濡れ衣は、ほどけば音もなく崩れる。
 けれど、掟の顔は片側だけ剝がれた紙のように、いつまでも頬に貼り付いたままだ。鴇田はその紙を指で撫でるような顔をして、場の真ん中に立った。帳場の灯は低く、紙束は湿り、筆は黙っている。

 「……まぁ、その、色々あったがよ」
 鴇田は咳払いをひとつ、わざと大きくした。「今度から気ぃつけな、矢野。先鋒は派手にやる分、裏の格好が悪く見える。江戸っ子ぶるのはいいが、度が過ぎると誤解を呼ぶ」

 その言い方は、謝罪を押しとどめたまま放り投げる、上からの言葉だった。
 矢野の足裏が畳の目をひとつ踏み越え、肩が半寸だけ前へ出た刹那、静が横へ出た。白の袖が、紅をさりげなく押さえる。

 「謝罪は要りません」
 静は声を低く、しかし刺にしない。「掟の顔が保たれれば十分です。顔は風に当てれば乾きますから」

 鴇田は唇を歪め、しかし何も言えなかった。掟を台にした言葉には、掟の縁で返すのが最短だ。矢野は静の袖を一度だけ睨み、舌打ちを喉に飲み込む。

 この場を、隊長が収める。
 「本件は了。記録は矢野、証拠は角井、箱は封印。……それから」
 隊長は筆を置き、静にまっすぐな目を向けた。「次は“池月屋”だ。ここからは記録より速さが勝つ」

 池月屋。花街の北寄りにある大店。表向きは酒と饅頭、座敷は芸と笑い。裏は――密報によれば、武器と金と謀議が一夜に集まる。
 風が、乾いていく音がした。

 *

 出立の前夜、廊下は星を吸ったみたいに青かった。
 静は灯を最小に絞り、障子越しの月光だけで矢野を呼び出した。薄い光の中で向き合う二人は、白と紅の勾配でひとつの影に見えた。

 「矢野さん、ひとつだけお願いがあります」
 「なんだ」
 「もし僕が場で見えなくなったら、探さないでください」

 「はァ?」
 矢野の眉がただちに跳ね上がる。「何を――」

 「掟を越えると、名より先に影が消えます」
 静は視線を落とさない。「僕のいない記録は、あなたの前を軽くする」

 「ふざけんな。軽くなってたまるか」
 矢野は拳で壁の木目を一度だけ、鳴らした。乾いた音が、夜の中心に小さな穴を開ける。

 「では、重さは僕が持ちます」
 静は淡々と言う。「あなたは雷の音だけ残してください」

 矢野はしばし黙り、やがて低く吐いた。
 「……静。お前の言う風ってのは、こういう時、卑怯なくらい静かだな」

 「卑怯は戦で役に立ちます」
 返す声は穏やかで、それでいて残酷なほど澄んでいた。

 沈黙が二人の間に緩やかに積もる。どちらも崩さない。
 やがて矢野は折れたように笑い、首を振った。
 「ああくそ、わかったよ。だが“呼べばすぐ来る雷”ってのも覚えとけ」

 「はい」
 「俺が呼ぶ前に鳴らすな。俺が呼んだら、必ず鳴れ」
 「約定します」

 二人は背を向け、同じ方向へ歩き出す。
 掟の上を、名の下を――白と紅が並んで、細い夜道を音もなく進む。

 翌朝、風は乾き、京の空は馬鹿みたいに高かった。
 池月屋の夜が、手招きするように近づいてくる。

 *

 昼。
 静は池月屋の裏手、荷の出入り口に立った。表口の暖簾は柳色、裏口の板戸は煤で黒い。行燈の高さ、雨樋の角度、土間の湿り――昼のうちに“夜の音”を仕込む。

 まず、行燈。
 高さを二寸ずつずらし、遠近を狂わせる。逃げる者は光へ向かう。光が嘘をつけば、足は迷う。

 次に、砂。
 渡り廊下に薄く撒く。粒は米と米のあいだを泳ぎ、走る足音を粒に変える。粒の跳ねで人数と歩幅が読める。

 襖の戸車には、紙片を噛ませた。
 内からは重く、外からは軽い。押せば開くが、引けば開かない。“開かない風”を作る。

 そして、座敷の柱に結わう目印は、紅ではなく白の細糸。
 矢野にだけ分かる高さで、壁の節の陰に添わせる。
 「雷の道標です」
 静は独り言のように言い、糸の端を結び直した。
 ――急ぐ時ほど、結びなおすんだ。
 矢野の口癖は、作業の最中にいつも背中を押す。

