夕刻の雨はとうに上がっていた。
 だが、郊外の渡りに構える大旅籠・池月屋の周りだけは、いつまでも濡れているように見えた。石畳は鈍い鈍色で、路地の端には薄い水の縁。行灯の灯は水面を一度沈めてから返し、灯芯の呼吸を半拍だけ遅らせる。
 静は屋根にいた。瓦はまだ冷たく、夜の手前の風が瓦の曲面を撫でるたび、露が音を立てずに転がった。はね上げ窓は南に二つ、北にひとつ。窓の紙から漏れる灯を数え、呼吸の重さを測る。
 「座敷に八、土間に二、二階の奥に四」
 独りごとのような、風ほどの声。
 白装束は夜の輪郭の中で逆に目立つはずだが、静の歩法は行灯と雨樋、そのどちらにも属さない“間”を継いで、輪郭そのものを薄めてしまう。光でも影でもない場所に身体を置く。置いて、次の“間”へ滑る。
 瓦の継ぎ目に右足を、雨樋の受け口に左足を。踵を浮かせ、指を置く。息をひとつ短くして、視線だけで庭の砂の湿り具合を確かめる。砂は重い。足跡は濃い。ここ数刻で人が行き来した印だ。裏手の路地にだけ、足跡の密度が不自然に集まっている。

 「御用だァ! 寝てる奴ぁ起きろ、起きてる奴ぁ寝とけ!」

 正面の格子戸の前で、雷が鳴った。
 矢野蓮の声は、雨上がりの空をひと息で割る。豪快だが、ただ大きいだけではない。声の高さをあえて半音低く、腹に落とすところから出す。格子戸の横木が抜かれ、両開きになる一瞬、通りの空気の高さが矢野の喉の高さに合わさる。声は扉を押し、扉は声に開く。先陣の扉だ。
 格子戸が左右に割れ、土間の灯が一度だけ呼気を呑む。
 突入の一拍遅れで、座敷から浪士が飛び出した。
 穂先は抜かない。矢野は槍の柄で鎖骨を押し、体ごと座敷へ投げ戻す。
 「穂先は後のお楽しみだ」
 軽口の裏で、足は滑らない場所を正確に選んでいる。砂の重さの違い、畳の目の向き、廊下の木目の節の硬さ――それらが雷の“足場”になる。

 二階から火薬の匂いが降りてきた。
 火皿が転がる音。乾いた炭の弱い叫び。煙が廊下の天井に沿って広がり、角で滞る。
 静は二階梁の上にいた。梁の節は古く、息を止めるのにちょうどいい厚みがある。紙屏風の縁に踵をかけ、わずかに蹴る。煙の流れが横へ変わった。
 煙は視界を奪い、奪われた視界は刀線を荒らす。
 荒れた線には、必ず“抜け目”が生まれる。
 静は鞘の角で手首の腱を正確に叩き、柄頭で顎をそっと押す。膝裏を畳の目に沿って払えば、人は座る。斬らない。斬らずに倒すほうが、速い。

 「静、左だ!」
 下から矢野の声。
 返事は息だけ――“承知”。
 白装束の裾が煙の向こうに一瞬だけ現れては消え、消えるたびに誰かが音を落として座る。
 裏口のほうで桶のぶつかる音。誰かが井戸へ走った。
 矢野が追うと見せかけ、あえて足音だけを井戸へ向ける。実際は“別の足”を静に譲る手筈だ。
 静は裏口の柱陰で待った。走り出た男の重心が前へ倒れ切る、その一瞬手前に半歩だけずらし、足裏を空転に変える。肩を外へ投げれば、井戸の桶が倒れ、水が廊下を洗う。
 水は音を吸う。
 戦場から“音”が消えた。

 ここからは静の領分だ。
 白が煙の合間を縫い、紅は柱の影で雷を溜める。
 ふたりの呼吸は合っている。座敷の混線は、制圧の図に向かって収束し始めていた。

 ***

 表の土間では、酔いの残る客が二人、事態を理解できずに口だけを開けている。
 矢野は槍を立て、穂先を天井へ向けたまま、柄尻で土間の柱をコツンと叩く。
 「店の柱に刃は立てねぇ。人の柱にもだ」
 客が息を吐き、指の力が抜けて、持っていた徳利が畳の縁で止まる。
 「この宿は、後でまた使う。壊すと損だ」
 矢野の言葉は、敵にではなく“宿”に向けて発せられている。建て付けを味方にするのは、雷の流儀だ。

