噂には、足がある。誰が履かせるでもないのに、勝手に履き替え、勝手に遠出をする。祇園の座敷迷路を封じた翌朝には、もう京のどこかで「誰それが捕らわれた」「誰それが逃げおおせた」「誰それの家に官の札が入った」と、言葉だけが先に町を駆けていた。
 無明隊は戦果を誇らない。掟は、速さと静かさを両の刃に据える。だが、静けさが過ぎれば、空白が増える。空白はたやすく塗りつぶされる。商人にとっては損益、医者にとっては療治、花街にとっては面子――それぞれの色で。色が重なる前に風を通すのが、今度の任だった。

 隊長室に灯がひとつ。昼でも低い灯は、紙の上の言葉だけを照らし、人の顔を照らさない。
 「口止めだ」
 隊長の声は、湿気を帯びない。
 「誇示も弁明もしない。静かに沈める。面は出すな。約定だけを置いてこい」
 矢野が肩を回し、「相手は?」と問う。
 「女将衆の取りまとめ――お蝶。花街の風位だ。お蝶の耳は、橋の上でも座敷の下でも同じ音を拾う」
 静は一礼した。
 「約定は三つ。押収は適法の範囲で返還、関わりの女の身柄は保護、街の安全と面目は我らが担保。見返りは、目と耳の貸与。期間は……」
 「夜の半月」隊長は素早く答える。「長居はするな。耳は貸しても心は借りるな。掟は人を削るが、友情は削るな」
 短く笑うでもなく、長く言うでもない。
 静は「承知」とだけ言い、矢野と並んで廊下へ出た。

 「静」
 「はい」
「言いにくいことは俺が言う。お前は風で押せ。俺は雷で蓋をする」
「いつも通りですね」
「いつも通りで、足りる夜なら上等だ」

 *

 「水無月庵」の座敷は昼の顔を取り戻していた。張り替えられた障子は真白に光り、行灯は油を新しくし、床の間の花は名を持たぬ秋の色。雨上がりの石畳にはまだ細い水筋が残り、下駄の歯が水を割る音すら小粋に聞こえた。
 奥座敷へ通されると、そこに、お蝶がいた。年のほどは読めない。水墨で引いたような目尻、笑っていない唇、笑いを待っている扇。色は深く、香は薄い。その薄さが、場を濃くした。

 「お蝶でございます」
 扇の縁で挨拶の深さを測るように、お蝶は静を流し見た。
 「名を――」
 静は、首を横に。
 「名は風に。約定だけ、人に」
 お蝶は唇の端だけを動かして笑った。「風は、祇園では善い名ですえ」
 「狐と並ぶ名ですね」
 「あら。狐は狐で、よう働いてくれはる」
 扇の影で、目が薄く笑った。

 座は長くしないのが礼だが、短くすればよいというものでもない。静は畳の目を指でなぞる。目に逆らわず、目に従いすぎず。
 「約定を」
 お蝶の扇が音もなく閉じる。
 静は三つを順に置いた。
 「ひとつ、押収物は掟の範囲で返還します。無用の面目を潰すための押さえではありません。証だけを借り、咎だけを外へ出します」
 「ふたつ」
 「関わりの女たち――芸妓、半玉、下女まで――身柄の保護を約します。名に傷がつく前に、名を紙から外します」
 「みっつ」
 「この街の安全と面目を、しばらくのあいだ無明が担保します。官の顔は出しません。灯だけ、整えます」
 静の言葉は薄いが、薄い紙ほど折るに耐える。
 「見返りは」お蝶は扇の先で畳の目を払う。「耳と目の貸出しで、よろしおすか」
 「はい。一定の期間、花街の目と耳を借ります。噂が足を履き替える前に」
 「どれほどの期間どす」
 「半月。夜が十五回、明けるまで」
 「短うおすな」
 「長いと、耳と目に心が付くから」
 お蝶は扇を頬に当てた。「心が付くのは悪いことどすか」
 「悪いことではありません。遅いだけです」
 「遅いのは、わるい」
 「ええ。命に関わる」
 お蝶の睫がわずかに揺れた。扇が膝へ戻る。
 「掟は、冷たい」
 「熱い掟は、燃えやすい」
 「よう言わはる」お蝶は笑い、扇の骨で膝を軽く叩いた。「で、名は」
 静は目を伏せた。
 「名は風に。約定だけ、人に」
 「それ、さっき聞きましたわえ」
 「大事なことは、二度、言います」
 「ふふ。あんた、狐より手強い」
 静は小さく息を足した。「この場の話は忘れてください。ただ――困った時の目礼だけ、覚えていてください」
 「目礼」
 「恩を名に変えないための礼法です。声にせず、紙にも書かず。目だけで済ませる」
 お蝶は扇の陰で目を細め、「ええ礼ですこと」と囁いた。「恩はよう重うなります。名で呼んだら、それっきりです」
 「夜明けの口止めは、名を奪うためではありません。名を守るためです」
 扇がふっと鳴った。合図。座敷の外で、酒の栓が抜ける音がした。

