた。
白装束の裾には、煤と水の斑。指先には、火の名残の熱が微かに残る。
縁側に下りると、矢野の前で立ち止まった。
矢野は言葉を探した。
「……背中」
たぶん、そう言うつもりだった。さっきの背中、空を切った一歩、雷が留めた刃。
口が開く前に、静が先に口を開いた。
「矢野さん」
息の深さを揃え、音だけで合図をしてから、言葉を置く。
「僕はここまでです」
「はァ?」
眉が吊り上がる。笑う寸前の顔に、笑えない火がわずかに灯る。
静は淡く微笑んで、首を小さく傾けた。
「僕がいた痕は、もう十分に残りました。これ以上は、掟の顔を傷つけるだけです。……いなくなります」
胸に、石を落とす音がした。
矢野は一歩、近づいた。胸倉を掴みかけた手が、途中で止まる。掴めば、音が出る。音が出れば、火はまた、別のところで息を吹き返す。
「勝手、言うな」
低い。けれど、雷の芯の音だった。
「無明隊はどうでもいい。俺が困る」
静は一息だけ目を伏せ、それから矢野を見た。
「困る暇は与えません」
言葉が風で、風は素通りせずに、胸の奥で丸くなる。
「――さよならは言いません。風には向きがあるだけで、始まりも終わりもないから」
矢野の喉が、乾いた音で動いた。
「ふざけんな」
声は小さいのに、庭の石まで揺れるほど、重かった。
「お前、いつもそうだ。黙って近づいて、黙っていなくなろうとする。掟を守るためだの、顔を立てるためだの――そんなもんより先に、人間がいるだろ」
静は、言葉を選ばなかった。選ぶと、遅れる。
「矢野さんが、います」
それだけ言って、踵を返した。
裏手の闇へ、身をまぎらせる。
足は走らない。歩く速度のまま、確かに遠ざかっていく。呼べば振り向く距離のはずなのに、呼べない距離。呼んでしまえば、約束が壊れる。呼ばないでいれば、友がいなくなる。
矢野は唇を噛んだ。
懐から短刀を取り出す。
静から渡された“証の刃”。折れば、刃紋が名になる。折れば、記録に残る。折れば、掟の外に“静”という字が刻まれる。
鞘に薄く巻いた布は、汗で少し湿っている。
矢野はしばらく、刃を折る手の形を作ったまま、動かなかった。
そして、折らなかった。
鞘ごと掌に押し当て、呟く。
「……いらねぇ。俺が証だ」
遠く、夜明け前の風が川面を渡る。白いものが、一瞬、庭の端を横切った。薄く、短く、狐の尾のように。
矢野はそれを追わなかった。
代わりに、腹の底に溜めた音をまとめ、声を張る。
「御用は終いだァ! 怪我人はこっち、手ぇ出すな! ――戸を開けるな、風を入れるな、火は寝かせたままだ!」
雷だけが残る。
白は、夜に溶けた。
***
囚人の並ぶ縁側を離れ、隊長は池月屋の庭石の上に腰を下ろした。濡れた石は冷たく、冷たさは考えを整える。
「矢野」
呼ばれて、矢野は一歩出る。
「報告はすませた。あとは耳を閉じて、口だけ動かせ。……静は」
矢野は空のほうを見た。星は少なく、黒の中に薄い白の筋が溶けかけている。
「風、です」
隊長は笑わない。
「掟は、風を記録しない」
「知ってます」
「なら、掟はお前に何を残す」
「重さを」
矢野は答えて、自分で少し笑った。
「いや違うな。重さは俺らのもんだ。掟が残すのは、顔だ。……顔は、守っときます」
隊長は短く頷き、立ち上がる。
「顔を守るのは雷の役目だ。風の役目は、誰にも言わない。――“ここまで”を、間違えるな」
“ここまで”。
その言葉が胸の奥の小さな蓋に触れた。蓋はずっと前、朝霧館の庭で師・雪堂に渡されたものだ。
――争いの前に終わらせろ。
