夢をみた。夢の中でもおれは五瓶に抱きしめられて眠っている。だけど、いつもと違って五瓶とおれは布団の中で向かい合って横になっていた。
五瓶はすぐ近くでおれの顔をじっと見つめながら、ゆっくりとおれの髪を撫でていた。まるで愛おしいものを撫でるような優しい手つきが気持ちよくて、おれは目を閉じて五瓶の感触に身を委ねていた。
(……なんか、猫になったみたいな気分)
熱がある時にみる夢って支離滅裂で、後から思い出しても意味がさっぱり分からない内容のことがほとんどだけど、今日の夢はそんなに無茶苦茶って感じでもなかった。むしろ穏やかで優しくて、すごくいい夢だったような気がする。
「ん……」
なんだろう。柔らかくて冷たくて、すごく気持ちいい。
夢からゆっくりと醒めていく感覚。目の脇に当てられたひんやりとした何かの感触で、それまでおぼろげだった五感が少しずつはっきりとしてくる。
瞼を上げると、見慣れた部屋の天井が視界に映った。そっと顔を横に向けた時、枕に何かがぱさっと落ちる。濡れたタオルのようだ。
何だろ、これ。
タオルを拾い上げると、枕のすぐ横に五瓶の顔がどアップで現れておれは固まってしまった。
「……五瓶?」
五瓶は目を閉じていて、少し開いた唇からは規則正しい微かな寝息が聞こえてくる。改めて布団の方を見ると、五瓶は布団の横でおれに寄り添うように横になっていた。
ぼうっと五瓶の寝顔を眺めていたら、寝息がふと止まった。瞼がゆっくりと上がって、その眼がおれを捉える。
「あ……」
目が合った途端、五瓶は少し下を向いてあくびをした。
「すいません、完全に寝てました」
「あ、いや……おれもさっきまで寝てたし」
濡れタオルを自分の額にそっと置いて、さり気なく五瓶から目を逸らす。
「これ、五瓶が持ってきてくれたのか。ありがと」
「汗かいてたから、軽く拭いておきました。後で着替えた方がいいと思います」
そうか、寝ているおれの汗を拭いてくれてたんだな。言われてみると確かに、いつの間にやら全身にじっとりと汗が滲んでいる。パジャマとして着ている長袖のTシャツも自分の汗で湿っているのが分かるくらいだ。
「あ……ごめん。五瓶の布団なのに、こんな」
「いいですよ、そんなの」
「でもおれ、今めちゃくちゃ汗臭いし」
やっぱり朝のうちに自分のベッドへ戻っておけばよかった。のろのろと身体を起こそうとすると、五瓶の腕が伸びてきて肩をそっと押さえられた。また布団に押し戻され、仕方なく枕に頭を沈める。
「いいから、今は寝ててください。もう昼過ぎですけど、何か食べられそうですか?」
そう言えば窓の外は明るく、部屋の中にも柔らかな日差しが満ちている。朝はまだ外が薄暗かったのに。時間の経過した感覚が全くない、何だか変な感じだ。
「ちょっとだけ、腹減ってる……かも」
「よかった。ちょうど今、食堂で煮込みうどん作ってもらってるんです。後で持ってきますね」
「なんか、ごめん……ホントに」
実家で風邪をひいてもここまで手厚く面倒をみてもらったことはない。ましてや他人にこんな優しくされたこともないから、嬉しいよりも申し訳ないと思う気持ちの方が勝ってしまう。
五瓶はおれの額からそっとタオルを取ると、おれの目の脇や首筋をそれで丁寧に拭き始めた。
「いっ、いいよ。汗くらい自分で拭くから」
「じっとしててください」
「いいって……」
そう言いつつも、五瓶の手つきは思いのほか丁寧で優しくて、濡れたタオルの少しひんやりした感触も火照った肌に心地いい。
なんかこの感触、さっき夢の中でも似たような感覚を感じていたような。なんだっけ……だめだ、もう思い出せない。起きる直前までは夢の内容、確かに覚えてたのに。
おれの汗を粗方拭き終えると、五瓶は寝そべったまま枕元にあるトレイの上に濡れタオルを置いた。
あれこれ世話を焼いてもらっておいてなんだけど、こうもおれに付きっきりでいたら五瓶に風邪がうつるんじゃないかな。さっきからずっとおれのすぐ横で寝そべってるし。
