京の外れ、田の切れ目に廃寺がある。
瓦は苔を吸い、山門は半身だけで立ち、仏間の柱には古い刀傷が獣の爪痕みたいに残っている。漆喰は雨に舐められて剥がれ、梁の木目は骨のように白い。昼は鳥が越えてゆくが、夕べになると風が先に来て、誰もいないのに風鈴が一度だけ鳴る。人が忘れた場所は、たいてい、音が先に老いる。
池月屋を仕掛ける前の晩、静は敢えて矢野をここに呼んだ。
目的は「勝ち筋の共有」ではない。「齟齬の捨て場」を作るためだ。いざという時、互いの見ている景色がわずかにズレただけで、速さは鈍る。ズレは現場で捨てるには重く、前夜に捨てるのがいちばん速い。
朽ちた灯籠の窪みに火打石を打つ。火花は一度で消え、二度目で躊躇い、三度目にようやく油に掴まって、ほの暗い円になった。円の境いは藁屑の色で縁取られ、境内の砂利は半分だけ光る。
静はその円の内に地図を広げた。筆ではなく、白い糸と短尺、そして糸巻き。紙の上より土の上が信じられる夜がある。
「池月屋の座敷は横長。渡り廊下が二つ、はね上げ窓が四つ。井戸は裏手――ここです」
指が止まる。灯の縁が静の指先で微かに揺れ、影が地図の柱の位置をなぞった。
「二階の南窓には簾。縁の下に“空気の抜け”が一本。ここは音が軽い。……矢野さん、ここで雷が鳴れば、ここの影が縮みます。僕はその縮んだ影に入る。鳴りやんだ一拍で移る。――僕が見えなくなる時間が、必ずあります」
矢野は鼻で笑い、柄を片手で肩に担ぐ。
「見えねぇなら声を出せ。雷は音で居場所がわかる」
「音は敵も拾います。だから、あなたが鳴るだけでいい」
「調子のいいこと言いやがる」
静は糸巻きを指に掛け、短尺を土に立てる。
畳一枚の幅を土間に写し、畳の目の数を縦横に刻む。縁側、柱間、戸口――土の上に“仮想の座敷”が現れる。夜にしか見えない枠組みだ。
「土は正直です。人の言葉より、足の下の答えが早い」
そう言って、静は素足で線を跨いだ。足の裏に冷たい砂がまとわりつき、踏むたびに乾いた音がひとつずつ生まれて消える。
矢野は柄の重みを刻む。
線と線の交点、柱の想定位置で一度止まり、反転し、柄尻を空に向ける。
「静、お前の言う“風”はいつも見えねぇ。だが、ここなら見える。土が教えてくれる」
静はかすかに微笑んだ。灯がその笑みの輪郭だけを拾い、すぐに手放す。
「土は人より正直です」
二人は廃寺の外縁で模擬突入を繰り返した。
静は“消える足”の稽古をする。踏むのではなく、置く。置くのではなく、移す。移した先で残すのは、体重ではない、呼吸の端だ。畳の目に対して斜めに、梁の影に対して平行に、足跡がつかない歩法を土へ馴染ませる。
矢野は“留める槍”の稽古をする。突かない。狙わない。通したい道の周縁で、相手の意志だけを少しずらす。柄尻を石畳に鳴らし、音の届く円を確かめ、円の外に雷を取っておく。いざという時の一撃は、撃つ前から始まっている。
「ここで鳴れ」
静が指したのは、仏間の柱の刀傷の集まる高さだった。
「ここだと?」
「はい。ここで雷が鳴ると、座敷の“見えない梁”が震えます。梁が震げば、梁に寄りかかった影が縮む。その縮み目に、僕が入る。――一拍だけです。鳴らすなら、深く、一度だけ」
矢野は頷き、柄の重みを掌に馴染ませた。「一度で足りるなら、一度で済ます。二度目が要るのは、逃げる背中だけだ」
ひと通りの足運びを終えると、灯の輪の中へ戻り、二人で座った。
火は小さく、炭は赤い芯だけで持っている。風がない。廃寺の夜は、息をしても空気が揺れない。
「矢野さんは、なぜ僕に背を預けてくれるのです」
静は火の芯を見つめたまま言った。問いは軽かったが、声は遠くまで届く形で置かれた。
矢野は火箸で炭を転がす。ぱち、と音が生まれ、すぐ夜に吸われた。
「簡単だ。背中に“名”を貼ってこねぇからだ。名があると、背中は重くなる。重い背中は、雷が届くまでの時間を狂わせる」
「……なら、僕はやはり名を置いていくべきですね」
「置いてけ。だが、俺が拾っちまうかもしれねぇ」
