金は、音を立てずに消えた。
 無明隊の軍資金。ひと夜にして丸ごと。錠前は内側から正しく掛かり、札束を収める金箱は、外気に触れていないはずの冷たさで澄ましていた。帳場に残る押印は欠けも歪みもなく、番の交代は記録どおり。つまり、常夜灯の下で人の目が見張るあいだに、見張っていた誰かの手が、見張る仕事を少しだけ横へずらしたのだ。

 浮上した名は、ひとつ。矢野蓮。
 理由は単純。軍資金の運搬当番だった。単純な理由ほど、刃は早く抜ける。
 「先鋒は派手にやるが、裏は汚ねぇ」
 中堅の鴇田が酒肴の椀を乱暴に卓へ戻し、見物の若い衆に聞こえる声で続ける。
 「江戸っ子ぶって啖呵切っても、腹は黒いのさ。俺ぁ見てきた、あの夜――」
 「……あァ?」
 椀を置く音より早く、矢野が立ち上がりかけた。
 袖口を、細い指がつまむ。静だ。
 「矢野さん、ここで雷は落とさないで」
 矢野は喉の奥で笑い、腰を戻す。「落ちねぇよ。いまは雲待ちだ」

 隊長は長い沈黙で場を冷やし、結論だけを置いた。
 「事を荒立てぬ。矢野、三日、取り調べに掛ける。自首同然だ」
 「了解」矢野は肩を竦め、笑って見せた。「三日で足りるのか。俺、口は堅ぇぞ」
 「堅くていい。風は別に吹く」

 静は「表向き」は一礼して退き、「裏」を歩きはじめた。

 *

 倉庫の鍵穴は、乾いた土と油で薄く艶がある。静は爪で縁を撫で、粉ほどの黒を懐紙に落とす。床板の継ぎ目には、砂が片寄っている。いつもの夜番なら砂は均一に敷き詰められるはず――違いは、ごく小さい。
 金箱の底板。角が一方だけ、紙一枚ぶん削れていた。板に耳を当てる。中は空洞、しかし空洞の声は、昨夜と違うはずがない。違いは、音の端にある。
 帳場の印――欠けのない丸の縁、右下に、わずかな毛羽立ち。静は印の縁を、剣の鎬を触るときのように丁寧に撫で、微細な繊維を爪で持ち上げ、墨の皿へ落とす。浮いた繊維の撚りは、紙ではない。油紙問屋の包み紐――亜麻と楮を交ぜた細撚り。屯所に出入りする荷の口を結ぶ、あの紐の繊維だ。

 油紙問屋の帳面を洗う。木札に刻まれた印の並び、出荷の刻がひと晩だけ買い物籠の目のように粗くなっている。丁稚の筆跡は素直だが、その素直さが、帳面の“整え過ぎ”を逆に浮かび上がらせていた。

 夕刻、静は問屋の番頭と盃を傾けた。
 「お客人、山の話はお好きで」番頭は目尻の笑い皺を深くして酒を勧める。
 「ええ。墨は、山の水で磨ると、目が揃う。そう聞いたので」
 番頭の吸った息が、盃の縁で立ち止まる。
 「京の水は、川で十分で」
 「十分は時々、十分ではない」
 静は盃を置き、番頭の袖口の汚れを、目の端で数えた。油の匂いが薄い。代わりに、干した粟の粉。
 「――昨夜だけ、不自然に多い包み。油紙は重い。重いものを軽く見せるには、笑いか、印か」
 番頭の目が泳いだ。泳ぎは浅い。浅い泳ぎは、誰かの網の上でやるものだ。

 網は、屯所の外にも内にもある。
 静は、内の網の結び目を一つ、頭の中に置いた。
 同心――市中の目であり、耳であり、時に、口。
 その口の中に、誰かの指が入っている。

 *

 夜。隊長室。灯は低く、声は高くない。
 「矢野さんの疑いを解くには、掟を一度だけ折る必要があります」
 静は畳の縁に正座したまま、声の温度だけでいう。
 「味方を斬る前に、味方のふりを斬る」
 隊長は目を細め、灯の高さを指で半分ほど下げた。
 「やれ。ただし記録は残さない」
 「記録に残らないことが、最も速い夜もあります」
 「風雷のうち、“風”だけでやれ」
 「はい」
 「“雷”は囚われの身だ。だが雲は動く」
 「雲が薄れた時だけ、鳴らしてもらいます」

 静は礼を取り、矢野の拘置部屋へ向かった。鉄格子の向こうで、矢野は胡坐をかき、壁に背を預け、天井の節を数えていた。
 「雷は、雲に隠れていてください」
 「おう」矢野は薄笑いを浮かべる。「雲が薄れたら、ゴロゴロと派手に鳴ってやらぁ」
 「三度、鳴らしてください」
 「三度?」
 「はい。最初の一声は目くらまし。二声目で人の気持ちを変える。三声目で、印を偽物にする」
 「印?」
 「ええ。印は熱に弱い。弱いところに風を当てます」
 矢野は首をひねり、「相変わらず、理屈は涼しいな」と笑った。

