金は、音を立てずに消えた。
無明隊の軍資金。ひと夜にして丸ごと。錠前は内側から正しく掛かり、札束を収める金箱は、外気に触れていないはずの冷たさで澄ましていた。帳場に残る押印は欠けも歪みもなく、番の交代は記録どおり。つまり、常夜灯の下で人の目が見張るあいだに、見張っていた誰かの手が、見張る仕事を少しだけ横へずらしたのだ。
浮上した名は、ひとつ。矢野蓮。
理由は単純。軍資金の運搬当番だった。単純な理由ほど、刃は早く抜ける。
「先鋒は派手にやるが、裏は汚ねぇ」
中堅の鴇田が酒肴の椀を乱暴に卓へ戻し、見物の若い衆に聞こえる声で続ける。
「江戸っ子ぶって啖呵切っても、腹は黒いのさ。俺ぁ見てきた、あの夜――」
「……あァ?」
椀を置く音より早く、矢野が立ち上がりかけた。
袖口を、細い指がつまむ。静だ。
「矢野さん、ここで雷は落とさないで」
矢野は喉の奥で笑い、腰を戻す。「落ちねぇよ。いまは雲待ちだ」
隊長は長い沈黙で場を冷やし、結論だけを置いた。
「事を荒立てぬ。矢野、三日、取り調べに掛ける。自首同然だ」
「了解」矢野は肩を竦め、笑って見せた。「三日で足りるのか。俺、口は堅ぇぞ」
「堅くていい。風は別に吹く」
静は「表向き」は一礼して退き、「裏」を歩きはじめた。
*
倉庫の鍵穴は、乾いた土と油で薄く艶がある。静は爪で縁を撫で、粉ほどの黒を懐紙に落とす。床板の継ぎ目には、砂が片寄っている。いつもの夜番なら砂は均一に敷き詰められるはず――違いは、ごく小さい。
金箱の底板。角が一方だけ、紙一枚ぶん削れていた。板に耳を当てる。中は空洞、しかし空洞の声は、昨夜と違うはずがない。違いは、音の端にある。
帳場の印――欠けのない丸の縁、右下に、わずかな毛羽立ち。静は印の縁を、剣の鎬を触るときのように丁寧に撫で、微細な繊維を爪で持ち上げ、墨の皿へ落とす。浮いた繊維の撚りは、紙ではない。油紙問屋の包み紐――亜麻と楮を交ぜた細撚り。屯所に出入りする荷の口を結ぶ、あの紐の繊維だ。
油紙問屋の帳面を洗う。木札に刻まれた印の並び、出荷の刻がひと晩だけ買い物籠の目のように粗くなっている。丁稚の筆跡は素直だが、その素直さが、帳面の“整え過ぎ”を逆に浮かび上がらせていた。
夕刻、静は問屋の番頭と盃を傾けた。
「お客人、山の話はお好きで」番頭は目尻の笑い皺を深くして酒を勧める。
「ええ。墨は、山の水で磨ると、目が揃う。そう聞いたので」
番頭の吸った息が、盃の縁で立ち止まる。
「京の水は、川で十分で」
「十分は時々、十分ではない」
静は盃を置き、番頭の袖口の汚れを、目の端で数えた。油の匂いが薄い。代わりに、干した粟の粉。
「――昨夜だけ、不自然に多い包み。油紙は重い。重いものを軽く見せるには、笑いか、印か」
番頭の目が泳いだ。泳ぎは浅い。浅い泳ぎは、誰かの網の上でやるものだ。
網は、屯所の外にも内にもある。
静は、内の網の結び目を一つ、頭の中に置いた。
同心――市中の目であり、耳であり、時に、口。
その口の中に、誰かの指が入っている。
*
夜。隊長室。灯は低く、声は高くない。
「矢野さんの疑いを解くには、掟を一度だけ折る必要があります」
静は畳の縁に正座したまま、声の温度だけでいう。
「味方を斬る前に、味方のふりを斬る」
隊長は目を細め、灯の高さを指で半分ほど下げた。
「やれ。ただし記録は残さない」
「記録に残らないことが、最も速い夜もあります」