――名は残すな、技だけ残せ。
蓋を開ければ、火が入る。閉めれば、風が籠もる。
矢野は蓋の上から掌を置いた。
「……はい」
***
静は裏手の小路を選ばず、さらに裏の裏、庭と庭の境を縫うような細い“風の通り道”を選んだ。
人の目は道を見る。風は、道と道の間を覚える。
白装束は目立つはずなのに、夜露に濡れた葉の色と灯の陰の“間”を継ぐ歩法で、輪郭を薄める。
池月屋から三筋ほど離れた路地で足を止めた。
呼吸をひとつ、吐く。
胸の奥で、小さく音が弾ける――迷いの音ではない。確認の音だった。
廃寺の夜。
灯籠に火を入れた月の前で、土の上に糸で描いた仮の座敷。
矢野が言った。「見えねぇなら声を出せ。雷は音で居場所がわかる」
自分は答えた。「音は敵も拾います。だから、あなたが鳴るだけでいい」
矢野は不服そうに笑って、「呼べばすぐ来る雷ってのも覚えとけ」と言った。
――覚えている。
覚えているからこそ、呼ばない。
呼べば、彼は来る。来れば、掟は顔を変える。顔が変われば、守るべきものの順番が狂う。
今夜の“ここまで”は、ここだ。
息を整えながら、静は懐から紙片を取り出した。
油紙問屋の包み紐から採った微細な繊維。池月屋の裏座敷で拾った印の縁の墨。
それらはすでに隊長の手に渡している。同心の内通者は抑えられる。――風の仕事は終わった。
残るのは、人の仕事だ。
人の仕事は、顔を守ること。友を残すこと。
名を置かずに、それをやる方法は、静の中ではひとつしかなかった。
「……ここまで」
声には出さなかった。
けれど、その言葉は胸の内で形になり、風の向きと同じ軸で立った。
***
池月屋の表では、町の夜警が集まり始めていた。
火の後始末を見に来たのだ。
「ご苦労なこった」
矢野は軽く会釈をし、濡れた廊下の角で足を止める。
小さな男の子が母親の裾の影から覗いていた。目が、大きい。火を見たばかりの目だ。
「おっちゃん、狐は?」
矢野は片目をつむった。
「狐? どこにいんだよ」
「白いの、見た」
「見たか。なら、そいつは狐じゃねぇ。風だ」
「ふう?」
「風はな、見えねぇのに、見える。声がねぇのに、聞こえる。触れねぇのに、冷たい」
「むずかしい」
「だろ。だから寝ろ。明日になったら、風が“よく分かる”日に変えてくれる」
男の子はぽかんと口を開け、それからこくりと頷いた。
母親が矢野に会釈し、子を抱き上げる。
矢野はその背を見送り、深く息を吐いた。
――困る暇は与えません。
静の言葉が、遅れて胸に落ちる。
「勝手言いやがって」
独り言は、小声の雷みたいに短く弾けた。
***
池月屋の焔は、完全に眠った。
旅籠の主は柱に額を押しつけ、何度も深呼吸をしている。
女将が破れた障子を外し、濡れた畳に砂を撒く。砂は夜明けに乾いて、朝の足音を待つ。
縛られた浪士たちは後詰に連れられ、町役へ引き渡される。
その列が見えなくなる少し前、庭の隅で静の白が、最後に一度だけ揺れた。
矢野は見なかった。見ないと決めた。見てしまうと、雷が鳴る。鳴けば、風は振り返る。
かわりに、隊長のほうへ歩を向ける。
「隊長」
「矢野」
「報告、すべて署名済みです」
「……一人分、空白があるな」
「はい」
「空白は、誰の名だ」
矢野は短刀の鞘を、袂の底で握りなおした。
「――俺が証です」
隊長はその言葉をひとつの印として受け取り、短く頷いた。
「なら、今はそれでいい。風が戻るかどうかは、風に任せるしかない」
「戻らねぇなら」
矢野は問わなかった。
言ってしまえば、祈りになる。
祈りは、掟の外だ。
