雨は降らなかったのに、土はやわらかかった。
 屯所裏の土手を登った先、わずかな高みを削ってこしらえた小さな墓地は、昼でも黙って夜の匂いがする。竹の節の間を、ゆっくりとした風が通り抜けていく。竹の葉は擦れ合い、音の端でだけ光を返す。

 羽黒の墓が、ひっそりと築かれた。
 石は新しく、名は浅い。掘ったばかりの土はまだ息をしているのに、参る者は少ない。足音も、線香の煙も、どれも短くてすぐ消えた。

 静は香の煙を見つめ、矢野は墓石に水を掛ける。ひしゃくから落ちる水が石の角で分かれ、土へ吸い込まれた。石は少しだけ暗くなり、やがて同じ色へ戻る。

 「静、てめぇ、あの夜の目は覚えてるか」

 矢野の声は、石より低かった。
 静は答えまでに一拍おいた。「目は閉じました。僕が覚えるのは間合いです。後悔は、手を遅くする」

 「きれい事じゃねぇ。だが、それでいい。お前は遅れると死ぬ仕事だ」

 竹がひときわ強く鳴り、風が方向を変えた。
 静は線香を立て直し、火の小さな心臓を守るように掌をかざした。「羽黒さんは、最後まで人の声でした。掟の音ではなく」

 矢野は黙って、墓の前に片膝をつく。指で土を摘み、ぽとりと落とす。
 「名が浅いな」
 「浅く刻めば、早く消えます」
 「消したいのか」
 「消えたい名もあります」

 ふたりの間に、竹の影が揺れた。
 やがて矢野が立ち上がり、ひしゃくを逆さにして水の残りを落とす。「行くか」
 「はい」
 静は手を合わせ、短く祈った。祈りというより、呼吸を合わせるだけの、目立たない行いだった。

 丘を降りる途中、土手の端で古い石仏がこちらを見ていた。雨灰色の頬は剥がれ、表情はとうに失われているのに、そこに見守りの気配だけは残っている。静は小さく会釈し、矢野は肩を竦めた。

 「仏も困ってるぜ。名が浅ぇ石ばっか増えてよ」
 「困る仏は、案外、好きです」
 「お前、ほんと面倒くせぇ風だな」
 「面倒は、速さの敵です」
 「でも、お前の面倒は悪くねぇ」

 矢野の笑いは短く、風に軽い。
 軽さに支えられる誓いもある。ふたりは屯所へ戻った。

 *

 午後、無明隊の一角では、年長組が盃を回していた。雨上がりの湿気が畳の目に降り、酔いの熱を余計にくぐもらせる。
 静と矢野は端に座り、膳の湯気の向こうで互いに目を遣る。火は強すぎず、弱すぎず。酒は、少し強かった。

 「おい、白いのよ」
 腰の低い声が、唐突に近くなる。年長の一人が静の前に盃を置いた。薄い陶器が畳の上でわずかに鳴る。
 「名乗れや。名が無ぇ奴に盃は回らねぇ」
 座が、にわかに温度を増す。誰かが笑って、誰かが息を呑む。

 静は軽く会釈した。「では、矢野さんの名で」
 「おう?」
 盃が、ふっと軽くなる。矢野がそれを取って、静の前で自分の名を言った。「矢野蓮。江戸っ子だ。そっちの白いのは……俺の風だ」
 笑いが起こる。乾いた笑いと、湿った笑いとが混ざって、天井の梁へ上がっていく。
 「風ぇ? 粋だね」「無明は粋で飯食えるのかよ」「掟は粋と喧嘩してるぜ」
 盃が回り、言葉が回り、目線が回る。静は湯で盃をすすぎ、酒ではなく水を注いだ。
 「失礼を」
 薄い水の面に、灯りが細く揺れた。

 矢野は笑わず、盃の中を見ていた。
 「静、名ってのは他人の口で生きる。お前はそれを拒む。いつか“いなかった”ことになるぞ」

 「なれれば本望です。いなかった者の手で、誰かが助かるなら」

 笑いの輪の外側で、盃が止まる。
 矢野は拳を握り、やがてそれを開いた。静の肩に置かれた掌は、手のひらまで働く職人の手だった。
 「じゃあ俺が証人だ。静って奴が、確かにここにいたって」
 静は稀に見せる柔らかな笑みで、「矢野さん、証は風に任せるのが一番です」と言った。
 「風は掴めねぇ」
 「でも、鳴ります」
 「……そうだな」