「五瓶に風邪、うつってないといいんだけど」
「毎晩あれだけくっついて寝てたら、もうとっくにうつってると思います」
「そ、それは、まあ……そうかもしんないけど」
ちらと五瓶の顔を見る。相変わらずの仏頂面だけど、特に具合が悪そうな様子は今のところ見られない。でも今は何ともないからって安心できるとも限らないのだ。もしかしたら今日の夜に風邪の症状が出てくるかもしれないし、おれみたいに熱を出すかもしれない。
「うつると良くないから、今夜は一緒に寝るのナシな」
そんなことわざわざ言うまでもなく五瓶は承知していると思うが、念のため今のうちに忠告しておこう。今夜だけでなく、おれの風邪が治るまで当分は無理だろうけど。
「嫌です」
妙にきっぱりと、五瓶はそう言い放った。
「え……」
「俺は小高先輩と一緒じゃなきゃ眠れないって、分かってますよね」
「そ、そんなこと言っても仕方ないだろ。五瓶に風邪うつすわけにいかないんだから」
「だからって一人で寝て、睡眠不足になる方がよっぽど身体に悪いですよ」
「あっ……」
五瓶は更にこっちへ身体を寄せると、腕を伸ばしておれを横に向かせて、いつも夜に寝る時みたいにおれの身体をぎゅっと抱き寄せた。ただひとつだけ、いつもは五瓶がおれを後ろから抱きしめて寝るのに、今は向かい合って抱きしめられているという点だけが違っている。
あまりに突然のことで抵抗する隙もなかった。まだ微熱の残る頭でこの状況を正確に把握しようとしてもひどく時間がかかる。ぼうっとしたまま五瓶の腕の中からその顔を見上げていると、五瓶はおれの首筋に顔を寄せてきた。
「ち、ちょっと……五瓶」
五瓶の鼻先が首筋を掠めた時、体がピクッと小さく震えてしまう。五瓶の胸元をぎゅっと押して離れさせようとしてもびくともしない。腕に力が入らない。
おれの非力な抵抗などお構いなしに、五瓶は更に自分の身体をおれに密着させるように強く抱きしめた。
「だっ……だめだって。もう」
ヤバい、ヤバいって、これ。変なとこ、当たってる。
全然そんなつもりないのに、本当なのに、なんか変な気分になってきた。自分でも信じられないくらいドキドキしてきて、動悸が全く収まらない。
「人にうつすと早く治るって、よく言いますよね」
「ご……五瓶」
耳元で五瓶の低い声が囁く度に、身体の奥がざわざわ揺れる。
「俺にうつしていいよ。小高先輩が早く元気になれるんなら、その方がいい」
「ば、バカ。なに言って……」
勝手に体温がどんどん上がっていく。頭がぼうっとしてきた。
こんなにくっついて寝てたら五瓶に風邪がうつってしまう。それに今のおれ、汗かいてめちゃくちゃ臭いだろうし……ああもう、どうしたらいいんだ。
「五瓶、暑いって」
こう言えばさすがに離してくれるだろうか、藁にも縋るような思いで訴えてみる。おれの読みは当たったらしく、五瓶はおれを抱きしめる腕から力を抜いて少しだけ身体を離した。ただ、その顔は明らかに不服そうに見えたけど。
「小高先輩、顔赤い」
「え……」
「熱、上がったのかも」
五瓶の手が頬にぺたりと当てられた。ほんの少し身じろぎしただけでも触れてしまいそうなほど近くで、五瓶はじっとおれの目を覗き込んでいる。
むせかえるように五瓶の匂いがして、めまいがした。さっきまで全然気にならなかったのに。それになんか、こいつの手も。
「……なんか、お前も体温高くない?」
「そうでしょうか」
それは決して出まかせに言った冗談ではなく、本当のことだった。五瓶の手だけではなく、おれを抱きしめる腕も胸も、触れている部分がいつもより明らかに熱を持っている。
「うん、いつもより熱いよ。本当に風邪うつしちゃったかな」
見上げると目が合った。五瓶は何故か少し嬉しそうに目を細めている。
「よかった。なら小高先輩は、すぐ治りますね」
