京の夜は、雨上がりの匂いを長く抱く。川風が細く曲がり、土間の隅でまだ乾かぬ水が、月明かりを琥珀色に歪めた。
 静はその歪みの端を、足の裏で確かめながら歩いていた。油紙問屋の裏木戸から伸びる細い路地は、昼は荷馬と人で込み合うが、夜は空気だけが往来している。空気は嘘をつかない。昼のうちについた足跡の深さ、軒下に落ちた繊維の撚り、雨を吸った縄の重み――そうした“言葉にならない報告書”が、静の呼吸に次の手順を渡してくる。

 油紙問屋の裏小屋から二筋、河岸へ降りる細道がある。片方は石畳が荒く、もう片方は新しい砂が薄く撒かれている。砂は、重い荷に優しい。静は後者に膝を落とし、親指と人差し指で砂粒をひとつ摘んだ。白く乾いた砂に、黒い点が混じる。墨だ。絞った筆を弾くときに飛ぶ、あの微細な滴。
 “書いた者が運んだ”。
 それが、昨夜の結論だった。

 静が辿ったのは、油紙問屋に穏やかな顔で出入りする町役人の足取りだ。役人は河岸の米蔵を「保管庫」と呼び、商人は「寄託」と呼ぶ。呼び名は雅だが、実態は半ば私物――見回りの目付の巡察も形だけで、夜の合鍵が何本も闇で増える。
 静は、忍ぶのをやめた。
 紙に弱い人間は、音にも弱い。蓋を閉める余裕を奪うには、静かさより“速さ”が必要だ。

 米蔵の板戸は、乾いた葦の匂いがする。蝶番は昨日、誰かが油を差したばかりで、鳴くには鳴くが、鳴き声は短い。静は指先をかけ、呼吸の底で一拍を作る。
 ――鳴き声と同時に入る。
 月の輪郭が板戸の隙間で細く割れ、蝶番がキ、と短く鳴いた。
 静の足はもう土間の中にあった。土間は冷え、左の棚の上に置かれた灯が、侵入者の影に敏感に反応する。灯のそばで、二人が同時に腰の柄へ触れた。指の節が鳴る。二人とも、酔っていない。夜盗の手ではない。
 抜刀。刃の白が、灯の蜜色を裂く。

 静は受けない。踏み込まない。二歩先にある“空気の抜け”を選び、肩をわずかに落とす。刀線が肩口を空振りし、軽い風切り音だけを残す。静はその風の端に、柄の角――鞘ではない、柄の木目――を顎先に置く。コツ、という乾いた音。ひとりは膝の裏の筋が勝手にゆるみ、灯と床のあいだで座った。

 もうひとりは、腕が速い。速い者は、速さに酔う。静は鞘の端で手首の神経を指先で探り、そこへ軽く触れる。触れるだけで、握りは握りを忘れる。刃は鞘に戻る準備を思い出し、刀身が半分だけ沈む。沈む音に合わせるように、静は膝裏へ一度だけ、やわらかな打ち。男は座り、吐く息が灯の火を揺らす。
 「僕は夜盗ではないので、速さで勝ちます」
 静は声を低く、しかし確かに言った。夜盗は音を殺す。静は音を選ぶ。選んだ音を相手の呼吸に与え、遅れだけ摘む。

 裏戸で乾いた足音――もう一人。金箱を抱えて、外へ走る影。
 追いかけてはいけない。
 追えば、相手は追われるために速くなる。
 静は蔵の柱を回って裏へ乗る“迂回の速さ”を選んだ。柱の節に掌を滑らせ、壁との狭い間を抜け、竹垣の上端へ乗る。竹の身は湿っているが、節に置いた足の重みは、竹の内側へ吸い込まれた。音は出ない。
 路地の先、箱を抱えた影は、重心が浅い。箱を守るために胸を張り、膝が伸びがちになる。膝が伸びれば、転ぶ場所は決まる。静は砂の薄い帯を選び、足の甲でひと蹴り。砂は風で舞うのではなく、目へ吸い込まれる。
 影の足運びが乱れる。半歩、重心が遅れる。
 その半歩に、静は自分の右足を“置き換えた”。空いていた地面を、最初から自分のもののように占める。肩と箱の間に指を入れて、重さの伝達だけを止める。肩は前へ、箱はその場に残る。分離の瞬間に、声は出ない。
 木箱が胸高の位置で軽く跳ね、静の掌に収まった。