それでも、胸のどこかで、祈りと似た形の音が生まれるのを、止められない。
***
静は川べりの細い道へ出た。
水音は小さく、岸の草は夜露で重い。
川の上には橋がひとつ。夜警が火消しの桶を洗う音が、遠くで一度、二度。
静は欄干の影を踏み、橋の中央で立ち止まる。
水に映る空は、黒く、浅い。
そこに指先を落とすように、声を置いた。
「羽黒さん」
声は、水に沈んでゆっくり消える。
「僕は――遅れませんでした」
応える声はない。
代わりに、薄い風が川面を撫で、袖の紅い房をさっと揺らした。
矢野がくれた、小さな音。
房をほどけば、雷が鳴る。
「……鳴らしません」
今は、鳴らさない。
鳴らさないことが、速さになる夜がある。
橋を渡りきると、小さな社があった。
灯はなく、石段にも苔はない。誰も参らない祠。
静は一礼し、石段の脇に、短いものをそっと置いた。
折ったのではない。
刃ではなく、布。
矢野が「証に折れ」と渡した短刀に巻いてあった薄布だけを解き、結び目をほどき、祠の石の端に置いた。
「名は、置きません」
「証も、置きません」
「けれど、風向きだけは置いていきます」
布は、風の向きにわずかに靡いた。
静は背を向け、町の縁へ歩く。
足は軽く、心は重い。
重いものは、歩けば歩くほど沈む。沈めば、動きが安定する。
「ここまで」
胸の内で、もう一度だけ言った。
その言葉は、夜の底に沈んだまま、朝になっても浮かばないかもしれない。
それでいい。
風の言葉は、浮かばないほうが長く残る。
***
池月屋の庭では、夜を片づける手の音が続いていた。
隊長は印箱を閉じ、蓋に手を置く。
「矢野」
「はい」
「“ここまで”は、お前が決めるな。風が決める」
「はい」
「ただし、風の向きが町から逸れたら、雷で戻せ」
「任せてください」
矢野は答え、門の外へ、民のほうへ声を飛ばした。
「もう大丈夫だ! 火は寝た、家は持ちこたえた!」
門の陰から、安堵の息が連なって返ってきた。
その息の中に、さっきの子の声も混じっていた。
矢野は知らないふりをして、空を見上げる。
夜の黒が、縁からほどけはじめている。
「……お前の嫌いな“名”ってやつもよ」
ひとりで呟く。
「たまにゃ、役に立つんだぜ。俺が叫べば、皆が安心する。そん時の“矢野蓮”は、悪くねぇ」
胸の奥に押し当てた短刀が、鞘ごしに冷たい。
矢野は掌を離し、鞘の冷たさを夜気に返した。
「でもよ、静」
言葉は声にならない。
「お前のいねぇ“矢野蓮”なんざ、半分だ。――戻ってこいとか、言わねぇよ。言わねぇけど、覚えとけ。俺は証だ。お前の。ずっとな」
縁側の端で、風鈴が短く鳴った。
紅い房が、夜の最後の風を掬った。
***
静は町の外縁で足を止めた。
稲の匂いが少し、土の匂いが多めにする。
東の空はまだ白くない。
ただ、鳥が一羽だけ、眠りをためらっている。
朝霧館の朝。江戸の霧。師の声。矢野の笑い。羽黒の墓の香。祇園の白狐。水無月庵の座敷迷路。盥の水。
歩いてきた風の筋が、ひとつの線にまとまって背中を押す。
名は持たない。
証も持たない。
ただ、足の裏だけが、土にいる。
「……行きます」
独り言は短く、薄い。
それでも、足は前へ出た。
池月屋の煙は、もう誰の目にも見えない。
けれど家は覚えている。火の熱、風の冷、雷の音。
そして、白の気配。
“ここまで”と風が言った場所から先は、人の記録の外だ。
だが、記録の外にこそ、人が生きる余白がある。
朝はまだ来ない。
けれど、夜はもう、昨日の夜ではない。
