雨は、さっきまでこの町にいた。
祇園筋の石畳は、行灯の灯を鈍く返して、灯の数だけ浅い湖を敷き詰めたようだった。黒光りする石の目地に水が細く残り、座敷から漏れる三味線の音が、その小さな水面に触れては歪み、ほどけ、また結ばれる。軒先の雨樋はしずくを惜しむように十拍に一度だけ落とし、細工の施された格子戸の内側で笑いが転がる。夜の京は、笑いまで調子をそろえる。
無明隊に届いた密偵報は簡潔だった。
――祇園の茶屋「水無月庵」にて、武器・金子の動きあり。
隊長は慎重策を選び、まず潜入、と紙に一字だけ太く書き足して火を消した。表向きの密偵は二名。だが、紙に現れぬもう一つの影――先行を担うのは静だった。
白装束は夜の京で目立つはずなのに、静は目立たなかった。
提灯の陰から雨樋の影へ、庇のひさしから路地の折れ角へ。光の縁と縁を細い糸で縫い合わせるように歩を運び、輪郭を薄める。道路の石が乾きかけの場所だけを選び、濡れた光の帯は跨がずに、風に撫でさせる。目立たないというより、初めからいないかのように――白いのに、いない。どこから来て、どこへ消えるのか、風だけが知っている。
裏手の小路、灯の届かない三和土の陰で、矢野が待った。
槍は分解されて杖の中に仕込まれ、表面には掠れた漆で「福」と小さく書き付けがある。杖突きの老職人に見えるのに、握りの位置は戦いの高さだ。
「静」
呼びかけは短く、落ち葉に触れる雨粒みたいに軽い。
「手ぇ出す時は出す。合図は一撃だ」
「矢野さんの雷が落ちる前に、風向きを整えます」
静が応じると、矢野は鼻で笑い、「整えすぎんなよ」とだけ言って杖の柄をひと撫でした。
水無月庵は、祇園の中でも古い座敷のひとつだった。
格子の隙間から見える土間に、磨かれた下駄が十六足、鼻緒の色で持ち主の気配を分けている。座敷には紺と鼠の着物が二、商人風の肥えた男が帳面を広げ、向かいで町医者が脈を取るような指先で紙をめくる。医者は包帯の下へ手を入れ、青い染め布を取り出し、帳面の上に置いた。青は夜に強い。灯の下で黒く見える色は、路地の奥で光る。
静は縁側の外、廊下の下の空洞に一度だけ呼吸を落として、障子の桟に指先を置いた。桟はわずかに鳴り、音とも言えない微細な揺れが部屋の空気を撫でる。人は、声より前に空気へ目を向ける。医者の視線がほんの一拍、庭の方へ逸れた。商人の指も、帳面から離れる。
その一拍で、静は縁側を滑り、置き床の下へ手を差し入れる。
黒塗りの板の裏に桐の素地があり、釘の一本だけが新しい。指の腹で釘頭を押すと、板が軽く浮く。そこに埋められた浅い空、布を被せられた桐箱が一つ。布の覆いをめくると、両替商の印が捺された包み札が四と鉄砲の火蓋の部品が十六。金子は動脈、火蓋は呼吸。命の代わりに夜が生きている。
下足場で、足音が止まった。
「誰だ」
番頭の声は若いのに、喉が固い。
静はわざと薄く見える位置――光の境目の上に身を置き、一瞬だけ輪郭を立てる。見る者の目は、そこに吸い寄せられる。番頭が庭へ一歩踏み出した刹那、矢野の杖が戸框の木を押し外した。蝶番が悲鳴を上げ、その反動で番頭の膝が落ちる。
「悪ぃな。杖術は風に強ぇんだよ」
矢野の声は、笑っていたが軽口だけではなかった。杖の中の槍はまだ眠っている。眠っている武器は、目の前の人間を殺すことが少ない。
座敷では医者が火皿を包み、炭に油を垂らしかけていた。
静は縁側から指先だけを差し入れ、袖で煙の流れを断ち、火皿の下に自分の影を置く。煙は影を嫌う。炭を踵で踏みつぶし、酸素の通り道を潰す。火は小さく鳴って、しばらく考えてから消えた。
商人が外へ出ようとした肩に、静は軽く手を置く。「名は置いていきます。証だけ、借りていきます」
商人は振り返らず、額の汗に夜の塩を浮かべた。
撤収の合図は、板戸の軽い三打――トン、トン、トン。
裏へ回った矢野の杖先が、最後の一つを早めに打って合図を重ねる。追手が右から三、庭に二、屋根から一。音で分かる。音は風より嘘をつかない。
