翌夜の祇園は、雨上がりの匂いをまだ帯びていた。石畳の目地に残った水が行灯の橙をいくつも屈折させ、軒の竹樋は遅れた雫を十数えるごとに一つ落とす。路地は表から裏へ、裏から二階へ、二階からまた路地へ――渡り廊下と梯子段と隠れ戸が編み目のように連なり、座敷は海溝のように深く、夜は迷路そのものに化けていた。
無明隊は「水無月庵」を中心に、周囲の茶屋十数軒を同時封鎖する段取りを取った。掟に従い、命令は速やかに、報告は短く。だが、短い言葉だけでは迷路はほどけない。屯所の一角に広げられた卓上の白紙へ、静は墨の代わりに指先で線を描いた。水滴をちょんと置き、滑らせる。紙の上に現れたのは通りの骨格、座敷の連結、そして風の通り道だった。
「行灯の置き方、廊下の幅、畳の目の向き。逃げる者は必ず光へ向かいます」
静の声は低く、よく通った。
「僕たちは光を偽り、影を本当の道にします」
隊士たちの目が図に集まる。静は簡潔に三つの策を示した。
第一――要所の行灯は高さを変える。低い灯と高い灯を交互に配し、遠近の錯覚で道の奥行きを狂わせる。
第二――渡り廊下に米粒より細く砂を撒く。走る足音が粒に刻む痕で人数と歩幅を読む。音を目で見えるようにする。
第三――開き襖の戸車に紙片を噛ませ、「風のない戸」を作る。外側からは静かに開くが、内からは重く、開かない。袋小路を、袋小路のふりをせずに袋小路にする。
矢野は腕を組み、図の端から端まで目だけで撫でて、「要は“こっちが空いてるように見せて、じつは袋小路”って小細工だな」と笑った。
「よし、雷で蓋をする。逃げ口があるうちは鳴らさねぇ。塞がったら一撃で眠らす。……静、合図はいつも通りでいいな」
静は頷いた。「板戸を三度。最後は早めに」
隊長は短くうなずき、紙を折った。「功は譲れ。だが、命まで譲るな」
「はい」
声は重ならず、しかしひとつにまとまった。
*
夜が深まるほど、祇園の灯は低くなる。低くなった灯は影を長くし、長くなった影は路地を延ばす。水無月庵の表はすました顔で客を送り、裏では番頭が足袋のまま板場を滑って往来した。座敷の奥では、昨日見た商人と町医者が肩を寄せ、帳面に新たな小計を加えている。青の染め布は火皿の向こうで黒ずみ、数珠つなぎの包み札は長机の天板の節に沿って並んだ。
封鎖は音を立てない。要所の行灯がひとつ、ふたつ、三つ――いつもより低く吊られ、あるいは柱の高い位置へ移される。陰の角度が変わると、人は変わった角度のほうへ歩く。路地裏の渡り廊下に、静は砂を薄く流した。米粒より細い砂は、足音の形だけ残し、音は風に渡す。
合図の板戸が一度、二度。
静は庭先の灯籠の石に手を置き、縁の下を覗く。柱の間に空気が残っている。残った空気は、次の呼吸のための溜めだ。ここで息を殺せば、次に息が大きくなる。大きな息は、走る者の口から漏れる。漏れた息の高さで、気配の数が分かる。
「今、何人」
背後の影に訊ねる声。矢野だった。
「六。うち二、天井へ」
「天井ね。畳より天井が好きな鼠ってのは、だいたい足が遅い」
「はい。遅いほうから眠ります」
逃げる足が光に吸われ、渡り廊下へ雪崩れ込む。砂が微細に跳ね、音が粒立つ。一人、二人、半歩空いて三人目。廊下の角で息が一度だけ詰まる。一番軽い歩幅は女か子どもか、と静は目を細め、次の角の襖へ回り込んだ。
襖の戸車には、すでに紙片が仕掛けてある。外から押せば、障子の紙が一枚、呼吸するみたいにふるえて開く。内から引けば、戸は重く、風がない。重い戸は、追う者の背中に気配を貼り付ける。貼り付いた気配は、狙いを立てやすい。
「開かねぇぞ」
内側で荒い声が立ち、襖の下端に足先が打ちつけられる音がした。三度、四度。紙片は破れない。破れない紙ほど弱いものはない。弱いから、風が通らない。
天井裏から軋みが降りた。二階の追い廊下に上がった者が、渡り梁を伝って逃げる気配。静は縁の下の土を指先ですくい、帯の先へ薄く塗った。土は滑りを奪い、布は音を吸う。
「矢野さん」
呼ぶより先に、矢野はそこにいた。
「おう」
狭間――襖と柱の間の、手の甲ひとつ入る隙へ、矢野は槍を通す。穂先は出さない。柄尻だけを、額にコツンとあてがう。
「おい、眠いか? なら寝てろ」
軽口と同時に、男の体は鞘に戻る刃のように沈んだ。倒れる音は薄く、畳はその薄さに満足したように静止した。
縁の下では、土を這う音が庭の石へ向かっていた。静は縁板の角から腕一本分の間へ指を差し入れ、帯をそっと落とす。落とした帯が走る足首へひっかかる。布を巻くのではない、空気に巻かせる。足の運びが一瞬、言葉を忘れる。忘れた瞬間に、畳の目へ捻る。
「斬るより、畳のほうが賢い夜もあります」