 花街は、陽が傾くと呼吸が早くなる。
 油の匂い、饅頭の香り、三味線の糸が試しに鳴る音。
 池月屋の座敷は、この夜、客の衣擦れで早くから温まっていた。商人、郷士、町医者。表の肩書きはどれも真っ当で、裏の舌はどれもよく回る。
 そして、もう一つの匂い――鉄と油。
 武の匂いは、どんな香にも紛れない。

 *

 日暮れの少し前、無明隊の短い集会。
 卓上に広げた紙に、静は指で風の流れを描く。

 「行燈の置き方、廊下の幅、畳の目。逃走者は光へ向かいます。僕たちは光を偽り、影を本当の道にします」
 具体策を簡潔に。
 「①行燈の高さを変え、遠近を狂わせます。②渡り廊下に砂を撒き、足音の粒で人数と歩幅を読む。③襖に紙を噛ませ、“外からのみ開く”風を作ります」

 「難しいこと言ってるがよ」
 矢野が口の端で笑う。「要は“こっちが空いてるように見せて、じつは袋小路”。な? よし、雷で蓋をする」

 若い衆のひとりが問う。「兄貴、白い人は?」
 矢野はうそぶく。「いねぇ」
 「え?」
 「風の名なんか、書いても紙が覚えちゃいねぇよ」

 静は何も言わず、目礼だけを置いた。
 紙に残らない礼は、意外と長持ちする。

 *

 夜が満ちると、花街は迷路に化ける。
 座敷と座敷を渡り廊下が繋ぎ、梯子段が生き物みたいに軋む。襖の連なりは、目の前にあるのに遠く見える。
 池月屋の裏手では、矢野が杖に仕込んだ槍を軽く回していた。
 「静、手ぇ出す時は出す。合図は一撃だ」
 「矢野さんの雷が落ちる前に、風向きを整えます」

 静は白の袖を指で一度、絞る。
 白は目立つ。だから、影に似せる。
 提灯の陰と雨樋の影――“間”だけを継いで歩けば、白は白のまま、輪郭を薄める。

 座敷では、茶と盃が行き交い、帳面と印形がぴたりと寄り添う。町医者は包帯の下に手を入れ、薄青に染めた布を取り出した。火薬の湿りを逃がすための包布だ。
 静は障子の桟に軽く指を置き、微細な揺れで室内の注意を外へ誘導。その隙に縁側の影へ身を滑らせる。置き床の下、隠し桐箱。覆い布を少しずらすと、両替商の印が押された包み札と鉄砲の火蓋用の部品が、狭い闇で光った。

 そのとき、下足場で足音が止まる。
 番頭の声が、鋭い。
 「誰だ」
 静は、敢えて薄く見える位置へ一瞬だけ姿を置いた。注意をこちらに引き寄せ、そのまま庭石の影へすべる。番頭が追い出た刹那、裏手の小路で杖が扉の木枠を押し外す音。木枠が跳ね、番頭の膝が落ちる。

 「悪ぃな。杖術は風に強ぇんだよ」
 矢野の声は軽く、笑っているのに、目は笑っていない。

 座敷の中では、医者が火皿に火を移そうとした。煙で混乱を作るつもりだ。
 静は袖で煙の流れを断ち、炭を踏みつぶして酸素を奪いながら、帳面を袖の中へ収めた。
 「名は置いていきます。証だけ、借りていきます」

