朝霧館の朝は、名のとおり霧の肌触りで始まる。
鳥が鳴くより早く、竹林のあいだを抜ける風が地表に薄い皺を刻み、夜の残り香を静かに押しやる。露の粒はまだ言葉を持たず、土の匂いは昨日と今日の境を曖昧にしている。
庭の中央に、白い影が立っていた。静である。
裸足の足裏が土に浅く沈み、竹刀の先は薄明の中でふっと止まる。彼は空を仰がない。まぶたの裏で、世界の輪郭を息で確かめるふうに、肺の出入りだけを研ぎ澄ます。
ひと振り、ふた振り――数えようとする意思を遥かに越え、素振りは霧のなかで重ねられる。千、あるいはそれ以上。汗は落ちず、呼吸の音すら鳥の初音に紛れて、姿だけが朝の風景と一続きになっていた。
門の向こうで、矢野が草鞋の結び目を直している。
「急ぐ時ほど、結びなおすんだよ」
いつもの独り言の調子で紐を引き、掌で結び目の硬さを量る。矢野にとって結び目は“構え”そのものだ。静の剣が息で立つなら、矢野の槍は足で立つ。支点の確認から、彼の一日は始まる。
「おはようございます、矢野さん」
静の声は、まだ夜の温度をわずかに残して低い。
矢野は口の端を上げる。「おう、朝から霧と一緒に立ってやがるのか。……あのな、幽霊でもそんなに黙ってねぇぞ」
「幽霊は音を立てません。僕のほうが、少しは人間らしいです」
「そりゃ結構。なら、飯の音くらいは立てろよ」
二人は笑い、竹林の隙間から落ちる光を背に道場へ戻る。すれ違う弟弟子たちが小声で「白い人だ」と囁いても、静は聞き流す。名が付いた瞬間に風は重くなる――彼はそれを本能で知っていた。
昼の稽古が終わると、雪堂が縁側で茶を点てた。
矢野は湯飲みを片手に、汗で張りついた襟を引きながら問う。
「なぁ先生、静って何者なんです?」
雪堂は答えず、茶筅を静かに回す。泡の細かさをたしかめ、目だけで矢野を見た。
「何者でもいい。名が要るのは、己を縛りたい者だけだ」
「へぇ。じゃあ、縛られてるほうが楽な奴もいるんですね」
「そういう者もいる。お前のようにな」
矢野は目を丸くし、照れ隠しに笑った。「そりゃ一本取られた」
***
昼下がりの江戸は、埃がよく喋る。
商人の声が重なり、川面の光がはね、遠くの太鼓が遅れて響く。そんな雑踏のなかで、静と矢野はよく“仲裁”を頼まれた。道場の教えでは、町の揉め事を収めるのも修行のうち。だが静のやり方は、いつも少しだけ常道から外れている。
ある夕暮れ、酔った浪人が往来の真ん中で柄に手をかけ、空気が裂けた。
人波が二つに割れ、叫びが早口に変わる。静は歩幅を変えず、浪人へ近寄った。
「刀を抜く前に、少しだけ深呼吸を」
「何だ貴様、侮辱する気か!」
浪人の怒声が刃に火を入れる。静は足を止めず、袖で相手の手首を包んだ。布越しに角度だけを渡す。力は要らない。関節が“迷子”になる角度をそっと教えると、指が開き、柄は地に落ちた。
空気がひとつ、音を失う。
「これで刀は鞘のままです。命も、鞘の中に戻ります」
浪人は膝を折り、座り込む。矢野が横で笑い、肩を軽く叩いた。
「おいおい、今の見たか? 抜かせる前に終わらせちまった。ありがたく思いな。鞘のままで済んだんだ」
噂は、風より早く町を回る。
“白い稽古着の子が、音もなく人を止める”――。
けれど静は名を伏せた。誰がどこで称えても、彼は同じ言葉で受け流す。「それは矢野さんのおかげです」。矢野が褒められれば、かならず付け足す。「全部、二人分です」。
その簡潔さは、美徳というより、彼なりの速度だった。名を置けば、風は遅れる。
夜、道場へ戻ると、雪堂が灯を低くして待っていた。
「沖田、なぜ斬らぬ」
静はわずかに息を止め、答える。
「斬らずに済むなら、そのほうが早いからです」
その声音は淡々としているのに、どこか祈りの余韻がある。雪堂は湯呑みを回し、香を吸い込むように言った。
「早さは力だが、力は罠でもある。早すぎる者は、己の影を踏むぞ」
意味はすぐには降りてこない。静は「はい」とだけ応じ、矢野が柱にもたれながら指で机を叩く。
「先生、それ、静が自分を斬るって意味ですか?」
雪堂はわずかに笑み、言葉を畳んだ。「そのうち分かる」