 *

 裏手の下足場では、矢野が用心棒と睨み合っていた。用心棒は肩の筋が板のように張り、鼻の頭に古い傷がひと筋。
 「姐さんの面子は、こっちで立てる。だがよ」
 矢野は酒の徳利をひょいと掲げ、足袋の先で石をゆっくりと鳴らした。
 「京の面子も立てさせろ。面子に穴が空いたら風が漏れる。風が漏れたら雷が鳴らねぇ」
 用心棒は眉を寄せた。「難しいこと言うな、お侍」
 「難しいのは言葉だけだ」矢野は徳利の口から酒を一杯、木の盃へさらりと移し、「飲め」と差し出す。
 「毒か」
 「高ぇ酒だ」
 「なおさら怪しい」
 「俺が先に飲む」
 矢野は盃をあおり、喉を鳴らした。「な? 雷鳴る音がしたろ」
 用心棒は半笑いになり、盃を受け取って口を湿らせた。「……薄いな」
 「昼だからな。夜までとっとけ」
 「姐さんの面子は」
 「立てる。上等に。だが、京の面子も立てる。そこは譲るな」
 「わかった」
 用心棒の肩がわずかに下がる。張った弦が湿り気を取り戻すように。
 「お侍、名は」
 「雷だ」
 「は?」
 「名は、雷で足りる」
 用心棒は鼻で笑い、徳利を返した。「狐と雷と、忙しい町だ」

 *

 座敷では、湯の湯気が静かに立ち、砂糖の甘い香りが二つ三つ漂った。
 「返す物は返し、残す物は残す。取り替える物は、ない」
 静が言うと、お蝶は「うちの娘らの名は」と問う。
 「名は置いていきます。呼ぶ時だけ、拾う」
 「男衆の名は」
 「男の名は重い。重い名は、夜に沈む」
 「沈んだら拾うのが女の役目や」
 「では、拾えるように、浅く沈めます」
 お蝶の扇が再び頬へ。「おもしろい方どす。……あんた、笑ったらええ顔にならはる」
 静は少しだけ笑った。飴のように短い笑い。
 「笑いは短いほど、遠くへ行きます」
 「遠くでええの?」
 「近い笑いは、誰かの涙に触れてしまう」
 「うち、泣くのは嫌いや」
 「ぼくも」
 お蝶は目だけで頷いた。
 「なら、目礼で」
 「目礼で」

 合意は、紙の一枚にも残らなかった。残さない約束ほど、長持ちする。紙は風でめくれるが、目礼は風で揺れない。それが花街の知恵であり、無明の掟とも相性がよかった。

 座敷を辞す前、静は縁側に出て、庭の柿の木を見上げた。薄い橙がいくつか、まだ青さを抱えて枝に残る。
 「未熟は、軽い」
 独り言のように漏らす。
 「軽いものは、速い」
 お蝶が背を向けたまま、「でも、よぅ落ちる」と添えた。
「落ちる前に、拾います」
「誰が」
「風が」
「風は、手がない」
「だから、目礼で拾います」
扇の骨が小さく鳴った。お蝶の笑いは、それで終わりだった。

 *

 座敷を出ると、東の空がほぐれていた。夜の背骨から白い糸が一本、二本とほどけ、それが鴨川の水面にまっすぐ落ちる。雨は止み、川の匂いは石を洗いながら静かに冷える。
 矢野が肩を並べ、「静」と呼ぶ。
 「はい」
 「名を出さねぇことで、背負う誤解もある」
 「承知しています」
 「“白いのが来た”“狐が通った”。笑い話に混ざる間はまだいい。だが、笑いが止まったときに矢は飛ぶ」
 「矢は、音が速い」
 「風より速い」
 「はい。だから、雷で知らせてください。矢野さんの雷は、遅れて届いても、人を起こします」
 矢野は鼻で笑った。「お前の言うことは、いつも半分しか分からねぇ」
 「半分で十分です。残りの半分は、風が持ちます」
 「俺、雷だぞ」
 「雷は、薄雲を晴らす」
 「薄雲?」
 「誤解です。ぼくの風は、薄雲の役目です」
 矢野は少し黙って、川面を見た。
 「……分かった。じゃあ、俺は雲を割る音を出す」
 「お願いします」
 「任せろ」

