おれは夕食も風呂も友達と行ったけど、どうやら五瓶は一人で済ませてきたようだ。慣れない場所での仮住まいだから不安もあるだろうし、おれの方から一緒に行こうと誘おうかとも考えたのだが、そこまで付きっきりで面倒見られるのもそれはそれで迷惑かなと思いとどまったのだ。
それにこいつ、あんまりベタベタされるの好きじゃなさそうだし。
部屋にいる間もおれと五瓶は特に会話らしい会話もなく、お互い黙って宿題をしたりスマホで動画を見ていたりと、まるで一人でいるかのごとく思い思いに過ごしていた。これだけ狭い部屋であまり親しくもない奴と二人っきりって普通なら気まずくて耐えられないと思うんだけど、五瓶との空間は不思議と息苦しさを感じない。五瓶はおれの方を気にするような様子を微塵も感じさせないし、話しかけてもこない。おれの視界に入らない位置から動かず、それでいて変に気を遣うでもなく自分の世界で自分の好きなようにしている。
そんな五瓶を、おれは心からすごい奴だと思った。
他人に気を遣わせないようにそこにいる、というのは、簡単なようで誰にでもできることではないと知っているからだ。気を遣っている気配というやつはどんなに隠そうとしても何となく伝わるもので、相手からのそういう気遣いを意識すると余計に気まずくなってしまう。でも、五瓶からはそんな気遣いや気まずさを一切感じないのだ。
どうしてだろう。他人に興味なさそうだからかな。
そんなことを考えていると、そろそろ寝る時間が近づいていることに気付く。おれは一ミリでも身長を伸ばすため、成長ホルモンの分泌される夜は遅くても十一時前には就寝するよう心がけている。
「五瓶、おれもう寝るから。寝る時は部屋の電気消してな」
ベッドに潜り込みながら声をかけると、それまで床に敷いた布団の上で本を読んでいた五瓶はふと顔を上げてこっちを向いた。
「あ、じゃあ俺も寝ます」
「そっか。電気消していい?」
「はい」
寮の消灯時間にはまだ早いけど、身長を伸ばすためにはやむを得ない。部屋の照明を消して、今度こそ自分の布団の中に潜り込む。
「おやすみー……」
「おやすみなさい」
……なんか今の、気を遣わせてしまったかもしれない。
おれがもう寝るからって、五瓶まで同じ時間に寝なくてもよかったのに。布団で横になっている五瓶は本の続きを読んでいる様子はなく、こっちに背中を向けたままじっとしている。
立場上、五瓶はおれに気を遣って当たり前なのか。どんなにおれが気を遣うなって言っても、今の五瓶はここで居候しているようなものだし、それにおれは上級生だし。気を遣っていないように見せながら、おれの生活リズムに合わせてくれてるんだ。
悪いことしたな。五瓶がここから出て行くまでの間、就寝時間くらいはおれが五瓶に合わせてやってもいいのかもしれない。
「……ん」
不意に、五瓶はごろりと寝返りを打ってこっちを向いた。
起きたのかと思ってちらとそっちを見ても、五瓶はさっきと同じように横たわったままじっとしている。暗くて顔はよく見えないけど、眠っているように見える。
「んー……」
かと思ったら、また身体の向きを変えている。さっき寝返りを打ってから数十秒しか経っていない。
おれは息を潜めて、ベッドのすぐ横の布団で横たわっている五瓶の気配に意識を集中させた。二度目の寝返りから十秒とちょっとで、五瓶はまたごろりとこっちを向いた。
「……」
今度は声を出さなかったけど、その代わりに深いため息が聞こえてくる。
どうしたんだろう。もしかして、眠れないのかな。布団の硬さが合わなくて寝つけないのかもしれない。
先生に聞いた話では、五瓶がいた部屋は三寮の中でも特に漏水の被害が大きい場所の近くにあったらしい。備え付けの机やベッドだけでなく、布団やほとんどの衣類もずぶ濡れになってしまったと聞いている。そのため急遽予備の布団セットを寮が貸し出したのだが、身体の大きな五瓶には合っていないんじゃないのか。
「……寝れないのか?」
恐る恐る声をかけてみる。反応が返ってくることは期待していなかったけど、暗闇の中で五瓶はむくりと身体を起こした。
「はい」
腕を伸ばして枕元のクリップライトを点灯し、五瓶の方に顔を向けた。五瓶はボサボサ頭のまま宙をぼんやりと見つめている。改めて床に敷いた布団を見てみたけど、五瓶の身体が収まらないほど小さいってわけでもないようだ。やっぱり硬さが合わないのだろうか。
「布団が合わないのかな。もし寝心地が悪いなら、明日先生に言って……」
「あ、いえ。そうじゃないんです」
暗い部屋の中、電球色の光に照らし出された五瓶の横顔には濃い陰影が落ちている。そのせいか、いつもと変わらないはずの無表情が今だけは少し疲れているように見えた。