矢野は低く笑い、火箸で炭をもう一度だけ転がした。「拾わねぇほうがいいと思っても、拾う時がある。落ちてるのが“お前の名”なら、なおさらな」
静は灯を見つめ、小さく頷いた。
「名は、風上に置きます。届かない場所に」
「届かねぇ場所に置くなら、置いてねぇのと同じだ」
「はい。同じです」
会話はそれ以上、伸びなかった。伸ばす必要がない話は、夜が引き受ける。
休むふりで、また立つ。
仏間から外縁へ、外縁から山門へ、山門から裏の小丘へ。
静は“消える足”を地形に写す。山門の敷居の割れ目、柱の節、瓦の浮き。踏めば鳴るものを鳴らさず、鳴らせば止むものを鳴らす。
矢野は“留める槍”を地形に写す。境内の石灯籠、倒れた賽銭箱、手水鉢の縁。狭い場所での“通せんぼ”の角度を、夜に覚えさせる。
「静」
矢野が呼ぶ。
「はい」
「お前、消える練習をする時、どこを見てる」
「足の前の空気です」
「空気に“前”なんかあるのか」
「呼吸が決めます」
「相変わらず、風通しのいい理屈だ」
矢野は肩を竦め、笑う。「だが、嫌いじゃねぇ」
廃寺の裏手に回ると、小さな井戸があった。桶は割れ、釣瓶は朽ち、井戸縁の苔だけが水の居場所を覚えている。
静は縁に手を置き、夜を覗いた。底は見えない。見えないという事実が、どこか安心に似ていた。
「ここが池月屋の“井戸”だと思ってください」
静は井戸の縁を指でなぞり、仮の縄を結ぶふりをした。「逃げる者は、ここを知らない。知らない場所は怖い。怖いと速いが仲良くなる。速い者は、影を踏む」
「師の言葉だな」
「はい」
――早すぎる者は、己の影を踏むぞ。
雪堂の声は、この夜の空気にも居場所を持っていた。
静は短尺で井戸の径を測り、土に円を写す。円の外に四角を、四角の外に行燈の位置を小石で置き、輪郭だけで座敷を起こしていく。
「ここで雷が鳴る。影が縮む。僕はここで消える。……戻るのは、ここです」
戻り位置は円から少し外れ、影と影の“縫い目”にあった。
「矢野さん、僕が見えなくなっても、仕事だけは続けてください。僕が消えても、仕事だけは終わっていると思ってください」
矢野は応えに間を挟まなかった。
「あいよ。だったら安心だ。静、お前はいつでも“間に合う”。俺はいつでも“居場所を鳴らす”。それで足りる」
言葉の誓詞は交わさない。
足の向きと呼吸の深さが、誓いそのものになっている。
静は一礼し、矢野も柄を少しだけ下げる。二人の影が境内で重なり、また分かれた。
月が雲間から出てきた。
廃寺の屋根を薄く洗い、灯籠の影を長くする。
静はその光を一度だけ振り仰ぎ、目を細めた。
「――矢野さん」
「ん」
「僕は、いなくなる練習をしているのだと思います」
「知ってる」
「いなかったことにされる練習じゃなく、“いなかった”時に誰かが間に合うための練習です」
矢野は頷き、火をひとつ息で落とした。
「なら、俺は“呼べばすぐ鳴る雷”の練習をしとく。お前がいない時ほど、派手に鳴るやつな」
静は微笑む。「ありがとうございます」
火が落ちると、夜は元の濃さに戻る。
だが、灯のない場所で目が慣れるのは遅くない。
静は境内の砂に指で細い線を引いた。
――行く、戻る、立つ、消える。
四つの字を、誰にも読めない深さで。
砂の字はすぐ風に消され、消えた跡だけが線の手触りを残した。
「静」
矢野の声が背に落ちる。
「はい」
「お前の“齟齬の捨て場”ってのは、要するに、俺が余計なことをしねぇための場所だな」
「はい。僕が余計なことを考えないための場所でもあります」
矢野は笑った。「なら、ここは二人で持とう。お前が消えた時は、ここに捨てに来る。俺が鳴りすぎた時も、ここに捨てに来る」
「約定します」
ふと、境内の隅で小さな気配がした。
野犬が一匹、柱の陰で眠っていた。雨に打たれたのか、毛は束になって重い。
静が近づくと、犬は目を開けずに耳だけ動かした。
「……まだ息が温かい」
静は袖の端を裂いて水を含ませ、犬の鼻先に置いた。
矢野が肩越しに覗く。「犬にも優しいのか。お前はほんと、無明だな。光らねぇのに、照らす」
「矢野さんが鳴れば、少しは光ります」
「そりゃよかった」