静は桐箱を元に戻し、帳面だけを袖へ滑り込ませると、庭石の陰に体を溶かした。追ってきた足が庭の砂利を乱し、行灯の灯が一度だけ激しく揺れる。揺れのタイミングで障子の桟にもう一度だけ触れれば、座敷の注意は庭から表へ跳ねる。跳ねた注意の上を、静は歩いた。
表の格子戸をくぐり抜けた瞬間、路地は雨の匂いを深くした。
矢野が杖の中身を一握りだけ抜き、穂の影で入口の木枠を押し戻す。戸は元の角度に戻り、夜は何事もなかった風情を取り戻した。覚えるのは「見たはずの影」だけ。名を、誰も持ち帰らない。
*
撤収の足は東の細い路地へ抜け、鴨川の湿り気が生垣の葉裏に集まっていた。静は袖に収めた帳面を、帯の内側へもう一度だけ滑らせて重みを確かめる。
「矢野さん」
「おう」
「青い布、薬の染めです。夜に見えない血の色」
「血の代わりに金が流れてるってわけか」
「はい」
矢野は鼻を鳴らし、「医者の金勘定は苦ぇ」とだけ言って、杖の口金をひと撫でした。
祇園の夜は、風の向きを隠す。
静は立ち止まり、石畳の乾き具合を指で触る。雨上がりの温度は町ごとに階があり、花街はその階段の踊り場に当たる。音は上がりも下がりもしない場所でいちばん鈍る。鈍った音の隙間に、足を置く。
「白いの、狐かい」
すれ違った芸妓が、半ば笑って、半ば怖がって、扇を頬に当てた。帯の柄に梅が落ちている。
静は会釈だけして通り過ぎる。
「狐は化かしますが、僕は化かしません」
「じゃぁなおさら怖いよ」
彼女の声が、三和土の先で軽く溶けた。
水無月庵からそう遠くない横丁の端に、拵えの良すぎる新しい暖簾が下がっているのが目についた。暖簾の布だけが雨を弾く。弾き過ぎる布は、匂いを覚えない。匂いを覚えない店は、客を覚えない。覚えない場所ほど、物がよく通る。
「矢野さん」
「あいよ」
「もう一つ、見ていきます」
「長居すんなよ。油は灯の分だけ使え」
「はい」
静は路地の角で、ひとつ余計な音を立てた。
濡れた石の上で、わざと草履の歯をずらす。音は短く、だがよく響く。店の奥から番頭の目がこちらを掠め、遠い障子の陰が一度だけ揺れた。揺れは、内にいる者の呼吸を露わにする。
扇の影が動いた。座敷の天井の梁に乗る気配。弓だ。
静は風の“薄いところ”を探る。薄い空気は矢の速さを甘くする。甘くなった速さに、袖の紅い房をわずかに鳴らせば、矢は風鈴へ寄る。
ヒュ、と短い音。矢羽が袖に触れて、行灯の柱に刺さった。柱はそのまま灯を支え続ける。灯を支え続けられる柱は、いい柱だ。
「合図」
静の声は路地に溶けるほど低い。
裏手で、杖が一度だけ地面を叩いた。トン。
板戸の鍵が内へ落ちる音がして、外からは開かなくなる。内の者は外へ逃げられない。逃げられないと、人は紙を持つ。持った紙は、風で落ちる。落ちた紙は、拾える。
*
茶屋の座敷では、商人風の男が帳面の空白を指で触り、町医者が青い布の包みを袖に戻していた。
「青は、どこへ流す」
「東の蔵。油屋の裏」
「油屋か。火を連れて歩く店は、火の匂いでごまかせる」
「ごまかす必要もない。掟は紙だ。紙は、火で早くなる」
笑いが、灯の油より薄く広がった。
その笑いの上を、障子の桟の微かな振動が走る。誰も気づかないほどの揺れ。しかし、気づかない揺れに、心は先に目を向ける。
医者が視線を庭に投げ、商人が口を閉じた。そこへ、庭の左手で猫が鳴いた。
猫の声は、静の口笛だった。
静は縁側の縁に指をかけ、置き床の裏へもう一度手を差し入れる。桐箱は先程と同じ位置、同じ冷たさで待っている。中の火蓋を二つだけ袖へ移し替え、包み札の束の一番上だけをそっと抜く。束の厚みは変わらない。厚みに嘘がないと、人は安心する。安心は、最も鈍い警戒だ。
「お前、さっきの猫をどこへやった」
商人が番頭に言い、番頭は外へ走った。
走る足音が、庭の砂利を無駄に踏む。無駄に踏む足は、無駄に疲れる。疲れは、手元を鈍らせる。鈍った手元へ、静は指先だけを触れた。