まあ、そりゃ疲れて当然だろう。漏水事故があってからまだ二日しか経っていないのに、部屋の片付けやら移動やらで休んでいる暇なんてなかっただろうし、その上慣れない部屋でよく知らない上級生と共同生活だなんて相当なストレスを感じているはずだ。この状況で熟睡できる方がどうかしている。
さっき浴場から戻る途中で友達がこぼしていた不満を思い出して、胸の奥がちくりと痛んだ。ここにいる生徒たちが三寮から来た奴らをどう思っているのか、五瓶ももうとっくに気付いているのだろう。もしかしたら、食堂や浴場で誰かに面と向かって何か言われたのかもしれない。
「何か、誰かに嫌なこと言われたのか?」
もしそうだとしても、五瓶がそれを正直に話してくれるとは思っていない。でもおれは、聞かずにはいられなかった。
「いえ。何も」
相変わらず五瓶はこっちを見ようとしない。わずかにうつむいて、抑揚のない声で答えるだけ。
「困ってることがあれば言ってな。いろいろあって疲れてるだろうけど……おれにできる範囲で、力になるから」
「本当ですか」
「ん? まあ、うん。おれにできる範囲でなら」
珍しく五瓶がわずかに食いついてきたので、おれは念を押すように同じことを繰り返し言った。力になりたいと思う気持ちに嘘はないけど、おれにできることなどたかが知れている。あまり期待を持たせるのはかえって不誠実だろう。
すると、五瓶はいきなり身体ごとこっちを向いて真っ直ぐにおれを見上げた。
「小高先輩、俺と一緒に寝てくれませんか」
ボサボサの前髪の隙間から、おれを真っ直ぐに見つめる目が覗いている。その眼差しは真剣そのもので、とても冗談を言っているようには見えなかった。
「……」
うんとも嫌とも言えず、おれはただぽかんとしていた。いや、返事なんてするまでもなく拒否一択なのは分かりきっているんだけど。
どういうことだ。もしかしてこいつ、寝ぼけてんのかな。
五瓶は布団の上で座り直し、小さな声でぽつぽつと話し始めた。
「俺、実家で小さい頃から猫飼ってたんです。すごく俺に懐いてて、夜はいつも一緒に寝てたんですけど……去年の冬に死んじゃって」
「え……」
そこで五瓶は、少しばつが悪そうにおれから目を逸らした。
「あ、いえ、違うんです。今もまだ引きずってるとかではないんです。死んじゃう一年くらい前にはもう病気だって分かってたんで、結構長く生きてたし、いつかこういう日が来るだろうなって覚悟はしてて……むしろ、よく一年ももってくれたなって思ってるくらいで」
おれも実家に子供の頃からずっと一緒に育ってきた柴犬がいるから、大切な家族を亡くした五瓶の喪失感には痛いほど共感できる。今はまだ元気だけど、いつか必ず別れなければならない時はやってくるのだ。長期の休みで帰省する度に次はいつ会えるんだろう、あと何回会えるんだろうと考えずにはいられない。その時を想像するだけで涙が堪えられなくなって、実家から寮に戻った日の夜はいつも一人で泣いているくらいだ。
五瓶は大丈夫なんだろうか。見ただけじゃ胸の内でどう思っているのかは分からないけど、こいつにも大切な家族のことを思って一人で泣いた夜があったのかな。
五瓶は自分の手に視線を落としたまま、静かに続けた。
「だけど、それまでずっとあの子と毎晩一緒に寝てたから、突然いなくなっちゃうと……なんか、一人でどうやって寝たらいいのか全然分かんなくて。寝つきが悪くなって受験勉強にも支障が出てきたから、あの子と同じくらいの大きさで手触りもよく似てるクッションを買って、それを抱き枕みたいに抱きしめて寝るようにしたら、ちゃんと眠れるようになったんです」
思いのほか、五瓶の話し声は滑らかで聞き取りやすい。静かに滔々と話す五瓶の低い声は耳に心地良くて、おれは黙ってその声に耳を傾けていた。
「ここの寮に来た時もそのクッションを持ってきて、あの子だと思って毎晩一緒に寝てたんですけど、この間の漏水でずぶ濡れになっちゃったんです。乾かしても手触りが前とは全然違う感じになっちゃったから、今はクリーニングに出してるんですけど、完全に元の状態に戻すのは難しいかもって言われて」
「……そっか」
ただのクッションでも、五瓶にとっては大切な愛猫とほとんど変わらない存在だったのだろう。そんなに大切なものを手放してしまったら眠れなくなるのは当たり前だ。
はあ、と深いため息をついて、五瓶は項垂れている。
「……あれがないと、寝られないんです。どんな体勢で横になっても、なんか収まりが悪いっていうか」
「なるほどな。だからさっきから何回も寝返り打ってたのか」
話を聞いて、おれは五瓶が不憫になった。漏水事故の被害に遭った時点でもう既に不憫だけど、愛猫のことを聞かされた後では今の五瓶の心情を思うと何とかしてあげたいと思わずにはいられない。