犬はやがて身を丸め直し、寝息を深くした。
静は袖の裂け目を結び直して立ち、井戸の円をもう一度踏む。
足の置き場は先に、呼吸は後に。
“間に合う”とは、先に居ることだ。
先に居るためには、名が邪魔だ。呼ばれると、止まる。
止まらないために、名は風上に置く。
矢野は草鞋の結び目を二度、整えた。
「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
「はい」
ふたりの声が重なり、すぐ解ける。
結び直された紐は、夜の湿りを一息で吸った。
やがて、稽古は終わった。
静は灯籠の火を指で摘み、最後の火だけを残した。
「矢野さん」
「なんだ」
「この火、持っていきましょう。座敷で使います」
「派手にやるのか」
「いいえ。小さく、長く。光は剝がれる。剝がれやすい光は、影を細くします」
矢野は頷き、小さな火を火皿に移した。火皿はひびだらけだが、火の重さは受け止める。
廃寺を出る頃、月は高かった。
田の水面が薄く光り、稲の穂先が寝息を揺らす。
道は真っすぐで、少しだけ曲がっている。
静と矢野は並んで歩き、同じ方角を見る。
「静」
「はい」
「俺は、たぶん、今夜のことを忘れねぇ」
「忘れてください」
「なんでだ」
「ここは“捨て場”です。覚えると、捨てられません」
矢野は舌打ちして笑った。「難儀だな。だが、嫌いじゃねぇ」
風が前から吹く。
夜の風は、昼より低く、言葉に似る。
言葉に似る風は、約定を運ぶ。
――僕が消えても、仕事だけは終わっていると思ってください。
――呼べばすぐ鳴る。
それで足りる。
足りると決めたから、足は速くなる。
池月屋の灯はまだ遠い。
だが、遠さは速さの味方だ。
遠いほど、呼吸が整う。
呼吸が整えば、間に合う。
廃寺の灯は背後に小さく残り、やがて田の稜線に吸い込まれた。
残ったのは、月下の白と紅。
名は置いていく。
跡だけ、持っていく。
跡は誰かの呼吸に残り、やがて見えなくなる。
見えなくなっても、そこにある。
それで、十分だ。
瓦は苔を吸い、山門は半身だけで立ち、仏間の柱には古い刀傷が獣の爪痕みたいに残っている。漆喰は雨に舐められて剥がれ、梁の木目は骨のように白い。昼は鳥が越えてゆくが、夕べになると風が先に来て、誰もいないのに風鈴が一度だけ鳴る。人が忘れた場所は、たいてい、音が先に老いる。
池月屋を仕掛ける前の晩、静は敢えて矢野をここに呼んだ。
目的は「勝ち筋の共有」ではない。「齟齬の捨て場」を作るためだ。いざという時、互いの見ている景色がわずかにズレただけで、速さは鈍る。ズレは現場で捨てるには重く、前夜に捨てるのがいちばん速い。
朽ちた灯籠の窪みに火打石を打つ。火花は一度で消え、二度目で躊躇い、三度目にようやく油に掴まって、ほの暗い円になった。円の境いは藁屑の色で縁取られ、境内の砂利は半分だけ光る。
静はその円の内に地図を広げた。筆ではなく、白い糸と短尺、そして糸巻き。紙の上より土の上が信じられる夜がある。
「池月屋の座敷は横長。渡り廊下が二つ、はね上げ窓が四つ。井戸は裏手――ここです」
指が止まる。灯の縁が静の指先で微かに揺れ、影が地図の柱の位置をなぞった。
「二階の南窓には簾。縁の下に“空気の抜け”が一本。ここは音が軽い。……矢野さん、ここで雷が鳴れば、ここの影が縮みます。僕はその縮んだ影に入る。鳴りやんだ一拍で移る。――僕が見えなくなる時間が、必ずあります」
矢野は鼻で笑い、柄を片手で肩に担ぐ。
「見えねぇなら声を出せ。雷は音で居場所がわかる」
「音は敵も拾います。だから、あなたが鳴るだけでいい」
「調子のいいこと言いやがる」
静は糸巻きを指に掛け、短尺を土に立てる。
畳一枚の幅を土間に写し、畳の目の数を縦横に刻む。縁側、柱間、戸口――土の上に“仮想の座敷”が現れる。夜にしか見えない枠組みだ。
「土は正直です。人の言葉より、足の下の答えが早い」
そう言って、静は素足で線を跨いだ。足の裏に冷たい砂がまとわりつき、踏むたびに乾いた音がひとつずつ生まれて消える。
矢野は柄の重みを刻む。