 *

 翌日。静は、倉庫の錠前を鍛冶に見せた。
 「どないしたんや、こんな上等な錠」
 「上等だから、触り心地がよくて。そっと撫でれば撫でるほど、撫でられた場所だけ熱を覚える」
 「熱ぅ?」
 「はい。昨夜、ここだけ熱かったはずです。指で触れずに、熱で印を押し直した」
 鍛冶は笑い飛ばしかけてやめ、「……炭の上に置いたか」と独り言のように言った。
 「印の縁に、亜麻と楮の繊維が残っています。熱で柔らかくなった縁を、包み紐で一度だけ押さえ直した。だから丸は丸のまま、縁だけに異物が残った」
 鍛冶は腕を組んだ。「器用なこっちゃ」
 「器用な人は、器用な店に出入りする」
 「油紙問屋やな」
 「はい。けれど、彼らは“運んだ”だけ。運ばせたのは――」
 静はそこで言葉を切った。沈黙の形は、刀身に似ていた。

 *

 宵の口、静は市中の風を変えた。行灯の油を一軒だけ半分にし、丁稚の下駄の歯を一本だけゆるめ、橋の欄干の釘をひとつだけ押し込む。意味のない小さな差異が、ひとつの通りに積もると、風はそこを避けて通る。避けた風は、人の耳に溜まる。

 「――角井同心が今夜、問屋に寄るらしい」
 耳に入ったのは、そんな囁きだった。
 角井。名は知っている。職務は真面目、帳面は正確、言葉は短い。短い言葉は、時に遠い。遠い言葉は、誰かの影を必要とする。

 静は水茶屋の暖簾の影に立ち、雨樋の下で夜の匂いを吸った。
 角井が来る。
 来る足音は、正しい速度。
 正しい速度の人は、地面の誤差に足を取られない。
 だから、誤差を増やした。
 戸口の桟に紙片を噛ませ、戸車の抵抗を微妙に変える。
 角井は指先でそれを感じ、無意識に「閉めやすいほう」を選ぶ。
 閉めやすいほうの戸は、こちら側からだけ、静かに開く。

 角井は番頭と小声で言葉を交わし、油紙の包みをひとつ、二つ、受け取った。
 「帳面は別に」
 短い言葉。
 「印は、私が押す」
 短い言葉。
 その「短さ」が、印の偽物を堂々と通す。

 静は、障子の桟に指を置いた。桟は人の注意を外へ吸い出す。
 茶屋の奥で、女中が一人、意味もなく振り返る。
 振り返る、その一拍で、静は縁へ滑り、置き床の下に手を入れ、桐の箱の底板を指先で確かめた。角が紙一枚ぶん削れている――同じ。
 「金は川を流れる」
 静は心の中で呟いた。
 「流れの途中に、印の堰がある。堰は、熱で柔らかい」

 *

 捕まえるのは簡単だ。名を呼び、手を取り、紙を積み上げればいい。
 だが、それでは遅い。遅い捕縛は、正しい怒りを濁す。
 静は、罠を反転させた。

 翌々日。
 無明隊の帳場に、もう一つの金箱が運び込まれた。内張りは薄い柿渋紙。底板の角は、あえて紙二枚ぶん削ってある。印の朱肉は、わずかに薄い。
 「補充金、到着」
 紙の上に、正しい字が並ぶ。
 静は番の交替を、記録どおりに進めた。
 ――角井が見ていると分かっている番で。

 夜半、角井は裏口から入り、倉庫の壁に背を預けた。
 “いつもどおり”の巡回。
 “いつもどおり”の鍵の確認。
 “いつもどおり”の印の押し直し。
 彼は朱肉を温め、印を軽く炙り、縁に油紙の紐を巻いて丸を保つ。
 静は風の流れだけを変えた。
 印を置くその一瞬に、戸口を開け、外気の冷たさを押し込む。
 熱い印と冷たい風。
 縁に残るのは、亜麻でも楮でもない繊維――静があらかじめ巻いておいた、白い絹糸の一本。

 「……誰だ」
 角井が顔を上げた。
 「風です」
 静は薄く笑って、絹糸を懐紙に移した。
 「印の縁に、狐の髭が残りました」
 角井は一歩、退いた。
 退く足は、正しい速度を忘れる。
 戸口の誤差に足を取られ、肩が柱に当たる。
 「狐は、名を持ちません。代わりに、約定だけを置いてゆく」
 角井が腰へ手をやる。刀の柄ではない。懐の紙――帳面。
 静はそこへ、鞘でやわらかく手首を触れた。
 「帳面は、風でめくれます」