矢野は門の内で、隊士らに最後の指示を出した。
「片付けが済んだら、飯だ。濡れたやつは先に替えをもらえ。――忘れんな。この家は、今日もこの町ん中で生きてく」
隊士らが「おう」と返す。
雷は、人の中で鳴る。
静は、町の外れで振り返らなかった。
振り返れば、雷の音が胸に入ってくる。
それは甘い。
甘いものを、今は断つ。
切なさは、速さの燃料だ。
速さは、誰かの“間に合う”に変わる。
その誰かが、名前を持っていようがいまいが、風には関係がない。
「ここまで」
もう一度だけ言って、彼は夜の残りへ溶けた。
やがて、東が白む。
池月屋の屋根が薄い金を帯び、庭の水たまりに最初の空が映る。
矢野は腰の紐を締め直し、石突で地面を軽く叩く。
「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
誰にともなく言って、笑う。
笑いは短い。短いから、遠くへ届く。
届いた先で、いつか白い裾がひるがえり、誰かの呼吸が一拍、救われる。
それが、風と雷の、ここから先の話だ。
記録には残らない。
しかし、確かに残る。
名の外側で。
掟の縁で。
友の重みの中で。
池月屋の庭は、水と灰でまだ温い。縁側には囚人が一列に並び、縛り緒の結び目だけが白く目に刺さる。土間では隊長が監督印を冷やしてから押し、紙の上に真円の冷たい光を増やしていく。印が紙に沈むたび、夜が一拍、深くなる。
矢野は額の汗を手拭で拭い、あたりを見回した。
煙はもう立たない。けれど火がいた痕は、建具の節、梁の筋、畳縁の黒に薄く、確かに残っている。
「静――」
喉の手前で名が転び、唇の裏に刺さって止まった。廃寺の灯の夜、互いに交わした約束が、喉の奥で棘みたいにひっかかる。
静は二階の梁の上にいた。
最後の“見落とし”を探す目だった。押し入れの奥板、壁の裏紙、釘の光り、唐紙の折れ。埃の粒の挙動。
何も残さず、何も奪わない。
それが彼の仕事だ。
梁の上で息を半歩浅くする。瓦の裏で寝る風の向きを、一息ごとに確かめる。上から見た座敷は、さっきまで戦場で、今はただの部屋に戻りつつある。静はその“戻る途中”を見届けるのも、仕事のうちだと思っていた。
ふと、廊下の角で風が曲がった。戸の控えの隙間をとおった風が、薄く「かさり」と音を作る。
静は梁から落ちる影を踏まない位置で、音を置いたまま降りた。
白装束の裾には、煤と水の斑。指先には、火の名残の熱が微かに残る。
縁側に下りると、矢野の前で立ち止まった。
矢野は言葉を探した。
「……背中」
たぶん、そう言うつもりだった。さっきの背中、空を切った一歩、雷が留めた刃。
口が開く前に、静が先に口を開いた。
「矢野さん」
息の深さを揃え、音だけで合図をしてから、言葉を置く。
「僕はここまでです」
「はァ?」
眉が吊り上がる。笑う寸前の顔に、笑えない火がわずかに灯る。
静は淡く微笑んで、首を小さく傾けた。
「僕がいた痕は、もう十分に残りました。これ以上は、掟の顔を傷つけるだけです。……いなくなります」
胸に、石を落とす音がした。
矢野は一歩、近づいた。胸倉を掴みかけた手が、途中で止まる。掴めば、音が出る。音が出れば、火はまた、別のところで息を吹き返す。
「勝手、言うな」
低い。けれど、雷の芯の音だった。
「無明隊はどうでもいい。俺が困る」
静は一息だけ目を伏せ、それから矢野を見た。
「困る暇は与えません」
言葉が風で、風は素通りせずに、胸の奥で丸くなる。
「――さよならは言いません。風には向きがあるだけで、始まりも終わりもないから」
