結局、相部屋初日の夜は明け方まで一睡もできなかった。
 五瓶はおれと布団に入ってから数分も経たないうちに寝息を立て始めていたから、よく眠れたのだろう。
 しかし、おれは眠るどころではなかった。五瓶の大きな力強い腕にがっしりと抱きしめられたこの状態では布団から抜け出して自分のベッドへ戻るなど到底無理だと早々に悟り、ならせめてさっさと眠ろうと目を瞑っても眠気は一向にやって来ない。
 身体を包み込む五瓶の体温はおれの体温よりも少し高くて、五瓶の触れている部分だけが火照ったように不自然な熱を持ったままなかなか冷めず、その熱を意識すればするほど全身のありとあらゆる感覚が敏感になっていくのが自分でも分かった。きっと交感神経が活発になっているのだろう、これでは眠れるわけがない。
 五瓶を起こしてしまうかもしれないから体勢を変えることもできず、おれはただ早く夜が終わるようにと祈るような気持ちでじっと待った。後ろから聞こえてくる五瓶の安心しきったような寝息が、何だかひどく恨めしく思えてならなかった。

 おかげで完全に寝不足である。少しでも成長ホルモンの分泌を促すため早めに床についたというのに、貴重な睡眠時間を無駄にしてしまった。
「おはようございます」
「……おう」
 枕元に置かれた五瓶のスマホのアラームで、ようやくおれの長い夜は終わった。アラームを止めると、五瓶はおれを抱きしめている腕を布団の中でそっと解いた。
「ベッドに戻ってよかったのに、ずっとここにいてくれたんですか」
「お前の力が強すぎて出られなかったんだよ」
「すみません。でも、小高先輩のおかげですごくよく眠れました」
「そうか。それは結構」
 のろのろと布団から這い出ようとすると、身体中の関節がぎしぎしと嫌な音を立てた。一晩中横になったまま動けなかった全身が悲鳴を上げているようだ。
「いてて……」
「大丈夫ですか」
 五瓶は身体を起こし、ふらついたおれの肩を横から片手で支えてくれた。
「俺のせいで寝返りも打てなかったんですね。すみません」
 そう言いながら、おれの肩や腕を優しく撫でさすっている。五瓶に肩を抱き寄せられたまま腕を撫でられているという何とも奇妙な状況だけど、大きな手のひらで撫でられる感覚は不思議と心地良くて、おれは五瓶のされるがままになっていた。
「次はもう少し腕の力抜いて、小高先輩が自由に動ける状態で寝るように気を付けます」
「え? 次って……また一緒に寝るの?」
 顔を上げると、五瓶は相変わらずの無表情でおれをじっと見下ろしている。寝起きでいつもより更にボサボサの髪の隙間から覗く目は、寝起きにもかかわらず真剣そのものだった。
「はい、今日から毎日お願いします。でないと俺、眠れないんで」

 ……冗談だろ。

 *

 五瓶が言ったことは冗談などではなく、その日からおれは五瓶の抱き枕として毎晩添い寝させられることになった。
 一応、おれが身動き取れる状態で寝られるよう五瓶なりに気を遣っているらしく、初日のように両腕でがっしりと抱きしめるのはやめるようになったけど、それは起きている間だけのことで、五瓶は眠りにつくとまたおれの身体を抱き寄せようとしてくる。実家の猫と寝ていた時もそうしていたのだろうか、時々おれの頭に手を添えて髪を優しく撫でていることもある。
 そうしている時の五瓶は、本当に安心しきっているように穏やかな寝息を立てている。夢の中で実家の猫と寝ているのかもしれない、そう思うと無下に腕を振り解いたり身体を離すこともできなくて、結局また五瓶の腕の中でじっとしているほかなかった。