「誰だ!」
番頭が声を張る。
矢野の杖が、その声の背中を押すように戸を打った。トン。
音は良く響く。響く音は、近くにあるように錯覚させる。番頭の目が戸へ吸われる。吸われた目の上を、静が通る。
座敷の縁で、町医者が火皿へ再び手を伸ばし、油の匂いを濃くした。
「やめてください」
静の声は遮るようで、遮らないようでもあった。彼は火皿の側面に鞘の尻を一度だけ当て、炭の呼吸を止める。
「火は、夜より速いので」
「誰だ貴様」
「職掌の者です」
静はそれ以上名乗らない。名は、ここには要らない。
縁先で、青い布の角がわずかに覗いた。
静は指先でその角を押し戻し、包帯の内側に再び隠す。青が見えなければ、夜の色は混ざらない。混ざらない夜は、まっすぐだ。
まっすぐな夜なら、追いやすい。
*
鴨川沿いの柳が風を受けて、細い指先で夜をとかした。
撤収路は、来た時と同じではない。帰り道は、必ず別の風にする。
矢野が杖を肩に担ぎ直し、「さっきの青、どのくらい動く」と訊く。
「帳面に書き癖がありました。毎木曜の末時。今夜は“前倒し”」
「誰が急かした」
「内の誰か」
矢野は低く笑った。「狐が懐にいるってこったな」
静は首を横に振る。「狐は、祇園のものです。僕らは風」
「じゃあ白狐って呼ばれてるのは誰だ」
「存じません」
「お前だよ」
「……僕は化かしません」
「化かしてねぇのに消えるから、余計に狐だ」
その時、川面の向こうから、短い笛の合図が届いた。
無明の別組だ。
矢野は眉をひとつ動かし、「右の小橋」と短く言う。
静は頷き、袖の紅い房を一度だけ指で弾いた。房の音は風鈴より短い。短い音に、橋の影の誰かが反応して姿勢を変える。
「見てるな」
「見ています」
「こっちの手は?」
「空です」
「空のほうが、重く見える」
橋の袂に立つ影は、こちらの合図に応じず、ただ灯の数だけ数えるみたいに顔を右から左へ動かした。
「目が紙を探してる」
静が呟く。
「紙?」
「証拠。紙にしか信を置かない目」
「掟の目だな」
「はい。掟は紙です。紙は風でめくれます」
矢野が肩をすくめる。「めくったページの先にゃ、何が書いてあった」
静は袖の内側を押さえ、短く答えた。「空白」
「上等だ」
橋を渡り切る前に、祇園の古い家並みがひとつ息を吸ったように見えた。
静は足を緩める。「火の気」
「どこだ」
「西四筋目の突き当たり、『秋津楼』の裏蔵」
矢野は迷わず進路を変え、杖の先で地面を一度コツ、と打った。「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
静は帯をいちど結び直し、歩幅を半寸詰める。詰めた歩幅は、音を薄くする。
秋津楼の裏蔵は低く、屋根の線が川の音に飲まれている。
軒の下から煤が一筋、まだ煙になり切らない熱の気配で上がっていた。
「炭起こしか」
矢野が鼻を鳴らす。
「火蓋の試し火かもしれません」
静は扉の板の合わせ目に指先を当て、木の呼吸を探る。呼吸は速い。速い木は、火を欲しがる。
「開けるか」
「開けません。息を替えます」
静は板の合わせ目に白い紙片を一枚だけ滑り込ませる。湿り気を吸った紙は膨らみ、隙間の風の道筋を変えた。蔵の中の空気が行き場を失い、小さく旋回する。
火は酸素を欲しがっても、道がなければ眠る。
眠った火の前で、人は音を立てる。音を立てれば、次の夜に覚える。覚えれば、またくる。
今夜は眠らせる。
蔵の脇に積んだ薪の束の上に、黒い包みがひとつ紛れているのを矢野が見つけた。
「持つか」
「持ちません。開けません」
「なんでだ」
「開けると、開けた音だけが残ります」
静は包みに影をかけ、外側の糸を指でなぞった。糸は結び目で二度だけ返してある。急ぐ者の結びだ。
「誰かが、急いでいます」
「どっちへ」
「北へ。寺町通り」
矢野は杖を立て、「追うか」と言い、すぐ首を横に振った。「いや、今は証を流すだけだ」
静の目が細くなる。「流す?」