「風雷のうち、“風”だけでやれ」
「はい」
「“雷”は囚われの身だ。だが雲は動く」
「雲が薄れた時だけ、鳴らしてもらいます」
静は礼を取り、矢野の拘置部屋へ向かった。鉄格子の向こうで、矢野は胡坐をかき、壁に背を預け、天井の節を数えていた。
「雷は、雲に隠れていてください」
「おう」矢野は薄笑いを浮かべる。「雲が薄れたら、ゴロゴロと派手に鳴ってやらぁ」
「三度、鳴らしてください」
「三度?」
「はい。最初の一声は目くらまし。二声目で人の気持ちを変える。三声目で、印を偽物にする」
「印?」
「ええ。印は熱に弱い。弱いところに風を当てます」
矢野は首をひねり、「相変わらず、理屈は涼しいな」と笑った。
*
翌日。静は、倉庫の錠前を鍛冶に見せた。
「どないしたんや、こんな上等な錠」
「上等だから、触り心地がよくて。そっと撫でれば撫でるほど、撫でられた場所だけ熱を覚える」
「熱ぅ?」
「はい。昨夜、ここだけ熱かったはずです。指で触れずに、熱で印を押し直した」
鍛冶は笑い飛ばしかけてやめ、「……炭の上に置いたか」と独り言のように言った。
「印の縁に、亜麻と楮の繊維が残っています。熱で柔らかくなった縁を、包み紐で一度だけ押さえ直した。だから丸は丸のまま、縁だけに異物が残った」
鍛冶は腕を組んだ。「器用なこっちゃ」
「器用な人は、器用な店に出入りする」
「油紙問屋やな」
「はい。けれど、彼らは“運んだ”だけ。運ばせたのは――」
静はそこで言葉を切った。沈黙の形は、刀身に似ていた。
*
宵の口、静は市中の風を変えた。行灯の油を一軒だけ半分にし、丁稚の下駄の歯を一本だけゆるめ、橋の欄干の釘をひとつだけ押し込む。意味のない小さな差異が、ひとつの通りに積もると、風はそこを避けて通る。避けた風は、人の耳に溜まる。
「――角井同心が今夜、問屋に寄るらしい」
耳に入ったのは、そんな囁きだった。
角井。名は知っている。職務は真面目、帳面は正確、言葉は短い。短い言葉は、時に遠い。遠い言葉は、誰かの影を必要とする。
静は水茶屋の暖簾の影に立ち、雨樋の下で夜の匂いを吸った。
角井が来る。
来る足音は、正しい速度。
正しい速度の人は、地面の誤差に足を取られない。
だから、誤差を増やした。
戸口の桟に紙片を噛ませ、戸車の抵抗を微妙に変える。
角井は指先でそれを感じ、無意識に「閉めやすいほう」を選ぶ。
閉めやすいほうの戸は、こちら側からだけ、静かに開く。
角井は番頭と小声で言葉を交わし、油紙の包みをひとつ、二つ、受け取った。
「帳面は別に」
短い言葉。
「印は、私が押す」
短い言葉。
その「短さ」が、印の偽物を堂々と通す。
静は、障子の桟に指を置いた。桟は人の注意を外へ吸い出す。
茶屋の奥で、女中が一人、意味もなく振り返る。
振り返る、その一拍で、静は縁へ滑り、置き床の下に手を入れ、桐の箱の底板を指先で確かめた。角が紙一枚ぶん削れている――同じ。
「金は川を流れる」
静は心の中で呟いた。
「流れの途中に、印の堰がある。堰は、熱で柔らかい」
*
捕まえるのは簡単だ。名を呼び、手を取り、紙を積み上げればいい。
だが、それでは遅い。遅い捕縛は、正しい怒りを濁す。
静は、罠を反転させた。
翌々日。
無明隊の帳場に、もう一つの金箱が運び込まれた。内張りは薄い柿渋紙。底板の角は、あえて紙二枚ぶん削ってある。印の朱肉は、わずかに薄い。
「補充金、到着」
