出立前の夜の音は、昼間の喧噪の名残りではない。
 風のない廊下に、板の乾きが張り詰める。灯は低く、紙障子に映る影は背丈よりもすこし伸びている。
 無明隊の屯所、長廊下の突き当たり――報告帳の机には、今夜の任務のために新しい紙束が用意され、角を合わせて重ねられていた。墨は挽きたて、筆は水を吸って腹をふくらませている。紙を照らす行灯の炎は小さく、炎の縁は静かに揺れて、墨の匂いを甘くする。

 矢野蓮が、その紙に向かって座っていた。肩は少しだけ張り、指の節は固い。だが筆を握る手つきは不思議なほどやわらかく、江戸者の癖で勢いよく書き始めるかと思えば、最初の一画だけは必ず深く置く――そんな癖を持っている。
 「……よし」
 声は低いが、どこかで笑っている。
 矢野は筆を紙の上に滑らせた。

 ――風雷小隊 筆頭 矢野蓮。

 太い。すこし斜め。だが、迷いはない。紙がその名を吸い、墨の黒が紙の白をはっきりと切り取っていく。
 隣には、同じ大きさの署名欄が空いている。隊の掟に従えば、先鋒二名の署名が並んでいるはずの欄だ。
 矢野は筆を持ったまま、肩越しに振り返る。廊下の中ほど、白装束の影が立っていた。

 静――沖田静。
 白い。灯の色でも月の色でもなく、夜の端を薄く剥がしたような白。
 静は机の前まで来て、紙を覗き込むようにはしない。ただ距離を計り、行灯の明るさの端で立ち止まる。

 「静。もう一つ、空いちまってる。書け」
 矢野はぶっきらぼうに言う。だが、筆先の水滴が落ちないよう、わざと少しだけ手を持ち上げている。
 静は首を横に振った。
 「僕の名は、ここには置けません」

 隊長が、机の向こうに座っていた。背は丸めず、目は行灯の火よりも低く、紙の端に落ちる影を見ている。
 「なら、どこに置く」
 短い問い。穏やかな声。
 静は視線だけで廊下の奥の暗がりを見た。
 「池月屋の梁の上に。あるいは――誰かの呼吸の中に」

 隊長の眉が、わずかに上がる。
 「記録係が泣くぞ」
 静は小さく笑った。
 「記録は、矢野さんが笑わせます」

 矢野は鼻で笑い、筆を置いた。
 「笑わせるのは得意だけどよ、泣かすのも得意なんだぜ。なぁ、隊長」
 「泣くのは紙だ。お前が拭け」
 隊長はそう言って、灯を少しだけ近づけた。紙の白が明るくなる。空欄は、いっそう白く見えた。

 静は机の端に手を添え、わずかに腰を折って礼をした。
 「出立の支度を。……そのまえに、一つだけ」
 懐から、短刀を取り出す。鞘は黒。黒の上に薄い布が巻かれ、結び目は目立たない。手の中で、音がしない。
 静はその短刀を、矢野に差し出した。
 「万一、僕を“証明”する必要が生じたら、これを折ってください」
 矢野の眉が跳ねる。「は?」
 「刃紋だけが、僕の名になります」
 矢野は思わず顔をしかめた。
 「縁起でもねぇことを。……折るだぁ? 馬鹿言え」
 静は淡々と答える。
「縁起は雷の役目です」
 「ケッ。そんな縁起、鳴らしたくもねぇ」

 隊長が横から手を伸ばし、短刀の布を一指でつついた。音はしない。
 「音を殺してあるのか」
 「はい。鞘の中にも薄い布を巻いてあります。折るときだけ、音が出る」
 「何のために」
 「“ここに人がいた”ことが、誰かの耳に届くように」