独り言のように言い、足音の主を柔らかく横たえた。
渡り廊下の砂に、新しい粒が跳ねた。軽い二歩、重い一歩、間を見失った三歩――飛び石のように乱れた足取り。追われて来た者ではなく、自ら袋小路へ向かった者の歩き方。静は襖の外側から指で桟を三度、早く叩いた。トン、トン、トン。
内側の手が戸に伸び、紙片が噛んだ戸は開かない。開かない戸の前で、人は振り返る。振り返る目は、光を探す。探した光の下へ、矢野の杖が音を落とす。
「そこで終いだ」
額を小突かれた男は、眠る場所を見つけたみたいに素直に座り込んだ。
天井裏で、誰かが梁を踏み外した。小さな悲鳴。静は音の方向へ顔を向けるだけで動かない。落ちる音は、たいてい自分で収まる。収まらないときにだけ、風が手伝う。今夜は、風の出番はなかった。
制圧は十分もかからなかった。だが、祇園の迷路は制圧の瞬間から別の形を取る。逃げ道の夢は増え、追う者の足は夢を踏み抜く。水無月庵の女将が、裏座敷の真ん中で黙って座っていた。眼差しは紙より薄いが、紙よりも多くのことを書いていた。
「帳面と印形はこちらです」
女将が自ら差し出した。
静は受け取らない。
「それは官の手に」
「そちらが官なら、あたしゃ風のほうへ渡したいね」
「風は紙を持ちません」
女将は少し笑って、「じゃあ雷に」と視線を動かした。
矢野が杖を肩に乗せ、「預かるだけだ。風が通ったら返す」と答えた。
若い衆が二人、印の匂いを嗅ぎながら帳場の隅に立つ。
「兄貴、白い人の名は?」
矢野は短く鼻を鳴らした。「いねぇ」
「いないわけないでしょう」
「紙は覚えちゃいねぇよ、風の名なんざ」
若い衆は「へぇ」と言って、帳面の余白を指でなぞった。指の跡は残らない。残らない跡が、今夜は仕事の成果だった。
*
座敷迷路を抜けると、夜は川の匂いを取り戻した。行灯の数は減り、遠くの三味線は拍だけが残っている。静は庭の影に薄く会釈して、そのまま消えた。女将は小さく目礼を返し、何も追わなかった。追わない者ほど、よく見ている。
封鎖の最終点検に回った矢野は、裏口の梯子段を降りながら石突で二、三度と地を叩いた。砂の粒の跳ね方が変わる。人が通れば粒は笑う。笑わない粒は、夜の機嫌が悪い証拠だ。
「静、こっち」
呼べば、呼ぶ前から静はそこにいた。
「はい」
「裏蔵の鍵、外から開けた痕があるな」
静は指先で鍵座を撫でた。「油。寺町で売る軽い油です。鍵穴に残る匂いが薄い」
「中身は?」
「今は空でしょう。運ぶ前に僕らが来た」
「運ぶ道を塞いだわけだ」
「はい。灯の高さで」
矢野は口の端を上げ、「お前の理屈は、灯より長く持つ」と笑った。
*
作戦の仕上げは凡俗だ。紙をまとめ、印形を布で包み、署名を残す。帳場で筆を走らせた矢野は、いつものように自分の名だけを書いた。風雷小隊――矢野蓮。
年長組が鼻を鳴らす。「連名は」
矢野は肩をすくめた。「空白のままで」
「掟の範囲だがな」
隊長が背後で言い、「功は譲る者に集まる」と付け加える。
静はそのまま引き下がり、廊下の暗がりに溶けた。紙の上に名がないことは、彼にとって不利益ではなかった。名は速度を鈍らせる。鈍れば、間に合わない。間に合わなければ、風である理由が消える。
だが、その夜の祇園には、もうひとつ別の風が潜んでいた。
座敷迷路の外側――町医者の診療所に近い路地で、灯がひとつ、意図せず低くなっていた。静が仕掛けなかった高さ。矢野も触れていない角度。誰かが、同じ理屈を知っている。
「静」
屯所へ戻る途中、矢野が立ち止まり、低く呼ぶ。
「はい」
「灯を動かしたのは俺たちだけじゃねぇ」
静は目を細めた。「風が二つ」
「いや、風の真似だ。……狐か?」
静は短く首を振る。「狐はここでは善い名です。真似は別のもの」
「何者だ」
「紙の匂いがした」
矢野は舌打ちし、「掟の匂いか」と呟いた。
*
その深夜、祇園の端、路地と路地の交差するあいだに、ひとつの影が立った。衣の裾は濡れておらず、歩いたはずなのに足袋には土が浮かない。灯の高さを測るように指をかざし、行灯をひとつ、ひょいと上げては戻した。
「風は二度、同じ形では吹かない」
小さく、誰にともなく言う。
その声が、静には聞こえた。聞こえる距離にいながら、見えない位置。見えない位置は、祇園に幾らでもある。
「あなたは誰です」
静の問いかけに、影は答えない。
「名を置いていくので」
静が続けると、影は短く笑い、踵を返した。笑いの質だけが残った。紙の笑いだ。墨の乾きに似た音。
「追うか」
矢野が槍の重さを確かめる。
「追いません。今夜は座敷だけを終わらせます」
「珍しいな」
「追えば、狐のほうを驚かせます」
「狐じゃねぇって言ったのはお前だ」