 年長者はふてくされたような笑みを一度だけ見せ、「なら、雷で盃を割るなよ」とぼやいた。
 「割らねぇよ」矢野が肩を揺らす。「割るのは喧嘩の種だけだ」
 笑いが、もう一巡した。座の熱は少し落ちて、灯の油が静かに減る音が聞こえるほどだった。

 *

 その夜。
 夜番の札を受け取り、ふたりは碁盤の目の町へ出た。雨の名残りを引く石畳は、灯を投げ返す。屋根の端で水が一滴ずつ落ち、家々の呼吸は障子の内側で息を潜めている。

 「静」
 「はい」
 「さっきの“いなかった”って話、ほんとに本望か」
 「はい」
 「じゃあ、名が残るのは誰だ」
 「畑です」
 「は?」
 「明日も耕す人の手が、名を持てばいい。僕らは、土を崩さないように通るだけで」
 「……ほんと面倒だな」
 「矢野さんは、面倒だと言いながら、いつも最後まで聞いてくれます」
 「そこが面倒なんだよ」
 風が、細く笑った。

 曲がり角の先で、声が絡まっていた。
 見れば、二件先の店先で、酒の升をぶつけ合う男たち。片方は旅の職人で、もう片方はこの町の若い衆。酔いの高さが違う。
 「やめときな」矢野が声をかける。「灯が泣くぞ」
 「なんだ、無明か。犬に吠えられる覚えはない」
 若い衆の肩が、わずかに上がる。矢野の視線がその肩に乗る間、静は路地の入口へ回り、灯の火屋に手をかざして風を細くする。
 「続けたいなら、息でやるといいです」
 「は?」
 「声が先に上がると、喧嘩は長くなる。息が先だと、だいたい短い」

 若い衆は一瞬だけ笑い、次の瞬間に気づく。彼の足元には、いつの間にか店の水桶が置かれている。矢野が片手で滑らせたのだ。
 職人の足が桶の縁に触れ、ぐらりと傾ぐ。矢野はその腹に軽く柄を当て、呼吸を奪わずに姿勢だけ戻す。
 「ほらよ。灯は灯のまま、夜は夜のまま」
 静は桶の水をすくい、石畳に散らした。水は落ち着きを取り戻し、灯の影はその上で震えた。

 「名を教えろよ」
 若い衆が言う。
 静は首を振った。「名は、ここでは要りません」
 「じゃあ何が要る」
 「明日も灯を点ける手です」
 「ああ?」
 矢野が笑って肩を叩いた。「覚えとけ。風は名乗らねぇが、また吹く」

 *

 翌朝、屯所の裏庭に影が伸びた。
 湿った土の上、二人が向かい合う。木刀が一本、槍が一本。見物は少ない。見物を作らないのが、無明隊の作法だ。

 「今日は長めにいくか」
 「はい。三十合、音を少なく」
 「また面倒な注文だ」
 「面倒を引き受けるのが、風の役目です」
 「よし、雷は短く派手にな」

 最初の一合で、空気が引き締まる。
 静が置く拍は、風の厚みを測る拍だった。矢野が上書きする踏み込みは、雷の予告に等しい。
 ふたりの間に距離はあり、しかし距離のほうが焦れている。静は半歩譲り、矢野は半足割って入る。木と木が短く触れ、音はすぐに地面へ吸われた。

 「十」
 矢野が息の合間に言う。
 静は頷き、次の合を一瞬だけ遅らせた。矢野の雷がわずかに長音になり、そこに風が通る。
 「二十」
 汗が襟を濡らす。木刀の先はぶれず、槍の柄は光を拾う。静の目は矢野ではなく、矢野の後ろ――空の低いところを見ていた。そこに、風の出口がある。

 最後の合、矢野の踏み込みは地を鳴らすほど強く、静の退きは影の薄さほど少なかった。音は鳴ったか鳴らないかの境で止まり、風鈴のような余韻だけが残る。
 「参った」
 矢野が笑い、木刀の峰で肩を叩く。「お前、やっぱり剣の中に風飼ってやがる」
「矢野さんの雷が、檻になってくれるからです」
 「檻?」
 「暴れないための。僕の風は、暴れやすい」
 「へぇ。そいつは初耳だ」
 静は小さく笑った。「言葉にすると、風が遅くなるので」