 外で、雷が鳴った。
 一度。
 二度。
 三度。

 矢野の声が、遠く近くに響く。
 「おうおう、雲が薄いじゃねぇか――!」

 戸口が開き、隊士らがなだれ込む。
 角井は抵抗しなかった。抵抗の形を、最初から忘れている人間の、静かな降参。
 「……掟に従っただけだ」
 角井は唇の端だけで言った。
 「秤だ。どちらの損が重いかだけで、誰が斬られるかが決まる」
 静は首を振る。
 「秤は風で揺れます」
 「揺らしたのは、お前たちだ」
 「揺れない秤は、最初から斜めです」

 角井の懐から、油紙問屋の帳面と同じ印の小箱が出た。朱肉は温い。
 「矢野蓮の名で、受領印を押した夜が一つ」
 静は紙を捲り、矢野の名を指で隠し、笑った。
「名は、風に」

 *

 夜明け前、矢野の鉄格子が開いた。
 「おう、薄雲が晴れたか」
 「はい。三度鳴らしていただきました」
 矢野は両腕を伸ばし、首を鳴らした。
 「三度は、喉に堪えるぜ」
 「喉は鳴らすためにあります」
 「お前の理屈は、いつも涼しい」
 「風なので」
 「ああ、そうだな」

 廊下に出ると、鴇田が柱の陰で口を開きかけ、閉じた。
 矢野は彼の前で立ち止まり、肩に手を置く。
 「派手にやるが、裏は汚くねぇ。……そう言っとけ」
 鴇田は顔を赤くし、斜めに頭を下げた。「……悪かった」
 矢野は笑って通り過ぎ、静の歩幅に合わせた。
 「静」
 「はい」
 「俺の名、紙から外して良かったのか」
 「名は、他人の口で生きます」
 「お前、俺の口も他人に入るのか」
「はい。雷は空のものです」
「はは。そりゃ結構だ」

 隊長室。
 隊長は報告書を一枚だけ受け取り、無言で閉じた。
 「角井は」
 「引き渡します。掟の外へ」静が答える。
 「油紙問屋は」
 「目礼を受け取りました。帳面は、風でめくれなくなります」
 「矢野は」
 「元の持ち場へ。雷は鳴るべきところで鳴るのが一番です」
 隊長は灯を半分上げ、静を見た。
 「掟を折ったな」
 「はい。一度だけ」
 「折れる箇所を選べ。次は折れる前に、曲げろ」
 「心得ました」

 *

 夕暮れ、河原。
 矢野は草鞋の結び目を二度、直した。
 「急ぐ時ほど」
 「結びなおすんだ」
 二人は同時に言って笑う。
 笑いは短く、風に乗りやすい。
 「静」
 「はい」
 「俺、三日のあいだ、いろいろ考えたぜ」
 「どんなことを」
 「“いなかった”ことにされるのが本望って、お前は言う。じゃあ“いた”って誰が言う?」
 静は少し考え、「雷が」と答えた。
 「鳴れば、います。鳴らなければ、風だけです」
 「そりゃ、寂しいじゃねぇか」
 「寂しさは、速さの敵ではありません」
矢野は欄干を拳で軽く叩き、「お前にゃ敵が少ねぇな」と笑った。
「敵は、“間に合わなさ”です」
「上等。だったら、俺は遅れた奴を起こして回る」
「お願いします」
「任せとけ」

 川面を撫でる風は、秋の手前で柔らかい。
 静は白装束の袖を少しだけ捲り、縫い付けた小さな紅の房に触れた。
 「――この房、鳴らさずに済みました」
 矢野が鼻を鳴らす。「鳴らす暇がねぇのが“いざという時”だ。いつか、鳴らせ」
 「はい。いつか」
 「“いつか”はいつだ」
 「間に合わない時です」
 「そんな時、来んじゃねぇぞ」
 「努力します」

 *

 夜。
 屯所の庭で、静はひとり刀を抜かぬ稽古をした。
 鞘のまま、踏む。
 息で間合いを測り、風で距離を縮め、影で音を消す。
 “斬らずに守る”の限界はいつも近く、いつも遠い。
 その限界の手前で、矢野の雷が鳴る――そう信じることが、彼に残された救いだった。

 廊下の端に、矢野の影。
 「静」
 「はい」
 「忘れんな。俺が証人だ。静って奴が、確かにここにいたって」
 静は微笑し、深く礼をした。
 「証は、風に任せます」
 「任せんな。雷で殴り書きにしてやる」
 「お願いします」

 灯が遠のく。
 記録は短く、噂は長く、友情は沈黙で太る。
 紙には何も残らない――それで、良かった。
 名の代わりに残るのは、風の痕跡と、遅れてくる雷の音。
 紅蓮の刃はまだ鞘の中だが、触れれば熱い。
 「濡れ衣」は夜露のように乾き、朝になれば跡も浅い。
 ただ、浅い跡の上を歩く二人の足音だけが、確かに前へ進んだ。