 撤収の合図は、板戸の軽い三打――トン、トン、トン。
 表も裏も、“見つけたはずの影”だけを記憶し、名は残らない。
 それが、一夜目だった。

 *

 二夜目。
 池月屋の座敷は、昨夜より重い。集まる者の眼の奥で、暗算が増える。武器の帳合だけではない。今夜は、噂の根が集う。

 ――“どこから漏れるかわからない噂”。
 花街が持つ目と耳は広く、時に、掟より速い。

 隊長は静にだけ、別の命を下ろしていた。
 「記録は残すな。ただ、終わらせろ」
 掟を守るためではなく、掟が崩れる前に。

 静は座敷と座敷の“間”を継ぎながら、灯りの高さをもう一度測り直す。今夜は風が違う。昨夜より湿り、歩幅が半寸狭い。逃げ道は、数が減るほど、速くなる。

 廊下の砂が、足音で歌う。
 五、六。――七。
 天井裏からひとり、縁の下からひとり。
 座敷の内から三、縁側で二。
 静は指で畳の目をなぞり、指の節に重さを移す。
 「矢野さん。右、三」
 裏手にいる雷へ、風が囁く。
 「おう」
 短い返事。
 雷は、呼ばれてから鳴る。

 逃げる者たちは、灯に吸われるように狭い座敷へ追い込まれていく。
 襖は外から軽く、内から重い。
 袋小路に押し込まれた瞬間、人は刃へ手を伸ばす――その手首は、鞘の角で軽く撫でれば、意志を落とす。
 「斬るより、畳のほうが賢い夜もあります」
 静は帯を縁の下から回し、足首に絡め、畳の目に沿って捻り落とす。
 矢野は狭間に槍を通し、穂ではなく柄尻で額を小突く。
 「おい、眠いか? なら寝てろ」

 制圧は、思っていたよりも早く、静かに進んだ。
 押収された帳面と印形を、静は袖に預け、矢野に目で渡す。
 現場記録の署名は、矢野のみ。
 若い衆がまた問う。「兄貴、白い人の名は?」
 矢野は肩をすくめる。「いねぇって言ってんだろ。風は書いても残らねぇ」
 庭の影で、女将が静へ目礼。静は薄く会釈を返し、影へ消えた。

 *

 三夜目――池月屋に、別の“顔”が現れた。
 町年寄りのひとり、池端屋仁兵衛。表は豪商、裏は……噂の中心。
 彼は座敷に上がると、盃を受けもせずに言った。
 「無明は、いつまで影でいるつもりだ」
 座敷の空気が半刻分ほど重くなる。
 「影の仕事は、町のためにあると聞いている。だが、影が長くなると、昼の者が踏む」
 緩やかな声。
 それは、掟の縁に立つ者の声だった。

 座敷の外で、静は息を止めた。
 掟の顔は、町にもある。
 池端屋は、町側の掟の顔だ。

 「……矢野さん」
 静は障子の桟に指で“雷”の字を一筆、書いた。
 矢野の位置は、もう変わっている。裏庭の槙の陰、白糸の目印の真下。
 雷は、呼ばずとも準備を終えている。

 座敷の中では、池端屋が続けた。
「軍資金が一夜で消え、翌夜には戻った。そこまでは、よい。だが、消えた間に町の金がどれだけ揺れたか、そちらは記録に残らぬ」
 「記録は、掟のためにあります」
 隊長の声が遠くで応じる。
 「掟のために、町があるのではない」
 池端屋は目を細め、盃の底を拭った。
 「――無明の掟は速さだと聞く。速いのはよい。だが、速い者ほど、自分の影を踏む。影を踏むと、名が滑る。名が滑ると、町の顔が落ちる」

 静は、薄く笑った。
 “師の言葉”が、遠い江戸の風鈴のように胸で鳴る。
 ――早すぎる者は、己の影を踏むぞ。
 雪堂の声。
 それでも、風は走る。間に合うために。

 静は決めた。
 今夜は、掟を越える。
 越える場所は、座敷のど真ん中。
 名の下を、風で潜る。

 障子が、一枚だけ、音なく外れた。
 座敷の中央、帳面と印形、鉄砲の火蓋が並ぶ机のものの一つ――小箱が、静の袖へ吸い込まれる。
 誰も気づかない。
 気づくのは、池端屋だけだ。
 「……ほう」
 目だけが、風を追う。