 矢野は短刀を受け取り、鞘ごと懐に収めた。
 「折らねぇよ」
 静は頷いた。
 「ええ。折らせません」

 短い沈黙ののち、隊長が立ち上がる。
 「集合。――出立の合図が鳴るまで、それぞれの支度を終えろ。風雷小隊、先行に次ぐ先行。記録より速く、掟より深く、終わらせろ」
 「了解」
 矢野が先に立ち、廊下を走らない歩幅で去る。
 静は残り、もう一度、空欄の白を見た。紙は何も言わない。だが、言わないもののほうが、夜はよく覚えている。

 廊下の端で、静はふり返らずに呼吸だけで言葉を作った。
 ――矢野さん。僕はいません。けれど、あなたが振り下ろす一撃の先にいます。
 声にはならず、吐いた息に形だけが宿り、灯の熱で消えた。

 ***

 出立の太鼓は二度鳴る。
 最初は、眠っている者を起こすため。二度目は、起きている者の心拍に合わせるため。
 太鼓が一度、空を震わせたとき、静は裏門にいた。
 太鼓が二度、土を震わせたとき、矢野は表門にいた。

 道は分かれる。
 裏門は川へ近い。屋根へ上がりやすい位置に梯子がかかっている。
 静は手をかけ、梯子の一段目で足袋の底を木に馴染ませた。二段目で呼吸をひとつ短くし、三段目で夜の匂いを肺に入れる。
 屋根瓦は冷たい。だが、夜露はもう重くない。足を置くたびに、露は音を立てずに横へ逃げ、静の体重だけが屋根の骨に沈む。
 屋根の上には風がある。風の上には、何もない。
 静はその“何もない”の中を選び、梁の上を踏んでいく。隣の屋根へ渡るところで、瓦が一枚だけ古く鳴る。足首をわずかに捻り、音を露の側へ逃がす。露は受け止め、朝が来れば消える予定だ。
 屋根の端で、静は一度だけ止まった。
 ――名をどこに置くか。
 屋根の天辺から見えるのは、京の屋根の海。行灯の明るい波。
 名を置けば、そこに他人の目が集まる。集まった目の重さで、風は鈍くなる。
 だから今夜も、名は置かない。
 置くのは足だ。足の輪郭だけを梁の上に残し、朝露がそれを消す。消えた跡の冷えだけが、名の代わりに残る。

 静は屋根から屋根へ、行灯の輪の外側を繋いでいく。
 池月屋までの路は、地上では迷路だが、空の上では筋が一本通っている。
 曲がり角ごとに、昔の火事の跡がある。焦げた木の匂いは、雨が降っても抜けない。
 静はその匂いの古さと新しさで、風の向きを読む。
 今夜の風は、東から南へ、浅く捻れている。
 池月屋の瓦の上――そこに、最後の輪を置く場所がある。

 一方、表門を出た矢野は、地上の音を選んでいた。
 先鋒に続く隊士らが駆ける。草鞋の音は揃っているが、胸の音はそれぞれ違う。
 「おい、息を前に持て。背中で呼吸するな」
 矢野は歩きながら短く言い、足を止めない。
 丹念に結び直した草鞋の紐が、足の甲に正しい痛みを与える。
 「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
 独り言のようにこぼし、肩越しに空を見る。
 ――行け。
 屋根の上に白い点はない。
 だが、白がいなくても、雷は鳴る。
 矢野は懐の短刀を指先で確かめ、布越しの“音のない重さ”に舌打ちした。
 「折らせるかよ、んなもん」

 隊は表から街へ入り、行灯の高さを測るように通りへ散る。
 矢野はわざと砂利を踏む。音は短いが、肉のほうに響く。
 廓の客引きが目を上げ、しかし何も言わない。目が“仕事の匂い”を嗅ぎ取るとき、口は何も出さない。
 「通るぞ」
 矢野は短く言い、通りの空気を低く下げた。
 低く下がった空気は、風のほうを通しやすくする。
 風は、もう先へ行っている。

