最初に匂いが変わった。
 油紙の甘さと、畳表の青さが、不自然に交じる。湿りを含んだ夜の空気の底で、その混ぜ物だけが軽く浮く。
 静は梁の上でまぶたを半分だけ閉じ、鼻腔の奥に滲んだ気配を確かめた。次の瞬間、廊下の角で橙が牙を剥いた。紙と藺草が一緒に鳴く、小さな悲鳴。火皿ではない、“置いた火”でもない。掴んだ油紙に火を食わせ、一息で走らせた火――悪あがきの火だ。

 「やりやがったな」

 正面土間で矢野の眉が吊り上がる。
 「火付けは町の敵だ」
 吠えるように一歩、踏み込む――ように見せて、彼はそこで止まった。槍の柄がきしみ、矢野の足は床板の節の前で滑らずに膝を沈める。
 炎は“風の抜け”を探して走る。そこに風を与えれば家は呑まれる。雷は知っている。鳴れば風を呼ぶが、鳴き方を間違えれば火も喜ばせる。
 矢野は槍を逆手に取り、穂先で梁の藁縄をひとつ、ふたつと切った。軋み。古い戸が重みを思い出し、火舌の前に斜めに落ちる。流れが分かれる。火は一瞬、行き場を失って舌打ちをした。
 「静、こっちは区切った!」

 「承知」

 梁の上の白が、返事を息だけで返す。
 静は反対側の座敷で畳を三枚、ひきはがした。畳床が悲鳴をこぼす前に縁を掴み、裏返す。黒土が顔を出す。
 燃えた敷を土へ倒し、袖で空気を遮る。火は酸素が要る。呼吸ができなければ、いちどは眠る。
 「足を上げるな、擦るな」
 静の低い声が、そばにいる若い衆の耳を打つ。
 「はいっ」
 若い衆が慌てて頷き、鼻で息をする。火の前で口を開けると、すぐに焦げた空気を吸う。

 廊下の角では、油紙と畳の匂いがさらに濃くなる。
 炎は戸と戸のあいだの狭さで舌を伸ばし、戸袋の乾いた木を舐めた。赤が白へ変わる手前、音がひとつ低くなる。
 矢野は槍の穂先で落とした戸の角を床に押しつけ、火の背に影を作る。影は冷える。冷えは火にとってすべる床だ。
 火勢が僅かに萎む。
 「いい子だ」
 矢野が火に言い、柱に言い、家に言う。叱っているのか、宥めているのか分からない声で。
 火は返事をしない。ただ、走る道を探そうとする。
 静はその道を、次々と閉じていく。

 裏手で、逃げる足音がまとまった。
 窓へ殺到する音。障子桟が一度、悲鳴を上げてしなり、次の悲鳴を上げる前に、表の路地から短い号令。
 「封鎖――よし」
 後詰の隊士が、窓の外で木枠を押さえている。
 窓へ向かっていた浪士らの流れが滞り、途端に混線する。
 静はそこで、わざと一本だけ“開けた”。
 座敷と座敷、廊下と廊下の結び目――わずかに影が薄い通り道。
 開いているように見えるところではない。開いていると“感じる”ところ。
 人は、灯に寄る。逃げる者は、灯の手前の影へ寄る。
 「こちら」
 声は出さない。顎だけで誘う。
 敵はそこへ吸い寄せられる。狭い場所だ。狭さは、静の領分で刃になる。

 「矢野さん、今です」

 「おうよ!」

 雷は、蓄えた音を連ねた。
 柄が柱に、床に、膝に、頬骨に。刃は一度も使わない。折らず、斬らず、ただ“止める”。
 止められた者の視界に、白がすっと入る。
 「眠ってください」
 囁くように顎を打ち、頸へ重さを一枚だけ乗せ、即座に離れる。
 眠る音は、小さい。

 二階の奥で、別の足音がした。
 天井板が微かに波打つ。
 重い。体幹の沈みが浅い――跳ぶ。
 静は梁の上で、一瞬だけ視線を上へ置いた。
 次の瞬間、板戸を蹴破る音とともに、頭目が飛び降りた。刀を逆手に、刃を内へ隠し、柄頭で後頭部を砕くつもりの手。
 白い背が、そこにいる。
 矢野の叫びが、炎に千切れた。
 「静ッ!」