 稽古を遠巻きに見ていた若い隊士が、畏れと好奇心の真ん中みたいな目で黙礼した。
 「斬らないんですね」
 彼がぽつりと言った。
 「斬らずに済むなら、そのほうが速いから」
 静の答えは簡潔で、乾いた土の匂いに似ていた。

 *

 その日暮れ、隊の廻り持ちが回ってきた。
 「座敷迷路」――祇園の裏側でそう呼ばれる長屋複合の一角で、抜き身をちらつかせる者が出没するという。呼び出しの紙には細かい字で、場所の方角と勝手口の入口、灯の数、井戸の位置まで記してある。
 「紙を書いた奴、真面目だな」矢野が感心半分に言う。
 「真面目な紙ほど、風でめくれます」
 「またそれだ」
 「僕の仕事、紙をめくるほうですから」
 「はいはい。じゃあ雷は表口で鳴る」

 座敷迷路は名前の通り、通り過ぎるたびに同じような座敷が現れ、障子の向こうで三味線が鳴り、女の笑いが遠くで短く切れる。廊下はL字に折れ、奥は突き当たりに見えて、実はさらに曲がって続く。
 「迷いやすく出来てる。商売上手だね」
 「迷わせる場所は、風向きを隠します」
 静は足の裏で畳の目を探り、曲がり角の先にある空気の浅さを嗅ぐ。浅い空気は、人が息を合わせられない。そこに刀の音が溜まる。

 短い金属音。
 角を曲がった先で、痩せた男が抜き身を掲げていた。酔ってない。目の焦点は近く、焦りのない危うさだ。
 「寄るな。ここは俺の座敷だ」
 「座敷に主人はいません」静の声は薄い。「座敷は座る人のものです」
 男の肩がわずかに震える。矢野は距離を取り、廊下の幅を測るように槍を斜めに構えた。
 「灯を消すなよ」
 「消しません」
 静は一歩進み、さらに半歩、空気を撫でるように進む。男の視線が刃の先に落ちた瞬間、静の鞘の角が彼の手首の腱を撫でる。痛みはない。角度だけが変わる。
 刃は、畳に落ちなかった。男の掌の内で、すっと鞘に導かれる。
 「拾うなら、鞘からに」
 「……誰だ」
 「職掌の者です」

 男の背後で、障子の影が揺れた。
 別の影が弓を引こうとした、その気配が、風の縁でささくれ立つ。矢野が一拍早く踏み込み、槍の柄で障子の桟を打つと、弦の音が飲み込まれた。
 「弓は座敷で引くもんじゃねぇよ」
 障子の向こうから舌打ち。逃げる足音。
 静は追わない。逃走線上の畳のふちを、足でそっと押し戻した。踏み縁が少し浮き、逃げ足はそこで躓く。
 「道は、通すためにある」
 転んだ影は、畳に顔を押しつけたまま動かない。矢野が縛り、男から刃を離す。
 座敷は静けさを取り戻し、三味線の糸がひとつ、間違ったように鳴って、すぐやんだ。

 「名を」
 年増の女衆が、袖口を握りしめて言う。
 静は首を振った。「名は、ここでは響きません」
 「なら、何が響く」
 「明日の支度です。灯の油を絶やさないこと」
 女衆はしばらく黙り、やがて小さく笑った。「油は、高いのさ」
 矢野が懐から小さな銭包みを出して、女衆に押し付けた。「これは俺の勝手だ。風には関係ねぇ」
 「矢野さん」
 「うるせぇ」
 女衆の目に、油に似た光が映った。

 *

 夜半を回って屯所へ戻ると、帳場の灯は低く、筆の音が薄く続いていた。矢野が報告を書き、静は紙の端を押さえる。
 「先鋒突入、敵二制圧、付近民家被害なし。油――いや、灯の維持について所感」
 「所感は、報告書に要りません」
 「たまには書かせろよ」
 「掟は、速さに宿ります」
 矢野は苦笑し、筆を置いた。「お前が言うと、掟も風通しがよく思えるから不思議だ」
 年長組が帳場の隅で、眠そうに欠伸を噛み殺す。「おい白いの、今夜は名乗れよ」
 静は軽く頭を下げた。「矢野蓮。風の隣に書いてください」
 「隣?」
 「空白のことです」
 年長組は首をひねり、「難儀だねぇ」と笑い、再び欠伸を飲み込んだ。