「よくないだろ。風邪はひき始めが肝心だから、今日は夜更かししないで早く寝ろよ」
「小高先輩が一緒に寝てくれたら早く寝ます」
「お前な……」
おれがどんなに説得したところで、結局こいつは聞く気などないのだろう。何だかもうどうでもよくなってきた、好きにさせておけばいいか。もし本当に風邪がうつってもそれは五瓶の自業自得だ、おれは何度もくっつくなって止めたんだし。
そこでおれは、はたと大事なことを思い出した。
そう言えばおれと五瓶、クラスの奴らに誤解されたままなんだっけ。昨日の今日で二人揃って休んだりなんかしたら、かえってあの誤解に信憑性を持たせてしまうのではないか。それはまずい。
「もし俺に風邪がうつってたら、今度は小高先輩が俺の世話してくださいね」
「そっ、それはダメ! 絶対!」
「なんでですか」
五瓶はむっとしたように口を尖らせている。
「二日も続けて二人一緒に欠席したら、また変な噂が広まるだろ」
「噂? あー……まだそんなこと気にしてんすか」
心底あきれたように深々とため息をつくと、五瓶はふいとおれから目を逸らした。
「そんなこととは何だ、大事なことだろ。大体、まだ誤解もちゃんと解けてないのに」
「だからそれは、ほっとけばいいんです。小高先輩がそうやってむきになって否定するから、みんな面白がって本気にするんですよ」
「だ、だけど……誤解は誤解だって、ちゃんと意思表示しないと」
何だかこれ、昨日話した時と同じ展開になってきてるような気がする。元はと言えばこいつの言葉が足りないせいでこんな厄介な誤解が広まっているというのに、なんで五瓶はこう他人事みたいに無関心でいられるんだ。
「俺は別に周りからどう思われたってどうでもいいんですけど、小高先輩はそんなに嫌ですか」
まるでおれの心の声が聞こえたのかと思うほど絶妙なタイミングでそんなことを言われて、一瞬心臓が縮み上がった。五瓶は相変わらず少し不機嫌そうな目をしてそっぽを向いたままだ。
「い、嫌とかそういう問題じゃなくて……」
「じゃあ、どういう問題なんですか」
変な噂立てられて困るとか、五瓶だって迷惑だろうとか、おれが本当に気にしてるのはそんなことじゃない。
こいつの考えてることがさっぱり分からない、それが嫌なんだ。
どうしてそんな他人事みたいに、興味なさそうな顔していられるんだよ。おれ一人がこんなにむきになって否定してんの、なんかバカみたいじゃんか。
「……なんで五瓶は、そんな平気でいられんの」
「え?」
唇をぎゅっと噛んで、下を向いた。
「どう思われたってどうでもいいなんて、おれはそんなふうには思えないよ。じ、自分が……どう思われてるのか、気になんの、当たり前じゃん」
「……」
「なのにお前、おれには難しいとか、分からないなら分からなくていいとか言って、全然何も教えてくれないから……おれだって考えてんだよ、これでも」
ああ、なんかもう頭ん中ぐちゃぐちゃだ。やっぱり熱が上がってるのかも、こんなこと言うつもりじゃなかったのに。
年下の五瓶に子供扱いされてるのは、おれだって分かってる。おれは背も低いし身体も小さいし、そういう扱いをされるのは仕方ないって分かってるけど、だからって心まで小さな子供のままってわけじゃない。
ここまであからさまに子供扱いされたり、興味なさそうな顔されたり、そんな態度とられて何とも思わないわけがないだろ。
どう思われてるのか、こんなに気にしてるのはおれだけなんて、バカみたいで情けなくて恥ずかしくて、でもそんな格好悪いこと言えないんだよ。だっておれの方が年上なんだから。
不意に、五瓶の大きな手がおれの髪をそっと撫でた。壊れやすいものを扱うみたいに、触れているのかいないのか分からないくらい優しい手つきで。
「すみませんでした」