紙の上に、正しい字が並ぶ。
静は番の交替を、記録どおりに進めた。
――角井が見ていると分かっている番で。
夜半、角井は裏口から入り、倉庫の壁に背を預けた。
“いつもどおり”の巡回。
“いつもどおり”の鍵の確認。
“いつもどおり”の印の押し直し。
彼は朱肉を温め、印を軽く炙り、縁に油紙の紐を巻いて丸を保つ。
静は風の流れだけを変えた。
印を置くその一瞬に、戸口を開け、外気の冷たさを押し込む。
熱い印と冷たい風。
縁に残るのは、亜麻でも楮でもない繊維――静があらかじめ巻いておいた、白い絹糸の一本。
「……誰だ」
角井が顔を上げた。
「風です」
静は薄く笑って、絹糸を懐紙に移した。
「印の縁に、狐の髭が残りました」
角井は一歩、退いた。
退く足は、正しい速度を忘れる。
戸口の誤差に足を取られ、肩が柱に当たる。
「狐は、名を持ちません。代わりに、約定だけを置いてゆく」
角井が腰へ手をやる。刀の柄ではない。懐の紙――帳面。
静はそこへ、鞘でやわらかく手首を触れた。
「帳面は、風でめくれます」
外で、雷が鳴った。
一度。
二度。
三度。
矢野の声が、遠く近くに響く。
「おうおう、雲が薄いじゃねぇか――!」
戸口が開き、隊士らがなだれ込む。
角井は抵抗しなかった。抵抗の形を、最初から忘れている人間の、静かな降参。
「……掟に従っただけだ」
角井は唇の端だけで言った。
「秤だ。どちらの損が重いかだけで、誰が斬られるかが決まる」
静は首を振る。
「秤は風で揺れます」
「揺らしたのは、お前たちだ」
「揺れない秤は、最初から斜めです」
角井の懐から、油紙問屋の帳面と同じ印の小箱が出た。朱肉は温い。
「矢野蓮の名で、受領印を押した夜が一つ」
静は紙を捲り、矢野の名を指で隠し、笑った。
「名は、風に」
*
夜明け前、矢野の鉄格子が開いた。
「おう、薄雲が晴れたか」
「はい。三度鳴らしていただきました」
矢野は両腕を伸ばし、首を鳴らした。
「三度は、喉に堪えるぜ」
「喉は鳴らすためにあります」
「お前の理屈は、いつも涼しい」
「風なので」
「ああ、そうだな」
廊下に出ると、鴇田が柱の陰で口を開きかけ、閉じた。
矢野は彼の前で立ち止まり、肩に手を置く。
「派手にやるが、裏は汚くねぇ。……そう言っとけ」
鴇田は顔を赤くし、斜めに頭を下げた。「……悪かった」
矢野は笑って通り過ぎ、静の歩幅に合わせた。
「静」
「はい」
「俺の名、紙から外して良かったのか」
「名は、他人の口で生きます」
「お前、俺の口も他人に入るのか」
「はい。雷は空のものです」
「はは。そりゃ結構だ」
隊長室。
隊長は報告書を一枚だけ受け取り、無言で閉じた。
「角井は」
「引き渡します。掟の外へ」静が答える。
「油紙問屋は」
「目礼を受け取りました。帳面は、風でめくれなくなります」
「矢野は」
「元の持ち場へ。雷は鳴るべきところで鳴るのが一番です」
隊長は灯を半分上げ、静を見た。
「掟を折ったな」
「はい。一度だけ」
「折れる箇所を選べ。次は折れる前に、曲げろ」
「心得ました」
*
夕暮れ、河原。
矢野は草鞋の結び目を二度、直した。
「急ぐ時ほど」
「結びなおすんだ」
二人は同時に言って笑う。
笑いは短く、風に乗りやすい。
「静」
「はい」
「俺、三日のあいだ、いろいろ考えたぜ」
「どんなことを」
「“いなかった”ことにされるのが本望って、お前は言う。じゃあ“いた”って誰が言う?」