 二階の端の座敷で、火皿を落とした浪士が新しい火を求めて手探りしていた。
 静は梁の上から、その手の“指の順番”を見ていた。
 親指と人差指の間に力が集まり、薬指が遅れている。
 遅れた薬指は、鯉口を切るときにも遅れる。
 静は梁から垂れた古い蜘蛛の糸を指で摘み、ふっと吹いた。糸は光らず、煙に溶ける。
 浪士の指が、その一瞬、空中で迷う。
 迷いの角度に鞘の先をそっと置けば、刀は鞘に戻りたがる。
 戻る道を見せてやれば、たいていの刃は素直に帰る。

 階下から、再び水の音。
 井戸の水が、廊下を走る火薬の粉を濡らし、火は息ができない。
 「静、右の廊下、音が立つ」
 矢野の声。
 「雷の前に、風で」
 静の息。
 梁から右へ滑る。屏風の桟が鳴らない側を裸足で掴み、踵を畳の目に合わせる。足の裏で“盥の水”を思い出す――撥ねず、音を立てすぎず、形だけ残す。
 逃げる背に追いすがるのではなく、背が“向かう先”の空気を先に薄くしておく。
 薄くした空気は、踏み切りの支えにならない。
 支えを失えば、人は落ちる。
 落ちる前に、手を添える。
 それが、風の仕事だ。

 裏庭で、女中が一人、震えながら簾の陰に蹲っていた。
 静は目だけで所在を確かめ、そこへ“音のない道”を一本、通す。
 「こちらへ」
 声は出さない。顎だけで示し、障子の影の“白”を一瞬だけ増やす。
 人は、白へ寄る。
 女中は簾の陰から出て、静の示す影の中へ滑り、音もなく座敷の外へ消えた。
 救うべき命は、刃の向こう側にだけあるわけではない。

 矢野は表で“雷の蓋”を続けていた。
 廊下の角で足音が止まり、視線が集中する。その中心で矢野はわざと肩をすくめ、ため息を大きく吐く。
「はぁ――。お前ら、煙に弱すぎる」
 その呻くような溜め息こそが雷の溜めだ。
 次の瞬間、柄が柱を叩く。
 短い音。
 その音を合図に、柱の影に眠っていた者が一人、また座る。

 「静、二階奥に四。うち一人、逃げ癖」
 矢野の言葉は短いが、具体だ。
 静は梁の上で、四の音を聴く。
 逃げ癖の足は、かかとが先に浮く。膝が先に揺れ、腰が追って遅れる。
 逃げる。
 静は梁を離れ、廊下を横切り、はね上げ窓の上の“空気の抜け”に身を置く。
 逃げ癖の男が窓へ手をかける瞬間、静は窓の桟を軽く上へ押し、指を“外側へ迷わせる”。
 迷いの指は、握れない。
 握れない手は、押される。
 鞘で手首を押し、肘の裏を撫でる。
 「座ってください」
 声にはしない。だが、手が言う。
 男は座った。

 ***

 戦いの最中にも、建物は呼吸をしている。
 池月屋は大きい。大きな建物は、息の出入りが遅い。
 遅い呼吸は、火にはやさしい。
 ――嫌な匂いだ。
 静は梁の上で鼻腔の奥をかすめる甘い匂いに気づいた。油。火口布にしみた油が、煙の下に潜んでいる。
 そのとき、二階のさらに奥――板の間の隅で小さな火が起きた。
 誰かが、火を“置いた”のだ。
 置く火は、拾われるまで育つ。
 育つ前に、摘む。

 「矢野さん」
 静は梁の上から、低く短く。
 矢野は下で鼻を鳴らし、廊下の角の水を足で掬い上げるように蹴った。
 足で蹴った水は、音がしない。
 だが、飛沫は確かに二階の格子へ向かう。
 静ははね上げ窓の隙を作り、足でそれを受けた。
 水は空中で形を崩し、火の、まだ芯にもならないところへ落ちた。
 火が息をやめる。

 その瞬間――
 「裏手、火ぃ!」
 叫びが裏庭から走った。
 なんのことはない、井戸で倒れた桶から零れた水が、火の粉と出会っていた。濡れた板は滑り、すべった足が火鉢を蹴り、火の粉が葦簀に移り――やっかいな火勢になる前に、風が通るべき道を塞ぎ始めた。
 火は、風の“間”を好む。

 「雷を、貸してください」
 静の声は、梁の上でさらに低くなる。
 矢野は即座に応じた。
 「持ってけ」
 雷は声ではない。重さだ。
 矢野は槍を地に刺さず、逆に両手で抱え直し、柄で床を横に掃いた。
 床板の継ぎ目に溜まっていた微細な埃が一気に動き、火の粉の進路を変える。
 静は二階の窓を一つ、さらに半分だけ開ける。
 火の呼吸は窓へ向かう。
 開いた窓の外は湿り気の強い夜気。
 火は、そこで一度だけ咳をした。