それが何に対しての謝罪なのかは分からなかったけど、五瓶におれの思っていることがほんの少しだけでも伝わったからこそ出てきた言葉なのだろう。何だか急に恥ずかしくなってきて、五瓶の目がまともに見られない。
おれの髪を撫でながら、五瓶は小さくため息をついた。
「小高先輩には黙ってようと思ってたんですけど。こっちの寮に来た日の夜、風呂で二年の先輩たちが小高先輩のことを可愛いって言ってるの聞いちゃって」
「……え?」
顔を上げると、髪を撫でる五瓶の手がふと止まる。
「小高先輩の教室に行ったのは、その人たちを牽制するためです。小高先輩に妙な真似しないようにって。まさかそんなこと本当にする人がいるとは思ってませんけど、万が一ってこともあるんで。結果的に俺と小高先輩の関係が誤解されてるんならそれはそれで好都合だから、黙ってればいいと思ったんですよ」
「な……なに、言って」
その時のおれはよっぽど間抜けな顔をしていたのだろう、五瓶はばつが悪そうに目を泳がせている。
なんでおれのこと可愛いって言ってる奴がいたら、そいつを牽制する必要があるんだ。そもそも、牽制って何に対してだよ。妙な真似って何だ。
「妙な真似って?」
はあ、と深いため息をつくと、五瓶はほとんど独り言みたいにぼそっと呟いた。
「言わせますか、それ」
「わ……わっかんないんだよ、お前の言ってること! もっと分かりやすく言えっての」
思わず声を上げてしまった。本当にこいつはどうしてこう、難解な話し方をするんだろう。言葉が足りないというより、こいつの中だけにしかない前提を言わずに話を進めるから、聞いてるこっちは始めから置いてきぼりにされたままなのだ。いちばん大事なところをすっ飛ばして話されても理解できるわけがない。
「まだ分からないんですか? なんか、小高先輩って……」
「なんだよ」
何か言いかけて、やめる。おれが見ても分かるほど不機嫌そうな顔で、五瓶はこっちを見ようとしない。
しばらくその状態でおれも五瓶も黙っていたけど、先に口を開いたのは五瓶の方だった。
「小高先輩って、意外と鈍いんですね」
周りの空気の密度が変わったのが分かる。五瓶の顔が急に近づいてきて、今にも触れそうなところでぴたと止まった。
「……」
咄嗟に離れることも抵抗することもできず、おれは完全に息を止めていた。心臓の音がうるさい。
「言葉で言うより、実際にしてあげた方がちゃんと分かってくれるのかな」
五瓶が喋る度に、五瓶の吐息がおれの唇に触れる。ほんの少しでも動こうものなら五瓶の唇に触ってしまいそうで、おれはぴくりとも動けなかった。
まだおれの頭に添えられていた五瓶の手がするりと下りて、後ろから頭をそっと押さえられる。
「ご、五瓶……?」
や、ヤバい。このままだと、本当に。
その時、枕元からスマホの振動する音が聞こえてきた。その音は一回で途絶えることなく、断続的に繰り返し鳴り響いてくる。
すぐ目の前で五瓶はまつ毛を伏せると、おれからそっと離れた。
「……あーあ、残念。あと少しだったのに」
「な……」
五瓶はまるで何事もなかったように身体を起こし、枕元に置いてあった自分のスマホを手に取った。
「はい、五瓶です。……ああ、はい。分かりました、今行きます」
どうやら電話がかかってきたみたいだけど、五瓶は話を短く切り上げるとすぐに通話を切った。
「……誰?」
「食堂からです。鍋焼きうどんできたみたいだから、取りに行ってきます」
「あ……そ、そっか。うん」
よっこいしょ、と言いながら立ち上がる五瓶を、横になったままぼうっと見上げる。まだ動悸が収まりそうにないし、背中に変な汗をかいている。これ、五瓶に気付かれてないよな?
その時、目が合った。
「さっきの続きは、風邪が治ったらですね」
おれを見て意味ありげに薄く笑いながら、五瓶は確かにそう言った。
「え……」
「すぐ戻ります」
茫然としているおれを放置して、目の前でドアが静かに閉まる。
さっきの続きって、何だよ。妙な真似って何?