「水無月庵へ戻る噂を、一つ置いていく。噂は風が運ぶ」
静はうなずいた。「噂は、名より速い」
「そうだ」
*
屯所に帰る足は、来る時より軽かった。
帳場の灯は低く、紙の上で筆の先が乾いては濡れ、濡れては乾く。掟の三条――命令は速やかに、報告は短く、功は譲れ――が、灯の縁に貼りついている。
矢野は座につくなり、さらさらと書いた。
「潜入、帳面一。火蓋部品十六の所在確認。金子の印四。医師・商人の結託疑い濃厚。蔵の火気、息止め措置」
それだけ。
静は紙の端を押さえ、余白に、黒い点を一つだけ置いた。
「何だ」
「合図です」
「誰への」
「風への」
「……相変わらず難儀だな」
「はい」
帳場の端で年長組が声を上げた。
「白いのよ、また名を伏せるのか」
静は軽く頭を下げる。「名は、祇園に置いてきました」
「狐の名か」
「狐はこの町のものです」
年長組は笑い、「じゃあお前は何のものだ」と問うた。
「空白です」
「空白?」
「矢野さんの名の隣に置く場所」
矢野は筆を置き、「隣は空けとく」と言って、紙の右側に大きく自分の名を書いた。その左に、何も書かなかった。
それで、十分だった。
*
夜がもう一度深くなる頃、静は一人で水無月庵の裏手に戻った。
雨上がりの匂いは薄れ、代わりに灯の油が夜の皮膚を柔らかくした。裏庭の隅で、細い影がしゃがみこんでいる。
「迷子か」
静が声をかけると、影は弾くように立ち上がり、こちらを見た。芸妓見習いの少女だった。顔にまだ子どもの丸みがあり、目だけが祇園の夜の色を映している。
「狐さま?」
「違います」
「皆が言うの。白い狐が、風の縁を歩くって」
静は首を振る。「僕は、人です」
「人なら、名は?」
「ありません」
少女は少しだけ笑った。「じゃあ、灯の名前を教える。ここは水無月庵。水が無くなる月でも、灯は消えないって意味」
「いい名です」
「だから、消さないで」
静は短く息を吸い、「約束はできません」と言った。「でも、間に合います」
少女は分かったのか分からないのか、目を細め、「狐さま」ともう一度呼んだ。
「違います」
「違うけど、ありがとう」
少女は庭石の影に消えた。静はその消え方の筋の良さを見て、少しだけ安心した。
*
祇園の夜は、生き物みたいに背骨を曲げ伸ばしする。
細い路地の突き当たりで、静は一度だけ立ち止まり、空を見た。雲が薄く、月が低い。月は低いほど、音が近い。
「静」
背後から矢野の声。
「はい」
「白狐」
「違います」
「違っても、そう呼ばれる。名は他人の口で生きる」
「他人の口に預ける名は、軽いです」
「軽いものほど、遠くへ行く」
「遠くへ行った名は、帰ってこない」
「帰ってこねぇなら、俺が拾いに行く」
静は黙り、やがて短く笑った。「雷は、遠くへも鳴ります」
「当たりめぇだ」
風が、祇園の軒の間を抜けた。
笑いの残響が一瞬だけ途切れ、夜の温度が少しだけ下がる。
静は袖の内側の帳面を押さえ、足の裏で石畳の乾きをもう一度確かめた。乾いた場所は軽い。軽い場所は速い。速い場所は、間に合う。
水無月庵の裏で交わした少女との会話が、遅れて胸の奥で成形される。――消さないで。
約束はできない。けれど、間に合わせる。
それが、風の仕事だ。
夜が静まり、やがて朝の最初の音がどこかで生まれる。
白と紅は、行灯の残り火の中で、明け方の色に溶けていく。
名は残らない。
残るのは、石畳にわずかについた水の跡と、袖の紅い房が鳴らした短い音と、帳面の端に付いた指のわずかな黒――それだけだ。
だが、無明の仕事は、それで十分だ。
祇園の夜影に、風は通った。
そして、雷は遅れて鳴った。
誰もその順番を書かない。紙は、空白の隣に名を置くことを、まだ知らないから。
それでも夜は覚えている。
この花街のどこかに、白い風がいたことを。
白狐、と人が呼ぶものの正体が、ほんとうは人の呼吸であったことを。
――名は置いていく。証だけ、借りていく。
合言葉のように、静はそれを胸の奥で繰り返した。
