江戸郊外、用水堀のそばに佇む道場「朝霧館」は、古びていながら不思議と澄んだ空気を纏っていた。
 風鈴がひとつ、庇の端で音を鳴らす。油を引かれた床板が淡く光り、柱の節のひとつひとつが年月の皺を刻む。稽古場に立つだけで、夏の湿り気が胸の奥に沁みるように思えた。

 白一色の稽古着を着た少年が、静かに土間を踏んだ。
 その足取りには音がない。足の裏と板の間に挟まれた空気が、逃げ場を探して息をひそめているように見える。少年の名は静。十五になるが、年の割に背は高く、瞳は光の角度によって翳るように色を変えた。名乗りもせず道場に入った静を、師範・雪堂は一目で見抜き、ただひとことだけ告げた。
 「剣は形より先に、息で立て」
 それだけ言い、名を問わない。人を斬る覚悟も、人を活かす覚悟も、どちらも息の深さで決まる――雪堂はそう信じていた。

 その日の組み手で静の相手に当てられたのは、矢野蓮だった。
 竹刀を握る手に筋が走る。骨格は細いが、握りは槍のために生まれたように長く、親指の腹が固い。笑えば少年らしいが、目尻に強情な意志の影が差す。
 「矢野蓮だ。江戸っ子だ、堅ぇ挨拶は抜きにしようぜ」
 「僕は沖田静。……矢野さん、よろしくお願いします」
 「おう、よろしくな、静」
 視線がぶつかった瞬間、二人は互いの“間”を測った。これから始まるのはただの稽古ではない――息と息、鼓動と鼓動が交わる場だと、まわりの門人たちも直感した。

 竹刀が鳴る。最初の一合で、音が違った。
 静の竹刀は風を裂くのではなく、風を“受け止める”音を立てる。矢野の竹刀は真逆で、音を塗り替えるように激しく床を打つ。十合、二十合と重なるほど、道場の空気は狭まり、誰もが息を詰めた。汗が額を伝い、静の頬をかすめる。そのとき静はわずかに笑い、
 「悪くありませんね。ただ、風は音より早い」
 と穏やかに告げた。矢野は舌打ちしながらも愉快そうに、
 「上等だよ。じゃあその風、俺の雷で縫い止めてやらぁ」
 と返す。

 竹の撓りが戻るより早く、静は次の拍を置く。矢野はその拍を踏み込みで上書きする。床板が悲鳴を上げ、竹が鳴るたび、梁が軋む。見物の門人が息を呑む。静は一歩も退かず、矢野も止まらない。二人の間にあるのは、師の言葉どおり“呼吸”だけだった。

 最後の一太刀が交わったとき、竹が乾いた音を立てて折れ、破片が空に散ってしばし宙を舞った。静は竹刀を下げて矢野を見つめ、矢野は息を吐きながら笑う。
 「参ったな。お前、剣の中に風飼ってやがる」
 静は小さく頷いた。「矢野さんの雷も悪くありません」
 笑い合ったその柔らかな空気が、はじめて道場に風を通した。

 雪堂は茶を二人に差し出した。
 「剣は争いに使うな。ただ、争いの前に終わらせろ」
 静は黙って頷き、矢野は胡坐で湯飲みを傾けて湯気の向こうから師を見る。
 「先生、争いの前に終わらせるってのは、勝つことですかい?」
 「勝つとは限らん。負けることもある。ただ、争う前に終えるのが最も難しい」
 静には、その言葉が心に落ちる音として響いた。争う前に終える――まだ見ぬ未来に向けた剣の在り方だ、と。

 夕暮れの稽古後、二人は道場の外に出た。風鈴が遠くで鳴り、西日が土壁を赤く染める。矢野は竹刀を肩に担ぎ、
 「静、背中は俺が見る。てめぇは前だけ見ろ」
 と笑う。静は一瞬だけ迷い、すぐ口角を上げた。
 「では風向きは矢野さんに」
 「おう、風が迷わねぇように雷が鳴ってやる」
 その約束が、この日から二人の間に刻まれた“誓い”となった。

 ***

 数日後の夜、道場の門がひっそりと開いた。
 掃除のあと、静が残っていた。月が高く、風が止む。静は独りで木刀を構え、影のない地面に立つ。息を吸い、吐く。雪堂の「息で立て」が蘇る。剣を振るたび、夜の空気が澄んでいく。斬る音ではなく、祈りのような音。やがて木刀を下ろし、空を見上げて、
 「剣が人を守るなら、名は要らない」
 と小さく言った。その声は風に紛れ、竹林の奥へ吸い込まれていく。