線と線の交点、柱の想定位置で一度止まり、反転し、柄尻を空に向ける。
「静、お前の言う“風”はいつも見えねぇ。だが、ここなら見える。土が教えてくれる」
静はかすかに微笑んだ。灯がその笑みの輪郭だけを拾い、すぐに手放す。
「土は人より正直です」
二人は廃寺の外縁で模擬突入を繰り返した。
静は“消える足”の稽古をする。踏むのではなく、置く。置くのではなく、移す。移した先で残すのは、体重ではない、呼吸の端だ。畳の目に対して斜めに、梁の影に対して平行に、足跡がつかない歩法を土へ馴染ませる。
矢野は“留める槍”の稽古をする。突かない。狙わない。通したい道の周縁で、相手の意志だけを少しずらす。柄尻を石畳に鳴らし、音の届く円を確かめ、円の外に雷を取っておく。いざという時の一撃は、撃つ前から始まっている。
「ここで鳴れ」
静が指したのは、仏間の柱の刀傷の集まる高さだった。
「ここだと?」
「はい。ここで雷が鳴ると、座敷の“見えない梁”が震えます。梁が震げば、梁に寄りかかった影が縮む。その縮み目に、僕が入る。――一拍だけです。鳴らすなら、深く、一度だけ」
矢野は頷き、柄の重みを掌に馴染ませた。「一度で足りるなら、一度で済ます。二度目が要るのは、逃げる背中だけだ」
ひと通りの足運びを終えると、灯の輪の中へ戻り、二人で座った。
火は小さく、炭は赤い芯だけで持っている。風がない。廃寺の夜は、息をしても空気が揺れない。
「矢野さんは、なぜ僕に背を預けてくれるのです」
静は火の芯を見つめたまま言った。問いは軽かったが、声は遠くまで届く形で置かれた。
矢野は火箸で炭を転がす。ぱち、と音が生まれ、すぐ夜に吸われた。
「簡単だ。背中に“名”を貼ってこねぇからだ。名があると、背中は重くなる。重い背中は、雷が届くまでの時間を狂わせる」
「……なら、僕はやはり名を置いていくべきですね」
「置いてけ。だが、俺が拾っちまうかもしれねぇ」
矢野は低く笑い、火箸で炭をもう一度だけ転がした。「拾わねぇほうがいいと思っても、拾う時がある。落ちてるのが“お前の名”なら、なおさらな」
静は灯を見つめ、小さく頷いた。
「名は、風上に置きます。届かない場所に」
「届かねぇ場所に置くなら、置いてねぇのと同じだ」
「はい。同じです」
会話はそれ以上、伸びなかった。伸ばす必要がない話は、夜が引き受ける。
休むふりで、また立つ。
仏間から外縁へ、外縁から山門へ、山門から裏の小丘へ。
静は“消える足”を地形に写す。山門の敷居の割れ目、柱の節、瓦の浮き。踏めば鳴るものを鳴らさず、鳴らせば止むものを鳴らす。
矢野は“留める槍”を地形に写す。境内の石灯籠、倒れた賽銭箱、手水鉢の縁。狭い場所での“通せんぼ”の角度を、夜に覚えさせる。
「静」
矢野が呼ぶ。
「はい」
「お前、消える練習をする時、どこを見てる」
「足の前の空気です」
「空気に“前”なんかあるのか」
「呼吸が決めます」
「相変わらず、風通しのいい理屈だ」
矢野は肩を竦め、笑う。「だが、嫌いじゃねぇ」
廃寺の裏手に回ると、小さな井戸があった。桶は割れ、釣瓶は朽ち、井戸縁の苔だけが水の居場所を覚えている。
静は縁に手を置き、夜を覗いた。底は見えない。見えないという事実が、どこか安心に似ていた。
「ここが池月屋の“井戸”だと思ってください」
静は井戸の縁を指でなぞり、仮の縄を結ぶふりをした。「逃げる者は、ここを知らない。知らない場所は怖い。怖いと速いが仲良くなる。速い者は、影を踏む」
「師の言葉だな」
「はい」
――早すぎる者は、己の影を踏むぞ。
雪堂の声は、この夜の空気にも居場所を持っていた。
静は短尺で井戸の径を測り、土に円を写す。円の外に四角を、四角の外に行燈の位置を小石で置き、輪郭だけで座敷を起こしていく。
「ここで雷が鳴る。影が縮む。僕はここで消える。……戻るのは、ここです」
戻り位置は円から少し外れ、影と影の“縫い目”にあった。
「矢野さん、僕が見えなくなっても、仕事だけは続けてください。僕が消えても、仕事だけは終わっていると思ってください」