静は少し考え、「雷が」と答えた。
「鳴れば、います。鳴らなければ、風だけです」
「そりゃ、寂しいじゃねぇか」
「寂しさは、速さの敵ではありません」
矢野は欄干を拳で軽く叩き、「お前にゃ敵が少ねぇな」と笑った。
「敵は、“間に合わなさ”です」
「上等。だったら、俺は遅れた奴を起こして回る」
「お願いします」
「任せとけ」
川面を撫でる風は、秋の手前で柔らかい。
静は白装束の袖を少しだけ捲り、縫い付けた小さな紅の房に触れた。
「――この房、鳴らさずに済みました」
矢野が鼻を鳴らす。「鳴らす暇がねぇのが“いざという時”だ。いつか、鳴らせ」
「はい。いつか」
「“いつか”はいつだ」
「間に合わない時です」
「そんな時、来んじゃねぇぞ」
「努力します」
*
夜。
屯所の庭で、静はひとり刀を抜かぬ稽古をした。
鞘のまま、踏む。
息で間合いを測り、風で距離を縮め、影で音を消す。
“斬らずに守る”の限界はいつも近く、いつも遠い。
その限界の手前で、矢野の雷が鳴る――そう信じることが、彼に残された救いだった。
廊下の端に、矢野の影。
「静」
「はい」
「忘れんな。俺が証人だ。静って奴が、確かにここにいたって」
静は微笑し、深く礼をした。
「証は、風に任せます」
「任せんな。雷で殴り書きにしてやる」
「お願いします」
灯が遠のく。
記録は短く、噂は長く、友情は沈黙で太る。
紙には何も残らない――それで、良かった。
名の代わりに残るのは、風の痕跡と、遅れてくる雷の音。
紅蓮の刃はまだ鞘の中だが、触れれば熱い。
「濡れ衣」は夜露のように乾き、朝になれば跡も浅い。
ただ、浅い跡の上を歩く二人の足音だけが、確かに前へ進んだ。
無明隊の軍資金。ひと夜にして丸ごと。錠前は内側から正しく掛かり、札束を収める金箱は、外気に触れていないはずの冷たさで澄ましていた。帳場に残る押印は欠けも歪みもなく、番の交代は記録どおり。つまり、常夜灯の下で人の目が見張るあいだに、見張っていた誰かの手が、見張る仕事を少しだけ横へずらしたのだ。
浮上した名は、ひとつ。矢野蓮。
理由は単純。軍資金の運搬当番だった。単純な理由ほど、刃は早く抜ける。
「先鋒は派手にやるが、裏は汚ねぇ」
中堅の鴇田が酒肴の椀を乱暴に卓へ戻し、見物の若い衆に聞こえる声で続ける。
「江戸っ子ぶって啖呵切っても、腹は黒いのさ。俺ぁ見てきた、あの夜――」
「……あァ?」
椀を置く音より早く、矢野が立ち上がりかけた。
袖口を、細い指がつまむ。静だ。
「矢野さん、ここで雷は落とさないで」
矢野は喉の奥で笑い、腰を戻す。「落ちねぇよ。いまは雲待ちだ」
隊長は長い沈黙で場を冷やし、結論だけを置いた。
「事を荒立てぬ。矢野、三日、取り調べに掛ける。自首同然だ」
「了解」矢野は肩を竦め、笑って見せた。「三日で足りるのか。俺、口は堅ぇぞ」
「堅くていい。風は別に吹く」
静は「表向き」は一礼して退き、「裏」を歩きはじめた。
*
倉庫の鍵穴は、乾いた土と油で薄く艶がある。静は爪で縁を撫で、粉ほどの黒を懐紙に落とす。床板の継ぎ目には、砂が片寄っている。いつもの夜番なら砂は均一に敷き詰められるはず――違いは、ごく小さい。
金箱の底板。角が一方だけ、紙一枚ぶん削れていた。板に耳を当てる。中は空洞、しかし空洞の声は、昨夜と違うはずがない。違いは、音の端にある。