 背は空を切る。
 “いない”。
 そこにいたはずの一歩は、煙に溶け、床板の節の前に置かれた別の一歩へ移っている。
 頭目は、自分の勢いだけで半歩よろめき、空を掴む。
 正面から雷の柄が来る。
 「背中は俺だ。忘れんな」
 乾いた音。頭目は“座った”。
 矢野は胸の奥でひとつ息を吐き、火のほうへ顔を戻す。

 火勢が一瞬、強まる。天井が鳴いた。
 梁が泣き、釘が過去を思い出すようなきしみを出す。
 静は梁を蹴った。廊下の端へ。
 焔が上がる前に障子を倒し、空気の流れを区切る。
 「炎もまた、掟を持ちます」
 そう言って、袖で障子紙を押さえ、紙の繊維の隙間から漏れようとする風だけを殺す。
 火は行き場を探し、それでも道が見つからないと、いったん眠る。

 「水、もう一巡いけるか!」
 矢野が土間に向かって吠える。
 「いけます!」
 桶が列を作り、手から手へ渡る。
 渡す手が呼吸を揃える。呼吸が揃えば、桶は軽くなる。
 「急ぐ時ほど、結び直すんだ」
 矢野は自分の草鞋を足裏で確かめ、石突を床に一度だけコツンと落とした。
 雷鳴のかわりに、短い合図。
 若い衆が頷き、列がさらに速くなる。

 座敷の隅で、旅籠の主が震えていた。
 油紙は誰のものか、火皿はどこから来たのか、口が回らない。
 静が近づくと、主は土間に額をこすりつけるようにして頭を下げた。
 「も、申し訳、ございま……」
 「謝る相手は、町です」
 静は目線を受けない。
 「今は火に謝らず、家に謝ってください」
 主は嗚咽し、柱に額をつけた。
 柱は冷たく、硬い。
 家の骨は、謝る相手を選ばない。

 裏庭へ、縛られた者たちが運ばれていく。
 隊の後詰は器用だ。縄を固く締める前に、左右の肩を二度ずつ叩いて、筋肉の緊張を溶かす。血は止めるものではなく、戻すものだと知っている。
 矢野は槍を袋へ戻し、石突を布で拭った。
 火はもう、唸らない。
 「静、梁は」
「眠りました」
 静は梁の節へ耳をあてていた指を離し、土の焦げを指先で払う。
 「起きても、咳き込むだけです」
 矢野は鼻で笑い、「お前がそう言うならそうだ」と言って肩の力を抜いた。

 しかし、火は生き物だ。
 一度だけ、遠慮のない咳をする。
 廊下の角――藁束の影に潜んでいた小さな火の子が、簾のほつれに噛みついた。
 「右、簾!」
 静の声が先に走る。
 矢野は簾の棒ごと簾を引き抜き、床へ叩きつけた。
 静がその上から袖を被せ、袖越しに軽く叩く。
 叩く場所は、火の中心ではない。周縁。
 火は周縁で呼吸する。
 呼吸を潰せば、中心は自分で消える。
 「よし」
 矢野は棒を脇へ投げ、ふいに天井を見上げた。
 「静」
 「はい」
 「お前、さっき“火にも掟がある”って言ったな」
 「ええ」
 「どんな掟だ」
 「弱いほうへ行く、です」
 矢野は笑った。
「人間の掟は、強いほうへ寄る、だ」
 「だから、火は人より賢い時があります」
 「うるせぇ。火の肩持つな」
 二人の軽口が、ようやく戻ってきた。

 座敷の中は、もはや戦場ではない。
 倒れた屏風は起こされ、濡れた畳には砂が薄く撒かれる。砂は水を飲み、朝になる頃には乾いて、誰かが日常の靴底で踏む。
 倒れていた器は元へ戻り、割れたものは一箇所に寄せられる。割れた音は、後でまとめて出すほうが町にやさしい。
 静は障子の桟に挟まった紙片を取り、袖に入れた。
 「証は?」
 「矢野さんの名で、十分です」
 「粋じゃねぇ」
 「紙は粋である必要がありません」
 「お前の言葉は、やっぱややこしいな」
 「はい。ややこしい言葉は、敵にだけ向けます」
 「味方にも向けてるぞ」
 「それは失礼」
 静が頭を下げると、矢野は指で額を弾いた。
 「礼はいらねぇ。……ありがとな」
 静は目を伏せ、微かに笑っただけだ。