「名は、時々、借りたほうが便利です」
矢野は唇を噛みながら笑い、「その理屈、やっぱり灯より長く持つ」と同じ台詞をもう一度使った。
*
封鎖から明け方までの間、祇園は息を潜めた。水無月庵の座敷は片付けが早く、押収されたはずの帳面の「別の写し」が、どこかの天袋へまた戻っていく気配がある。こういう町では、毎夜が初夜で、毎朝が再演だ。
静は裏口の梯子段に腰を下ろし、帯の内側から取り出した帳面の一枚を月に透かした。紙の繊維がところどころ太く、書き手の癖が浮かぶ。
――木曜の末時、青、東。
昨夜の静かな会話が紙の中で繰り返されている。青の布、東の蔵、油屋の裏。書いたのは商人ではない。医者でもない。番頭の手だ。番頭は灯を動かす権限を持たない。では、誰が灯を動かしたのか。
袖に隠した紅の小房が風でかすかに鳴った。
「矢野さん」
「ん」
「灯を動かせるのは、町の掟を扱える者です」
「町年寄か、検非違使か、あるいは……」
「あるいは、僕ら」
矢野は肩を竦め、「冗談きついぜ」と言い、すぐ顔を戻す。「……いや、冗談じゃねぇか」
「無明の別組が動いていた気配があります」
「紙の笑い、な」
「はい」
「同じ隊で迷路をやると、足跡が増える。足跡は増えすぎると風で消えねぇ」
「だから、今夜はここまで」
「上等だ」
*
夜明け前、川の匂いに生暖かさが混じり始める時間。無明隊の若い衆が、押収品の包みを肩に担いで屯所の門をくぐった。
「兄貴、三つ目の桐箱から、古い寺の印が出ました」
「寺だぁ?」
「本尊の修繕と称して寄進を集め、裏で金を回してたようです」
矢野は眉をひとつ動かし、静の横顔を見た。
「祇園は、灯だけじゃなく、祈りも扱う」
静は頷く。
「祈りの時刻は紙で決まります。紙は、火で早くなる」
昨夜、町医者が言い放った言葉の影が、ここで形になった。
「紙の火を、消すか」
「吹きます。今はまだ燃やしません」
「火消しだな、お前は」
「風です」
矢野は振り向きざまに笑い、「区別がつかねぇ」と肩をすくめた。
*
作戦が終われば、祇園はまた祇園の顔に戻る。女将は笑い、客は笑い、笑いの裏の帳面だけが重くなる。水無月庵の勝手口で、昨夜の芸妓見習いが立っていた。
「狐さま」
静は足を止めた。
「違います」
「うん。違うけどね、ありがとう」
「何に対しても、どういたしまして」
「座敷、迷路みたいだった。灯の道が曲がって、どこも出口みたいで、どこも入口みたいで」
「出口と入口は、たいてい同じ場所にあります」
少女は目を丸くした。「難しいこと言う」
「風は、出ると入るを同じにします」
少女は首を傾げたまま笑い、「また来てね」と言って駆け戻った。静はその背中の速さを見て、祇園の夜がまだ救えると感じた。
「静」
矢野の声が、路地の向こうから降ってくる。
「はい」
「昨夜の狐――紙の笑い。あれが座敷迷路の外側で灯を動かしたとしたら、次は内側だ」
「迷路の“中心”」
「水無月庵じゃ足りねぇ。祇園の骨に近い場所」
静は目を細くし、石畳の乾き方をもう一度確かめた。
「花街で骨に近いのは、遊芸の座元か、神社か、両替の屋台骨」
「全部かもしれねぇ」
「風は、順に吹きます」
「雷は間を飛ぶ」
「よろしくお願いします」
「言われなくても鳴るよ」
*
夜が明けきらないうちに、隊内の集会が短く開かれた。報告は矢野の筆で数行。押収帳面の件、印形の件、蔵の火気の息止め、青布と火蓋の所在。
年長組の一人が口を開いた。「祇園の封鎖は今夜で一旦終いだ。紙は上へ回す。……白いの、何かあるか」
廊下の陰にいた静が一歩出た。「座敷は終わりました。迷路はまだ続いています」
「具体的には」
「灯の高さを誰かが知っています。風の形を真似る者がいます」
年長組は鼻を鳴らし、「真似なら上等じゃねぇか。こっちのほうが本家だ」と笑った。
静は首を横に振る。「真似は、時々、本家より速いです」
隊長がそこで口を挟んだ。「掟は掟だ。真似でも本家でも、紙の上では同じだ」
「紙は、風でめくれます」
「……めくれた先に何がある」
「空白です」
隊長はしばし静を見つめ、「空白は怖い」と低く言った。
「はい。だから速く動きます」
「速さは罪にもなる」
「遅さは、死になります」
短いやり取りが、集会の空気を冷やし、しかし動かした。隊長は「よし」と一言で切り上げた。命令は速やかに、報告は短く。功は譲れ。掟は、夜の深さよりも冷たい。
*
夜が来るまでの間、静は一人で祇園の骨を歩いた。昼の花街は夜よりも無防備だ。座敷の窓が開き、女たちの笑いに稽古の拍子木が混ざる。行灯は消え、灯の高さは陽の角度に従っている。
「灯のない迷路」