帳場の印――欠けのない丸の縁、右下に、わずかな毛羽立ち。静は印の縁を、剣の鎬を触るときのように丁寧に撫で、微細な繊維を爪で持ち上げ、墨の皿へ落とす。浮いた繊維の撚りは、紙ではない。油紙問屋の包み紐――亜麻と楮を交ぜた細撚り。屯所に出入りする荷の口を結ぶ、あの紐の繊維だ。
油紙問屋の帳面を洗う。木札に刻まれた印の並び、出荷の刻がひと晩だけ買い物籠の目のように粗くなっている。丁稚の筆跡は素直だが、その素直さが、帳面の“整え過ぎ”を逆に浮かび上がらせていた。
夕刻、静は問屋の番頭と盃を傾けた。
「お客人、山の話はお好きで」番頭は目尻の笑い皺を深くして酒を勧める。
「ええ。墨は、山の水で磨ると、目が揃う。そう聞いたので」
番頭の吸った息が、盃の縁で立ち止まる。
「京の水は、川で十分で」
「十分は時々、十分ではない」
静は盃を置き、番頭の袖口の汚れを、目の端で数えた。油の匂いが薄い。代わりに、干した粟の粉。
「――昨夜だけ、不自然に多い包み。油紙は重い。重いものを軽く見せるには、笑いか、印か」
番頭の目が泳いだ。泳ぎは浅い。浅い泳ぎは、誰かの網の上でやるものだ。
網は、屯所の外にも内にもある。
静は、内の網の結び目を一つ、頭の中に置いた。
同心――市中の目であり、耳であり、時に、口。
その口の中に、誰かの指が入っている。
*
夜。隊長室。灯は低く、声は高くない。
「矢野さんの疑いを解くには、掟を一度だけ折る必要があります」
静は畳の縁に正座したまま、声の温度だけでいう。
「味方を斬る前に、味方のふりを斬る」
隊長は目を細め、灯の高さを指で半分ほど下げた。
「やれ。ただし記録は残さない」
「記録に残らないことが、最も速い夜もあります」
「風雷のうち、“風”だけでやれ」
「はい」
「“雷”は囚われの身だ。だが雲は動く」
「雲が薄れた時だけ、鳴らしてもらいます」
静は礼を取り、矢野の拘置部屋へ向かった。鉄格子の向こうで、矢野は胡坐をかき、壁に背を預け、天井の節を数えていた。
「雷は、雲に隠れていてください」
「おう」矢野は薄笑いを浮かべる。「雲が薄れたら、ゴロゴロと派手に鳴ってやらぁ」
「三度、鳴らしてください」
「三度?」
「はい。最初の一声は目くらまし。二声目で人の気持ちを変える。三声目で、印を偽物にする」
「印?」
「ええ。印は熱に弱い。弱いところに風を当てます」
矢野は首をひねり、「相変わらず、理屈は涼しいな」と笑った。
*
翌日。静は、倉庫の錠前を鍛冶に見せた。
「どないしたんや、こんな上等な錠」
「上等だから、触り心地がよくて。そっと撫でれば撫でるほど、撫でられた場所だけ熱を覚える」
「熱ぅ?」
「はい。昨夜、ここだけ熱かったはずです。指で触れずに、熱で印を押し直した」
鍛冶は笑い飛ばしかけてやめ、「……炭の上に置いたか」と独り言のように言った。
「印の縁に、亜麻と楮の繊維が残っています。熱で柔らかくなった縁を、包み紐で一度だけ押さえ直した。だから丸は丸のまま、縁だけに異物が残った」
鍛冶は腕を組んだ。「器用なこっちゃ」
「器用な人は、器用な店に出入りする」
「油紙問屋やな」
「はい。けれど、彼らは“運んだ”だけ。運ばせたのは――」
静はそこで言葉を切った。沈黙の形は、刀身に似ていた。
*
宵の口、静は市中の風を変えた。行灯の油を一軒だけ半分にし、丁稚の下駄の歯を一本だけゆるめ、橋の欄干の釘をひとつだけ押し込む。意味のない小さな差異が、ひとつの通りに積もると、風はそこを避けて通る。避けた風は、人の耳に溜まる。