矢野は応えに間を挟まなかった。
「あいよ。だったら安心だ。静、お前はいつでも“間に合う”。俺はいつでも“居場所を鳴らす”。それで足りる」
言葉の誓詞は交わさない。
足の向きと呼吸の深さが、誓いそのものになっている。
静は一礼し、矢野も柄を少しだけ下げる。二人の影が境内で重なり、また分かれた。
月が雲間から出てきた。
廃寺の屋根を薄く洗い、灯籠の影を長くする。
静はその光を一度だけ振り仰ぎ、目を細めた。
「――矢野さん」
「ん」
「僕は、いなくなる練習をしているのだと思います」
「知ってる」
「いなかったことにされる練習じゃなく、“いなかった”時に誰かが間に合うための練習です」
矢野は頷き、火をひとつ息で落とした。
「なら、俺は“呼べばすぐ鳴る雷”の練習をしとく。お前がいない時ほど、派手に鳴るやつな」
静は微笑む。「ありがとうございます」
火が落ちると、夜は元の濃さに戻る。
だが、灯のない場所で目が慣れるのは遅くない。
静は境内の砂に指で細い線を引いた。
――行く、戻る、立つ、消える。
四つの字を、誰にも読めない深さで。
砂の字はすぐ風に消され、消えた跡だけが線の手触りを残した。
「静」
矢野の声が背に落ちる。
「はい」
「お前の“齟齬の捨て場”ってのは、要するに、俺が余計なことをしねぇための場所だな」
「はい。僕が余計なことを考えないための場所でもあります」
矢野は笑った。「なら、ここは二人で持とう。お前が消えた時は、ここに捨てに来る。俺が鳴りすぎた時も、ここに捨てに来る」
「約定します」
ふと、境内の隅で小さな気配がした。
野犬が一匹、柱の陰で眠っていた。雨に打たれたのか、毛は束になって重い。
静が近づくと、犬は目を開けずに耳だけ動かした。
「……まだ息が温かい」
静は袖の端を裂いて水を含ませ、犬の鼻先に置いた。
矢野が肩越しに覗く。「犬にも優しいのか。お前はほんと、無明だな。光らねぇのに、照らす」
「矢野さんが鳴れば、少しは光ります」
「そりゃよかった」
犬はやがて身を丸め直し、寝息を深くした。
静は袖の裂け目を結び直して立ち、井戸の円をもう一度踏む。
足の置き場は先に、呼吸は後に。
“間に合う”とは、先に居ることだ。
先に居るためには、名が邪魔だ。呼ばれると、止まる。
止まらないために、名は風上に置く。
矢野は草鞋の結び目を二度、整えた。
「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
「はい」
ふたりの声が重なり、すぐ解ける。
結び直された紐は、夜の湿りを一息で吸った。
やがて、稽古は終わった。
静は灯籠の火を指で摘み、最後の火だけを残した。
「矢野さん」
「なんだ」
「この火、持っていきましょう。座敷で使います」
「派手にやるのか」
「いいえ。小さく、長く。光は剝がれる。剝がれやすい光は、影を細くします」
矢野は頷き、小さな火を火皿に移した。火皿はひびだらけだが、火の重さは受け止める。
廃寺を出る頃、月は高かった。
田の水面が薄く光り、稲の穂先が寝息を揺らす。
道は真っすぐで、少しだけ曲がっている。
静と矢野は並んで歩き、同じ方角を見る。
「静」
「はい」
「俺は、たぶん、今夜のことを忘れねぇ」
「忘れてください」
「なんでだ」
「ここは“捨て場”です。覚えると、捨てられません」
矢野は舌打ちして笑った。「難儀だな。だが、嫌いじゃねぇ」
風が前から吹く。
夜の風は、昼より低く、言葉に似る。
言葉に似る風は、約定を運ぶ。
――僕が消えても、仕事だけは終わっていると思ってください。
――呼べばすぐ鳴る。
それで足りる。
足りると決めたから、足は速くなる。
池月屋の灯はまだ遠い。
だが、遠さは速さの味方だ。
遠いほど、呼吸が整う。
呼吸が整えば、間に合う。
廃寺の灯は背後に小さく残り、やがて田の稜線に吸い込まれた。
残ったのは、月下の白と紅。
名は置いていく。
跡だけ、持っていく。
跡は誰かの呼吸に残り、やがて見えなくなる。
見えなくなっても、そこにある。
それで、十分だ。