雨の上がった祇園筋は、もう、匂いを変えていた。
祇園筋の石畳は、行灯の灯を鈍く返して、灯の数だけ浅い湖を敷き詰めたようだった。黒光りする石の目地に水が細く残り、座敷から漏れる三味線の音が、その小さな水面に触れては歪み、ほどけ、また結ばれる。軒先の雨樋はしずくを惜しむように十拍に一度だけ落とし、細工の施された格子戸の内側で笑いが転がる。夜の京は、笑いまで調子をそろえる。
無明隊に届いた密偵報は簡潔だった。
――祇園の茶屋「水無月庵」にて、武器・金子の動きあり。
隊長は慎重策を選び、まず潜入、と紙に一字だけ太く書き足して火を消した。表向きの密偵は二名。だが、紙に現れぬもう一つの影――先行を担うのは静だった。
白装束は夜の京で目立つはずなのに、静は目立たなかった。
提灯の陰から雨樋の影へ、庇のひさしから路地の折れ角へ。光の縁と縁を細い糸で縫い合わせるように歩を運び、輪郭を薄める。道路の石が乾きかけの場所だけを選び、濡れた光の帯は跨がずに、風に撫でさせる。目立たないというより、初めからいないかのように――白いのに、いない。どこから来て、どこへ消えるのか、風だけが知っている。
裏手の小路、灯の届かない三和土の陰で、矢野が待った。
槍は分解されて杖の中に仕込まれ、表面には掠れた漆で「福」と小さく書き付けがある。杖突きの老職人に見えるのに、握りの位置は戦いの高さだ。
「静」
呼びかけは短く、落ち葉に触れる雨粒みたいに軽い。
「手ぇ出す時は出す。合図は一撃だ」
「矢野さんの雷が落ちる前に、風向きを整えます」
静が応じると、矢野は鼻で笑い、「整えすぎんなよ」とだけ言って杖の柄をひと撫でした。
水無月庵は、祇園の中でも古い座敷のひとつだった。
格子の隙間から見える土間に、磨かれた下駄が十六足、鼻緒の色で持ち主の気配を分けている。座敷には紺と鼠の着物が二、商人風の肥えた男が帳面を広げ、向かいで町医者が脈を取るような指先で紙をめくる。医者は包帯の下へ手を入れ、青い染め布を取り出し、帳面の上に置いた。青は夜に強い。灯の下で黒く見える色は、路地の奥で光る。
静は縁側の外、廊下の下の空洞に一度だけ呼吸を落として、障子の桟に指先を置いた。桟はわずかに鳴り、音とも言えない微細な揺れが部屋の空気を撫でる。人は、声より前に空気へ目を向ける。医者の視線がほんの一拍、庭の方へ逸れた。商人の指も、帳面から離れる。
その一拍で、静は縁側を滑り、置き床の下へ手を差し入れる。
黒塗りの板の裏に桐の素地があり、釘の一本だけが新しい。指の腹で釘頭を押すと、板が軽く浮く。そこに埋められた浅い空、布を被せられた桐箱が一つ。布の覆いをめくると、両替商の印が捺された包み札が四と鉄砲の火蓋の部品が十六。金子は動脈、火蓋は呼吸。命の代わりに夜が生きている。
下足場で、足音が止まった。
「誰だ」
番頭の声は若いのに、喉が固い。
静はわざと薄く見える位置――光の境目の上に身を置き、一瞬だけ輪郭を立てる。見る者の目は、そこに吸い寄せられる。番頭が庭へ一歩踏み出した刹那、矢野の杖が戸框の木を押し外した。蝶番が悲鳴を上げ、その反動で番頭の膝が落ちる。
「悪ぃな。杖術は風に強ぇんだよ」
矢野の声は、笑っていたが軽口だけではなかった。杖の中の槍はまだ眠っている。眠っている武器は、目の前の人間を殺すことが少ない。
座敷では医者が火皿を包み、炭に油を垂らしかけていた。
静は縁側から指先だけを差し入れ、袖で煙の流れを断ち、火皿の下に自分の影を置く。煙は影を嫌う。炭を踵で踏みつぶし、酸素の通り道を潰す。火は小さく鳴って、しばらく考えてから消えた。
商人が外へ出ようとした肩に、静は軽く手を置く。「名は置いていきます。証だけ、借りていきます」
商人は振り返らず、額の汗に夜の塩を浮かべた。
撤収の合図は、板戸の軽い三打――トン、トン、トン。
裏へ回った矢野の杖先が、最後の一つを早めに打って合図を重ねる。追手が右から三、庭に二、屋根から一。音で分かる。音は風より嘘をつかない。