 その背を、矢野が柱の陰から見ていた。声は掛けない。ただ息を合わせ、静の呼吸に自分の心拍を重ね、同じタイミングで拳を握る――それが矢野にとっての“礼”だった。風が通り、木々が揺れる。その夜、朝霧館の庭は音のない波紋で満たされた。

 ***

 翌朝。
 稽古場には珍しく近隣の道場主たちが見学に訪れていた。彼らは雪堂の剣を評して「静の型」と持ち上げたが、雪堂はいつも笑って否定する。
 「静という名の者に任せよう」
 静本人はそれを聞き流し、淡々と掃除を続ける。矢野は隣で雑巾を絞り、低く尋ねた。
 「先生、今度の試合、静を出さねぇんですか?」
 「出さぬ。あいつはまだ“勝ち方”を知らん」
 「負けも知らねぇのに?」
 雪堂は目を細め、静を見やる。
 「負けを知らぬ者は、勝ちに酔う。あれはまだ、風の匂いしかしらん」
 矢野はその言葉を胸の奥に刻んだ。

 試合の日。
 朝霧館の代表として出場したのは矢野だった。対する相手は隣町「大山館」の次期師範。剣の筋は硬いが正確。矢野は初太刀で攻め込まず、逆に受けに徹した。雪堂の「争いの前に終わらせろ」を、静の呼吸と重ねる。そして三合目、相手は自ら崩れた。
 木陰から見ていた静は、矢野の構えが風を掴み、間合いを操るのを見届ける。その瞬間、静は確信した――矢野は雷だ。風が雷を導き、雷が風を呼ぶ。二人の剣は、同じ空に響くために生まれている、と。

 試合後、矢野は勝者の礼を省いて歩み寄る。
 「静、どうだ、俺の雷は」
 「音が、まだ少し長いですね」
 「けっ、辛口だな」
 「けれど、風が吹いていました」
 矢野は目を見開き、すぐ笑った。
 「お前って奴は、ほんとに変だな。だが、嫌いじゃねぇ」
 二人の笑い声が夏空に溶けていく。

 ***

 数週間後。江戸の町は湿気を孕み、蝉が鳴き始めた。
 矢野は道場の外に貼られた布告を見つける。
 “京にて、治安組織『無明隊』募集”――幕府直属の新組織。混乱の都を鎮めるための剣士たちの隊。矢野は紙を指で叩き、静の肩を軽く叩いた。
 「静、京だ。風と雷で行こうぜ」
 静は一瞬視線を上げ、布告を見やる。
 「無明……名を明かさぬ、という意味ですか」
 「難しい言葉は後だ。行くか、行かねぇか」
 「行きましょう。けれど僕は――名を置いていきます」
 「またそれかよ。名を置いてどうすんだ」
 「名があると、風が止まるから」
 矢野は笑い、静の肩を小突く。
 「風が止まったら、俺が雷鳴らしてやる。だから止まってもいい」
 静は目を細めて頷いた。
 「では、お願いします。雷の矢野さん」
 「おうよ。風と雷で、江戸を吹かすぞ」

 その背を見送る雪堂は、ただ一言だけ告げた。
 「名は残すな。技だけ残せ」
 静は深く頭を下げ、白装束の襟を整える。矢野はその横顔を見て、
 「まったく、めんどくせぇ風だ」
 と呟いた。静は笑い、
 「雷はいつも、風に愚痴を言いますね」
 と返す。師は微笑み、線香を焚いた。香の煙が細く伸び、二人の影をなぞる。こうして“風と雷”の旅が始まった。

 夕暮れ、門を出た二人の背に、師の声が重なる。
 「争いの前に終わらせろ。だが、終わらせる前に迷え」
 静は振り返らず歩を進め、
 「矢野さん」
 「ん?」
 「僕ら、何になれるでしょうね」
 「知らねぇ。けど、風と雷がいりゃ天気は変わる」
 静は笑い、前を向いた。風が確かに吹いている。その風はいま名を持たない。けれどいつか人はこう呼ぶだろう――「白装束の刃と紅の槍、風雷の双刃」と。

 空は群青に沈み、最初の星が灯る。
 その星はまだ誰にも見えず、記録にも残らない。けれど確かにそこに在る。無名のまま光る小さな輝きとして。