「……三十七度、四分」
「微熱ですね」
 体温計の電源スイッチを押しながら小さくため息をつく。まさか昨日の今日で本当に熱を出すとは思ってなかった。
 いや、一昨日の夜の時点で既に熱はあったのかもしれない。五瓶もおれの体温がいつもより高いって言ってたし。頭がぼんやりして集中力が落ちてると感じていたのも決して気のせいではなく、発熱していたせいだったのか。
 五瓶の布団で横になったまま、すぐそばに座っておれを見下ろしている五瓶に体温計を渡した。
「悪いんだけど、学校行ったらおれのクラスの担任に風邪で休むって伝えといてくれるかな。もし職員室にいなかったら、教室行ってそこにいる誰かに伝言頼んでくれればいいから」
「分かりました」
 しかし、五瓶はその場から立ち上がろうとしない。そろそろ着替えて朝食を食べてこないと遅刻ギリギリの時間になってしまう。
「……なんだよ。早く準備しないと、遅刻するぞ」
「はあ」
 おれに言われて、ようやく重い腰を上げている。面倒な伝言役を頼まれて機嫌を損ねているのかもしれない。
 おれだって申し訳ないとは思うけど……ルームメイトが風邪ひいて弱ってる時くらい、優しい言葉のひとつもかけられないもんなのか。まあ、こいつにそんな細やかな気配りができるほど繊細な神経があるとは思ってないから、いいんだけどさ。別に。

「食欲は、ありますか」
「え?」
 制服に着替えながら、五瓶は唐突に聞いてきた。
「もし食べられそうなら、食堂から適当に何か持ってきます」
「い、いいよ。後で自分で行くから」
「今日も冷えるし、あんまりフラフラ出歩くと治りが遅くなるかもしれません。小高先輩は熱が下がるまで部屋から出ないでください」
 大げさな、そう言おうとしたけど、五瓶の言うとおりかもしれないと思った。今週の初めから急に気温が下がって季節が一気に秋から冬へと進んだみたいで、それがこの発熱の原因なのだろう。とにかく今は充分な栄養をとって大人しく寝ていること、おれにできることはそれだけだ。五瓶に遠慮して自分だけでどうにかしようと下手に動き回っていたら、かえって風邪が悪化して五瓶の手間を増やすことになる可能性だってある。
「……ごめん」
 掛け布団を顔半分まですっぽりと被り、か細い声で謝る。耳も布団で覆っているからはっきりとは聞き取れなかったけど、五瓶は小さくため息をついていた。
「なんで謝るんですか」
「だって……」
「病人なんだから、世話焼かれるのは当たり前でしょう」
 それは確かにそうかもしれないけど、一応おれにだって先輩としてのメンツってものがあるのだ。相部屋になった途端に体調崩して後輩に面倒みてもらうとか、こんな情けない話もそうそうあるものじゃない。五瓶はそんなこと全く気にしてないだろうけど。
「なるべく早く戻りますから、小高先輩は大人しく寝ててくださいよ」
「……分かった」
 五瓶はさっさと部屋を出て行った。

 ドアが閉まると、部屋の中が急にしんと静かになる。掛け布団からそろそろと顔を出して、五瓶がいないことを確認した途端ほっとため息が出た。
 さて、どうするかな。起きた時から熱と倦怠感で起き上がれず今も五瓶の布団に寝たままだけど、一日中ここで横になってるのは良くないだろう。五瓶だって嫌だろうし。
 自分のベッドに戻ろうと少しだけ身体を起こしてみたものの、頭がふらついてすぐに断念した。全身が鉛のように重い。やっぱり五瓶の言うとおり、ふらふら動き回ろうとしないで大人しく寝てないとダメか。ちょっと身体を起こしただけでこんなんじゃ、普段なら考えられないような失敗をやらかしそうな気がする。
 ベッドに移るのを諦めてまた五瓶の布団で横になり、枕に頬を押しつけて掛け布団の中に潜り込もうとした時、布団の奥からほのかに暖かい空気がふわりと漂ってきた。
「……」
 五瓶の匂いがする。
 ついさっきまで全然気にならなかったのに、なんで急に。