独り言のように漏らし、静は縁の下へしゃがんだ。昨夜帯で捻り落とした足跡が、砂の端にうっすら残っている。音は消えても、足は残る。残った足の距離で、昨夜の怖さの深さが分かる。
「矢野さんは、今夜、どこで鳴らしますか」
問いは風に投げ、答えは雷に預ける。静は白装束の袖をまくり、濡れた裾を陽に当てた。白は、乾くのが早い。乾くのが早いものは、夜に向く。
そのとき、路地の向こうから紙の匂いがした。墨ではない、澱粉の糊の匂い。鼻先に触れて、すぐに消える。
「狐さま?」
昨日の見習いの声がどこかで跳ねた。
静は振り返らなかった。振り返ると、迷路がこちらに顔を向ける。向けられた顔は、たいてい笑っていない。
「今夜、もう一度、風を通します」
少女の返事はなく、代わりに拍子木が二度、三度と遠くで鳴った。夜の前口上だ。
*
夕刻、雲は薄く、月は低い。祇園の灯はまた数を増した。水無月庵の屋根の棟飾りが濡れ、行灯の油が新しくなって匂いを濃くした。
「座敷迷路、二夜目」
矢野が歯切れよく言う。
「今夜は、向こうから“風の真似”が来る。真似の道に俺たちが先に立つ」
「はい」
静は帯を結び直した。急ぐ時ほど、結びなおす。靴の緒ではなく、呼吸を。
作戦は同じで、細部が違う。今夜は行灯を昨日と逆の高さに置き、渡り廊下の砂の粒を昨日より軽くした。粒が軽ければ、足音はもう少し遠くまで跳ねる。跳ねる音は、追う距離を短くする。襖の紙片は昨日より薄く、噛み方は浅くした。開きそうで開かない。開かないと見せかけて、開きかける。焦りに最も効く角度。
逃げる者は昨夜より少なかった。座敷は噂を覚える。噂を覚えた座敷は、灯の高さだけで心を決める。
静は縁の下の闇に手を差し入れ、土の温度を測った。昨夜より冷たい。冷たい土は、声をよく吸う。
「斬るなよ」
矢野がいつもの調子で言う。
「斬りません。畳が賢いので」
「おう」
袋小路に流れ込んだ足音の数が四で止まり、天井裏の気配がひとつだけ逆方向へ走った。真似の風が来た。来たなら、吹き返す。静は縁板の軋みをひとつ鳴らし、桟を指で三度、早めに叩いた。袋小路の内で誰かが短く息を呑み、次の瞬間、矢野の杖が狭間を塞いだ。
「寝るぞ」
額を小突かれた男が黙って落ちる。落ちる音は昨日よりも軽かった。軽い音は、恐れが少ない証拠だ。恐れが少なければ、夜は短い。
「ひとり、外」
静が呟く。
「おう。狐か?」
「紙の匂い」
「またか」
静は庭石の陰から身体を抜き、梯子段の影へ滑った。影は深いが、底がある。底のある影は、足を置ける。
梯子段の踊り場で、影が振り返った。昨夜と同じ、濡れていない裾。
「風は二度、同じ形では吹かないと言いました」
静の声に、影は笑い、頷いた。
「だから、私は二度、同じ高さに灯を置かない」
女だった。声の芯が硬い。
「あなたは誰です」
「誰でもない。名を置いてきた」
「風ですか」
「紙です」
女はそう言い、梯子段を降り、闇に紛れた。紙は夜に弱い。だが、夜の骨を知る紙は、夜の骨を動かせる。
「静」
矢野が横に来た。
「紙だ」
「ええ」
「紙に風を教えたのは誰だ」
「僕たちかもしれません」
「皮肉だな」
「紙は、めくられるうちが花です」
矢野は笑い、「じゃあ、めくる手を速くしよう」と言って槍袋を締め直した。
*
制圧は二夜で終わった。帳面は押さえ、印形は封じ、火蓋は眠らせた。だが迷路は残る。祇園は、迷路が名であり、道が生業だ。
女将は静に一度だけ深く礼をした。「灯は消さないで」
静は少しだけ目を伏せ、「間に合います」と答えた。約束ではない。祈りでもない。仕事の言葉だった。
矢野はその横で、「狐の借名は返しとけよ」と笑い、静は「返したつもりです」と返した。
「つもり、ね」
「風は、借りたまま吹くことがあります」
「ややこしいな」
「はい。だから、雷が必要です」
「いつでも鳴る」
短い言葉が座敷の柱に当たり、ゆっくり返ってきた。祇園の木は、言葉をよく覚える。
*
明け方、河原のほうで鳥が鳴き始めた。静は白装束の裾を払って立ち上がり、矢野は草鞋の結び目を二度直した。急ぐ時ほど、結びなおす。
「静」
「はい」
「今夜の“座敷迷路”、面白かったか」
静は少しだけ考え、「はい。風に、無駄がありませんでした」と言った。
「上等」
矢野は口笛をひとつ鳴らし、空を見上げた。
「なぁ、いつかさ――“いなかった”って言われても、俺は言ってやるよ。静って奴が、確かにいた、って」
静は目だけで笑った。
「証は、風に任せるのが一番です」
「紙にも書く」
「紙は、風でめくれます」
「めくれても、次の行に同じことを書き足す」
「それは、矢野さんの仕事です」