 ***

 池月屋の裏手。昨夜、廃寺の土の上で二人が何度も描き直した座敷の“仮想図”が、現実の建て付けに重なっていく。
 井戸は西。はね上げ窓は南。二階の渡りは、廊下の角で細くなる。
 静は屋根の棟をまたぎ、南の窓の上で身を伏せ、呼吸を止めた。
 屋内の音が上へ逃げてくる。
 笑い声はない。帳面をめくる紙の音が二、炭の弾ける音が一。
 ――三人。
 昨夜と同数。だが足の間隔が違う。ひとり、歩幅が短い。女か、酔っているか。

 静は窓の釘に触れない。釘は昼間にひと度動かされている。わずかに柔らかく、音が出やすい。
 窓の上に置かれた木端を指の腹でずらす。
 「そこだよ」
 梁が囁く。今夜の梁は、重さよりも音を嫌う。
 静は梁の言う通りに、身体を横へ滑らせた。
 ――名を置く場所。
 梁の上に置くのは、名ではなく、重さのない影だけ。
 矢野の言葉が脳裏をかすめる。
 “見えねぇなら声を出せ。雷は音で居場所がわかる”
 静は笑ってしまいそうになる。声は出さない。
 出すのは、矢野だ。

 裏口から、砂の音。
 矢野が来た。
 廊下に足が四つ。隊の若い衆だろう。“雷の蓋”だ。
 静は梁の上で眼を閉じる。
 眼を閉じると、風の形が見える。
 行灯の灯が紙障子の隙から呼吸を吸い、廊下の角で細くなる。その細くなったところが、雷にとって一番、気持ちよく鳴れる場所だ。
 ――行け。
 雷の位置が定まる。

 「おい、開けるぞ」
 矢野の声。低く、短い。
 返事はない。
 板戸が音を立てるまえに、矢野は柄で柱を軽く叩く。コツン、と一点だけ鳴る。
 盥の縁を弾いたときと同じ、わずかな音。
 その一音に、座敷の空気が反応する。
 刀の鯉口を切る音。息を吸う音。足が畳に吸い付いて外れる音。
 静は梁から降りない。降りないことが、降りるよりも速い夜がある。
 矢野の雷は、すでに“見えないもの”を照らし始めている。

 机の角で帳面の紙が捲れ、印形の箱が持ち上がる。
 静は梁の“静けさの中心”に指先を置き、そこからだけ重さを落とす。
 畳の目が微かに逆立ち、座敷の角に置かれた文箱の蓋が、その逆立ちを真似する。
 蓋が、音を立てずに開く。
 中身は――青布、火蓋、包み札、そして小さな密書。
 静は梁から手を伸ばし、密書だけを指に挟んだ。
 挟んだ瞬間、足音が廊下に増える。
 「裏だ!」
 矢野の雷だ。
 座敷の男が一人、窓へ走る。
 静は梁の上で、男の呼吸だけを待つ。
 男の呼吸が窓に達する一拍の前、静は密書を袖に入れ、手を引いた。
 窓の釘が動く。
 男の手が釘に触れる。
 ――触れた。
 釘が鳴る。
 その音が矢野の方向感覚へ届く。
 雷が、跳ぶ。

 「そこだ」
 板戸の外で柄の音。
 男の肩が、雷の音に押し戻される。
 静は梁の反対側へ軽く転がり、畳の上へ降りた。
 降りた音は盥の中央のように沈み、何も残さない。

 逃げ道のうち、一つは自分で塞ぐ。
 静は障子の桟の戸車に、折った紙片を噛ませる。外からだけ開く“風の栓”。
 もう一つは、矢野が塞ぐ。
 廊下に“雷の蓋”が降りる。

 短い。
 雷は短いから、遠くまで届く。
 静は座敷の片隅で、密書の封を破らず、匂いだけ嗅いだ。
 油紙問屋の墨。河岸の米蔵。――昨夜の続き。
 掟は、記録より速さを選べと言った。
 速さは今、ここにある。

 制圧の合図――板戸を軽く三度。
 静は廊下の陰へ戻り、梁を見上げて小さく礼をした。
 「名を置きました」
 梁は何も言わない。
 だが、冷えた木の匂いが、少しだけ甘くなった。

