朝の冷えが、廃寺の石畳にまだ残っていた。
 京郊外、田の切れ目に立つこの古寺は、夜になると風が先に老い、朝になると水だけが若返る。井戸の縁には昨夜の露が鈍く光り、釣瓶は朽ちているのに、井戸口から吸い上げた水は、指を沈めれば新しい音で答えた。

 静は盥に水を張り、縁を両手で支え、膝を落として覗き込む。
 水面は鏡みたいに寺の屋根を逆さに映し、風のない朝であることを確かめさせた。指先を落とす。ひと輪、ふた輪。輪は広がり、薄くなっては、石の隙間で消える。足の重心と同じ法で、波紋は広がる――それが彼の考えだった。

 「また妙な稽古を始めやがって」

 矢野蓮が現れ、槍の柄に手拭いを巻きつける。井戸端の湿りを吸った手拭いで穂先を拭きながら、鼻を鳴らした。
 「水に向かって礼でもしてんのかよ、静」

 静は盥の縁を爪で弾き、微かな音の高さを数える。
 「風は形を持ちません。ですが、足は水を持ちます。踏み出すたびに残るわずかな音を、相手の耳に“届かせない”――それが今夜、必要です」

 「相手の耳を馬鹿にするのか」

 「いえ、僕の音を馬鹿にします」

 矢野は半ば呆れながらも理解していて、盥をつま先で軽く蹴った。水は縁を越えず、内側の円だけがふっと揺れる。
 「じゃ、こっちは逆だ。音を“わざと出す”。俺が廊下で雷鳴らしてやりゃ、敵はみんなこっちを見る。お前の“消えた音”はその時まで温存だ」

 静は頷いた。盥の水に落とした輪が重なり、中央で一瞬だけ模様になる。
 「役目が、はっきり分かれています。あなたは敵の“注意”を集め、僕は敵の“注意”に入らない」

 矢野は柄を肩に担ぎ、口角を上げる。
 「役割分担、上等。……けどよ、静。一つだけ言っとく。功なんざ要らねぇ。だが、お前がいなかったなんて、俺は認めねぇ」

 静は盥の水面から顔を上げた。朝の光はまだ薄く、白装束の襟に淡く滲む。
 「認めなくて構いません。あなたの中に“僕がいた痕”があれば」

 矢野は握っていた拳を開き、そのまま静の肩に置く。
 「……ったく。言い負かされた気しかしねぇ。けどまあ、いい。証人は俺で足りる」

 風が杉葉を揺らす。井戸の匂いは涼しく、寺の裏山から百舌の声がひとつだけ落ちた。
 巡回の百姓が畦道から近づく足音がする。静は盥を持ち上げるより早く身を陰に滑らせ、矢野は槍を杖に見せかけるために布袋をかぶせ、腰を曲げて道行きの老人の所作をする。
 百姓は「朝がはよおすなぁ」と笑って通り過ぎた。矢野はそれに合わせて腰を叩き、「年寄りは早起きでね」と皺を寄せる。静は息だけで笑い、影に溶けた。

 「今のを“盥の水”って呼ぶのか?」

 「そうですね。撥ねず、音を立てすぎず、形だけ残す」

 「お前の言葉はややこしい。だが、そのややこしさで敵を見えなくするのは、悪くねぇ」

 盥の水はもう輪を立てない。静はそれを井戸に返し、空の盥を縄で吊った。
 日は高くなり始めている。池月屋の夜まで、残りはわずか。だが準備の輪は、盥の水のように重なり、中心へ収束してゆく。

 ***

 寺の裏手の土手で、ふたりは仕度を整えた。
 矢野は草鞋の結び目を二度、整える。
 「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
 「はい」
 静は帯を締め直し、袖口に昨夜縫い付けた紅の小房を指で確かめる。ほどけば音が出る――矢野の雷に、風を呼び戻すための房だ。

 「静」

 「はい」

 「盥の輪ってさ、真ん中が一番静かだよな」

 「ええ。周縁が騒いで、中心は音を飲む」

 「だったらよ、今夜のお前の居場所は、真ん中だ。俺が周りで派手に騒ぐ。お前は真ん中で、何も起きなかったみてぇな顔しとけ」

 静はうっすら笑った。
 「得意です」

 「知ってる」

 軽い会話の背中で、ふたりとも呼吸の長さを揃えていく。
 風が変わる前に肺を空にし、変わった後で新しい風を満たす。盥の輪が消えるのと同じ速さで、緊張が入り、抜ける。