雷が、遠くで遅れて鳴った。祇園の夜影は、風と雷を知ったまま、次の夜の形へと静かに組み替わっていく。名は残らず、跡だけが残る。跡は石畳に浅く、紙の端に薄く、そして人の呼吸に深く――残った。
無明隊は「水無月庵」を中心に、周囲の茶屋十数軒を同時封鎖する段取りを取った。掟に従い、命令は速やかに、報告は短く。だが、短い言葉だけでは迷路はほどけない。屯所の一角に広げられた卓上の白紙へ、静は墨の代わりに指先で線を描いた。水滴をちょんと置き、滑らせる。紙の上に現れたのは通りの骨格、座敷の連結、そして風の通り道だった。
「行灯の置き方、廊下の幅、畳の目の向き。逃げる者は必ず光へ向かいます」
静の声は低く、よく通った。
「僕たちは光を偽り、影を本当の道にします」
隊士たちの目が図に集まる。静は簡潔に三つの策を示した。
第一――要所の行灯は高さを変える。低い灯と高い灯を交互に配し、遠近の錯覚で道の奥行きを狂わせる。
第二――渡り廊下に米粒より細く砂を撒く。走る足音が粒に刻む痕で人数と歩幅を読む。音を目で見えるようにする。
第三――開き襖の戸車に紙片を噛ませ、「風のない戸」を作る。外側からは静かに開くが、内からは重く、開かない。袋小路を、袋小路のふりをせずに袋小路にする。
矢野は腕を組み、図の端から端まで目だけで撫でて、「要は“こっちが空いてるように見せて、じつは袋小路”って小細工だな」と笑った。
「よし、雷で蓋をする。逃げ口があるうちは鳴らさねぇ。塞がったら一撃で眠らす。……静、合図はいつも通りでいいな」
静は頷いた。「板戸を三度。最後は早めに」
隊長は短くうなずき、紙を折った。「功は譲れ。だが、命まで譲るな」
「はい」
声は重ならず、しかしひとつにまとまった。
*
夜が深まるほど、祇園の灯は低くなる。低くなった灯は影を長くし、長くなった影は路地を延ばす。水無月庵の表はすました顔で客を送り、裏では番頭が足袋のまま板場を滑って往来した。座敷の奥では、昨日見た商人と町医者が肩を寄せ、帳面に新たな小計を加えている。青の染め布は火皿の向こうで黒ずみ、数珠つなぎの包み札は長机の天板の節に沿って並んだ。
封鎖は音を立てない。要所の行灯がひとつ、ふたつ、三つ――いつもより低く吊られ、あるいは柱の高い位置へ移される。陰の角度が変わると、人は変わった角度のほうへ歩く。路地裏の渡り廊下に、静は砂を薄く流した。米粒より細い砂は、足音の形だけ残し、音は風に渡す。
合図の板戸が一度、二度。
静は庭先の灯籠の石に手を置き、縁の下を覗く。柱の間に空気が残っている。残った空気は、次の呼吸のための溜めだ。ここで息を殺せば、次に息が大きくなる。大きな息は、走る者の口から漏れる。漏れた息の高さで、気配の数が分かる。
「今、何人」
背後の影に訊ねる声。矢野だった。
「六。うち二、天井へ」
「天井ね。畳より天井が好きな鼠ってのは、だいたい足が遅い」
「はい。遅いほうから眠ります」
逃げる足が光に吸われ、渡り廊下へ雪崩れ込む。砂が微細に跳ね、音が粒立つ。一人、二人、半歩空いて三人目。廊下の角で息が一度だけ詰まる。一番軽い歩幅は女か子どもか、と静は目を細め、次の角の襖へ回り込んだ。
襖の戸車には、すでに紙片が仕掛けてある。外から押せば、障子の紙が一枚、呼吸するみたいにふるえて開く。内から引けば、戸は重く、風がない。重い戸は、追う者の背中に気配を貼り付ける。貼り付いた気配は、狙いを立てやすい。
「開かねぇぞ」
内側で荒い声が立ち、襖の下端に足先が打ちつけられる音がした。三度、四度。紙片は破れない。破れない紙ほど弱いものはない。弱いから、風が通らない。
天井裏から軋みが降りた。二階の追い廊下に上がった者が、渡り梁を伝って逃げる気配。静は縁の下の土を指先ですくい、帯の先へ薄く塗った。土は滑りを奪い、布は音を吸う。
「矢野さん」
呼ぶより先に、矢野はそこにいた。
「おう」
狭間――襖と柱の間の、手の甲ひとつ入る隙へ、矢野は槍を通す。穂先は出さない。柄尻だけを、額にコツンとあてがう。
「おい、眠いか? なら寝てろ」
軽口と同時に、男の体は鞘に戻る刃のように沈んだ。倒れる音は薄く、畳はその薄さに満足したように静止した。
縁の下では、土を這う音が庭の石へ向かっていた。静は縁板の角から腕一本分の間へ指を差し入れ、帯をそっと落とす。落とした帯が走る足首へひっかかる。布を巻くのではない、空気に巻かせる。足の運びが一瞬、言葉を忘れる。忘れた瞬間に、畳の目へ捻る。
「斬るより、畳のほうが賢い夜もあります」
独り言のように言い、足音の主を柔らかく横たえた。