まだ肝心なことは何も聞けてないのに、なんで。
「……」
なんでこんな、ドキドキしてんの? おれ。
前髪の隙間から覗いていた、おれを見つめる五瓶の目。その奥にあいつがずっと隠し持っていたものを、もしかしたらおれは見つけてしまったのかもしれない。おれが今まで見ていた五瓶とは少し……いや、だいぶ違う。それだけは分かった。
どうやらおれの生活に安息が戻ってくるのは、当分先のことになりそうだ。
五瓶はすぐ近くでおれの顔をじっと見つめながら、ゆっくりとおれの髪を撫でていた。まるで愛おしいものを撫でるような優しい手つきが気持ちよくて、おれは目を閉じて五瓶の感触に身を委ねていた。
(……なんか、猫になったみたいな気分)
熱がある時にみる夢って支離滅裂で、後から思い出しても意味がさっぱり分からない内容のことがほとんどだけど、今日の夢はそんなに無茶苦茶って感じでもなかった。むしろ穏やかで優しくて、すごくいい夢だったような気がする。
「ん……」
なんだろう。柔らかくて冷たくて、すごく気持ちいい。
夢からゆっくりと醒めていく感覚。目の脇に当てられたひんやりとした何かの感触で、それまでおぼろげだった五感が少しずつはっきりとしてくる。
瞼を上げると、見慣れた部屋の天井が視界に映った。そっと顔を横に向けた時、枕に何かがぱさっと落ちる。濡れたタオルのようだ。
何だろ、これ。
タオルを拾い上げると、枕のすぐ横に五瓶の顔がどアップで現れておれは固まってしまった。
「……五瓶?」
五瓶は目を閉じていて、少し開いた唇からは規則正しい微かな寝息が聞こえてくる。改めて布団の方を見ると、五瓶は布団の横でおれに寄り添うように横になっていた。
ぼうっと五瓶の寝顔を眺めていたら、寝息がふと止まった。瞼がゆっくりと上がって、その眼がおれを捉える。
「あ……」
目が合った途端、五瓶は少し下を向いてあくびをした。
「すいません、完全に寝てました」
「あ、いや……おれもさっきまで寝てたし」
濡れタオルを自分の額にそっと置いて、さり気なく五瓶から目を逸らす。
「これ、五瓶が持ってきてくれたのか。ありがと」
「汗かいてたから、軽く拭いておきました。後で着替えた方がいいと思います」
そうか、寝ているおれの汗を拭いてくれてたんだな。言われてみると確かに、いつの間にやら全身にじっとりと汗が滲んでいる。パジャマとして着ている長袖のTシャツも自分の汗で湿っているのが分かるくらいだ。
「あ……ごめん。五瓶の布団なのに、こんな」
「いいですよ、そんなの」
「でもおれ、今めちゃくちゃ汗臭いし」
やっぱり朝のうちに自分のベッドへ戻っておけばよかった。のろのろと身体を起こそうとすると、五瓶の腕が伸びてきて肩をそっと押さえられた。また布団に押し戻され、仕方なく枕に頭を沈める。
「いいから、今は寝ててください。もう昼過ぎですけど、何か食べられそうですか?」
そう言えば窓の外は明るく、部屋の中にも柔らかな日差しが満ちている。朝はまだ外が薄暗かったのに。時間の経過した感覚が全くない、何だか変な感じだ。
「ちょっとだけ、腹減ってる……かも」
「よかった。ちょうど今、食堂で煮込みうどん作ってもらってるんです。後で持ってきますね」
「なんか、ごめん……ホントに」
実家で風邪をひいてもここまで手厚く面倒をみてもらったことはない。ましてや他人にこんな優しくされたこともないから、嬉しいよりも申し訳ないと思う気持ちの方が勝ってしまう。
五瓶はおれの額からそっとタオルを取ると、おれの目の脇や首筋をそれで丁寧に拭き始めた。
「いっ、いいよ。汗くらい自分で拭くから」
「じっとしててください」
「いいって……」
そう言いつつも、五瓶の手つきは思いのほか丁寧で優しくて、濡れたタオルの少しひんやりした感触も火照った肌に心地いい。
なんかこの感触、さっき夢の中でも似たような感覚を感じていたような。なんだっけ……だめだ、もう思い出せない。起きる直前までは夢の内容、確かに覚えてたのに。
おれの汗を粗方拭き終えると、五瓶は寝そべったまま枕元にあるトレイの上に濡れタオルを置いた。