 これはもはや、お人好しなどという域をとうに超えているだろう。五瓶の身の上には同情するしできることなら力になりたいとは思ってるけど、本当にここまでしてやる必要はあるのか、何だか分からなくなってきてしまった。
 五瓶だっておれが嫌だときっぱり断れば、それ以上は無理に添い寝を要求することはないだろうと思う。こいつのことはまだよく知らないけど、相手が嫌がってるのに無理強いするような奴ではないってことだけは分かる。
 毎晩添い寝してるせいで寝不足だし身体中の関節は痛いし、おれにとっていいことがひとつもない。おれが嫌だと言えば五瓶は素直に聞き入れるだろうと分かっているのに、どうしても言い出せない。
 そもそもこれ、このまま続けていてもいいのだろうか。後輩が困っていたら上級生としては助けてやりたくなるのが当たり前のことだと思うけど、かと言ってこんなこと頼まれたら普通は受け入れるものなのかな。友達に意見を聞いてみようにも、もしおれ達が毎晩こんなことをしていると周りにバレたら五瓶だって嫌だろうと思うと誰にも相談できなくて、おれは毎晩ひたすら悶々としながら五瓶の腕の中で夜が明けるのを待っていた。

 どうしたらいいのか、答えは出ないまま五瓶と相部屋になって七日目の夜。今日は朝から気温が上がらず、夜になると雨まで降り出したせいか冷え込みがいっそう強くなった。
 いつものように照明を消して五瓶の布団に二人で潜り込むと、五瓶はおれの背中にいつもよりぴったりとくっついてくる。不意に触れた五瓶の足の冷たさに、思わず肩がビクッと震えた。
「んん……」
 五瓶はいつもおれが腕の中に収まると、ため息みたいな声を漏らす。本人は無意識でやってるんだろうけど、こいつの吐息混じりの低い声は耳元で聞かされると何だかぞわぞわして変な感じがするからやめてほしい。
 不意に、後ろから抱きしめるように肩に回された五瓶の腕に力が入った。寒いからおれの体温で暖を取ろうとしているのだろうか、それは別に構わないんだけど……なんか、密着してる範囲がいつもよりかなり広い気がする。背中が当たるのは仕方ないとしても、下半身までくっついてるとどうにも落ち着かない。さり気なく脚を離そうとすると、離れようとしているのに気付いたのか五瓶はおれの脇腹の横に腕を回して、そのままぎゅっと抱き寄せた。
「ち、ちょっと……五瓶」
 もぞもぞ動いてどうにか離れようとすると、変なところが当たってしまう。五瓶は気にならないんだろうか。もう少し離れろと言おうとした時、耳元で五瓶がぼそっと呟いた。
「……なんか今日の小高先輩、体温高いですね」
「し、知るかよ。そんなの」
「熱あるのかも。今朝から急に寒くなったから」
 ふと五瓶の手が脇腹から離れたかと思うと、その手はおれの額にぴたりと当てられた。
「ひゃっ」
「ほら、やっぱり熱い」
「や、やめろよ。早く寝ろって」
「もっとこっち寄らないと、布団から脚が出て冷えちゃいますよ」
「あっ……」
 急に五瓶の脚がおれの脚に絡みついてきて、そのまま布団の奥へと引き込まれる。腕も脚も五瓶に押さえ込まれて、身動きがとれない。

 やっぱりこんなの、おかしい。
 いくら後輩が困ってるからって、普通はこんなことしない。
 なのにどうしておれ、嫌だって言えないんだろう。

「……小高先輩の髪、すごくいい匂いする」

 身体の奥で何かがぞくりと大きく震えた。五瓶がおれの頭の後ろに顔を寄せてる。今までおれの髪の匂いがどうかなんて言ってきたこと、一度もなかったのに。
「な、なに嗅いでんだよ! このヘンタイ」
「すみません」
「さっさと寝ろよ。お前が寝ないとおれだって寝られないんだから」
「小高先輩の髪の匂い嗅いでたら眠くなるかもしれないです」
「な、なに言って……」
 さっきから動揺してるのはおれだけで、五瓶の声は全くもっていつも通り落ち着いている。
 どうしてこいつ、こんなに平然としていられるんだ。今の状況が普通じゃないって分かってないのか?
 男が男の髪の匂い嗅いで『いい匂い』はないだろ。そのへんで売ってる安物のシャンプーで洗ってるんだから、取り立てて褒められるような匂いでもないはずなのに。