 昼過ぎ、廃寺を出る前に、静はひとつだけ寺の仏間へ戻った。
 古い仏壇の前に座り、線香を一本だけ点す。煙は細く、真っすぐ上がり、梁の陰で曲がって消えた。
 ――名は残すな、技だけ残せ。
 雪堂の声は、仏間の冷えた空気にまだ居場所を持っていた。

 静は一礼して立ち上がる。
 矢野が山門の外で待っていた。
 「行くぞ、風」

 「はい。雷の鳴る前に」

 白と紅が並び、田の稜線を越えた。

 ***

 陽が傾くにつれ、京の街は香の匂いを増していく。祇園筋の屋根瓦は昨夜の雨をすでに忘れ、行灯が灯り始める直前の“間”だけが、路地の色を灰に戻す。
 池月屋は四間長屋を二つ繋いだ大店で、表の暖簾はあっけらかんとしているのに、裏の戸口は耳だけで来客を選ぶ。

 作戦は隊長の一声で始まるのではない。
 風の向きが変わった時、その場にいる者の呼吸の深さで始まる。
 静と矢野は、表ではなく裏へ回った。井戸は屋敷の西側、納屋の陰にある。
 静は足の重さを盥の水へ移すように、縁石の割目だけを踏んで近づく。矢野はわざと砂利を踏む。砂利は軽く鳴り、奥座敷のどこかで膝が少しだけ揺れた。

 「ここからは、盥の真ん中だ」
 矢野が囁き、杖に見せた槍を壁に立てかける。
 静は頷き、縁の下の“空気の抜け”に身体を薄く落とし、肘で土を撫でて匂いを確かめた。
 油紙の匂い、樟脳、そして金属。人の手の汗が混じって新しい。昨夜から今日にかけ、ここを通った者がいる。

 渡り廊下の木戸が、一定の間隔で鳴る。
 ――三人。
 歩幅の長さと、板の悲鳴の高さで、静は人数を決める。ひとりは足袋の底が薄い。内儀ではない。足運びに迷いがない。
 矢野は壁際の行灯の高さを指で少しだけずらし、灯の輪の縁を不自然に上げる。遠近感が一枚、狂う。

 池月屋の内側は、幾筋もの座敷が“渡り”で結ばれた迷路だった。
 静は“音を減らす”のではなく、“音の通訳”になる。畳の目の向きと足音の粒、紙障子が受ける小さな風圧――それらが示す“注意の向き”に、自分の足音を混ぜない。盥の中心にいるまま、周縁の騒ぎだけ利用する。

 裏手の梯子段を上がる気配がした。
 静は縁の下からするりと抜け、土間からはね上げ窓の下へ。窓は外から板釘で止められている。昨日、廃寺の土で繰り返し稽古した“音の置き換え”が、ここで形になる。
 板釘に布片を噛ませ、力ではなく角度で外す。
 釘は鳴らず、窓は半分だけ口を開けた。

 中の座敷で、低い声が帳面を往復する。
 「印形は明日回す。米蔵は河岸、合図は酢の匂いだ」
 「医者衆には青布を回すか」
 「半玉は口を封じろ。花街の噂は速い」

 静は障子の桟に指先を置いた。
 盥の縁を弾くときと同じ強さで、桟をほんの僅か揺らす。
 揺れは風に化け、室内の注意が“外”へ一瞬だけ滑る。
 その隙に、風の中心は動く。静は縁側へ身を滑らせ、床の間の置き床の下へ手を入れた。昨夜、茶屋「水無月庵」で見た桐箱と同じ造りだ。覆い布をずらす。包み札、火蓋、そして印形。
 盥の輪でいえば、指が触れた瞬間に生じる波――それが今、誰にも届かないように、静は布で輪を吸ってから桐箱を袖へ納める。