渡り廊下の砂に、新しい粒が跳ねた。軽い二歩、重い一歩、間を見失った三歩――飛び石のように乱れた足取り。追われて来た者ではなく、自ら袋小路へ向かった者の歩き方。静は襖の外側から指で桟を三度、早く叩いた。トン、トン、トン。
内側の手が戸に伸び、紙片が噛んだ戸は開かない。開かない戸の前で、人は振り返る。振り返る目は、光を探す。探した光の下へ、矢野の杖が音を落とす。
「そこで終いだ」
額を小突かれた男は、眠る場所を見つけたみたいに素直に座り込んだ。
天井裏で、誰かが梁を踏み外した。小さな悲鳴。静は音の方向へ顔を向けるだけで動かない。落ちる音は、たいてい自分で収まる。収まらないときにだけ、風が手伝う。今夜は、風の出番はなかった。
制圧は十分もかからなかった。だが、祇園の迷路は制圧の瞬間から別の形を取る。逃げ道の夢は増え、追う者の足は夢を踏み抜く。水無月庵の女将が、裏座敷の真ん中で黙って座っていた。眼差しは紙より薄いが、紙よりも多くのことを書いていた。
「帳面と印形はこちらです」
女将が自ら差し出した。
静は受け取らない。
「それは官の手に」
「そちらが官なら、あたしゃ風のほうへ渡したいね」
「風は紙を持ちません」
女将は少し笑って、「じゃあ雷に」と視線を動かした。
矢野が杖を肩に乗せ、「預かるだけだ。風が通ったら返す」と答えた。
若い衆が二人、印の匂いを嗅ぎながら帳場の隅に立つ。
「兄貴、白い人の名は?」
矢野は短く鼻を鳴らした。「いねぇ」
「いないわけないでしょう」
「紙は覚えちゃいねぇよ、風の名なんざ」
若い衆は「へぇ」と言って、帳面の余白を指でなぞった。指の跡は残らない。残らない跡が、今夜は仕事の成果だった。
*
座敷迷路を抜けると、夜は川の匂いを取り戻した。行灯の数は減り、遠くの三味線は拍だけが残っている。静は庭の影に薄く会釈して、そのまま消えた。女将は小さく目礼を返し、何も追わなかった。追わない者ほど、よく見ている。
封鎖の最終点検に回った矢野は、裏口の梯子段を降りながら石突で二、三度と地を叩いた。砂の粒の跳ね方が変わる。人が通れば粒は笑う。笑わない粒は、夜の機嫌が悪い証拠だ。
「静、こっち」
呼べば、呼ぶ前から静はそこにいた。
「はい」
「裏蔵の鍵、外から開けた痕があるな」
静は指先で鍵座を撫でた。「油。寺町で売る軽い油です。鍵穴に残る匂いが薄い」
「中身は?」
「今は空でしょう。運ぶ前に僕らが来た」
「運ぶ道を塞いだわけだ」
「はい。灯の高さで」
矢野は口の端を上げ、「お前の理屈は、灯より長く持つ」と笑った。
*
作戦の仕上げは凡俗だ。紙をまとめ、印形を布で包み、署名を残す。帳場で筆を走らせた矢野は、いつものように自分の名だけを書いた。風雷小隊――矢野蓮。
年長組が鼻を鳴らす。「連名は」
矢野は肩をすくめた。「空白のままで」
「掟の範囲だがな」
隊長が背後で言い、「功は譲る者に集まる」と付け加える。
静はそのまま引き下がり、廊下の暗がりに溶けた。紙の上に名がないことは、彼にとって不利益ではなかった。名は速度を鈍らせる。鈍れば、間に合わない。間に合わなければ、風である理由が消える。
だが、その夜の祇園には、もうひとつ別の風が潜んでいた。
座敷迷路の外側――町医者の診療所に近い路地で、灯がひとつ、意図せず低くなっていた。静が仕掛けなかった高さ。矢野も触れていない角度。誰かが、同じ理屈を知っている。
「静」
屯所へ戻る途中、矢野が立ち止まり、低く呼ぶ。
「はい」
「灯を動かしたのは俺たちだけじゃねぇ」
静は目を細めた。「風が二つ」
「いや、風の真似だ。……狐か?」
静は短く首を振る。「狐はここでは善い名です。真似は別のもの」
「何者だ」
「紙の匂いがした」
矢野は舌打ちし、「掟の匂いか」と呟いた。
*
その深夜、祇園の端、路地と路地の交差するあいだに、ひとつの影が立った。衣の裾は濡れておらず、歩いたはずなのに足袋には土が浮かない。灯の高さを測るように指をかざし、行灯をひとつ、ひょいと上げては戻した。
「風は二度、同じ形では吹かない」
小さく、誰にともなく言う。
その声が、静には聞こえた。聞こえる距離にいながら、見えない位置。見えない位置は、祇園に幾らでもある。
「あなたは誰です」
静の問いかけに、影は答えない。
「名を置いていくので」
静が続けると、影は短く笑い、踵を返した。笑いの質だけが残った。紙の笑いだ。墨の乾きに似た音。
「追うか」
矢野が槍の重さを確かめる。
「追いません。今夜は座敷だけを終わらせます」
「珍しいな」
「追えば、狐のほうを驚かせます」
「狐じゃねぇって言ったのはお前だ」
「名は、時々、借りたほうが便利です」
矢野は唇を噛みながら笑い、「その理屈、やっぱり灯より長く持つ」と同じ台詞をもう一度使った。
*