 裏庭の隅で、頭目が目を覚ましかけていた。
 縛られた手首と足首がわずかに動く。
 矢野が近づき、しゃがみ込む。
 「燃やすってのは、何のためだった」
 頭目は顔を背け、唇を噛んだ。
 「名だ。俺の。俺らの。燃やしちまえば、残る」
 「残るのは、灰だ」
 「灰だって、風に乗れば広がる」
 矢野は肩をすくめた。
 「そいつぁ、風に頼りすぎだ」
 静が後ろから小さく言う。
 「灰は、畑に落ちたときだけ役に立ちます」
 頭目の目に、一瞬だけ人の色が戻った。
 「……俺の、畑は、どこだ」
 「あなたがこれから耕す場所です」
 静の声は、炎よりも低い。
 頭目は目を閉じた。
 「耕せるか、俺に」
 「耕す前に、眠ってください」
 静が顎にそっと指を添え、視線を落とす。
 頭目は、今度は静かに眠った。

 旅籠の主が再び現れた。
 震える手で、静の裾を掴みかけ――掴まずに、膝をついた。
 「助けて、いただき……」
 「助けたのはこの家です」
 静は首を横に振る。
 「家は、あなたがいなくてもここに立っていました。あなたが戻る場所は、ここです」
 主は泣き、畳に額を着けた。
 矢野が横で、柱を二度だけ叩いた。
 「いい家だ。よく持ちこたえた」
 家は返事をしない。
 けれど、返事の代わりに、軒先の風鈴がひとつ鳴った。
 紅い房が湿った夜気で重く揺れ、音は短く、低い。

 やがて、隊長が到着した。
 土間の湿り、煙の薄さ、座敷の片づけ。目は人ではなく、家と空気を測る。
 「死人は」
 「出していません」
 「火は」
 「眠っています」
 「紙は」
 矢野が懐から押収の帳面と印形を出す。
 「乾いた」
 「署名」
 矢野は筆を取り、さらりと記す。
 「風は」
 隊長の視線が上へ流れる。梁。
 静はうなずかない。うなずく代わりに、一歩、後ろへ下がる。
 「よし」
 隊長はそれだけ言い、短く命じた。
 「後は口を閉じ、耳を開ける。夜明けまでに、路地の噂を絞れ」
 「了解」

 廊下の角を曲がると、外の空気が一段冷たくなっていた。
 雨上がりの夜は、長い。
 火のあとの風は、さらに長い。
 静は門の敷居の手前で振り返り、座敷の暗がりを一度だけ見た。
 家は、息を整えようとしている。
 彼は小さく会釈し、路地へ出る。
 矢野が肩を並べる。
 「静、燃え方にも、消し方にも、掟があるんだな」
 「ええ」
 「人の掟より、筋が通ってる」
 「だから、学べます」
「お前は何でも学ぶな」
 「学びます。間に合うために」
 矢野は薄く笑い、草鞋の結び目を指で確かめた。
 「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
「はい」
 「……さっきの、背」
 矢野が言い淀む。
 静は首を横に振った。
 「背中は、矢野さんが見る。僕は前だけ見る。――約束です」
 矢野は拳で胸を軽く叩いた。
 「鳴らす。呼べばすぐ鳴る」
 「呼びません。けれど、聞こえます」
 「ややこしい」
 「風は、ややこしい」
 二人の笑いが、路地の濡れた石に短く落ちた。