あれこれ世話を焼いてもらっておいてなんだけど、こうもおれに付きっきりでいたら五瓶に風邪がうつるんじゃないかな。さっきからずっとおれのすぐ横で寝そべってるし。
「五瓶に風邪、うつってないといいんだけど」
「毎晩あれだけくっついて寝てたら、もうとっくにうつってると思います」
「そ、それは、まあ……そうかもしんないけど」
ちらと五瓶の顔を見る。相変わらずの仏頂面だけど、特に具合が悪そうな様子は今のところ見られない。でも今は何ともないからって安心できるとも限らないのだ。もしかしたら今日の夜に風邪の症状が出てくるかもしれないし、おれみたいに熱を出すかもしれない。
「うつると良くないから、今夜は一緒に寝るのナシな」
そんなことわざわざ言うまでもなく五瓶は承知していると思うが、念のため今のうちに忠告しておこう。今夜だけでなく、おれの風邪が治るまで当分は無理だろうけど。
「嫌です」
妙にきっぱりと、五瓶はそう言い放った。
「え……」
「俺は小高先輩と一緒じゃなきゃ眠れないって、分かってますよね」
「そ、そんなこと言っても仕方ないだろ。五瓶に風邪うつすわけにいかないんだから」
「だからって一人で寝て、睡眠不足になる方がよっぽど身体に悪いですよ」
「あっ……」
五瓶は更にこっちへ身体を寄せると、腕を伸ばしておれを横に向かせて、いつも夜に寝る時みたいにおれの身体をぎゅっと抱き寄せた。ただひとつだけ、いつもは五瓶がおれを後ろから抱きしめて寝るのに、今は向かい合って抱きしめられているという点だけが違っている。
あまりに突然のことで抵抗する隙もなかった。まだ微熱の残る頭でこの状況を正確に把握しようとしてもひどく時間がかかる。ぼうっとしたまま五瓶の腕の中からその顔を見上げていると、五瓶はおれの首筋に顔を寄せてきた。
「ち、ちょっと……五瓶」
五瓶の鼻先が首筋を掠めた時、体がピクッと小さく震えてしまう。五瓶の胸元をぎゅっと押して離れさせようとしてもびくともしない。腕に力が入らない。
おれの非力な抵抗などお構いなしに、五瓶は更に自分の身体をおれに密着させるように強く抱きしめた。
「だっ……だめだって。もう」
ヤバい、ヤバいって、これ。変なとこ、当たってる。
全然そんなつもりないのに、本当なのに、なんか変な気分になってきた。自分でも信じられないくらいドキドキしてきて、動悸が全く収まらない。
「人にうつすと早く治るって、よく言いますよね」
「ご……五瓶」
耳元で五瓶の低い声が囁く度に、身体の奥がざわざわ揺れる。
「俺にうつしていいよ。小高先輩が早く元気になれるんなら、その方がいい」
「ば、バカ。なに言って……」
勝手に体温がどんどん上がっていく。頭がぼうっとしてきた。
こんなにくっついて寝てたら五瓶に風邪がうつってしまう。それに今のおれ、汗かいてめちゃくちゃ臭いだろうし……ああもう、どうしたらいいんだ。
「五瓶、暑いって」
こう言えばさすがに離してくれるだろうか、藁にも縋るような思いで訴えてみる。おれの読みは当たったらしく、五瓶はおれを抱きしめる腕から力を抜いて少しだけ身体を離した。ただ、その顔は明らかに不服そうに見えたけど。
「小高先輩、顔赤い」
「え……」
「熱、上がったのかも」
五瓶の手が頬にぺたりと当てられた。ほんの少し身じろぎしただけでも触れてしまいそうなほど近くで、五瓶はじっとおれの目を覗き込んでいる。
むせかえるように五瓶の匂いがして、めまいがした。さっきまで全然気にならなかったのに。それになんか、こいつの手も。
「……なんか、お前も体温高くない?」
「そうでしょうか」
それは決して出まかせに言った冗談ではなく、本当のことだった。五瓶の手だけではなく、おれを抱きしめる腕も胸も、触れている部分がいつもより明らかに熱を持っている。
「うん、いつもより熱いよ。本当に風邪うつしちゃったかな」
見上げると目が合った。五瓶は何故か少し嬉しそうに目を細めている。
「よかった。なら小高先輩は、すぐ治りますね」
「よくないだろ。風邪はひき始めが肝心だから、今日は夜更かししないで早く寝ろよ」