***
いつしか、町は二人を“風と雷”と呼ぶようになった。
静の無音と、矢野の轟き。性格も戦い方も正反対なのに、息の高さは不思議と揃う。人を斬らぬ剣と、人を叩いて笑わせる槍――対極がひとつの構図を描き、町の夜気を少しずつ変えていく。
ある夜、橋の上で月を仰ぎながら、矢野が尋ねた。
「なぁ静、お前、なんでそんなに“名を嫌う”んだ?」
静は欄干に手を置き、水面の暗を覗く。
「名は重いんです。持つと、風が遅くなる」
「風が遅くなったら困るのか?」
「ええ。間に合わなくなりますから」
「何に?」
「人の命に、です」
矢野はそれ以上言わず、欄干を指で二度叩いた。音は短い。
「なら、俺は雷でいい。風が遅れても、音で知らせてやる」
その後も揉め事は尽きない。金貸しと職人の怒鳴り合い。駄菓子屋の前での子供の投げ合いが親同士の喧嘩に変わる。静はどれも“抜かせる前に終わらせた”。手首を押さえ、膝を崩し、刃を抜かせず、血を流さない。矢野は最初こそ肩を竦めていたが、やがて理解する。静は「勝つ」ためではなく、「遅れない」ために剣を使うのだと。悪意が形を持つ前に止める――それが、静の美学だった。
ある日、町人が感謝の酒を携えて訪れた。
雪堂は受け取らず、静に渡そうとする。静は首を振った。
「僕がしたことではありません。矢野さんが前に出てくれたから」
「おいおい、またそれか」
矢野は笑いながら瓶を受け、「じゃあ、二人で飲むか」と提案する。夜更け、灯の下で湯飲みを交わし合う。
「なぁ静、お前、なんでそんなに早いんだ?」
「間に合いたいからです」
「何に?」
静は少し考え、「生きている人に」と答えた。矢野は湯飲みを掲げ、「そりゃ悪くねぇ理由だ」と笑う。静も微笑む。だが、笑いが遠のくほどに、静の瞳の底は静かに沈んでいった。間に合うという言葉には、裏側にいつも「間に合わなかったものたち」を呼び寄せる影がある――それを、彼だけが知っている。
***
そのころ、道場には“白い影”の噂が立った。
夜、無人のはずの稽古場で、白装束が竹刀を振る音がする。畳の目をなぞる正確なリズム。雪堂は止めようとしない。「風は、閉じ込められないからな」とだけ言った。
矢野は苦笑して灯りを手に稽古場へ向かい、やはり静を見つける。
「またやってんのか」
「はい。音を殺す練習です」
「もう十分だろ」
「いえ、まだ“影”が残るんです。足の動きに」
矢野は灯を下げる。「影まで消したら、お前どこにいるか分かんなくなるぞ」
静は振り返らずに言う。「それでいいんです。僕はいなくても、風は吹くから」
言葉が灯火の縁で揺れ、矢野は短く黙った。
「……お前、ほんとに、いなくなりそうで怖ぇな」
「矢野さんが雷を鳴らしてくれれば、僕は戻ります」
「約束だぞ」
「ええ」
短い約束は、のちの長い運命の前口上になった。
***
江戸を発つ前夜、雪堂が静を呼ぶ。
「京に行くのか」
「はい。矢野さんと一緒に」
「名は置いていくのか」
「ええ。重いので」
雪堂は笑う。「重さを知らん者が軽さを選ぶな。風は地を歩かねば吹かぬ」
静は黙礼したあと、ためらわず問う。
「先生、僕は斬らずに戦う道を選びます。それでも剣士と呼べますか」
「呼べるさ。呼ばれなくても、そうであれ」
雪堂の声は、夜の灯より穏やかで、遠くの鐘のように遅れて胸に落ちた。
庭に出ると、竹の影が足元を軽く縫う。
門の外で矢野が待っていた。
「先生、泣いてたか?」
「いいえ。風が強かっただけです」
「おう。じゃあ行くか。雷も風も、京が似合う」
静は少しだけ間を置き、「矢野さん」と呼ぶ。
「ん?」
「もし、僕がいなくなったら」
「はぁ? 縁起でもねぇこと言うな」
「その時は、雷を鳴らしてください。風の向きを教えてください」
矢野は笑って言う。「上等。お前がどこに消えようが、雷は鳴らしてやるよ」
静は深く息を吸い、夜風の素地へ溶けた。
道場の奥で、雪堂が独り言のように呟く。
「名を残さぬ者ほど、強く残る」
白い影が門を出る。風がそれを追う。血の匂いはなく、ただ“間に合う速さ”だけが、はっきりと残っていた。