 ――銀札の束と軍資金帳。
 箱の内側から、墨と柿渋の匂いが立つ。静は束の一つを、わざと指の腹で滑らせ、路面へ落とした。銀は落ちても音が軽い。軽さが、近くに潜む者の欲を呼ぶ。
 角の陰で、短い吸気。
 内通者――同心の衣を着た男の影が、習い慣れた手つきで落ちた束を拾い上げる。拾う手は、墨を吸う。静があらかじめ束の角に染ませておいた薄墨は、乾けば皮膚の皺に染み、洗っても一晩は落ちない。

 「――いま」
 背後の闇から、矢野の声。
 拘束を解かれ、同行者として陰に潜んでいた矢野は、杖の形に分解していた槍を片手で立て直し、合図一拍で飛び出す。
 「雷は溜めが大事だろ?」
 笑い声と同時に、柄尻が内通者の手首を軽く叩く。叩いた場所だけを“名乗らせる”ように、墨が濃く浮く。
 「おっと。手首に花が咲いてるぜ。墨色の、見事なやつが」
 矢野は軽口を投げ、同時に袖で男の肘を包む。包まれた肘は逆にはねられず、ただ力を抜かされる。
 静は箱を抱えたまま、男の懐へ一歩。
 「拾ったものは、置いていくと軽いです」
 男は喉を鳴らし、額の汗を舌で誤魔化す。誤魔化しは舌に染み、言葉を重くする。

 米蔵の表から、駆け寄る足音が三。灯の光が伸び、影の輪郭が細る。
 「無明隊の者だ。動くな」
 巡察の声が夜気を裂き、蔵の中で座らされた二人が身を縮める。
 矢野は内通者の背を軽く押し、静は箱を胸に収め直した。銀札の束は、ひとつ足りないことになっている――わざとだ。それは証拠の位置を、こちら側に固定するための小さな欠落。
 「隊長室へ」
 静は短く言い、矢野がうなずく。二人の歩幅は、箱の重みで自然に揃った。

 *

 隊長室の灯は低く、紙は厚く、机の角は磨かれている。静は箱を置き、蓋をあけた。銀札の束が整然と顔を見せ、軍資金帳は端をそろえて眠っている。
 「取られた金が、一度、人の手で整え直されてから“戻された”形です」
 静は帳を広げ、印の位置と墨の濃淡を指先で追う。
「印の縁に残った繊維は、油紙の紐です。昨夜、印が熱で柔らかいうちに、紐で縁を巻き直した。だから丸は丸のまま、縁だけが濡れた」
 隊長は頷き、矢野に目を送る。「雷」
 「よっ」矢野は軽く指を上げる。
 「内通の同心、角井の手首に墨。銀札の角と同じ薄墨だ。拾ったのは、あいつだ」
 「拾わせたのは」
 隊長の視線が静へ移る。
 静は机の端で手拭を畳み、そこへ視線を落とした。
 「僕の名は、箱の中にはありません」
 矢野が、睨み合いの最中なのに、親指をこっそり立てる。
 「静、恩に着る」
 静は首を振った。
 「恩は風に乗せると軽くなりますから」

 隊長は帳を閉じ、箱を再び封じると、短く命じた。
 「角井の身柄を引き渡す。掟は、外へも届く」
 「はい」
 「問屋は」
 「明日、帳面の“目礼”を受け取ります。印形は預かり、返すのは風が乾いてから」
 「風はいつ乾く」
 「明け方の川で」
 「……よかろう」
 隊長は灯を指でひと筋、上げた。
 「記録の署名は」
 「矢野蓮」
 矢野は筆を受け取り、掟どおりに短く書く。
 ――先鋒、奪還。敵一拘束。負傷なし。
 紙の白は、風の分を予め削っておくように、広い余白を残した。

 *

 夜はまだ若く、川は音を低くしたまま、石と石の間で浅く息をしていた。
 静は河原の石に腰を下ろし、靴底に残った砂を指で払う。砂の粒は街道のそれと違い、角が丸い。水に揉まれたものは、触れた者の指先を割らない。
 「静」
 矢野が腰を下ろす。草鞋の結び目を二度、ゆっくり引き締める。
 「急ぐ時ほど」
 「結びなおすんだ」
 二人は同時に言い、苦笑を一つだけ分け合う。
 「お前、あの蔵で、わざと鳴らしたろ」
 「はい。蝶番の音を合図にしました」
 「忍ばねぇ忍び。夜盗より早い忍び。……粋じゃねぇか」
 「夜盗は音を殺します。僕らは音で終わらせます」
 矢野は川面を顎で示す。「なぁ静。さっきの“銀をひと束落とす”っての、初めから考えてたのか」
 「はい。拾う癖のある人は、拾います」
 「拾う癖がねぇ俺はどうする」
 「僕が拾います」
 矢野は笑い、揺れる川を拳で小突いた。「だろうな」