 「池端屋様」
 静は庭の縁に立ち、正面から頭を下げた。
 「名は風に。約定だけ、人に」
 池端屋は扇を閉じた。
 「約定とは」
 「町の面目と安全、無明が担保します。押収は適法の範囲で。関わった者の身柄は保護。見返りに、目と耳を少しだけ」
 「……お蝶の入れ知恵か」
 「町の知恵です」

 池端屋は短く笑い、盃を傾けた。
 「よかろう。だが、今夜は“掟の顔”の前で掟を曲げたな」
 「折るより、曲げる夜が速いこともあります」

 その時だった。
 座敷の端で、急に火が上がった。
 医者の弟子のひとりが、火皿をひっくり返したのだ。わざとか、愚かか。煙が天井へ走り、悲鳴が障子に跳ね、足音が砂を踊らせる。

 静は、消えた。
 風のように、という比喩ではない。
 影が自分の輪郭を忘れ、光が居場所を見失った。
 矢野が裏庭で、鋭く舌打ちをする。

 「――合図か」
 矢野は槍を立て、糸に沿って座敷の裏へ回る。
 雷は一度だけ鳴った。
 柄尻が板戸を打ち、逃走者の足を払う。
 「通るな。ここは袋だ」
 短い言葉が、夜の道標になる。

 静は縁の下に潜り、柱の根で息を切り分けていた。
 煙は上へ、風は横へ、熱は縁へ。
 「矢野さん」
 声に出さず、喉で鳴らす。
 袖の裏――紅の小房に指をかけかけ、やめた。
 鳴らしたら、雷が全部、引き受ける。
 今夜は、風が越える番だ。

 柱の根元に、小さな穴がある。
 鼠が通う穴。
 そこに、薄く紙が掛けられていた。
 ――火蓋用の部品を隠した“本当の箱”は、座敷の机ではなく、この足元。
 静は指の腹で紙の角を持ち、音を立てずに剝がした。
 湿りは、雨ではない。
 息だ。
 ここで隠した者の、荒い息。
 奥に箱があり、箱の上に、手があった。
 「……鴇田」
 名を口にしなかったが、静の目が言った。
 掟の顔を撫でたその手が、今、掟の裏へ伸びている。

 手は、震えていた。
 火の影と煙の間で、鴇田の瞳が薄く揺れる。
 「なんだ、白いの」
 囁きは、自嘲の音を含む。
 「掟の顔は、剝がれねぇ。だから、裏で塗り直す。裏で塗り直すには、金が要る。武器が要る。速さが要る。お前らの速さが羨ましかったよ」

 静は、鞘に左手を置いた。
 抜かない手。
 「鴇田さん」
 「なんだよ」
 「謝罪は、要りません。顔が保たれれば、いい」
 鴇田は乾いた笑いを喉に溜め、吐き出す。
 「それを俺に言うのか」
 「言います。今、掟が壊れないために」

 静は箱を取らず、手を取った。
 布越しに、手首の筋を軽く押す。
 抜く意志が、手の中で迷子になる。
 「僕はいません。ここにいるのは、掟の顔です」
 「ふざけるな」
 「ふざけません。――いませんから」

 静は柱の根から身を戻し、縁の影に溶けた。
 煙が天井で薄くなりはじめ、火の勢いが下がる。
 矢野の雷は、もう二度鳴った。
 逃走者は袋小路で座り、畳の目が静かに息をする。

 池端屋は扇を再び開いた。
 「影は、今夜も働いたな」
 隊長は盃を受けず、ただ目を細めた。
 「記録は最小でいい。町の顔を落とすな」
 「承知」
 掟と町――二つの顔が、今夜だけ同じ向きに揺れた。

 *

 その夜更け。
 静は池月屋の屋根にいた。瓦は乾き、月は薄い。
 背後の縁に、矢野が上ってくる。
 「おい、風。さっき、いなくなったな」
 静は笑う。「はい。お願い通り、探さないでいただけた」
 「探さねぇ代わりに鳴ったよ。派手にな」
 「助かりました」
 「礼はいらねぇっつってんだろ。……で、掟は越えたか」
 「越えました。名より先に影が消える感触を、覚えました」
 矢野は瓦を拳で小突き、肩で笑った。
「気に入らねぇが、上等だ」
 静は月を見た。上弦は、ほんの少し削れている。
 「矢野さん」
「ん」
「僕が本当にいなくなったら、雷は鳴りますか」
「あたりめぇだ。空っ風でも鳴らしてやる。耳塞いでも響くやつをな」
「安心しました」
 静は袖の裏の紅い房を、そっと撫でた。