 ちょうどそのとき、番頭の足音が下足場で止まった。
 「誰だ」
 声は鴻のように膨らみ、廊下の灯を押し戻す。
 静は敢えて薄く見える場所へ、一瞬だけ姿を見せた。盥の中心から周縁へ黒点を置く。注視が黒点に吸われる。
 番頭が扉を開けて追い出た刹那、裏手の小路で杖が鳴った。矢野だ。
 「悪ぃな。杖術は風に強ぇんだよ」
 杖――中身は槍――の柄が木枠を押し外す。外れた木枠の反動が番頭の膝裏を叩く。番頭は声を出す前に座敷へ膝をつき、息を吸い損ねる。

 中では、町医者が火皿を机に叩きつけた。白い煙が上がる。
 ――煙で視界を奪う。
 静は袖で煙の流れを断ち、炭に靴裏をそっと重ねて酸素を奪う。火は音を立てずに死ぬ。
 帳面は袖に、印形は帯に、火蓋は襟に――分散させれば、ひとつを落としても全体は死なない。

 板戸の軽い三打――撤収の合図。
 静は縁を滑り、廊下の陰を選んで下へ。盥の水面に戻るとき、輪はもう見えない。

 「表だ!」
 外から矢野の声。雷の低音。
 静は門の陰で足を止める。矢野が二人をひょいと交わし、柄尻で額を小突く。
 「おい、眠いか? なら寝てろ」

 小競り合いは風一息より短い。
 静は庭の影に薄く会釈だけ残して消えた。女将はその影に目礼で返し、何も見なかった顔で扇を閉じた。

 ***

 撤収の足は、走らない。
 盥の中心で走れば、輪は立つ。
 静と矢野は、灯と灯の縫い目だけを拾って裏路地を外へ抜けた。
 角を三つ折れたところで、巡察の目付が来る。矢野は手を上げ、笑って見せる。
 「火の気はねぇ。鼠が逃げただけだ」
 目付は鼻を鳴らし、行灯の高さをわざとらしく上げて去った。
 「雷は、時に嘘を明るくするな」
 静が言うと、矢野は肩を竦めた。
 「嘘じゃねぇ。ほんとの一部だ」

 無明隊の屯所に戻るまで、ふたりは余計な言葉を持たなかった。
 持たないことが、夜に勝つ唯一の礼儀のように思えた。

 隊長室。
 帳場の灯は低く、紙束の影が長い。
 静は印形と火蓋と帳面を置いた。矢野が記録に署名をする。いつものように、静の名はどこにもない。
 隊長は短く言う。
 「速い」
 それで十分だった。

 部屋を出る直前、筆頭が呼び止めた。
 「風雷。今夜のこと、明日には忘れろ」
 矢野が片目で笑う。「忘れるために、覚えねぇんだ」
 静は頷いた。「盥の水です」

 ***

 夜半、廊下の奥で、年長の隊士・鴇田が酒を回していた。
 「おう、白いの。今夜も“いなかった”か」
 盃の縁が、わざと大きな音を立てる。
 矢野が立ち上がりかけるのを、静は袖を摘んで止めた。
 「矢野さん。今夜の雷は、もう鳴りました」
 矢野は舌打ちし、腰を落とす。
 鴇田はにやりと笑い、静の前に盃を置いた。
 「名もない奴に酒は回らねぇよ。名を名乗れ」
 静は首を横に振る。
「では、矢野さんの名で」
 場に、一拍の笑いが生まれる。
 矢野は盃の底を覗き込み、ぽつりと言った。
 「名ってのはよ、他人の口で生きる。お前はそれを拒む。いつか“いなかった”ことになるぞ」
 静は珍しく、盃を指で回しながら微笑んだ。
 「なれれば本望です。いなかった者の手で、誰かが助かるなら」

 矢野は拳を握り、それをゆっくり開いて静の肩に置く。
 「じゃあ俺が証人だ。静って奴が、確かにここにいたって」

 静は目元で礼をした。
 「証は、風に任せるのがいちばんです」

 盃は矢野の名で空き、静の名はどこにも残らない。
 だが、風は盥の水みたいに、見えない輪を幾重にも重ねていた。

 ***

 夜が更け、皆がそれぞれの灯を低くした頃、静はひとり、屯所の庭で盥を探した。無いことは知っている。廃寺に置いてきた。だが、盥の水はここにもあった。
 それは、砂利の上に落ちる露の輪。
 羽目板の節が吸う夜露の輪。
 そして、自分の足音が残す、聴こえない輪。