 鴨川の中州で鷺が一羽、夜明けを飲み込むみたいに首を伸ばした。橋を渡る荷車の音はまだ少ない。京の朝は、夜の形をそのまま引きずって始まる。
 「静」
 「はい」
 「お前は“いなかった”ことになるのが本望だと言った」
 「言いました」
「本当に、そうか」
「いなかった者の手で、誰かが助かるなら。ぼくは、いなかった者でいい」
矢野は拳を握り、やがてそれを開いて静の肩に置いた。
「じゃあ俺が証人だ。静って奴が確かにここにいた、って。紙がめくれても、雷で読み上げる」
静は、稀に見せる柔らかな笑みを細く落とした。
「証は、風に任せるのが一番です」
「任せられてたまるか。俺はしつこいぞ」
「存じています」
 二人の足音は並び、石畳の水筋を踏んで細く途切れ、また並んだ。

 *

 その日から半月、花街の路地で白装束の影を見たという噂が立ち始めた。
 ――白いのが灯の下を通った。
 ――狐が座敷の縁を滑った。
 ――砂が鳴って、音が消えた。
 噂はいつも、すこしだけ事実から離れている。離れているからこそ、長く歩く。
 お蝶は噂を止めなかった。止めると、噂は太る。太った噂は刃になる。お蝶は噂の腰に帯を一本巻き、夜風に晒した。晒されれば、噂は薄くなる。薄くなれば、祇園の飾りになる。

 無明隊は静かに動いた。押収物は必要な分だけ返還され、名は紙からそっと外された。半玉たちは呼び名を一つずつ変え、芸妓は簪の位置をひとつずらし、下女は裏口の鍵を掛け直した。
 矢野は用心棒と二度酒を交わし、「姐さんの面子は立ってるか」と念を押した。用心棒は「立ってる」と短く答え、徳利を叩いた。「京の面子もな」
 「おう」矢野は笑い、「風が吹いたらすぐ鳴る」と約した。
 風は確かに吹き、雷は遅れて鳴った。遅れた音のほうが、長く残る。

 花街の目と耳は、約定通り半月のあいだ無明へ貸し出された。座敷の目は障子の隙から外を見、路地の耳は雨樋の下で足音を数え、茶屋の裏口では猫が何かを知らせた。知らせは静の袖へ入り、矢野の槍へ伝わり、隊の紙へは、ほとんど何も載らなかった。
 紙に載らない仕事は、紙より確かだ。風の跡は石畳に残らないが、路地の呼吸を変える。呼吸が変われば、刃は鈍る。鈍った刃は鞘に帰る。帰る道が見えれば、人は刀を忘れる。

 *

 ある夜、座敷の端にいた半玉が、静の袖をそっとつまんだ。
 「狐さま」
 静は小さく首を振る。「違います」
 「でも、ありがとう」
 「何に対しても、どういたしまして」
 少女は困ったように笑い、「目で言うの、難しい」と囁いた。
 静は目だけで細く笑い返した。目礼は、言葉よりも重かった。重さは、すぐに忘れられた。忘れられたからこそ、長く残った。

 別の夜、裏口でお蝶の袖が風に鳴り、ひとつの知らせが落ちた。
 「紙の笑いが、まだ町におす」
 静は頷く。「灯を動かす手が、もうひとつある」
 「無明の手かえ」
 「名は、置いていきます」
 お蝶は扇で額を一度あおぎ、「狐よりややこし」と笑った。「でも、祇園はややこしいほうがよう似合う」
 「ややこしいほうが、風が通ります」
 「風が通ったら、雷が鳴る」
 「はい」
 お蝶は細く目礼をし、踵を返した。目礼は、約定の終わりと始まりを一度に告げる。