封鎖から明け方までの間、祇園は息を潜めた。水無月庵の座敷は片付けが早く、押収されたはずの帳面の「別の写し」が、どこかの天袋へまた戻っていく気配がある。こういう町では、毎夜が初夜で、毎朝が再演だ。
静は裏口の梯子段に腰を下ろし、帯の内側から取り出した帳面の一枚を月に透かした。紙の繊維がところどころ太く、書き手の癖が浮かぶ。
――木曜の末時、青、東。
昨夜の静かな会話が紙の中で繰り返されている。青の布、東の蔵、油屋の裏。書いたのは商人ではない。医者でもない。番頭の手だ。番頭は灯を動かす権限を持たない。では、誰が灯を動かしたのか。
袖に隠した紅の小房が風でかすかに鳴った。
「矢野さん」
「ん」
「灯を動かせるのは、町の掟を扱える者です」
「町年寄か、検非違使か、あるいは……」
「あるいは、僕ら」
矢野は肩を竦め、「冗談きついぜ」と言い、すぐ顔を戻す。「……いや、冗談じゃねぇか」
「無明の別組が動いていた気配があります」
「紙の笑い、な」
「はい」
「同じ隊で迷路をやると、足跡が増える。足跡は増えすぎると風で消えねぇ」
「だから、今夜はここまで」
「上等だ」
*
夜明け前、川の匂いに生暖かさが混じり始める時間。無明隊の若い衆が、押収品の包みを肩に担いで屯所の門をくぐった。
「兄貴、三つ目の桐箱から、古い寺の印が出ました」
「寺だぁ?」
「本尊の修繕と称して寄進を集め、裏で金を回してたようです」
矢野は眉をひとつ動かし、静の横顔を見た。
「祇園は、灯だけじゃなく、祈りも扱う」
静は頷く。
「祈りの時刻は紙で決まります。紙は、火で早くなる」
昨夜、町医者が言い放った言葉の影が、ここで形になった。
「紙の火を、消すか」
「吹きます。今はまだ燃やしません」
「火消しだな、お前は」
「風です」
矢野は振り向きざまに笑い、「区別がつかねぇ」と肩をすくめた。
*
作戦が終われば、祇園はまた祇園の顔に戻る。女将は笑い、客は笑い、笑いの裏の帳面だけが重くなる。水無月庵の勝手口で、昨夜の芸妓見習いが立っていた。
「狐さま」
静は足を止めた。
「違います」
「うん。違うけどね、ありがとう」
「何に対しても、どういたしまして」
「座敷、迷路みたいだった。灯の道が曲がって、どこも出口みたいで、どこも入口みたいで」
「出口と入口は、たいてい同じ場所にあります」
少女は目を丸くした。「難しいこと言う」
「風は、出ると入るを同じにします」
少女は首を傾げたまま笑い、「また来てね」と言って駆け戻った。静はその背中の速さを見て、祇園の夜がまだ救えると感じた。
「静」
矢野の声が、路地の向こうから降ってくる。
「はい」
「昨夜の狐――紙の笑い。あれが座敷迷路の外側で灯を動かしたとしたら、次は内側だ」
「迷路の“中心”」
「水無月庵じゃ足りねぇ。祇園の骨に近い場所」
静は目を細くし、石畳の乾き方をもう一度確かめた。
「花街で骨に近いのは、遊芸の座元か、神社か、両替の屋台骨」
「全部かもしれねぇ」
「風は、順に吹きます」
「雷は間を飛ぶ」
「よろしくお願いします」
「言われなくても鳴るよ」
*
夜が明けきらないうちに、隊内の集会が短く開かれた。報告は矢野の筆で数行。押収帳面の件、印形の件、蔵の火気の息止め、青布と火蓋の所在。
年長組の一人が口を開いた。「祇園の封鎖は今夜で一旦終いだ。紙は上へ回す。……白いの、何かあるか」
廊下の陰にいた静が一歩出た。「座敷は終わりました。迷路はまだ続いています」
「具体的には」
「灯の高さを誰かが知っています。風の形を真似る者がいます」
年長組は鼻を鳴らし、「真似なら上等じゃねぇか。こっちのほうが本家だ」と笑った。
静は首を横に振る。「真似は、時々、本家より速いです」
隊長がそこで口を挟んだ。「掟は掟だ。真似でも本家でも、紙の上では同じだ」
「紙は、風でめくれます」
「……めくれた先に何がある」
「空白です」
隊長はしばし静を見つめ、「空白は怖い」と低く言った。
「はい。だから速く動きます」
「速さは罪にもなる」
「遅さは、死になります」
短いやり取りが、集会の空気を冷やし、しかし動かした。隊長は「よし」と一言で切り上げた。命令は速やかに、報告は短く。功は譲れ。掟は、夜の深さよりも冷たい。
*
夜が来るまでの間、静は一人で祇園の骨を歩いた。昼の花街は夜よりも無防備だ。座敷の窓が開き、女たちの笑いに稽古の拍子木が混ざる。行灯は消え、灯の高さは陽の角度に従っている。
「灯のない迷路」
独り言のように漏らし、静は縁の下へしゃがんだ。昨夜帯で捻り落とした足跡が、砂の端にうっすら残っている。音は消えても、足は残る。残った足の距離で、昨夜の怖さの深さが分かる。