「もっと、嗅ぎたい。小高先輩の匂い」
 すぐ耳元で囁くようなその声に、軽くめまいがした。腰の奥に全身の熱が溜まっていく。
「や……やだって」
 絞り出した自分の声は、情けないほど掠れていた。身体の奥から膨れ上がってくる何かを五瓶から隠そうと必死で、それ以外のことを考えられない。
「……ごめん。少しだけ、我慢して」
 五瓶はおれの耳元で、深く息を吸い込んだ。

 おれの匂い、嗅いでる。
 たったそれだけなのに、どうしようもなく恥ずかしくてたまらない。
 おれがやだって言ってるのに。我慢してって、何だよそれ。

 どれだけの間そうしていたのか。一分も経っていなかったような気もするし、何時間も経ったような気もする。
 すぐ耳元で五瓶が静かに寝息を立て始めていることに気付いて、それまでずっと強張っていた全身から一気に力が抜けていった。
「……」
 何だったんだ、今のは。さっきの妙な雰囲気にあてられて混乱してたのかもしれないけど、五瓶も何だか様子が変だったような気がする。いや、こいつが変なのは今に始まったことじゃないけど。
 ああもう、元はと言えば五瓶がいい匂いとか言い出すから変な感じになったんだ。今まで一週間も毎晩添い寝してたのに、なんで急にそんなこと言い出したんだ。
 大体、なんでおれがこんなに振り回されなきゃいけないんだよ。なんか腹が立ってきた。
 五瓶の腕から強引に抜け出して布団を出ても、五瓶は目を覚ますことなくのんきな顔で眠ったままだった。
 本当に、一度寝たら起きないのか。
 今まで一人で思い悩んでいたのがバカらしくなってきて、おれはすごすごと自分のベッドに潜り込んだ。

 *

 翌朝はいつもより早めに起きると、五瓶が起きる前にさっさと身支度を整えて食堂に行った。自分でもよく分からないけど、何だか五瓶と顔を合わせるのが気まずかったのだ。
 どうせあいつはもう昨夜のことなんて綺麗さっぱり忘れているだろうけど、それでも嫌だった。

「あれ、小高おはよー。今日は一人なんだ?」
「え? あ……おはよ」
 まだ空いている食堂の端の方の席で一人黙々と朝食を食べていると、同じクラスの友達が空になった食器を載せたトレイを持って近づいてきた。
「同室のデカい一年は? お前らここんとこいつも朝メシ一緒に食ってたのに」
「あー、うん……なんか今日は、まだ寝てて」
「ふーん? まあ、あいつといると目立つからなあ。小高もたまには一人で落ち着いてメシ食いたいだろ」
「別に、そういうわけじゃ」
「いいっていいって、黙っといてやるよ。じゃあオレ部活のミーティングあるから先行くわ」
「……おう」
 笑いながら去っていく後ろ姿を見送りながら、深いため息をついてしまう。
 なんかこれじゃ、おれが五瓶を避けてるみたいじゃん。いや、確かにそうなのかもしれないけど、周りからそんなふうに思われるのはよろしくない。おれと五瓶の共同生活は表向きには順調にいっているように見せていないと、あいつにだって迷惑がかかる。下手したら五瓶がおれに何かしたんじゃないか、なんて誤解を招く可能性だってあるのだ。
 いつも通りでいないと、頭では分かっているけど、おれと五瓶がしていることは普通ではないのだと気付いてしまった以上、今までと同じようにってのは無理があるだろう。おれだってこんなこと考えたくないし、五瓶だってそんなつもりはなかったんだろうけど、昨夜のあれはやっぱり人に話せるようなことじゃない。人に話せないと思っている時点でやましい気持ちがあるってことだ。それだけは認めるしかない。
(……なんで五瓶は、平気なんだろう)
 本当にあいつ、何考えてんのか分からない。

 *

 五瓶と相部屋になってからというもの、寝不足の状態が常態化している。五瓶が部屋を出て行くまであと二週間、それまでの辛抱だと思って今までどうにか堪えてきたけど、どうやら自分で思っている以上に睡眠不足の影響は身体に出てきているようだ。
 何だか今日は朝から身体に力が入らないというか、頭がぼんやりする。授業中にじっと座っているだけでも結構しんどい、横になって眠りたくてたまらないのだ。明らかに集中力が落ちている。
 どうしようか。今夜は一人で寝かせてくれって、五瓶に言ってみるかな。五瓶には可哀想だけど、おれが体調を崩してまであいつに寄り添ってやる道理はない。