 ***

 屯所に引き上げる道は、行きよりも暗い。
 灯は低くなり、夜の底が近づく。
 矢野は先頭で歩き、振り返らない。
 静は後ろを歩く。振り返らない。
 ふたりの間には、足音だけがある。
 同じ速さで、同じ重さで、同じ方向へ。
 ――名前を口にしない二人の歩調は、名前より正確だった。

 屯所の門前で、矢野は隊を後ろへ下げた。
 「先に入れ」
 静は頷き、影になった裏門のほうへ回る。
 表門は声が集まる。裏門は息が集まる。
 退出と入場の足音が交わる一瞬、静は軒先の鈴の“鳴らないほう”を通った。

 隊長室。
 矢野が報告帳の前に座る。
 密書と印形と火蓋は机の上。隊長が指先で順に重さを確かめ、紙束の角を揃える。
 筆が渡される。
 矢野はいつものように、紙の左上から黒を置く。
 ――風雷小隊 筆頭 矢野蓮。
 紙はそれを受け取る。黒が乾く。
 空欄は、やはり白い。

 隊長が言う。
 「署名欄は二つある」
 矢野は筆を置いたまま首を振った。
 「一つで足ります」
 隊長の口元がすこしだけ笑った。
 「記録係が泣いている」
 「笑わせます」
 「どうやって」
 「明日の朝、雷で」
 隊長は短く頷いた。
 「よし。……風は、どこに置いた」
 矢野は口を開きかけ、閉じた。
 答えるべきは自分ではない。
 だが、答えは自分の掌にある――懐の短刀の布の手触りは、まだ乾いたままだ。
 「梁の上と、俺の肺の中に」
 「肺か」
 「呼吸で覚えます」

 廊下に出ると、記録係が机を抱えて小走りに去っていく背が見えた。
 矢野はその背中に「悪ぃな」と声を掛けかけ、やめた。
 代わりに、肩の力を抜いて吐息を落とす。
 吐息は白くない。だが、音のない輪をひとつ残して消えた。

 「静」
 廊下の片隅に、白が立っている。
 「はい」
 「……さっきの短刀、返せ」
 静は目を細める。
 「折らないと決めたのでは?」
 「俺の懐にあると、縁起でもねぇ」
 「では、預かってください」
 「話が通じねぇ」
 矢野は笑い、笑いながら短刀を懐にしまい直した。
 「折らねぇ。けど、持っとく。証人の道具だ」

 静は小さく礼をした。
 「ありがとうございます。――矢野さん」
 「ん」
 「僕の名は、どこにも書かれません」
 「知ってる」
 「けれど、今夜の息の中に、少しだけ残しておきます」
 矢野はうなずき、胸を叩いた。
 「ここな。忘れねぇよ」

 ***

 夜が更け、行灯の油が尽きる前の時間。
 静は長廊下の端へ戻った。
 誰もいない。紙束の白は冷たく、署名欄は片方だけが黒に沈んでいる。
 静は机の角に指を置き、紙をめくった。最後の頁の次――白い紙が、四枚。
 白のまま。
 名を置くには、白は十分すぎる。
 だが、その白に墨を置くことは、今夜もしない。
 静は紙を戻し、筆を持ち上げて、また戻した。
 墨の匂いを吸う。
 吸った匂いは、肺に残り、朝までに薄くなる。
 ――名をどこに置くか。
 紙の上には置かない。
 梁の上に、息の中に、相手の手首の腱に、鞘の角に、盥の水の輪に。
 置かれた名は、朝露で消え、消えた跡だけが、仕事の形になる。