「――角井同心が今夜、問屋に寄るらしい」
耳に入ったのは、そんな囁きだった。
角井。名は知っている。職務は真面目、帳面は正確、言葉は短い。短い言葉は、時に遠い。遠い言葉は、誰かの影を必要とする。
静は水茶屋の暖簾の影に立ち、雨樋の下で夜の匂いを吸った。
角井が来る。
来る足音は、正しい速度。
正しい速度の人は、地面の誤差に足を取られない。
だから、誤差を増やした。
戸口の桟に紙片を噛ませ、戸車の抵抗を微妙に変える。
角井は指先でそれを感じ、無意識に「閉めやすいほう」を選ぶ。
閉めやすいほうの戸は、こちら側からだけ、静かに開く。
角井は番頭と小声で言葉を交わし、油紙の包みをひとつ、二つ、受け取った。
「帳面は別に」
短い言葉。
「印は、私が押す」
短い言葉。
その「短さ」が、印の偽物を堂々と通す。
静は、障子の桟に指を置いた。桟は人の注意を外へ吸い出す。
茶屋の奥で、女中が一人、意味もなく振り返る。
振り返る、その一拍で、静は縁へ滑り、置き床の下に手を入れ、桐の箱の底板を指先で確かめた。角が紙一枚ぶん削れている――同じ。
「金は川を流れる」
静は心の中で呟いた。
「流れの途中に、印の堰がある。堰は、熱で柔らかい」
*
捕まえるのは簡単だ。名を呼び、手を取り、紙を積み上げればいい。
だが、それでは遅い。遅い捕縛は、正しい怒りを濁す。
静は、罠を反転させた。
翌々日。
無明隊の帳場に、もう一つの金箱が運び込まれた。内張りは薄い柿渋紙。底板の角は、あえて紙二枚ぶん削ってある。印の朱肉は、わずかに薄い。
「補充金、到着」
紙の上に、正しい字が並ぶ。
静は番の交替を、記録どおりに進めた。
――角井が見ていると分かっている番で。
夜半、角井は裏口から入り、倉庫の壁に背を預けた。
“いつもどおり”の巡回。
“いつもどおり”の鍵の確認。
“いつもどおり”の印の押し直し。
彼は朱肉を温め、印を軽く炙り、縁に油紙の紐を巻いて丸を保つ。
静は風の流れだけを変えた。
印を置くその一瞬に、戸口を開け、外気の冷たさを押し込む。
熱い印と冷たい風。
縁に残るのは、亜麻でも楮でもない繊維――静があらかじめ巻いておいた、白い絹糸の一本。
「……誰だ」
角井が顔を上げた。
「風です」
静は薄く笑って、絹糸を懐紙に移した。
「印の縁に、狐の髭が残りました」
角井は一歩、退いた。
退く足は、正しい速度を忘れる。
戸口の誤差に足を取られ、肩が柱に当たる。
「狐は、名を持ちません。代わりに、約定だけを置いてゆく」
角井が腰へ手をやる。刀の柄ではない。懐の紙――帳面。
静はそこへ、鞘でやわらかく手首を触れた。
「帳面は、風でめくれます」
外で、雷が鳴った。
一度。
二度。
三度。
矢野の声が、遠く近くに響く。
「おうおう、雲が薄いじゃねぇか――!」
戸口が開き、隊士らがなだれ込む。
角井は抵抗しなかった。抵抗の形を、最初から忘れている人間の、静かな降参。
「……掟に従っただけだ」
角井は唇の端だけで言った。
「秤だ。どちらの損が重いかだけで、誰が斬られるかが決まる」
静は首を振る。
「秤は風で揺れます」
「揺らしたのは、お前たちだ」
「揺れない秤は、最初から斜めです」
角井の懐から、油紙問屋の帳面と同じ印の小箱が出た。朱肉は温い。
「矢野蓮の名で、受領印を押した夜が一つ」