 *

 明け方。
 静は庭で木刀を振っていた。素振りを数えない。数えないことで、呼吸の長さだけを身体に刻む。
 「静」
 背後から矢野の声。
 「はい」
 「さっきの座敷、弓の影……見えてたか」
 「風のざらつきで」
 「ざらつき?」
「紙やすりに触れたときの、皮膚の記憶みたいな」
 「お前の比喩は、いつも痛ぇ」
 「痛いほうが速いです」
 矢野は笑い、木刀を一本ひったくった。「よし、もう三十。今日は雷が先に鳴る」
 「では、風は鳴らないほうで」

 ふたりの間で、朝が始まった。木刀が交わる音は短く、鳥の声は長い。
 「静」合間に矢野が言った。「名は他人の口で生きるって、俺が言ったろ」
 「はい」
 「お前の名は、俺の口で生きる。だから、いなかったことになんてさせねぇ」
 静は木刀を止めずに答えた。「矢野さんの口は、雷です」
 「うるせぇ。いいから合わせろ」
 「合わせています」
 ふたりの速度は、もう会話の速度では追いつけなかった。

 *

 夕まぐれ。
 羽黒の墓に、もう一度だけ立ち寄る。土は朝より固く、石は昼より冷たい。
 静は線香を二本だけ立て、それ以上は置かなかった。
 「二本?」矢野が訊く。
 「風と雷です」
 「三本じゃねぇのか」
 「掟は、別に焚かなくてもそこにあります」
 「へぇ」
 ふたりの間を、今度は暖かい風が通った。

 土手を降りる途中、静がふと立ち止まる。
 「矢野さん」
 「あいよ」
 「僕ら、無明という“灯の裏側”に生きます。掟は人を削るが、友情は削れません」
 「柄にもねぇこと言うな」
 「言い慣れませんから」
 矢野は笑って、静の肩を軽く小突いた。「削れねぇどころか、太る一方だ。放っときゃ、そのうち刀が入らねぇほど固ぇ柱になる」
 「柱は、風でしなります」
 「しなっても折れねぇ」

 短い会話の中に、夜が降りてくる。
 白と紅は、闇の濃さに応じて、より鋭く際立っていく。
 人の目に見えやすくなるという意味ではない。逆だ。見えなくなるほど、輪郭が整っていく。

 *

 その夜の終わり際、思わぬ風が吹いた。
 屯所の外れ、用水の橋の上で、黒い影が先に立つ。矢が一本、三和土に突き刺さっていた。羽根は新しく、鏃は油を差したばかりだ。
 「嫌な矢だ」矢野が低く言う。
 静は周囲の音を一度だけ消し、足音のない方角へ視線を走らせた。
 「上流」
 「見えるか」
 「匂いで」
 矢野が肩で息を整える間に、二の矢が鳴って飛んだ。
 風が、ひと拍先に屈む。
 静の袖口から紅い小房が覗く。矢野が渡した合図の紐。静はそれを指で弾いて、風鈴ほどの音を、夜に落とした。
 矢は音へ向かう。音は風で散る。
 鏃が橋の欄干に当たり、火花が小さく散った。
 「誰の矢だ」
 「無明です」
 静の声は硬くなかった。
 「内部か」
 「掟の外衣を借りた誰か、です」
 矢野の目が細くなる。「面倒だな」
 「面倒を片づけるのが、僕らの番です」

 上流へ走る足音。風の皺がほどける前に、静はそこへ入った。
 橋のたもと、柳の陰。弓を携えた影が一つ、逃げる姿勢をとる。静は追わない。逃走線の先で、柳の根の盛り上がりに足をかけさせる。
 「帰り道でまた会いましょう」
 影は顔を上げた。目だけが笑っていた。
 「風だな」
 「ええ」
 次の瞬間、影は川面へ飛び、夜水の中に形を失った。矢野が一歩踏み出す。
 「追うか」
 「今は、通すことだけ」
 「……そうだな」

 橋に残った二本の矢が、灯に熱を帯びる。
 矢野は一本を抜き、「証拠ってやつは、名と違って重いな」と言った。
 静は頷く。「名は風で散ります。証は土に残る」

 *

 夜明け前、帳場の灯をさらに低くした時間。
 静は紙の端に、一行だけ追記した。
 ――友の名に連なって、空白は働く。
 その行は、報告の形式からはみ出し、翌朝には筆頭の朱で消されるだろう。それでもいい。紙が覚えていなくても、風が覚えている。