 「桶だ、桶を回せ!」
 矢野の声が一段だけ高くなり、土間に残っていた客と若い隊士を即席の“水の列”に変える。
 列の手は震えるが、震えは力になる。震えているとき、人は手を強く握り、次に渡す相手の目を見る。
 目を見る者は、遅れない。
 静は上から見て、列の“目の高さ”が揃った瞬間に、窓を閉じた。
 吸い込まれかけた火は、外気を吸えずに、また咳をした。
 咳き込む火は弱い。

 裏庭では、女将衆が走ってきていた。水無月庵で見知った顔もある。
 「姐さん、ここは俺らに任せろ。面子は立てる。……京の面子も立てさせろ」
 矢野の言い草は、啖呵と約束の真ん中にある。
 女将衆は素早く首を振り、「火の方(かた)はプロに任せとくれ」と言い残し、女中の避難へ回った。
 静は梁の上から、簾の陰で息をゆっくり整える女中の肩を目だけで追い、再び座敷へ戻る。
 制圧は、まだ終わっていない。

 ***

 煙が薄くなった座敷に、最後の二人が残った。
 片方は、刀を水平に、低く構えている。もう片方は、肩で息をしながら、部屋の隅に火皿と油紙を集めている。
 静は二人の間の“音のない線”を見つけた。
 線の入り口に足を置き、足音ではなく“冷え”を残す。
 水平の刀が、冷えに気づかずに前へ出る。
 刀は空を掴み、肩が空気を掴む。
 静は鞘で、肩が掴んだ空気の“縁”だけを押した。
 掴んだつもりは、掴んでいない。
 掴んでいない肩は、座る。
 座る音は、小さい。

 油紙の男の手が、火皿へ伸びる。
 静はそこで初めて言葉を使った。
 「それは、置く火ですか。残す火ですか」
 男の手が一瞬止まる。
 「は……?」
 「置く火は、拾われるまで育つ。残す火は、名前になる。どちらを欲しがっているのか、教えてください」
 男の顎がこわばる。
 「名を――欲しがる町だろ、ここは」
 静は小さく頷いた。
「だから、名は外に置きます。ここへ置くなら、煙だけにしてください」
 静は火皿の炭を袖で覆い、酸素を奪う。
 袖口は水で湿らせてある。燃えない。
 男の指から力が抜けた。
「……無明隊、か」
 静は首を横に振る。
 「風です」

 「おーい風」
 廊下から雷が呼ぶ。
 「はい」
 「もう寝ていいか?」
 「どうぞ。……その前に、二人起こします」
 静は座った二人の手首と足首を帯で軽く縛り、床に倒れた屏風を立て直した。
 屏風は、部屋の呼吸を整える。

 階下で矢野が槍を袋に戻す。
 「穂先、今夜は一度も使わず仕舞いだ」
 「使わないほうが、速い夜でした」
 「そりゃそうだ」
 矢野は額の汗を手拭いで拭い、笑う。
 「静。さっきの“置く火と残す火”のやつ、難儀だな」
 「僕の言葉はややこしいです」
 「ややこしくていい。敵にはな」
 矢野は肩を竦めた。
 「味方には、もうちょい分かりやすく言え」
 「では――今夜は“置かせず、残させなかった”で、どうでしょう」
 「上等」

 ***

 制圧の印が隊長へ届けられる前に、座敷の“記録にならない片づけ”が始まる。
 倒れた花瓶を元へ戻し、濡れた畳には砂を薄く撒く。砂は水を吸い、明日の朝には乾く。
 矢野は土間の柱の傷を指の腹で撫で、「ここは俺のせいだ」と小さく呟いた。
 静は耳だけで聞き、何も言わなかった。
 隊の若い衆が、帳面と印形を抱えて廊下を走る。
 「兄貴、署名は?」
 矢野はにやりと笑い、「俺だ」と短く答える。
 「白い人は?」
 「いねぇ。風の名なんか、書いても紙が覚えちゃいねぇよ」
 若い衆は不満そうに眉を寄せたが、やがて納得したふりをして走り去った。
 納得していない目は、朝になるとだいたい忘れる。忘れることは、救いにもなる。

 裏庭から、お蝶が来た。
 花街の取りまとめ役。濡れた裾を持ち上げ、息は乱していない。
 「静の坊や」
 静は会釈だけで返す。
 「助かったよ。あんた、名を教えておくれよ」
 扇の陰の笑みは艶やかだが、目は本気だ。
 「名は風に。約定だけ人に」
 「相変わらずだねぇ」
 お蝶は笑みを深くしてから、真顔に戻った。
 「押収物は適法の範囲で返す。関わった子らの身柄は無明隊が保護。街の面目は、あんたらが担保。……その代わり、うちの目と耳を、しばらく貸す」
 静は深く礼をした。
 「この場の話は忘れてください。ただ、困った時の目礼だけは覚えておいてください」
 「恩を名に変えないための礼法、だっけね」
 お蝶はくすっと笑い、矢野にも目を向ける。
 「雷の兄さん、柱を叩くなら、次は太鼓のほうにしておくれ」
 「へい。柱は家の骨だ。鳴らすなら腹で鳴らす」
 会話の末尾だけが冗談で、真ん中は全部約束だ。