「小高先輩が一緒に寝てくれたら早く寝ます」
「お前な……」
おれがどんなに説得したところで、結局こいつは聞く気などないのだろう。何だかもうどうでもよくなってきた、好きにさせておけばいいか。もし本当に風邪がうつってもそれは五瓶の自業自得だ、おれは何度もくっつくなって止めたんだし。
そこでおれは、はたと大事なことを思い出した。
そう言えばおれと五瓶、クラスの奴らに誤解されたままなんだっけ。昨日の今日で二人揃って休んだりなんかしたら、かえってあの誤解に信憑性を持たせてしまうのではないか。それはまずい。
「もし俺に風邪がうつってたら、今度は小高先輩が俺の世話してくださいね」
「そっ、それはダメ! 絶対!」
「なんでですか」
五瓶はむっとしたように口を尖らせている。
「二日も続けて二人一緒に欠席したら、また変な噂が広まるだろ」
「噂? あー……まだそんなこと気にしてんすか」
心底あきれたように深々とため息をつくと、五瓶はふいとおれから目を逸らした。
「そんなこととは何だ、大事なことだろ。大体、まだ誤解もちゃんと解けてないのに」
「だからそれは、ほっとけばいいんです。小高先輩がそうやってむきになって否定するから、みんな面白がって本気にするんですよ」
「だ、だけど……誤解は誤解だって、ちゃんと意思表示しないと」
何だかこれ、昨日話した時と同じ展開になってきてるような気がする。元はと言えばこいつの言葉が足りないせいでこんな厄介な誤解が広まっているというのに、なんで五瓶はこう他人事みたいに無関心でいられるんだ。
「俺は別に周りからどう思われたってどうでもいいんですけど、小高先輩はそんなに嫌ですか」
まるでおれの心の声が聞こえたのかと思うほど絶妙なタイミングでそんなことを言われて、一瞬心臓が縮み上がった。五瓶は相変わらず少し不機嫌そうな目をしてそっぽを向いたままだ。
「い、嫌とかそういう問題じゃなくて……」
「じゃあ、どういう問題なんですか」
変な噂立てられて困るとか、五瓶だって迷惑だろうとか、おれが本当に気にしてるのはそんなことじゃない。
こいつの考えてることがさっぱり分からない、それが嫌なんだ。
どうしてそんな他人事みたいに、興味なさそうな顔していられるんだよ。おれ一人がこんなにむきになって否定してんの、なんかバカみたいじゃんか。
「……なんで五瓶は、そんな平気でいられんの」
「え?」
唇をぎゅっと噛んで、下を向いた。
「どう思われたってどうでもいいなんて、おれはそんなふうには思えないよ。じ、自分が……どう思われてるのか、気になんの、当たり前じゃん」
「……」
「なのにお前、おれには難しいとか、分からないなら分からなくていいとか言って、全然何も教えてくれないから……おれだって考えてんだよ、これでも」
ああ、なんかもう頭ん中ぐちゃぐちゃだ。やっぱり熱が上がってるのかも、こんなこと言うつもりじゃなかったのに。
年下の五瓶に子供扱いされてるのは、おれだって分かってる。おれは背も低いし身体も小さいし、そういう扱いをされるのは仕方ないって分かってるけど、だからって心まで小さな子供のままってわけじゃない。
ここまであからさまに子供扱いされたり、興味なさそうな顔されたり、そんな態度とられて何とも思わないわけがないだろ。
どう思われてるのか、こんなに気にしてるのはおれだけなんて、バカみたいで情けなくて恥ずかしくて、でもそんな格好悪いこと言えないんだよ。だっておれの方が年上なんだから。
不意に、五瓶の大きな手がおれの髪をそっと撫でた。壊れやすいものを扱うみたいに、触れているのかいないのか分からないくらい優しい手つきで。
「すみませんでした」
それが何に対しての謝罪なのかは分からなかったけど、五瓶におれの思っていることがほんの少しだけでも伝わったからこそ出てきた言葉なのだろう。何だか急に恥ずかしくなってきて、五瓶の目がまともに見られない。
おれの髪を撫でながら、五瓶は小さくため息をついた。