 廊下の外で、風鈴が鳴った。
 矢野が掛けた紅の房が、月のない夜にも揺れる。
 音は短く、低く、誰にも届かない高さで。
 だが静には、十分だった。

 「名は、置きました」
 誰に言うでもなく、静は呟いた。
 声は行灯に触れず、柱の木目に溶けた。

 ***

 その夜の残りの時間は、矢野の眠れない時間だった。
 寝所で横になり、目を閉じると、筆の腹が紙に触れた感覚が、まだ指に残っている。
 ――風雷小隊 筆頭 矢野蓮。
 黒インクの乾く匂い。紙の繊維が墨を飲む手応え。
 隣の白欄は、目を閉じても浮かぶ。白は光ではなく、空気の重さだ。
 矢野は胸の上に片手を置く。
 「ここに、置け」
 誰に言ったのか分からない言葉が、胸骨の下で跳ねる。
 静の呼吸は短い。だが深い。
 自分の呼吸は長い。だが浅いときがある。
 ――足りねぇな。
 矢野は寝返りを打ち、短刀の布の感触を確かめた。
 折らない。
 折らないが、証人の道具は、眠れない夜にだけ重さを増す。

 外で、犬がひとつ吠えた。
 遠く、鴨川の水音が夜の底に沈む。
 風は弱い。
 名も弱い。
 弱いものは、守りやすい。

 矢野は目を閉じ、眠りに落ちる前に、胸の中で小さく言った。
 「名は、俺が持っとく。お前は風でいろ」

 ***

 明け方。
 まだ太鼓は鳴らない。空は紙の裏側みたいに薄い。
 静は屋根の上にいた。
 池月屋の梁に残した“冷え”は、夜のうちに消えた。
 消えたものは、必ず残る。
 残るものは、誰にも見えない。

 屋根瓦の端に一つ、露が残っていた。
 指で弾く。小さな輪が立ち、瓦の溝を伝って落ちる。
 落ちた露の輪は、地上で誰の足跡にも重ならない。

 静は屋根の上で、短く息を吐いた。
 吐いた息は白くならず、空に溶ける。
 「置く場所は、間に合う場所」
 自分で言って、自分で頷く。

 下の通りで、草鞋の音が一つ。
 矢野だ。
 背中を見なくても分かる。
 足が、音を“出す”ために結ばれている。

 静は屋根から降りる。
 梁に触れないように、釘に触れないように、瓦の鳴らない側を通って。
 地上の土に足を置いた瞬間、土が“おかえり”と乾いた声で言った気がした。

 屯所へ戻る。
 長廊下の机の上には、昨夜と同じ白――いや、同じではない。
 白は夜を吸い、今朝はすこしだけ柔らかい。
 矢野はもう起きていた。紙の前には座らない。
 廊下の端で背伸びをし、肩を鳴らす。
 「おはよう、風」
 「おはようございます、雷」

 短い朝の挨拶のあと、ふたりは歩き出す。
 道は違えても、行き先は同じ。
 名は置かずとも、仕事は置いていく。
 置いていくものの重さが、日ごとに増していくことを、ふたりとも分かっていた。

 「静」
 矢野がふいに呼ぶ。
「はい」
 「池月屋の梁の上、寒かったか」
 「梁はいつも、ちょうどいい温度です」
 「ならよかった」
 「矢野さんの胸の中は、温かいですか」
 「熱い。……うるさいくらい、な」
 静は目を伏せ、ほんの少し笑った。
 その笑みは、昨夜の行灯の火よりも淡いが、確かな温度を持っていた。

 無明隊という“灯の裏側”に生きるということは、名前を置く場所を選び続けることだ。
 紙の上に置かれた名は、掟を動かす合図になる。
 梁の上に置かれた名は、風の向きを変える小さな冷えになる。
 呼吸の中に置かれた名は、友の胸でだけ鳴る雷になる。
 どれも正しい。どれも足りない。
 だから二人で持つ。片方が紙に、片方が風に。片方が雷に、片方が静けさに。

 白と紅は、今日も同じ方角を見て歩いた。
 行灯の火が消え、太陽がまだ名前を持つ前の時間――
 名を置く場所は、まだ濡れている。
 足で、息で、そして誰にも知られない重さで、乾かしていくしかなかった。