 池月屋の外れ、用水の上にかかる細橋を渡ると、夜風が強くなった。
 川筋の匂い。
 静は歩を緩め、橋の欄干に指を置いた。
 「矢野さん」
 「ん」
 「火をつけた者は、名を欲しがっていました」
 「言ってたな」
 「名は、火と同じです。置けば、拾う者がいる。残せば、誰かが嗅ぎつける」
 「お前は置かねぇ」
 「はい」
 「残さねぇ」
 「はい」
 「それで、いいのか」
 静は欄干の木目を撫でる。
 「名を置かないぶん、掟の縁に立てます。落ちた者を引き上げるのに、両手が使えます」
 矢野は空を見た。
 雲は薄い。月はまだ出ない。
 「……お前、たまに卑怯なくらい静かだな」
 「風は、静かです」
 「雷は、うるせぇ」
 「だから、ちょうどいい」
 橋を渡りきると、東の端がわずかに白んでいた。

 屯所へ戻る道すがら、静はふと立ち止まった。
 路地の角、風の抜ける筋。
 祇園で取り決めた“口止め”の約定が、今夜も効いているかを確かめる。
 行灯の高さ。廊下の幅。畳の目。
 噂は光へ向かい、真実は影に潜む。
 「静」
 矢野が振り返る。
 「はい」
 「今日の白は、狐に見えたかね」
 「狐は賢いです。僕は、賢くありません」
 「じゃあ狸か」
 「狸は踊ります」
 「踊ってたじゃねぇか、梁の上で」
 「あれは、火を眠らせる踊りです」
 「ややこしい」
 静が笑い、矢野も笑った。
 笑いは短い。短いから、遠くへ届く。

 屯所の門前で、矢野は草鞋を解き、結び直した。
 「急ぐ時ほど」
 「結びなおすんだ」
 同時に言って、二人は目を合わせた。
 静の目は、火の色を映していない。水の色でもない。
 ただ、風の色だ。
 風の色は、見えない。
 見えないものほど、長く残る。

 長廊下の机の上、報告帳の頁が新しい。
 矢野は筆を取り、「風雷小隊 筆頭 矢野蓮」と大きく書く。
 もう一つの欄に筆を誘われても、静は首を横に振った。
 「僕の名は、ここには置けません」
 隊長が眉を上げる。
 「なら、どこに置く」
 「池月屋の梁の上に。あるいは、誰かの呼吸の中に」
 隊長は薄く笑った。
 「記録係が泣くぞ」
 「記録は、矢野さんが笑わせます」
 矢野は肩を竦め、筆を置いた。
 「笑わせるのは得意だ」
 「はい。雷は、笑いに似ています」
 「どう似てる」
 「鳴っている間だけ、皆、同じ方向を向きます」
 隊長が小さく舌を打ち、「ややこしい」と呟いた。

 夜はようやくほどけ、東の白は薄く金になりはじめている。
 静は廊下の端で一礼し、裏庭へ出た。
 紅い房が風に鳴る。
 矢野が手のひらで一度だけそれを止め、すぐに手を離した。
 「静」
 「はい」
 「また、間に合ったな」
 「ええ。炎の廊下にも、掟はありました」
 「人の廊下にもある。……今夜、俺らが跨いだやつだ」
「掟の縁、ですね」
 「縁は細い。落ちるなよ」
 「落ちたら、雷で叩いてください」
 「うるせぇ」
 矢野が笑い、静も笑った。
 笑いは風に乗り、すぐ薄くなった。
 その薄さが、二人にはちょうどよかった。

 池月屋は、もう煙を上げていない。
 旅籠の主は家の柱に額を当て、目を閉じている。
 子どもが朝になれば、濡れた廊下を走って叱られるだろう。
 女将衆は、火の気の残る場所を鼻で嗅ぎ分け、いっそうの水を運ぶだろう。
 噂は昼の光で温くなり、夜には狐の話に変わる。
 白い影は、物語のほうへ少しだけずれる。
 名は置かれない。
 置かれない名ほど、長く残ることがある。

 静は袖の奥の短刀に触れた。
 鞘に巻いた薄布は、まだ濡れている。
 「折らせません」
 口に出さずに言い、袖を離す。
 風が背中を押す。
 雷は、すぐそばだ。
 ふたりは、同じ方角へ歩き出した。
 掟の上を、名の下を、白と紅が並んで。
 夜が明けるまでに、まだ少しだけ時間が残っていた。