鳥が鳴くより早く、竹林のあいだを抜ける風が地表に薄い皺を刻み、夜の残り香を静かに押しやる。露の粒はまだ言葉を持たず、土の匂いは昨日と今日の境を曖昧にしている。
庭の中央に、白い影が立っていた。静である。
裸足の足裏が土に浅く沈み、竹刀の先は薄明の中でふっと止まる。彼は空を仰がない。まぶたの裏で、世界の輪郭を息で確かめるふうに、肺の出入りだけを研ぎ澄ます。
ひと振り、ふた振り――数えようとする意思を遥かに越え、素振りは霧のなかで重ねられる。千、あるいはそれ以上。汗は落ちず、呼吸の音すら鳥の初音に紛れて、姿だけが朝の風景と一続きになっていた。
門の向こうで、矢野が草鞋の結び目を直している。
「急ぐ時ほど、結びなおすんだよ」
いつもの独り言の調子で紐を引き、掌で結び目の硬さを量る。矢野にとって結び目は“構え”そのものだ。静の剣が息で立つなら、矢野の槍は足で立つ。支点の確認から、彼の一日は始まる。
「おはようございます、矢野さん」
静の声は、まだ夜の温度をわずかに残して低い。
矢野は口の端を上げる。「おう、朝から霧と一緒に立ってやがるのか。……あのな、幽霊でもそんなに黙ってねぇぞ」
「幽霊は音を立てません。僕のほうが、少しは人間らしいです」
「そりゃ結構。なら、飯の音くらいは立てろよ」
二人は笑い、竹林の隙間から落ちる光を背に道場へ戻る。すれ違う弟弟子たちが小声で「白い人だ」と囁いても、静は聞き流す。名が付いた瞬間に風は重くなる――彼はそれを本能で知っていた。
昼の稽古が終わると、雪堂が縁側で茶を点てた。
矢野は湯飲みを片手に、汗で張りついた襟を引きながら問う。
「なぁ先生、静って何者なんです?」
雪堂は答えず、茶筅を静かに回す。泡の細かさをたしかめ、目だけで矢野を見た。
「何者でもいい。名が要るのは、己を縛りたい者だけだ」
「へぇ。じゃあ、縛られてるほうが楽な奴もいるんですね」
「そういう者もいる。お前のようにな」
矢野は目を丸くし、照れ隠しに笑った。「そりゃ一本取られた」
***
昼下がりの江戸は、埃がよく喋る。
商人の声が重なり、川面の光がはね、遠くの太鼓が遅れて響く。そんな雑踏のなかで、静と矢野はよく“仲裁”を頼まれた。道場の教えでは、町の揉め事を収めるのも修行のうち。だが静のやり方は、いつも少しだけ常道から外れている。
ある夕暮れ、酔った浪人が往来の真ん中で柄に手をかけ、空気が裂けた。
人波が二つに割れ、叫びが早口に変わる。静は歩幅を変えず、浪人へ近寄った。
「刀を抜く前に、少しだけ深呼吸を」
「何だ貴様、侮辱する気か!」
浪人の怒声が刃に火を入れる。静は足を止めず、袖で相手の手首を包んだ。布越しに角度だけを渡す。力は要らない。関節が“迷子”になる角度をそっと教えると、指が開き、柄は地に落ちた。
空気がひとつ、音を失う。
「これで刀は鞘のままです。命も、鞘の中に戻ります」
浪人は膝を折り、座り込む。矢野が横で笑い、肩を軽く叩いた。
「おいおい、今の見たか? 抜かせる前に終わらせちまった。ありがたく思いな。鞘のままで済んだんだ」
噂は、風より早く町を回る。
“白い稽古着の子が、音もなく人を止める”――。
けれど静は名を伏せた。誰がどこで称えても、彼は同じ言葉で受け流す。「それは矢野さんのおかげです」。矢野が褒められれば、かならず付け足す。「全部、二人分です」。
その簡潔さは、美徳というより、彼なりの速度だった。名を置けば、風は遅れる。
夜、道場へ戻ると、雪堂が灯を低くして待っていた。
「沖田、なぜ斬らぬ」
静はわずかに息を止め、答える。
「斬らずに済むなら、そのほうが早いからです」
その声音は淡々としているのに、どこか祈りの余韻がある。雪堂は湯呑みを回し、香を吸い込むように言った。
「早さは力だが、力は罠でもある。早すぎる者は、己の影を踏むぞ」
意味はすぐには降りてこない。静は「はい」とだけ応じ、矢野が柱にもたれながら指で机を叩く。
「先生、それ、静が自分を斬るって意味ですか?」
雪堂はわずかに笑み、言葉を畳んだ。「そのうち分かる」