 廊下で矢野が待っていた。
 「おい、鳴らすか」
 静は笑みを隠さず、袖の紅い房を指で軽く鳴らした。
 「風上は、まだ同じ方角です」
 「よし。旗は重いぞ」
「翻します」
 「頼んだ」

 外はまだ青く、瓦は夜の温度をわずかに残している。
 静は白装束の襟を整え、足の裏で地面の粒の立ち方を確かめた。乾いた土は軽く、湿った土は低い音を返す。
 「矢野さん」
 「ん」
 「僕がいなかったことになっても、あなたの雷は鳴ります」
 「当たりめぇだ。俺はうるせぇんだ」
 「それがいい」
 ふたりは笑い、同時に黙った。

 無明の屋根の上、朝の最初の鳥が鳴く。
 灯はまだ点かない。風は、もう吹いている。
 掟は人を削るが、友情は削れない。
 白と紅は、今日も並んで、見えないほうへ鮮やかに傾いた。

 *

 昼前、短い呼び出し。
 「市中巡察の補助、南の大路」
 紙を持ってきた小者が息を切らし、「路地の奥で子がひとり、泣き止まぬ」と早口で告げる。
 「俺たち子守になったか」
 「子守のほうが、難しいです」
 ふたりは足を速めた。

 路地の奥、洗い張りの竿が並び、布団が二枚だけ日を吸っている。家々の口は狭く、小さな鉢植えが無言で並ぶ。
 泣き声は、思ったより低かった。喉の奥で擦れて、途切れがちだ。
 静は座り、子の前に目線を落とす。「息を、僕と合わせてください」
 子は泣きながら笑い、笑いながら泣く。
 矢野は水を汲みに走り、戻るとひしゃくの縁を子の唇に当てた。「喉、乾いてる」
 「はい」
 子の呼吸が一つ長くなり、泣き声は半音だけ下がった。
 「誰か、刃を見た?」
 静が周囲に問う。
 「見てないさ」戸口から年寄りが言う。「お侍の声が二つ、怒鳴り合ってたけどね」
 「怒鳴り合う声は、刃の代わりになります」
 「どういうこった」
 「刃がなくても、息は削れます」
 年寄りは「へんなこと言うねぇ」と笑い、子の頭を撫でた。「でも、泣かなくなったよ」

 狭い路地を抜け、空を仰ぐ。空は広く、風は低い。
 矢野が肩で笑う。「こういうのを報告書に書きてぇな」
 「書いてください。……所感の欄に」
 「ないんだよ、所感は」
 「作ればいいんです」
 矢野は目を丸くし、「お前がそれ言うのか」と笑った。
 「たまには、雷を甘やかします」
 「甘やかされる雷ってのも、悪くねぇ」

 *

 夕刻。
 隊の裏庭で、木の根元に短い影が二つ落ちる。
 静が座し、矢野が立つ。ふたりの間に、言葉はいらなかった。
 「静」
 「はい」
 「無明は名を残さない。だが、掟は紙に残る。紙はいつか燃える。……じゃあ何が残る」
 静は考え、竹の葉の重さをひとつ数えてから言った。
 「残らないもの、です」
 「は?」
 「呼吸とか、音の間とか。残らないものを、たくさん通すこと」
 矢野は大きく息を吐き、頭を掻いた。「俺たち、面倒な道を選んだな」
 「面倒の先に、速さがあります」
 「速さの先に?」
 「間に合う、があります」
 矢野は笑わなかった。ただ、頷いた。
 「じゃあ、今日も間に合おう」
 「はい」

 白と紅が並び、夜の手前の色へ進む。
 灯は、その背を追うように点いた。
 掟の縁は鋭い。触れれば削れる。
 それでも、ここに友の重みがあるかぎり、風は倒れず、雷は迷わない。

 名は残らない。
 だが、今日の風は確かに吹いた。
 そして、雷は確かに鳴った。
 誰も書かない紙の外で、二人は“灯の裏側”に生きる覚悟を、もう一度、固く結び直した。
 急ぐ時ほど、結びなおすんだ――矢野がいつも言う通りに。