 *

 翌朝。
 池月屋の裏手で、押収物の最終点検。
 印形、帳面、火蓋の部品。
 小箱は――なかった。
 隊長が静へ目を遣る。
 静はかすかに首を振った。
 「箱は、風で乾かします」
 「どこで」
 「川の上です」
 隊長はそれ以上、尋ねなかった。
 記録は最小でいい――昨夜の約定だ。

 廊下の端で、鴇田が立っていた。
 顔は夜より白い。
 「……沖田」
 名を呼ばれても、静は振り向かない。
 鴇田はそれを承知で、続けた。
 「すまん」
 短い言葉が、長い影を引いた。
 静は振り向かず、ただ言う。
 「謝罪は要りません。掟の顔が保たれれば、十分です」
 鴇田は唇を噛み、目を落とした。
 「今度から気ぃつけな、ってのは、俺のほうだな」
 「はい」
 静の返事は、風の厚みに紛れた。

 矢野は遠巻きにそれを見て、深く息を吐いた。
 「お前は、ほんと、人に“残させる”のがうめぇ」
 「僕は残りませんから」
 「皮肉だな」
 「風なので」

 *

 夕暮れ、鴨川。
 静は橋の欄干に肘を置き、流れを見た。
 川面に、白い紙片がひとつ、ひらひらと流れている。
 鴇田が一人で破った、何かの断片かもしれない。
 風がそれを橋脚へ押しやり、渦が短く吸い込む。
 矢野が隣に立ち、空を見上げた。
 「静。掟ってやつは、顔と足、どっちについてんだろな」
 「顔にも、足にも、つくと思います」
「どっちを先に洗う」
「足です。動かないと、顔は洗えません」
「だよな」
 矢野は草鞋の結び目を二度整え、拳で欄干を二度叩く。
 「急ぐ時ほど」
 「結びなおすんだ」

 二人は同時に言って、笑った。
 笑いは短く、遠くへ届く。
 池月屋の件は、ほどなく町の噂に変わった。
 「祇園の白狐が、座敷を迷路にした」
 「雷鳴で袋小路になった」
 白と紅――二つの色は、名を持たないまま、おとぎ話の端で細く揺れる。

 *

 夜。
 無明隊の庭で、静は白の袖を井戸水で濡らした。
 紅の小房は、触れれば鳴る。
 鳴らさずに済んだ夜は、少しだけ長い。
 「静」
 矢野が軒に寄りかかり、片足で柱を軽く蹴る。
 「今日の風はどうだ」
 「掟を越えた分だけ、優しいです」
 「優しい風は、迷子に効く」
 「ええ」
 「俺も迷子なんだが」
 「大丈夫です。雷は、呼べばすぐ来ますから」
 「言いやがったな」
 矢野は笑い、掌で半月を掬った。
 「静。お前が“いなかった”ことにされるのが、俺はやっぱ、嫌いだ」
 「僕も、少しだけ」
 「少し?」
「少しだけ、怖い」
 「おう。怖いほうが速い、か」
 「はい」

 風が、廊下の端で裾を揺らした。
 無明の夜は、まだ続く。
 掟は人を削る。
 けれど、友情は削れない。
 白と紅は、闇の濃さに応じて、より鋭く際立っていく。

 ――そして、次の夜へ。
 記録の余白に、雷の署名だけが残り、風はまた、名を置いていく。
 名を置いて、間に合うために。
 掟の上を、名の下を、白と紅が並んで歩く。
 池月屋の灯は遠ざかり、京の空はさらに高くなった。
 風は乾き、雷は厚みを増した。
 その先に待つのが、どんな闇であろうと――呼べばすぐ来る雷と、呼ばれずとも先に吹く風が、掟を越えて、確かにそこにいた。