『……小高先輩の髪、すごくいい匂いする』

 毎晩あれだけくっついて寝ているのだから、おれも五瓶もとっくに同じ匂いになっていると思ってた。その証拠におれは五瓶と一緒に寝ている時、あいつの匂いを意識したことなんて今まで一度もなかったのだ。どんなに体臭の薄い奴だって匂いが全くしないということはなく、他人の体臭が漂う中で眠るなんて耐えられないのが普通の感覚だと思う。それなのに五瓶の匂いを意識したことがないって、おれっておかしいのかな。
 でも、五瓶は違っていたみたいだ。おれの髪の匂いをおれの匂いとして認識していた。
 じゃあ、体の匂いもそうだったのかな。おれが今まで意識してなかっただけで、あいつの方はおれの体からどんな匂いがするのか知っているのかな。

 ……何なんだ、これ。
 そんなの今更考えたってどうしようもないのに、なんかもうめちゃくちゃ恥ずかしいんだけど。
 男の体臭なんて決して好ましい匂いのするものじゃないはずなのに、五瓶はおれの匂いを嗅いで『いい匂い』だと言っていた。変わり者もあそこまで行くともはや病的だろ。
 いや待て。もしかしたらあれって実家の愛猫の匂いと似てるとか、そういう意味だったのかも。前におれのこと小動物っぽいって言ってたし、なんかそう考えるのがいちばんしっくりくるような気がしてきた。
 おれだって実家にいる犬の匂いを嗅ぐのは大好きだけどそれはあいつが大切な家族だからであって、他人からすればよその家で飼われてる動物の匂いなんて積極的に嗅ぎたいような匂いではないだろう。よほど動物が好きな奴なら、まあ分かるけど。

 五瓶の言ったことの意味を考えながら悶々としていると、ドアが外から控えめにノックされた。
「小高先輩、入りますよ」
 そう言いながら間髪入れずにドアが開く。五瓶はいつものように頭を屈めて部屋に入ると、ドアを静かに閉めた。
 なんだ、早く戻るって言ってた割にはずいぶんと時間がかかったみたいだけど。
 布団から顔を出してそっちを見ると、五瓶は手に食堂のトレイを持っている。そこには一人用の小さな土鍋が載せられていた。
「これ、食堂のおばちゃんに頼んで作ってもらいました。食べられそうなら食べてください」
 五瓶は布団の横に膝をつきながら土鍋の蓋を取った。その途端、中からほかほかと湯気が立ち昇ってくる。どうやら玉子粥のようだ。
「あ……うん。悪いな、ありがと」
「それと、飲み物ももらってきました。汗かいたらできるだけ水分摂ってください」
 さっきは気付かなかったけど、五瓶は腕にビニール袋を提げている。中から二リットルのスポーツドリンクの入ったペットボトルを取り出すと、一緒に持ってきたコップに注いでくれた。
「重かっただろ、ごめんな」
「いえ、全然」
 こともなげにあっさりと返される。熱のせいで思うように動けないからそう感じるのだろうけど、その時のおれには五瓶がとても頼もしく見えた。風邪をひいた時って普段より気弱になるから、誰かにほんのちょっと優しくされただけでもそのありがたみがひどく胸に沁みるものだ。
(……まずいな)
 もしおれが女だったら、五瓶の優しさにコロッと参っていたと思う。誰かに惹かれるきっかけなんてそのくらい些細なものだ。熱でいつもより判断力が鈍っているような状態なら尚のこと、他人からの優しさにあっけなく心を奪われてしまうんじゃないだろうか。