***
いつしか、町は二人を“風と雷”と呼ぶようになった。
静の無音と、矢野の轟き。性格も戦い方も正反対なのに、息の高さは不思議と揃う。人を斬らぬ剣と、人を叩いて笑わせる槍――対極がひとつの構図を描き、町の夜気を少しずつ変えていく。
ある夜、橋の上で月を仰ぎながら、矢野が尋ねた。
「なぁ静、お前、なんでそんなに“名を嫌う”んだ?」
静は欄干に手を置き、水面の暗を覗く。
「名は重いんです。持つと、風が遅くなる」
「風が遅くなったら困るのか?」
「ええ。間に合わなくなりますから」
「何に?」
「人の命に、です」
矢野はそれ以上言わず、欄干を指で二度叩いた。音は短い。
「なら、俺は雷でいい。風が遅れても、音で知らせてやる」
その後も揉め事は尽きない。金貸しと職人の怒鳴り合い。駄菓子屋の前での子供の投げ合いが親同士の喧嘩に変わる。静はどれも“抜かせる前に終わらせた”。手首を押さえ、膝を崩し、刃を抜かせず、血を流さない。矢野は最初こそ肩を竦めていたが、やがて理解する。静は「勝つ」ためではなく、「遅れない」ために剣を使うのだと。悪意が形を持つ前に止める――それが、静の美学だった。
ある日、町人が感謝の酒を携えて訪れた。
雪堂は受け取らず、静に渡そうとする。静は首を振った。
「僕がしたことではありません。矢野さんが前に出てくれたから」
「おいおい、またそれか」
矢野は笑いながら瓶を受け、「じゃあ、二人で飲むか」と提案する。夜更け、灯の下で湯飲みを交わし合う。
「なぁ静、お前、なんでそんなに早いんだ?」
「間に合いたいからです」
「何に?」
静は少し考え、「生きている人に」と答えた。矢野は湯飲みを掲げ、「そりゃ悪くねぇ理由だ」と笑う。静も微笑む。だが、笑いが遠のくほどに、静の瞳の底は静かに沈んでいった。間に合うという言葉には、裏側にいつも「間に合わなかったものたち」を呼び寄せる影がある――それを、彼だけが知っている。
***
そのころ、道場には“白い影”の噂が立った。
夜、無人のはずの稽古場で、白装束が竹刀を振る音がする。畳の目をなぞる正確なリズム。雪堂は止めようとしない。「風は、閉じ込められないからな」とだけ言った。
矢野は苦笑して灯りを手に稽古場へ向かい、やはり静を見つける。
「またやってんのか」
「はい。音を殺す練習です」
「もう十分だろ」
「いえ、まだ“影”が残るんです。足の動きに」
矢野は灯を下げる。「影まで消したら、お前どこにいるか分かんなくなるぞ」
静は振り返らずに言う。「それでいいんです。僕はいなくても、風は吹くから」
言葉が灯火の縁で揺れ、矢野は短く黙った。
「……お前、ほんとに、いなくなりそうで怖ぇな」
「矢野さんが雷を鳴らしてくれれば、僕は戻ります」
「約束だぞ」
「ええ」
短い約束は、のちの長い運命の前口上になった。
***
江戸を発つ前夜、雪堂が静を呼ぶ。
「京に行くのか」
「はい。矢野さんと一緒に」
「名は置いていくのか」
「ええ。重いので」
雪堂は笑う。「重さを知らん者が軽さを選ぶな。風は地を歩かねば吹かぬ」
静は黙礼したあと、ためらわず問う。
「先生、僕は斬らずに戦う道を選びます。それでも剣士と呼べますか」
「呼べるさ。呼ばれなくても、そうであれ」
雪堂の声は、夜の灯より穏やかで、遠くの鐘のように遅れて胸に落ちた。
庭に出ると、竹の影が足元を軽く縫う。
門の外で矢野が待っていた。
「先生、泣いてたか?」
「いいえ。風が強かっただけです」
「おう。じゃあ行くか。雷も風も、京が似合う」
静は少しだけ間を置き、「矢野さん」と呼ぶ。
「ん?」
「もし、僕がいなくなったら」
「はぁ? 縁起でもねぇこと言うな」
「その時は、雷を鳴らしてください。風の向きを教えてください」
矢野は笑って言う。「上等。お前がどこに消えようが、雷は鳴らしてやるよ」
静は深く息を吸い、夜風の素地へ溶けた。
道場の奥で、雪堂が独り言のように呟く。
「名を残さぬ者ほど、強く残る」
白い影が門を出る。風がそれを追う。血の匂いはなく、ただ“間に合う速さ”だけが、はっきりと残っていた。