静は桐箱を元に戻し、帳面だけを袖へ滑り込ませると、庭石の陰に体を溶かした。追ってきた足が庭の砂利を乱し、行灯の灯が一度だけ激しく揺れる。揺れのタイミングで障子の桟にもう一度だけ触れれば、座敷の注意は庭から表へ跳ねる。跳ねた注意の上を、静は歩いた。
表の格子戸をくぐり抜けた瞬間、路地は雨の匂いを深くした。
矢野が杖の中身を一握りだけ抜き、穂の影で入口の木枠を押し戻す。戸は元の角度に戻り、夜は何事もなかった風情を取り戻した。覚えるのは「見たはずの影」だけ。名を、誰も持ち帰らない。
*
撤収の足は東の細い路地へ抜け、鴨川の湿り気が生垣の葉裏に集まっていた。静は袖に収めた帳面を、帯の内側へもう一度だけ滑らせて重みを確かめる。
「矢野さん」
「おう」
「青い布、薬の染めです。夜に見えない血の色」
「血の代わりに金が流れてるってわけか」
「はい」
矢野は鼻を鳴らし、「医者の金勘定は苦ぇ」とだけ言って、杖の口金をひと撫でした。
祇園の夜は、風の向きを隠す。
静は立ち止まり、石畳の乾き具合を指で触る。雨上がりの温度は町ごとに階があり、花街はその階段の踊り場に当たる。音は上がりも下がりもしない場所でいちばん鈍る。鈍った音の隙間に、足を置く。
「白いの、狐かい」
すれ違った芸妓が、半ば笑って、半ば怖がって、扇を頬に当てた。帯の柄に梅が落ちている。
静は会釈だけして通り過ぎる。
「狐は化かしますが、僕は化かしません」
「じゃぁなおさら怖いよ」
彼女の声が、三和土の先で軽く溶けた。
水無月庵からそう遠くない横丁の端に、拵えの良すぎる新しい暖簾が下がっているのが目についた。暖簾の布だけが雨を弾く。弾き過ぎる布は、匂いを覚えない。匂いを覚えない店は、客を覚えない。覚えない場所ほど、物がよく通る。
「矢野さん」
「あいよ」
「もう一つ、見ていきます」
「長居すんなよ。油は灯の分だけ使え」
「はい」
静は路地の角で、ひとつ余計な音を立てた。
濡れた石の上で、わざと草履の歯をずらす。音は短く、だがよく響く。店の奥から番頭の目がこちらを掠め、遠い障子の陰が一度だけ揺れた。揺れは、内にいる者の呼吸を露わにする。
扇の影が動いた。座敷の天井の梁に乗る気配。弓だ。
静は風の“薄いところ”を探る。薄い空気は矢の速さを甘くする。甘くなった速さに、袖の紅い房をわずかに鳴らせば、矢は風鈴へ寄る。
ヒュ、と短い音。矢羽が袖に触れて、行灯の柱に刺さった。柱はそのまま灯を支え続ける。灯を支え続けられる柱は、いい柱だ。
「合図」
静の声は路地に溶けるほど低い。
裏手で、杖が一度だけ地面を叩いた。トン。
板戸の鍵が内へ落ちる音がして、外からは開かなくなる。内の者は外へ逃げられない。逃げられないと、人は紙を持つ。持った紙は、風で落ちる。落ちた紙は、拾える。
*
茶屋の座敷では、商人風の男が帳面の空白を指で触り、町医者が青い布の包みを袖に戻していた。
「青は、どこへ流す」
「東の蔵。油屋の裏」
「油屋か。火を連れて歩く店は、火の匂いでごまかせる」
「ごまかす必要もない。掟は紙だ。紙は、火で早くなる」
笑いが、灯の油より薄く広がった。
その笑いの上を、障子の桟の微かな振動が走る。誰も気づかないほどの揺れ。しかし、気づかない揺れに、心は先に目を向ける。
医者が視線を庭に投げ、商人が口を閉じた。そこへ、庭の左手で猫が鳴いた。
猫の声は、静の口笛だった。
静は縁側の縁に指をかけ、置き床の裏へもう一度手を差し入れる。桐箱は先程と同じ位置、同じ冷たさで待っている。中の火蓋を二つだけ袖へ移し替え、包み札の束の一番上だけをそっと抜く。束の厚みは変わらない。厚みに嘘がないと、人は安心する。安心は、最も鈍い警戒だ。
「お前、さっきの猫をどこへやった」
商人が番頭に言い、番頭は外へ走った。
走る足音が、庭の砂利を無駄に踏む。無駄に踏む足は、無駄に疲れる。疲れは、手元を鈍らせる。鈍った手元へ、静は指先だけを触れた。