矢野の喉が、乾いた音で動いた。
「ふざけんな」
声は小さいのに、庭の石まで揺れるほど、重かった。
「お前、いつもそうだ。黙って近づいて、黙っていなくなろうとする。掟を守るためだの、顔を立てるためだの――そんなもんより先に、人間がいるだろ」
静は、言葉を選ばなかった。選ぶと、遅れる。
「矢野さんが、います」
それだけ言って、踵を返した。
裏手の闇へ、身をまぎらせる。
足は走らない。歩く速度のまま、確かに遠ざかっていく。呼べば振り向く距離のはずなのに、呼べない距離。呼んでしまえば、約束が壊れる。呼ばないでいれば、友がいなくなる。
矢野は唇を噛んだ。
懐から短刀を取り出す。
静から渡された“証の刃”。折れば、刃紋が名になる。折れば、記録に残る。折れば、掟の外に“静”という字が刻まれる。
鞘に薄く巻いた布は、汗で少し湿っている。
矢野はしばらく、刃を折る手の形を作ったまま、動かなかった。
そして、折らなかった。
鞘ごと掌に押し当て、呟く。
「……いらねぇ。俺が証だ」
遠く、夜明け前の風が川面を渡る。白いものが、一瞬、庭の端を横切った。薄く、短く、狐の尾のように。
矢野はそれを追わなかった。
代わりに、腹の底に溜めた音をまとめ、声を張る。
「御用は終いだァ! 怪我人はこっち、手ぇ出すな! ――戸を開けるな、風を入れるな、火は寝かせたままだ!」
雷だけが残る。
白は、夜に溶けた。
***
囚人の並ぶ縁側を離れ、隊長は池月屋の庭石の上に腰を下ろした。濡れた石は冷たく、冷たさは考えを整える。
「矢野」
呼ばれて、矢野は一歩出る。
「報告はすませた。あとは耳を閉じて、口だけ動かせ。……静は」
矢野は空のほうを見た。星は少なく、黒の中に薄い白の筋が溶けかけている。
「風、です」
隊長は笑わない。
「掟は、風を記録しない」
「知ってます」
「なら、掟はお前に何を残す」
「重さを」
矢野は答えて、自分で少し笑った。
「いや違うな。重さは俺らのもんだ。掟が残すのは、顔だ。……顔は、守っときます」
隊長は短く頷き、立ち上がる。
「顔を守るのは雷の役目だ。風の役目は、誰にも言わない。――“ここまで”を、間違えるな」
“ここまで”。
その言葉が胸の奥の小さな蓋に触れた。蓋はずっと前、朝霧館の庭で師・雪堂に渡されたものだ。
――争いの前に終わらせろ。
――名は残すな、技だけ残せ。
蓋を開ければ、火が入る。閉めれば、風が籠もる。
矢野は蓋の上から掌を置いた。
「……はい」
***
静は裏手の小路を選ばず、さらに裏の裏、庭と庭の境を縫うような細い“風の通り道”を選んだ。
人の目は道を見る。風は、道と道の間を覚える。
白装束は目立つはずなのに、夜露に濡れた葉の色と灯の陰の“間”を継ぐ歩法で、輪郭を薄める。
池月屋から三筋ほど離れた路地で足を止めた。
呼吸をひとつ、吐く。
胸の奥で、小さく音が弾ける――迷いの音ではない。確認の音だった。
廃寺の夜。
灯籠に火を入れた月の前で、土の上に糸で描いた仮の座敷。
矢野が言った。「見えねぇなら声を出せ。雷は音で居場所がわかる」
自分は答えた。「音は敵も拾います。だから、あなたが鳴るだけでいい」
矢野は不服そうに笑って、「呼べばすぐ来る雷ってのも覚えとけ」と言った。
――覚えている。
覚えているからこそ、呼ばない。
呼べば、彼は来る。来れば、掟は顔を変える。顔が変われば、守るべきものの順番が狂う。
今夜の“ここまで”は、ここだ。
息を整えながら、静は懐から紙片を取り出した。