 「静」

 矢野が廊下の端に立っていた。
 「はい」

 「明日、池月屋の残り火を踏みに行く。掟は“記録より速さが勝つ”って言ったよな」

 「ええ」

 「お前、消えるなよ」

 静は少し考え、正直に答えた。
「消えます」

 矢野は眉を吊り上げ、すぐに下ろした。
 「……なら、俺は鳴る。盥の周りで、うるせぇほど鳴る」

 「お願いします」

 矢野は振り向きかけて、ふと言い足した。
 「盥ってさ、こぼした水は戻らねぇよな」

 「はい。だから、こぼさない」

 「けど、輪は広がる」

 「広がります。こぼれなくても」

 「だったら、今夜の輪は、もう京中に行ってるな」

 静は夜空を見上げる。雲は薄く、月は見えない。
 「輪が広がる先に、間に合いますように」

 それは祈りか、約定か。
 どちらでも、風の中では軽くなる。

 ***

 翌日。
 日が傾く前に、ふたりは再び廃寺へ寄った。
 盥は縄で吊られ、乾いた腹を見せている。
 静はそれを下ろし、井戸の水で満たす。輪は、触れなくても生まれた。
 「風が吹くと、水は揺れます」
 「当たり前だろ」
 「いえ、盥の水は風に弱い。屋根の上の瓦ほど、風に耐えられない」
 矢野は笑って肩を竦めた。
 「瓦は屋根の名だ。盥は水の名だ。……なら、屋根は俺がやる。お前は水をやれ」
 「よろしくお願いします」

 盥の水に指を落とし、輪が重なっていくのを見届ける。
 輪は重なれば重なるほど、中心の静けさを深くする。
 静けさが深くなればなるほど、そこに置かれた音は、遅れて誰にも届かない。

 「行こう」

 盥を空にし、縄に戻す。
 ふたりは廃寺を出て、田の間を踏んだ。
 ――池月屋の夜は、もう角を曲がった先にいる。

 ***

 夕。
 池月屋の座敷は、昼よりも狭くなる。灯が縁を厚くし、影が道になる。
 静は盥の中心を歩く。
 矢野は周縁で雷を鳴らす。
 廊下の板は悲鳴を上げて喜び、畳は軽く撓って眠る。
 障子の端に置かれた紙片が、誰にも気づかれずに戸車の動きを一枚だけ鈍らせる。
 渡りの手すりに撒かれた砂が、走る足音の粒を数える。
 行灯の高さは、遠近を一枚だけ狂わせる。
 すべては盥の輪であり、中心は静の足であり、周縁は矢野の音だった。

 ――誰かが、短く叫んだ。
 ――誰かが、短く笑った。
 ――誰かが、短く眠った。

 終わったとき、池月屋の夜は何も盗まれていなかった。
 帳面は戻り、印形は戻り、人は息だけを失って眠り、灯は一つ、二つと低くなっていく。
 矢野は隊長への報告に「敵制圧、負傷軽微」とだけ記し、筆を置く。
 静は机の端で手拭いを畳み、「僕の名は、今夜も盥の中に」と小さく言った。

 矢野は廊下で、誰にも聞こえない声で返す。
 「……俺の中にも、な」

 ***

 夜更け、帰営の道。
 鴨川の風は盥ほど弱くはなく、だが、盥ほど正直でもなかった。
 川面に投げた小石は、輪をひとつだけ残して沈む。
 静はその輪を目で追い、矢野はその輪に石をもう一つ、重ねた。

 「静」

 「はい」

 「間に合ったな」

 「ええ」

 「明日もか」

 「ええ」

 矢野は口笛を吹き、雷の出番をわざと遅らせた。
 静は微笑して、風の出番を先に置いた。

 盥の水は、寺に吊られたままだ。
 けれど輪は、京のどこにでも立つ。
 誰かが呼吸を整え、誰かが足を置き、誰かが名を置いていけば。

 無明隊という“灯の裏側”に生きる覚悟は、昨夜、あらためて固まった。
 掟は人を削るが、友情は削れない。
 白と紅は、闇の濃さに応じて、より鋭く際立っていく。
 そして輪は、重なりながら、いつか見えなくなる。
 見えなくなっても、そこにある。
 それで、十分だ。