 ***

 座敷の中央に、さきほどまで火の気が残っていた場所がある。
 静はそこへ膝をつき、指先で畳の目を撫でた。
 焦げは浅い。明日には、店の者が匂いを消すだろう。
 「静」
 背後で矢野が呼ぶ。
 「はい」
 「先陣の扉は、いつも雷が開ける。だが、今夜はお前が何度も内側から開けた」
 静は首を横に振る。
 「扉が開いたのは、矢野さんの声で、柱の音で、桶の列で。僕は風で“蝶番に油を差した”だけです」
 矢野は笑った。
 「うるせぇ、言い回しが粋だ」
 「江戸の言い回しです」
 「お前いつから江戸者だよ」
 「雷の隣にいると、伝染します」
 「風邪(かぜ)みてぇに言うな」
 二人の笑いは、短く、低く、すぐに夜へ沈む。

 階下の土間で、隊長が到着した。
 目は座敷ではなく、屋根の棟を見ている。
 「火は?」
 「止めました」
 「死人は」
 「出していません」
 「紙は」
 「墨が乾いています」
 隊長は小さく頷き、矢野の肩を軽く叩いた。
 「雷、署名」
 「済み」
 「風は」
 静は一歩下がる。
 隊長は静を見ず、梁を見た。
 「梁に置いたか」
 静は答えない。
 隊長はそれで満足したらしい。
 「引き上げる。明け方までに、口は閉じろ。耳は開けておけ」
 「了解」

 ***

 帰途、夜気はさらに湿り、道の砂は重くなった。
 池月屋の屋根の上に残した“冷え”は、もう誰も知らない。
 だが、知られないもののほうが、長く残ることもある。
 静は歩きながら、ふいに足を止めた。
 「矢野さん」
 「ん」
「名を置く場所は、今夜はたくさんありました」
 「梁、窓、畳、桶、柱、声、息」
 矢野が指折り数える。
 「紙にも、置いとくか?」
 静は首を横に振る。
 「紙は、矢野さんが。僕は、あなたの胸の中にだけ」
 矢野は胸を拳で二度叩いた。
 「ここは埋まってる。だが、まだ入る」
 「ありがとうございます」
 「礼はいらねぇ。証人だからな」
 静は微笑んだ。
 その笑いは空気に触れるとすぐに形を失ったが、失う前に矢野の目にだけ、確かに映った。

 屯所の手前で、東の端がわずかに白む。
 雨上がりの夜は長い。だが、朝は必ず来る。
 門の前で、矢野が草鞋を結び直した。
 「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
 「はい」
 「静、今日も“間に合った”な」
 静は少し考えて、頷いた。
 「はい。……遅れそうでしたが、雷が鳴ってくれたので」
 「鳴るさ。風が吹いてりゃ、俺はいつでも鳴れる」
 「では、僕は吹きます」
 「吹け」
 短い言葉のやり取り。
 短いのに、長く残るやり取りだ。

 長廊下の机の上、報告帳の最後の頁は、昨夜と同じ顔をしている。
 黒い名が一つ、白い空欄が一つ。
 記録係が朝の光で目を細め、紙を撫でる。
 「片方、白のままか……」
 矢野が笑って肩をすくめた。
 「紙は白いのが似合うんだよ。黒は、俺で十分だ」
 静は何も言わない。
 言わないことが名になる夜もある。

 ***

 その日の昼、花街には新しい噂が広がった。
 ――祇園の白狐が、池月屋の梁で火を食った、と。
 子どもは目を輝かせ、女将衆は扇の陰で笑い、商人は帳面の余白に小さな狐の絵を描いた。
 どこにも名はない。
 白い影は、物語のほうへゆっくり移されていく。

 夜。
 静は廊下の隅で、短刀を取り出した。
 鞘に巻いた薄布は、まだ新しい。
 「折らせません」
 誰にも聞こえない声で、短刀に告げる。
 「呼べばすぐ来る雷が、そばにいるから」
 短刀は、何も言わない。
 黙ったまま、静の袖の中で眠る。
 眠りは浅い。だが、その浅さが、今夜は救いだった。

 外で風鈴が鳴る。紅の房が、月のない空気を揺らす。
 風は、名を運ばない。
 けれど、風が吹いたことだけは、誰の胸にも、確かに残る。
 池月屋の屋根瓦は、もう乾いている。
 先陣の扉は、今は静かに閉じている。
 だが、扉は内からも外からも開く――それを知っている者が、今夜は二人、同じ屋根の下に眠っていた。