油紙問屋の包み紐から採った微細な繊維。池月屋の裏座敷で拾った印の縁の墨。
それらはすでに隊長の手に渡している。同心の内通者は抑えられる。――風の仕事は終わった。
残るのは、人の仕事だ。
人の仕事は、顔を守ること。友を残すこと。
名を置かずに、それをやる方法は、静の中ではひとつしかなかった。
「……ここまで」
声には出さなかった。
けれど、その言葉は胸の内で形になり、風の向きと同じ軸で立った。
***
池月屋の表では、町の夜警が集まり始めていた。
火の後始末を見に来たのだ。
「ご苦労なこった」
矢野は軽く会釈をし、濡れた廊下の角で足を止める。
小さな男の子が母親の裾の影から覗いていた。目が、大きい。火を見たばかりの目だ。
「おっちゃん、狐は?」
矢野は片目をつむった。
「狐? どこにいんだよ」
「白いの、見た」
「見たか。なら、そいつは狐じゃねぇ。風だ」
「ふう?」
「風はな、見えねぇのに、見える。声がねぇのに、聞こえる。触れねぇのに、冷たい」
「むずかしい」
「だろ。だから寝ろ。明日になったら、風が“よく分かる”日に変えてくれる」
男の子はぽかんと口を開け、それからこくりと頷いた。
母親が矢野に会釈し、子を抱き上げる。
矢野はその背を見送り、深く息を吐いた。
――困る暇は与えません。
静の言葉が、遅れて胸に落ちる。
「勝手言いやがって」
独り言は、小声の雷みたいに短く弾けた。
***
池月屋の焔は、完全に眠った。
旅籠の主は柱に額を押しつけ、何度も深呼吸をしている。
女将が破れた障子を外し、濡れた畳に砂を撒く。砂は夜明けに乾いて、朝の足音を待つ。
縛られた浪士たちは後詰に連れられ、町役へ引き渡される。
その列が見えなくなる少し前、庭の隅で静の白が、最後に一度だけ揺れた。
矢野は見なかった。見ないと決めた。見てしまうと、雷が鳴る。鳴けば、風は振り返る。
かわりに、隊長のほうへ歩を向ける。
「隊長」
「矢野」
「報告、すべて署名済みです」
「……一人分、空白があるな」
「はい」
「空白は、誰の名だ」
矢野は短刀の鞘を、袂の底で握りなおした。
「――俺が証です」
隊長はその言葉をひとつの印として受け取り、短く頷いた。
「なら、今はそれでいい。風が戻るかどうかは、風に任せるしかない」
「戻らねぇなら」
矢野は問わなかった。
言ってしまえば、祈りになる。
祈りは、掟の外だ。
それでも、胸のどこかで、祈りと似た形の音が生まれるのを、止められない。
***
静は川べりの細い道へ出た。
水音は小さく、岸の草は夜露で重い。
川の上には橋がひとつ。夜警が火消しの桶を洗う音が、遠くで一度、二度。
静は欄干の影を踏み、橋の中央で立ち止まる。
水に映る空は、黒く、浅い。
そこに指先を落とすように、声を置いた。
「羽黒さん」
声は、水に沈んでゆっくり消える。
「僕は――遅れませんでした」
応える声はない。
代わりに、薄い風が川面を撫で、袖の紅い房をさっと揺らした。
矢野がくれた、小さな音。
房をほどけば、雷が鳴る。
「……鳴らしません」
今は、鳴らさない。
鳴らさないことが、速さになる夜がある。
橋を渡りきると、小さな社があった。
灯はなく、石段にも苔はない。誰も参らない祠。
静は一礼し、石段の脇に、短いものをそっと置いた。
折ったのではない。
刃ではなく、布。
矢野が「証に折れ」と渡した短刀に巻いてあった薄布だけを解き、結び目をほどき、祠の石の端に置いた。
「名は、置きません」
「証も、置きません」
「けれど、風向きだけは置いていきます」