「矢野さんは、今夜、どこで鳴らしますか」
問いは風に投げ、答えは雷に預ける。静は白装束の袖をまくり、濡れた裾を陽に当てた。白は、乾くのが早い。乾くのが早いものは、夜に向く。
そのとき、路地の向こうから紙の匂いがした。墨ではない、澱粉の糊の匂い。鼻先に触れて、すぐに消える。
「狐さま?」
昨日の見習いの声がどこかで跳ねた。
静は振り返らなかった。振り返ると、迷路がこちらに顔を向ける。向けられた顔は、たいてい笑っていない。
「今夜、もう一度、風を通します」
少女の返事はなく、代わりに拍子木が二度、三度と遠くで鳴った。夜の前口上だ。
*
夕刻、雲は薄く、月は低い。祇園の灯はまた数を増した。水無月庵の屋根の棟飾りが濡れ、行灯の油が新しくなって匂いを濃くした。
「座敷迷路、二夜目」
矢野が歯切れよく言う。
「今夜は、向こうから“風の真似”が来る。真似の道に俺たちが先に立つ」
「はい」
静は帯を結び直した。急ぐ時ほど、結びなおす。靴の緒ではなく、呼吸を。
作戦は同じで、細部が違う。今夜は行灯を昨日と逆の高さに置き、渡り廊下の砂の粒を昨日より軽くした。粒が軽ければ、足音はもう少し遠くまで跳ねる。跳ねる音は、追う距離を短くする。襖の紙片は昨日より薄く、噛み方は浅くした。開きそうで開かない。開かないと見せかけて、開きかける。焦りに最も効く角度。
逃げる者は昨夜より少なかった。座敷は噂を覚える。噂を覚えた座敷は、灯の高さだけで心を決める。
静は縁の下の闇に手を差し入れ、土の温度を測った。昨夜より冷たい。冷たい土は、声をよく吸う。
「斬るなよ」
矢野がいつもの調子で言う。
「斬りません。畳が賢いので」
「おう」
袋小路に流れ込んだ足音の数が四で止まり、天井裏の気配がひとつだけ逆方向へ走った。真似の風が来た。来たなら、吹き返す。静は縁板の軋みをひとつ鳴らし、桟を指で三度、早めに叩いた。袋小路の内で誰かが短く息を呑み、次の瞬間、矢野の杖が狭間を塞いだ。
「寝るぞ」
額を小突かれた男が黙って落ちる。落ちる音は昨日よりも軽かった。軽い音は、恐れが少ない証拠だ。恐れが少なければ、夜は短い。
「ひとり、外」
静が呟く。
「おう。狐か?」
「紙の匂い」
「またか」
静は庭石の陰から身体を抜き、梯子段の影へ滑った。影は深いが、底がある。底のある影は、足を置ける。
梯子段の踊り場で、影が振り返った。昨夜と同じ、濡れていない裾。
「風は二度、同じ形では吹かないと言いました」
静の声に、影は笑い、頷いた。
「だから、私は二度、同じ高さに灯を置かない」
女だった。声の芯が硬い。
「あなたは誰です」
「誰でもない。名を置いてきた」
「風ですか」
「紙です」
女はそう言い、梯子段を降り、闇に紛れた。紙は夜に弱い。だが、夜の骨を知る紙は、夜の骨を動かせる。
「静」
矢野が横に来た。
「紙だ」
「ええ」
「紙に風を教えたのは誰だ」
「僕たちかもしれません」
「皮肉だな」
「紙は、めくられるうちが花です」
矢野は笑い、「じゃあ、めくる手を速くしよう」と言って槍袋を締め直した。
*
制圧は二夜で終わった。帳面は押さえ、印形は封じ、火蓋は眠らせた。だが迷路は残る。祇園は、迷路が名であり、道が生業だ。
女将は静に一度だけ深く礼をした。「灯は消さないで」
静は少しだけ目を伏せ、「間に合います」と答えた。約束ではない。祈りでもない。仕事の言葉だった。
矢野はその横で、「狐の借名は返しとけよ」と笑い、静は「返したつもりです」と返した。
「つもり、ね」
「風は、借りたまま吹くことがあります」
「ややこしいな」
「はい。だから、雷が必要です」
「いつでも鳴る」
短い言葉が座敷の柱に当たり、ゆっくり返ってきた。祇園の木は、言葉をよく覚える。
*
明け方、河原のほうで鳥が鳴き始めた。静は白装束の裾を払って立ち上がり、矢野は草鞋の結び目を二度直した。急ぐ時ほど、結びなおす。
「静」
「はい」
「今夜の“座敷迷路”、面白かったか」
静は少しだけ考え、「はい。風に、無駄がありませんでした」と言った。
「上等」
矢野は口笛をひとつ鳴らし、空を見上げた。
「なぁ、いつかさ――“いなかった”って言われても、俺は言ってやるよ。静って奴が、確かにいた、って」
静は目だけで笑った。
「証は、風に任せるのが一番です」
「紙にも書く」
「紙は、風でめくれます」
「めくれても、次の行に同じことを書き足す」
「それは、矢野さんの仕事です」
雷が、遠くで遅れて鳴った。祇園の夜影は、風と雷を知ったまま、次の夜の形へと静かに組み替わっていく。名は残らず、跡だけが残る。跡は石畳に浅く、紙の端に薄く、そして人の呼吸に深く――残った。