 *

 半月が満ちる夜、鴨川の水はいつもより黒く、空の星はいつもより白かった。橋の上で矢野が立ち止まり、石欄干に拳を置いた。
 「静、終わったな」
 「はい。終わらせました」
 「噂は?」
 「噂は、狐になりました」
 「狐か」
「祇園の白狐」
「お伽話だな」
「お伽話で十分です。名より軽く、忘れやすい」
「忘れられて嬉しいのか」
「はい」
矢野は大きく息を吐いた。「お前はやっぱり、面倒くせぇ風だ」
静は微かに笑い、「雷はいつも、風に愚痴を言いますね」と返した。
 矢野は欄干を拳で軽く二度打ち、「愚痴は鳴りやすい」と言った。
 「鳴る音が、必要です」
 「任せろ」
 「お願いします」

 橋の下を、白い魚がひとつはねた。音は小さく、夜は大きい。
 「静」
 「はい」
 「俺が証人だって言ったこと、忘れるな」
 「忘れません」
 「紙がめくれても」
「風で押さえます」
「押さえるな。めくらせとけ。めくれた先に、俺が書く」
静は黙って頷いた。頷きは、目礼の親戚だ。

 *

 翌朝、京の市で小さな紙芝居が始まった。子どもが数人、板に描かれた狐の前にしゃがむ。
 「祇園の白狐のお話やで」
 紙芝居の声は調子よく、狐は灯を動かし、悪い人を座敷の迷路に迷わせ、やさしい人を風の道で外へ導く。
 「狐は、名がない。名を呼ぶと、消える」
 「消えたら、どうなるの」
 「風になる。風になって、また来る」
 静は遠くで立ち止まり、少しだけ目を細めた。
 「狐さま?」子どもが振り向く。
 静は頭を振り、ただ指一本で口元に印を作った。口止めの印。子どもは真似をし、笑った。笑いは軽く、風に乗りやすかった。

 半月の約定が切れる頃、噂は細くなり、代わりに祇園の灯は少しだけ落ち着いた高さに揺れ始めた。お蝶は約束通り、目と耳を返した。返したというより、風へ放した。
 「また、困ったら」
 「目礼で」
 「目礼で」
 お蝶の扇の先が一度だけ床を叩き、それで話は終いになった。紙は一枚も使わない。使わない紙ほど、約束を守る。

 *

 無明隊の帳場では、短い報告が三行。
 ――祇園、静粛。押収一部返還。女らの身柄保護。
 報告書の署名は、矢野のみ。静の名はない。
 年長組が鼻を鳴らした。「狐の目撃談がある」
 隊長は紙を閉じ、「狐は狐だ」と答えた。
 「白装束の噂も」
 「噂は噂だ」
 「風の名は」
 「風に」
 短いやり取りが終わると、部屋の灯が少しだけ高くなった。灯の高さは、町の機嫌に似ている。上げすぎれば眩しく、下げすぎれば疑わしい。

 廊下で矢野が静を呼び止めた。
 「お前の“薄雲”ってやつ、今朝は薄かったな」
 「はい。雷が鳴ったので」
 「俺、鳴ってたか」
 「鳴っていました。橋の欄干で」
 矢野は照れ隠しに咳払いをし、草鞋の結び目を二度直した。
 「急ぐ時ほど」
 「結びなおすんだ」
 二人の言葉は重なり、音はひとつになった。音がひとつになれば、風はその音に従う。従えば、間に合う。
 「静」
 「はい」
 「俺たち、次はどこへ吹く」
 「紙の匂いのするところへ」
 「紙、またか」
 「紙は、風でめくれます」
 「めくれた先に、何がある」
 静は、少しだけ笑って言った。
 「空白です。けれど、空白の真ん中に、雷の字が見えます」
 矢野は「生意気」と笑い、静の肩を拳で軽く叩いた。

 京の空はよく変わる。祇園の灯はよく揺れる。無明の掟はよく冷たい。
 それでも、白と紅は、並べば暖かかった。
 名はどこにも記されない。ただ、風と雷のあいだにだけ、細い誓いが残る。
 ――誤解は雷で晴らす。
 ――薄雲は風で受け持つ。
 ――“いなかった”者の手で、いま目の前の誰かに間に合う。

 その誓いは、紙には書かれない。書けば、めくれてしまう。
 だから、目礼で。
 だから、夜明けの口止めで。
 そして、噂はいつの間にか、お伽話に変わる。
 祇園の白狐は灯を整え、雷は遅れて鳴る――そんな、子どもだましの話に。
 けれど、その話のどこかに、確かな体温が残る。
 噂の足が履き替えられ、遠出をして戻ってきた時、誰かがふと、橋の上で風を見て言うだろう。
 「白い影は、名も紙も持たなかった。けれど確かに、あの夜の灯を、間に合わせた」と。