布は、風の向きにわずかに靡いた。
静は背を向け、町の縁へ歩く。
足は軽く、心は重い。
重いものは、歩けば歩くほど沈む。沈めば、動きが安定する。
「ここまで」
胸の内で、もう一度だけ言った。
その言葉は、夜の底に沈んだまま、朝になっても浮かばないかもしれない。
それでいい。
風の言葉は、浮かばないほうが長く残る。
***
池月屋の庭では、夜を片づける手の音が続いていた。
隊長は印箱を閉じ、蓋に手を置く。
「矢野」
「はい」
「“ここまで”は、お前が決めるな。風が決める」
「はい」
「ただし、風の向きが町から逸れたら、雷で戻せ」
「任せてください」
矢野は答え、門の外へ、民のほうへ声を飛ばした。
「もう大丈夫だ! 火は寝た、家は持ちこたえた!」
門の陰から、安堵の息が連なって返ってきた。
その息の中に、さっきの子の声も混じっていた。
矢野は知らないふりをして、空を見上げる。
夜の黒が、縁からほどけはじめている。
「……お前の嫌いな“名”ってやつもよ」
ひとりで呟く。
「たまにゃ、役に立つんだぜ。俺が叫べば、皆が安心する。そん時の“矢野蓮”は、悪くねぇ」
胸の奥に押し当てた短刀が、鞘ごしに冷たい。
矢野は掌を離し、鞘の冷たさを夜気に返した。
「でもよ、静」
言葉は声にならない。
「お前のいねぇ“矢野蓮”なんざ、半分だ。――戻ってこいとか、言わねぇよ。言わねぇけど、覚えとけ。俺は証だ。お前の。ずっとな」
縁側の端で、風鈴が短く鳴った。
紅い房が、夜の最後の風を掬った。
***
静は町の外縁で足を止めた。
稲の匂いが少し、土の匂いが多めにする。
東の空はまだ白くない。
ただ、鳥が一羽だけ、眠りをためらっている。
朝霧館の朝。江戸の霧。師の声。矢野の笑い。羽黒の墓の香。祇園の白狐。水無月庵の座敷迷路。盥の水。
歩いてきた風の筋が、ひとつの線にまとまって背中を押す。
名は持たない。
証も持たない。
ただ、足の裏だけが、土にいる。
「……行きます」
独り言は短く、薄い。
それでも、足は前へ出た。
池月屋の煙は、もう誰の目にも見えない。
けれど家は覚えている。火の熱、風の冷、雷の音。
そして、白の気配。
“ここまで”と風が言った場所から先は、人の記録の外だ。
だが、記録の外にこそ、人が生きる余白がある。
朝はまだ来ない。
けれど、夜はもう、昨日の夜ではない。
矢野は門の内で、隊士らに最後の指示を出した。
「片付けが済んだら、飯だ。濡れたやつは先に替えをもらえ。――忘れんな。この家は、今日もこの町ん中で生きてく」
隊士らが「おう」と返す。
雷は、人の中で鳴る。
静は、町の外れで振り返らなかった。
振り返れば、雷の音が胸に入ってくる。
それは甘い。
甘いものを、今は断つ。
切なさは、速さの燃料だ。
速さは、誰かの“間に合う”に変わる。
その誰かが、名前を持っていようがいまいが、風には関係がない。
「ここまで」
もう一度だけ言って、彼は夜の残りへ溶けた。
やがて、東が白む。
池月屋の屋根が薄い金を帯び、庭の水たまりに最初の空が映る。
矢野は腰の紐を締め直し、石突で地面を軽く叩く。
「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
誰にともなく言って、笑う。
笑いは短い。短いから、遠くへ届く。
届いた先で、いつか白い裾がひるがえり、誰かの呼吸が一拍、救われる。
それが、風と雷の、ここから先の話だ。
記録には残らない。
しかし、確かに残る。
名の外側で。
掟の縁で。
友の重みの中で。