 川向こうの柳が、風で一度だけ大きく身を傾ける。
 静はその傾きで、夜の中心が西へずれたのを知る。
 「矢野さん」
 「ん」
 「“濡れ衣”って言葉、嫌いではありません」
 「は?」
 「乾くからです。乾けば、跡は薄くなります。ただ、乾くまでの間に冷える。そこに、人の体温が要ります」
 「……また詩みてぇなことを」
 「詩ではありません。お願いです」
 矢野は息を吐き、肩を回して立ち上がった。
 「おう。じゃあ俺は焚き火だ。お前が乾くまで、焚いてやる」
 「ありがとうございます」
 「礼はいらねぇ。恩は風で軽くすんな。たまに重しにしろ」
 「重しは、雷に任せます」
 「やかましい」

 *

 翌朝、油紙問屋。
 番頭は目の下に薄い隈を作り、帳面を開いたまま座っていた。静が戸口に立つと、番頭は立ち上がり、通りいっぺんの礼をした。
 「昨夜は……」
 「夜風が強かっただけです」
 静は笑って、印形の包みを出した。
 「これは預かります。返すのは、川の水が澄む頃」
 「いつ頃で」
 「あなたが“墨を山の水で磨る”と言えるようになったら」
 番頭は目を伏せ、やがて頷いた。
 「……目礼で、足りますか」
 「はい。目礼は、名よりも長持ちします」

 問屋を出ると、裏木戸に女が立っていた。
 花街の女将衆の取りまとめ役――お蝶。
 昨夜、座敷で約定を交わしたばかりの、あの鋭い目の女だ。
 お蝶は扇で口元を隠し、静の歩みに合わせて並ぶ。
 「昨夜の一件、街ではもう噂だよ。狐が蔵を抜けたってね」
 「狐は賢いです。僕は人です」
 「人が狐の真似をすると、よく効く」
 お蝶は唇の端で笑い、扇を少しだけ下げた。
 「名を教えておくれよ」
「名は風に。約定だけ、人に」
 お蝶は扇を閉じる。「じゃあ、昨夜の約定は生きてると思っていいね」
 「ええ。押収物は適法の範囲で返還。関わった者の身柄は保護。街の面目と安全は無明隊が担保します。見返りは、目と耳を一定期間――」
 「貸すよ。貸さないと、今度は街が“濡れ衣”になる」
 お蝶の横顔は、雨上がりの行灯のように柔らかく、芯は固かった。
 「――あんたさ」
 「はい」
 「“いなかったこと”になりたいんだって?」
 静は少しだけ目を伏せた。
 「名があると、遅れます」
 「遅れないことが、そんなに大事かい」
 「間に合わないと、誰かが死にます」
 「なるほどね」
 お蝶は息を短く吐き、「嫌いじゃないよ」と言った。

 *

 夜。
 米蔵の前に、ひとつだけ新しい錠前が掛けられた。鍛冶の男が無口に金具を調整し、静はその横で蝶番の音を一度だけ確かめる。
 「鳴くか」
 「鳴きます。短く」
 「短けりゃ、注意も短い」
 「はい。長い音は、長い不正を呼びます」
 鍛冶は笑わず、しかし目尻に小さな皺を増やした。

 蔵の前を離れると、矢野が石垣の上に座って待っていた。
 「おーい、風。今日の風向きは?」
「南です。少し、甘い匂いがします」
「甘い? 酒か」
「米です。蔵の前の米は、まだ誰のものでもありません」
「じゃ、奢りは米か。腹張るな」
「はい。名よりも」

 矢野が立ち上がり、歩き出しながら言う。
 「静。今夜は俺が書くが、いつか、誰かが全部まとめて書くかもな」
 「何をでしょう」
 「風雷のことだよ。白いのと紅いのが、どこをどう通ったかってやつ」
 「書かれるなら、火のそばでお願いします」
 「なんでだ」
 「風でめくれると困りますから」
 矢野は腹の底から笑い、肩で静を小突いた。
 「お前って奴は、ほんとに飄々と、よくもまあそんな台詞が出る」
 「風なので」
 「はいはい」

 *

 無明隊の屯所。
 帳場は静かで、筆の音だけが生き物のように続く。静はその外の廊下に立ち、夜風を背中で受けていた。
 「沖田」
 背後から隊長の声。
 「はい」
 「“夜盗より早く”。――お前のやり方だ」
 「夜盗は物を奪う。僕らは、奪われた先を奪い返すだけです」
 「そうやって掟を少しずつ曲げ、折らずに済ませろ」
 静は深く礼をした。
 「曲げ方を、練習します」
 「練習は、風ではなく骨でやれ」
 「はい」