「誰だ!」
番頭が声を張る。
矢野の杖が、その声の背中を押すように戸を打った。トン。
音は良く響く。響く音は、近くにあるように錯覚させる。番頭の目が戸へ吸われる。吸われた目の上を、静が通る。
座敷の縁で、町医者が火皿へ再び手を伸ばし、油の匂いを濃くした。
「やめてください」
静の声は遮るようで、遮らないようでもあった。彼は火皿の側面に鞘の尻を一度だけ当て、炭の呼吸を止める。
「火は、夜より速いので」
「誰だ貴様」
「職掌の者です」
静はそれ以上名乗らない。名は、ここには要らない。
縁先で、青い布の角がわずかに覗いた。
静は指先でその角を押し戻し、包帯の内側に再び隠す。青が見えなければ、夜の色は混ざらない。混ざらない夜は、まっすぐだ。
まっすぐな夜なら、追いやすい。
*
鴨川沿いの柳が風を受けて、細い指先で夜をとかした。
撤収路は、来た時と同じではない。帰り道は、必ず別の風にする。
矢野が杖を肩に担ぎ直し、「さっきの青、どのくらい動く」と訊く。
「帳面に書き癖がありました。毎木曜の末時。今夜は“前倒し”」
「誰が急かした」
「内の誰か」
矢野は低く笑った。「狐が懐にいるってこったな」
静は首を横に振る。「狐は、祇園のものです。僕らは風」
「じゃあ白狐って呼ばれてるのは誰だ」
「存じません」
「お前だよ」
「……僕は化かしません」
「化かしてねぇのに消えるから、余計に狐だ」
その時、川面の向こうから、短い笛の合図が届いた。
無明の別組だ。
矢野は眉をひとつ動かし、「右の小橋」と短く言う。
静は頷き、袖の紅い房を一度だけ指で弾いた。房の音は風鈴より短い。短い音に、橋の影の誰かが反応して姿勢を変える。
「見てるな」
「見ています」
「こっちの手は?」
「空です」
「空のほうが、重く見える」
橋の袂に立つ影は、こちらの合図に応じず、ただ灯の数だけ数えるみたいに顔を右から左へ動かした。
「目が紙を探してる」
静が呟く。
「紙?」
「証拠。紙にしか信を置かない目」
「掟の目だな」
「はい。掟は紙です。紙は風でめくれます」
矢野が肩をすくめる。「めくったページの先にゃ、何が書いてあった」
静は袖の内側を押さえ、短く答えた。「空白」
「上等だ」
橋を渡り切る前に、祇園の古い家並みがひとつ息を吸ったように見えた。
静は足を緩める。「火の気」
「どこだ」
「西四筋目の突き当たり、『秋津楼』の裏蔵」
矢野は迷わず進路を変え、杖の先で地面を一度コツ、と打った。「急ぐ時ほど、結びなおすんだ」
静は帯をいちど結び直し、歩幅を半寸詰める。詰めた歩幅は、音を薄くする。
秋津楼の裏蔵は低く、屋根の線が川の音に飲まれている。
軒の下から煤が一筋、まだ煙になり切らない熱の気配で上がっていた。
「炭起こしか」
矢野が鼻を鳴らす。
「火蓋の試し火かもしれません」
静は扉の板の合わせ目に指先を当て、木の呼吸を探る。呼吸は速い。速い木は、火を欲しがる。
「開けるか」
「開けません。息を替えます」
静は板の合わせ目に白い紙片を一枚だけ滑り込ませる。湿り気を吸った紙は膨らみ、隙間の風の道筋を変えた。蔵の中の空気が行き場を失い、小さく旋回する。
火は酸素を欲しがっても、道がなければ眠る。
眠った火の前で、人は音を立てる。音を立てれば、次の夜に覚える。覚えれば、またくる。
今夜は眠らせる。
蔵の脇に積んだ薪の束の上に、黒い包みがひとつ紛れているのを矢野が見つけた。
「持つか」
「持ちません。開けません」
「なんでだ」
「開けると、開けた音だけが残ります」
静は包みに影をかけ、外側の糸を指でなぞった。糸は結び目で二度だけ返してある。急ぐ者の結びだ。
「誰かが、急いでいます」
「どっちへ」
「北へ。寺町通り」
矢野は杖を立て、「追うか」と言い、すぐ首を横に振った。「いや、今は証を流すだけだ」
静の目が細くなる。「流す?」
「水無月庵へ戻る噂を、一つ置いていく。噂は風が運ぶ」