「今のところは微熱があるだけなんですよね。喉が痛いとか、鼻がつまってるとか、そういうのはないですか?」
「う、うん。体がだるいのと、ちょっと寒気がするくらい……かな」
「じゃあ、しばらく様子見ましょうか。もしつらくなってきたら言ってください、後で風邪薬もらってくるんで」
「あ……ありがと」
 何から何まで至れり尽くせりだ。そう言えばこいつ、そろそろ学校行かないと遅刻するんじゃないか。こんなことやってる余裕なんてないはずなのに。
「あの、五瓶。学校は……」
「俺も今日は休むって言ってきました」
「……え、ええ? なんで」
「担任には二人とも休むってちゃんと伝えてきたので、大丈夫です」
「いやっ、じゃなくて! なんでお前まで休むんだよ、風邪ひいてないのに」
 身体を起こそうとしたけど、五瓶の大きな手がおれの額を軽く押さえてそれを制した。また布団に身体を沈めるおれを五瓶は表情ひとつ変えずに見下ろしている。
「小高先輩が心配だからです」
 返答に詰まってしまう。いつもは言葉が足りないのに、こういう時だけはストレートに言うって、卑怯だろ。
「こ、子供じゃないんだから、一人でも平気だって……」
「小高先輩は平気でも、俺は平気じゃないんです」
 額から五瓶の手がそっと離された。

 熱のせいだ。他人からのちょっとした優しさが胸に沁みるのは、いつもより判断力が鈍っているせいなんだ。
 五瓶が頼もしく見えるのも、おれのために休んでくれて嬉しいって思うのも、みんな熱があるからそう錯覚してるだけだ。
 いつものおれだったら、絶対にこんなこと考えない。今のおれはおかしいんだ。

「……五瓶」
「何ですか?」
 どうせいつものおれと違うのなら、普段は言えないことも今なら言えるかな。熱のせいってことにしちゃえばいいんだし。
「……ありがとう」
 熱のせいだと自分で自分に言い聞かせながら言ってみたけど、改まってこんな素直に言うのはやっぱり恥ずかしい。熱がある状態でこれだけ恥ずかしいって、普通の状態だったら絶対に言えないだろうな。
「いえ……」
 五瓶の表情はやっぱり変わらなかったけど、何故かおれから目を逸らしてしまった。おれが珍しくしおらしい態度だから気味悪がってるのかもしれない、やっぱり言うんじゃなかった。
「俺、談話室で課題やってきます。この時間なら誰もいないし」
「えっ……あ」
 腰を上げかけた五瓶のブレザーの裾を、咄嗟に掴んでしまった。五瓶は中腰の状態で固まったまま、ぽかんとしておれを見下ろしている。
「あっ、あの……ごめん」
 あわててぱっと手を離す。なに引き留めてんだ、おれのバカ。
「……ここにいた方が、いいですか?」
 五瓶は膝をついておれの顔を覗き込んだ。ああもう、穴があったら入りたいとはまさにこの状況だ。
「いや、あのっ、本当に気にしなくていいから! いいよ、談話室行ってきて。一人の方が集中できるだろ」
「俺がいると小高先輩が眠れないかと思ったんですけど。ここにいてもいいなら、ここにいます」
「おれは、別に……どっちでもいい」
「じゃあ、ここにいます」
「……そ、そっか」
「お粥、食べてくださいね。俺、向こうで着替えてるんで」
 五瓶は立ち上がると、制服のブレザーを脱ぎながらクローゼットの方へ歩いていった。

 子供じゃあるまいし、一人でも寝られる。
 だけど、どうしてだろう。さっき五瓶が部屋を出て行こうとしてるって思った時、急に心細くて不安でたまらなくなって、それでつい引き留めたりしてしまったんだ。行ってほしくない、ここにいてほしい、本当はそう思ってたってことなんだろうか。
 自分の気持ちなのに、自分でもよく分からない。熱が上がってきたのかな。