 ようやく午前の授業が終わり、昼休みがやってきた。いつものように購買へ昼食の調達に行こうと席を立った時、先に購買へ向かって教室を出て行ったはずのクラスメイトが戻ってきておれの横に近づいてきた。
「おい、小高。あいつ来てるよ、ほらあの一年」
「えっ? あ……」
 教室後方の出入り口の向こうに、まるでそこを塞ぐかのようにデカい男が立っている。周りのみんなはそこを避けるように、でも遠巻きにちらちらと五瓶の様子を窺っていた。
「珍しいな、わざわざ二年の教室まで来るなんて」
「なんか急ぎの用事なんじゃないの。小高、早く行ってやれよ」
 五瓶は黙って突っ立ったまま、じっとおれの方を見ている。おれと五瓶が相部屋になっていることはこのクラスでは既に周知の事実だから、五瓶がここに来るのはおれに用がある時だけだと思われているのだろう。
 まずい、ここだとあまりにも目立ってしまう。何の用かは分からないが、さっさと用件を聞いて自分のクラスに戻ってもらわないと。
 友達が不安そうに見守る中、おれは小走りで五瓶のところに駆け寄った。
「なんだよ、どうかしたのか?」
「身体、大丈夫ですか?」
「え? う、うん……大丈夫、だけど」
 何なんだ、いきなり。
 質問の意図が掴めず、五瓶の顔をじっと見上げてみる。相変わらず伸び放題の髪に隠れて目がよく見えないけど、五瓶もじっとおれを見ていた。
「熱、ちゃんと下がったか心配で」
 どうやら、昨夜言っていたことを本気にしているようだ。そんなことのためにわざわざ来てくれたのか。
「いや、何ともないって。もともと熱なんかないよ」
「そうですか。よかった」
 無表情のまま、五瓶はほっと小さくため息をついた。これでもう自分の教室に戻るかな、そう思った時、五瓶はそれまでずっと手に持っていたものをおれに向かってすっと差し出してきた。
「あの……これ」
 見ると、購買で販売されている特製メロンパンだ。外はカリッとして中はしっとりふわふわ、しかも濃厚なカスタードクリームがみっしりと詰まっている、購買でも特に人気のあるパンだ。当然、いつも昼休みには争奪戦になる常連の品で、午後の授業が終わる瞬間にスタートダッシュを決めて販売開始と同時に購買に行かないと絶対入手できないはずなのに。
「え、なに。くれるの? おれに?」
「はい。お詫びです」
「お詫びって……?」
 おずおずとメロンパンを受け取りながら聞いてみる。すると五瓶は、深々と頭を下げた。

「昨夜はすみませんでした。小高先輩は嫌がってたのに、無理やりあんなことして。俺、どうかしてました」

 その瞬間、それまで騒がしかった教室の中が、水を打ったようにしんと静かになった。
 五瓶は頭を上げると、少し気まずそうにおれから視線を外してしまう。
「もう小高先輩の嫌がることはしませんから、また一緒に寝てください。お願いします」
「……お、おう」
「ありがとうございます。それじゃ」
 最後にまたぺこりと頭を下げて、五瓶は廊下の向こうへと去っていった。

「……え、えっと……なに? 今の会話」
「お前らってまさか、そういう……」
 はっとして振り向くと、クラスメイト達がおれを取り囲むようにしてこっちを見ている。みんな一様に薄い笑顔を浮かべてはいるものの、その口元は戸惑ったように引きつっていた。
 ヤバい、完全に誤解されている。さっきの五瓶の言い方じゃ、おれと五瓶がただならぬ関係にあると誤解されるのも無理はない。
「ばっ、バカ違う! なに変な勘違いしてんだよ!」
 あわてて訂正しようと、動揺を露わにしたのがまずかったようだ。友達はみんな何かを察したかのように訳知り顔でうんうんと頷いている。
「あー分かった分かった。オレら、深くは聞かないから」
「こういうのは外野が口出すのは野暮だよな、うん」
「だから違うんだって!」
 もはやおれがどんなに否定しても、それに耳を貸す奴は誰一人としていなかった。