「小高先輩には黙ってようと思ってたんですけど。こっちの寮に来た日の夜、風呂で二年の先輩たちが小高先輩のことを可愛いって言ってるの聞いちゃって」
「……え?」
顔を上げると、髪を撫でる五瓶の手がふと止まる。
「小高先輩の教室に行ったのは、その人たちを牽制するためです。小高先輩に妙な真似しないようにって。まさかそんなこと本当にする人がいるとは思ってませんけど、万が一ってこともあるんで。結果的に俺と小高先輩の関係が誤解されてるんならそれはそれで好都合だから、黙ってればいいと思ったんですよ」
「な……なに、言って」
その時のおれはよっぽど間抜けな顔をしていたのだろう、五瓶はばつが悪そうに目を泳がせている。
なんでおれのこと可愛いって言ってる奴がいたら、そいつを牽制する必要があるんだ。そもそも、牽制って何に対してだよ。妙な真似って何だ。
「妙な真似って?」
はあ、と深いため息をつくと、五瓶はほとんど独り言みたいにぼそっと呟いた。
「言わせますか、それ」
「わ……わっかんないんだよ、お前の言ってること! もっと分かりやすく言えっての」
思わず声を上げてしまった。本当にこいつはどうしてこう、難解な話し方をするんだろう。言葉が足りないというより、こいつの中だけにしかない前提を言わずに話を進めるから、聞いてるこっちは始めから置いてきぼりにされたままなのだ。いちばん大事なところをすっ飛ばして話されても理解できるわけがない。
「まだ分からないんですか? なんか、小高先輩って……」
「なんだよ」
何か言いかけて、やめる。おれが見ても分かるほど不機嫌そうな顔で、五瓶はこっちを見ようとしない。
しばらくその状態でおれも五瓶も黙っていたけど、先に口を開いたのは五瓶の方だった。
「小高先輩って、意外と鈍いんですね」
周りの空気の密度が変わったのが分かる。五瓶の顔が急に近づいてきて、今にも触れそうなところでぴたと止まった。
「……」
咄嗟に離れることも抵抗することもできず、おれは完全に息を止めていた。心臓の音がうるさい。
「言葉で言うより、実際にしてあげた方がちゃんと分かってくれるのかな」
五瓶が喋る度に、五瓶の吐息がおれの唇に触れる。ほんの少しでも動こうものなら五瓶の唇に触ってしまいそうで、おれはぴくりとも動けなかった。
まだおれの頭に添えられていた五瓶の手がするりと下りて、後ろから頭をそっと押さえられる。
「ご、五瓶……?」
や、ヤバい。このままだと、本当に。
その時、枕元からスマホの振動する音が聞こえてきた。その音は一回で途絶えることなく、断続的に繰り返し鳴り響いてくる。
すぐ目の前で五瓶はまつ毛を伏せると、おれからそっと離れた。
「……あーあ、残念。あと少しだったのに」
「な……」
五瓶はまるで何事もなかったように身体を起こし、枕元に置いてあった自分のスマホを手に取った。
「はい、五瓶です。……ああ、はい。分かりました、今行きます」
どうやら電話がかかってきたみたいだけど、五瓶は話を短く切り上げるとすぐに通話を切った。
「……誰?」
「食堂からです。鍋焼きうどんできたみたいだから、取りに行ってきます」
「あ……そ、そっか。うん」
よっこいしょ、と言いながら立ち上がる五瓶を、横になったままぼうっと見上げる。まだ動悸が収まりそうにないし、背中に変な汗をかいている。これ、五瓶に気付かれてないよな?
その時、目が合った。
「さっきの続きは、風邪が治ったらですね」
おれを見て意味ありげに薄く笑いながら、五瓶は確かにそう言った。
「え……」
「すぐ戻ります」
茫然としているおれを放置して、目の前でドアが静かに閉まる。
さっきの続きって、何だよ。妙な真似って何?
まだ肝心なことは何も聞けてないのに、なんで。
「……」
なんでこんな、ドキドキしてんの? おれ。
前髪の隙間から覗いていた、おれを見つめる五瓶の目。その奥にあいつがずっと隠し持っていたものを、もしかしたらおれは見つけてしまったのかもしれない。おれが今まで見ていた五瓶とは少し……いや、だいぶ違う。それだけは分かった。
どうやらおれの生活に安息が戻ってくるのは、当分先のことになりそうだ。