静はうなずいた。「噂は、名より速い」
「そうだ」
*
屯所に帰る足は、来る時より軽かった。
帳場の灯は低く、紙の上で筆の先が乾いては濡れ、濡れては乾く。掟の三条――命令は速やかに、報告は短く、功は譲れ――が、灯の縁に貼りついている。
矢野は座につくなり、さらさらと書いた。
「潜入、帳面一。火蓋部品十六の所在確認。金子の印四。医師・商人の結託疑い濃厚。蔵の火気、息止め措置」
それだけ。
静は紙の端を押さえ、余白に、黒い点を一つだけ置いた。
「何だ」
「合図です」
「誰への」
「風への」
「……相変わらず難儀だな」
「はい」
帳場の端で年長組が声を上げた。
「白いのよ、また名を伏せるのか」
静は軽く頭を下げる。「名は、祇園に置いてきました」
「狐の名か」
「狐はこの町のものです」
年長組は笑い、「じゃあお前は何のものだ」と問うた。
「空白です」
「空白?」
「矢野さんの名の隣に置く場所」
矢野は筆を置き、「隣は空けとく」と言って、紙の右側に大きく自分の名を書いた。その左に、何も書かなかった。
それで、十分だった。
*
夜がもう一度深くなる頃、静は一人で水無月庵の裏手に戻った。
雨上がりの匂いは薄れ、代わりに灯の油が夜の皮膚を柔らかくした。裏庭の隅で、細い影がしゃがみこんでいる。
「迷子か」
静が声をかけると、影は弾くように立ち上がり、こちらを見た。芸妓見習いの少女だった。顔にまだ子どもの丸みがあり、目だけが祇園の夜の色を映している。
「狐さま?」
「違います」
「皆が言うの。白い狐が、風の縁を歩くって」
静は首を振る。「僕は、人です」
「人なら、名は?」
「ありません」
少女は少しだけ笑った。「じゃあ、灯の名前を教える。ここは水無月庵。水が無くなる月でも、灯は消えないって意味」
「いい名です」
「だから、消さないで」
静は短く息を吸い、「約束はできません」と言った。「でも、間に合います」
少女は分かったのか分からないのか、目を細め、「狐さま」ともう一度呼んだ。
「違います」
「違うけど、ありがとう」
少女は庭石の影に消えた。静はその消え方の筋の良さを見て、少しだけ安心した。
*
祇園の夜は、生き物みたいに背骨を曲げ伸ばしする。
細い路地の突き当たりで、静は一度だけ立ち止まり、空を見た。雲が薄く、月が低い。月は低いほど、音が近い。
「静」
背後から矢野の声。
「はい」
「白狐」
「違います」
「違っても、そう呼ばれる。名は他人の口で生きる」
「他人の口に預ける名は、軽いです」
「軽いものほど、遠くへ行く」
「遠くへ行った名は、帰ってこない」
「帰ってこねぇなら、俺が拾いに行く」
静は黙り、やがて短く笑った。「雷は、遠くへも鳴ります」
「当たりめぇだ」
風が、祇園の軒の間を抜けた。
笑いの残響が一瞬だけ途切れ、夜の温度が少しだけ下がる。
静は袖の内側の帳面を押さえ、足の裏で石畳の乾きをもう一度確かめた。乾いた場所は軽い。軽い場所は速い。速い場所は、間に合う。
水無月庵の裏で交わした少女との会話が、遅れて胸の奥で成形される。――消さないで。
約束はできない。けれど、間に合わせる。
それが、風の仕事だ。
夜が静まり、やがて朝の最初の音がどこかで生まれる。
白と紅は、行灯の残り火の中で、明け方の色に溶けていく。
名は残らない。
残るのは、石畳にわずかについた水の跡と、袖の紅い房が鳴らした短い音と、帳面の端に付いた指のわずかな黒――それだけだ。
だが、無明の仕事は、それで十分だ。
祇園の夜影に、風は通った。
そして、雷は遅れて鳴った。
誰もその順番を書かない。紙は、空白の隣に名を置くことを、まだ知らないから。
それでも夜は覚えている。
この花街のどこかに、白い風がいたことを。
白狐、と人が呼ぶものの正体が、ほんとうは人の呼吸であったことを。
――名は置いていく。証だけ、借りていく。
合言葉のように、静はそれを胸の奥で繰り返した。
雨の上がった祇園筋は、もう、匂いを変えていた。