 隊長は廊下の端まで歩き、ふと振り返った。
 「矢野の件で、隊の空気はまだ乾かん。お前の風で乾かせ」
 「風は、火と違って跡が残りません」
 「跡は雷が残す」
 「はい」

 *

 その夜更け、静は中庭で白装束の袖を外し、井戸の水で洗った。水は冷たいが、掌の温度で角が取れる。縁に掛けた袖が、月で薄桃色を帯びる。
 縫い付けてある小さな紅の房に指が触れる。矢野から渡された、合図のための細紐。
 鳴らす時は、来るのか。
 来ないで済むなら、それでいい。
 来た時は――迷わず鳴らす。
 静はそう決めて、袖を絞った。

 砂利を踏む小さな音。
 矢野が廊下の陰から顔を出し、指で自分の喉をとん、と叩いた。
 「なぁ静。喉ってのは鳴らすためにあるんだとよ」
 「さっき、言いました」
 「言ってねぇ。今、思いついた」
 「では、僕の風が先に運びました」
 「ったく」

 二人の会話は短い。短いから、遠くへ届く。
 紙に残ったのは、矢野の署名だけ。
 だが、紙に残らないものが、夜の底には確かにあった。
 ――箱の角で白く乾いた砂。
 ――印の縁に残った目に見えない繊維。
――肩と箱を分ける瞬間の、肉の重さ。
 ――拾った指に付いた、薄墨の色。
 それらは、朝になれば名を失い、ただの風景になる。
 それでいい。風景は、風が通った後にしか立ち上がらない。

 静は目を閉じ、耳を澄ませた。
 遠く、川の音。
 近く、虫の音。
 そのどちらにも、昨夜の怒りや苛立ちは混じっていない。
 怒りは雷で鳴らし、苛立ちは水で流す。
 残るのは、風だ。
 風は、夜盗より早い。
 誰かが蓋を閉める前に、音を選び、終わりを置く。
 それが、この夜の、そして次の夜の、彼の仕事だった。

 *

 翌晩。
 角井同心の屋敷の前に、小さな提灯が三つ、等間隔で吊られていた。中庭の砂紋は整いすぎ、竹の露は落ちる先を知らないように乾いている。静は塀の外からその整い過ぎを見て、薄く息を吐いた。
 「整っているものは、倒れる場所が決まっています」
 囁きは自分自身へ向けたもの。
 矢野が後ろから小さく「おう」と返し、槍袋の口を締めた。
 「合図は?」
 「板戸を三打」
 「派手にいくか」
 「ええ。夜盗よりも」
 静は塀の上へ身を運び、庭石の影に落ちた。砂に足を置く位置だけを選び、砂紋を崩さないまま縁側の下へ。
 板戸に指をかけ、蝶番の音を待たずに三度――トン、トン、トン。
 整い過ぎた庭の空気が、その規則正しさに一瞬だけ息を止めた。
 角井が振り向く。
 その振り向きの“速さ”に、彼の罪の深さがあった。
 速すぎる者ほど、塀の外の風に弱い。
 静はそこへ、風を入れた。

 角井の口から出たのは、短い言葉だった。
 「秤だ」
 「秤は、風で揺れます」
 「揺らしたのは、お前だ」
 「揺れない秤は、最初から斜めです」
 二人のやり取りは、短く、深かった。
 短い会話の奥で、矢野の雷が一度だけ鳴る。
 角井の肩から力が抜け、砂紋にひと筋だけ乱れが走る。
 その乱れを、静は足の裏でそっと均した。
 ――夜盗より早く、終わらせる。
 それが、掟の外で掟を守る、唯一の方法だった。

 *

 終わって、朝。
 鴨川の水は浅く、光は白い。
 静は橋の欄干に肘を置き、行き交う人の足音を聞いた。
 矢野が横に立ち、口笛をひとつだけ鳴らす。
 「静。濡れ衣は乾いたか」
 「はい。風が強かったので」
 「よし。じゃあ次は――」
 矢野は空を見上げた。
 「次は俺たちの噂だ。狐だの白いのだの、勝手に歩きやがる」
 「歩かせておきましょう。名が歩けば、僕らは走れます」
 矢野は笑い、欄干を拳で二度叩いた。
 「急ぐ時ほど」
 「結びなおすんだ」
 二人は同時に言い、朝の光の中へ歩き出した。
 名はどこにも記されない。
 だが、記されないものほど、風が運ぶ。
 そして風は、夜盗より早い。
 それだけが、今は確かだった。