静は紙を捲り、矢野の名を指で隠し、笑った。
「名は、風に」
*
夜明け前、矢野の鉄格子が開いた。
「おう、薄雲が晴れたか」
「はい。三度鳴らしていただきました」
矢野は両腕を伸ばし、首を鳴らした。
「三度は、喉に堪えるぜ」
「喉は鳴らすためにあります」
「お前の理屈は、いつも涼しい」
「風なので」
「ああ、そうだな」
廊下に出ると、鴇田が柱の陰で口を開きかけ、閉じた。
矢野は彼の前で立ち止まり、肩に手を置く。
「派手にやるが、裏は汚くねぇ。……そう言っとけ」
鴇田は顔を赤くし、斜めに頭を下げた。「……悪かった」
矢野は笑って通り過ぎ、静の歩幅に合わせた。
「静」
「はい」
「俺の名、紙から外して良かったのか」
「名は、他人の口で生きます」
「お前、俺の口も他人に入るのか」
「はい。雷は空のものです」
「はは。そりゃ結構だ」
隊長室。
隊長は報告書を一枚だけ受け取り、無言で閉じた。
「角井は」
「引き渡します。掟の外へ」静が答える。
「油紙問屋は」
「目礼を受け取りました。帳面は、風でめくれなくなります」
「矢野は」
「元の持ち場へ。雷は鳴るべきところで鳴るのが一番です」
隊長は灯を半分上げ、静を見た。
「掟を折ったな」
「はい。一度だけ」
「折れる箇所を選べ。次は折れる前に、曲げろ」
「心得ました」
*
夕暮れ、河原。
矢野は草鞋の結び目を二度、直した。
「急ぐ時ほど」
「結びなおすんだ」
二人は同時に言って笑う。
笑いは短く、風に乗りやすい。
「静」
「はい」
「俺、三日のあいだ、いろいろ考えたぜ」
「どんなことを」
「“いなかった”ことにされるのが本望って、お前は言う。じゃあ“いた”って誰が言う?」
静は少し考え、「雷が」と答えた。
「鳴れば、います。鳴らなければ、風だけです」
「そりゃ、寂しいじゃねぇか」
「寂しさは、速さの敵ではありません」
矢野は欄干を拳で軽く叩き、「お前にゃ敵が少ねぇな」と笑った。
「敵は、“間に合わなさ”です」
「上等。だったら、俺は遅れた奴を起こして回る」
「お願いします」
「任せとけ」
川面を撫でる風は、秋の手前で柔らかい。
静は白装束の袖を少しだけ捲り、縫い付けた小さな紅の房に触れた。
「――この房、鳴らさずに済みました」
矢野が鼻を鳴らす。「鳴らす暇がねぇのが“いざという時”だ。いつか、鳴らせ」
「はい。いつか」
「“いつか”はいつだ」
「間に合わない時です」
「そんな時、来んじゃねぇぞ」
「努力します」
*
夜。
屯所の庭で、静はひとり刀を抜かぬ稽古をした。
鞘のまま、踏む。
息で間合いを測り、風で距離を縮め、影で音を消す。
“斬らずに守る”の限界はいつも近く、いつも遠い。
その限界の手前で、矢野の雷が鳴る――そう信じることが、彼に残された救いだった。
廊下の端に、矢野の影。
「静」
「はい」
「忘れんな。俺が証人だ。静って奴が、確かにここにいたって」
静は微笑し、深く礼をした。
「証は、風に任せます」
「任せんな。雷で殴り書きにしてやる」
「お願いします」
灯が遠のく。
記録は短く、噂は長く、友情は沈黙で太る。
紙には何も残らない――それで、良かった。
名の代わりに残るのは、風の痕跡と、遅れてくる雷の音。
紅蓮の刃はまだ鞘の中だが、触れれば熱い。
「濡れ衣」は夜露のように乾き、朝になれば跡も浅い。
ただ、浅い跡の上を歩く二人の足音だけが、確かに前へ進んだ。