「はい。だから、小高先輩が一緒に寝てくれたらよく眠れると思うんですけど」
「いや……おかしいだろ、その理屈は。なんでそこでおれが添い寝するって話になるんだよ」
「小高先輩ってなんか、小動物っぽいから」
「……悪かったな、チビで」
つい不機嫌な声が出てしまう。こいつ、人の気にしてることをはっきり言いやがって。
「いや、身長のことではないです。雰囲気のことを言ってます」
「バカにしてんのか」
「違いますよ」
五瓶は不思議そうにおれを見ている。おれが言っていることの意味を本当に分かってないって顔だ。
まあ、こんな図体のデカい男におれのようなチビの気持ちを理解しろと言う方が無理があるのだろう。五瓶だって悪気があってこんなことを言ってるのではない、それくらいは分かる。
どうしたものか。一緒に寝て抱き枕になってくれなどという無茶苦茶な頼み、いつもなら絶対に聞き入れることなんかできないんだけど、今の五瓶はあまりにも可哀想だ。何とかしてあげたいとは思うし、おれにできる範囲でなら力になりたいとも思ってるけど……それが男同士での添い寝って、どうなんだよ。
これが男女だったら完全にアウトだろうけど、かと言って同性ならいいって問題でもない。当人同士に何かいかがわしい思惑が全くなくても、高校生にもなって同じ布団で寝るっていう行為自体がもう既にいかがわしいし、何よりもし誰かにバレたら絶対に変な誤解を招く。そんなことになったら、おれだけじゃなく五瓶だって迷惑だろう。
黙ったまま考え込んでいる時間があまりに長過ぎたらしい。五瓶は小さくため息をついて下を向いた。
「やっぱり、ダメですか」
そこまで露骨にがっかりしたような声で言われると、何だかこっちが五瓶に悪いことをしているような気分になってしまう。おれがそう感じることを狙ってこんな態度をとっているのか、それとも全く何も考えていないのか、どちらにせよ性質が悪いと思う。
……どうせ、何も考えてないんだろうな。
そう思うと、おれ一人がこんなに迷い悩んでいるのがひどくバカらしくなってきた。
「まあ……いいよ。別に」
半ば投げやりにそう言うと、五瓶はぱっと顔を上げた。
「えっ、本当ですか?」
「抱き枕がないと寝つけないんだろ。お前、今はただでさえ疲れてんだから、夜はちゃんと寝ないと。そのためなら協力するよ」
ベッドから下りて五瓶の前に膝をついても、五瓶はぼうっとして呆けたようにおれの顔を見ている。その視線に堪えかねて、おれは掛け布団の端をぐいと引っ張った。
「ほら、早く寝るぞ。もっとそっちに寄れって」
「あ……はい」
五瓶はおれに言われてようやく布団に潜り込むと、こっちを向いて横になった。
この場合、向かい合って寝るのはおかしいよな。それじゃ抱き合ってるみたいだし。五瓶がおれを抱き枕みたいに抱きしめて寝られればいいわけだから、おれは五瓶に背中を向けて横になればいいか。
おずおずと掛け布団をめくり、五瓶の身体の前に空いたわずかなスペースで横になる。五瓶に背中を向けると、いきなり後ろから大きな腕でぎゅっと抱き寄せられた。
「わっ、ちょ……っ」
脇腹のあたりをそっと押さえる手つきは優しかったけど、五瓶の手は想像していたよりもずっと大きい。簡単にはこの腕の中から抜け出せそうにない、それを全身で感じ取った瞬間、心臓がドクンと大きく脈打つのが分かった。
「ん……落ち着く」
耳のすぐ後ろで五瓶がそう呟いた。くぐもった低い声はほとんどため息みたいで、五瓶の吐息の熱がいつまでも耳に残って冷めない。
五瓶は腰と膝を少し曲げて、そこにできた窪みにおれの身体をすっぽりと収めてしまう。
なんか、考えてたのと違う。こんなに密着するなんて思ってなかった。
「く、くっつき過ぎ……」
「すみません、こうしてないと落ち着かなくて」
五瓶が耳元で喋る度に、その低い声と熱を帯びた吐息が耳をくすぐって身体の奥がぞわぞわする。心臓が勝手に異常な速さで脈打ち出して、この音が五瓶にも伝わってしまうんじゃないかと思うと生きた心地がしなかった。
「俺が寝たら小高先輩はベッドに戻っていいですよ。俺、一度寝ついたら少しの物音くらいじゃ起きないんで」
「あ……そう」
口ではそう言っているのに、五瓶の腕はおれの身体をぎゅっと抱きしめたまま力を緩めようとしない。
これ、五瓶が眠るまでずっとこの状態でいろってことかよ。こんなんじゃおれが朝まで眠れないっての。
「……ありがと、小高先輩」
どう答えたらいいのか分からなくて黙っていると、五瓶はおれの頭の後ろにそっと顔を寄せてきた。
実家の猫と一緒に寝てた時もこんな感じだったのかな。
なんか、すごく意外だ。今までみたいに遠くから見てるだけじゃ、こいつがこんな奴だったなんて絶対に気付けなかっただろう。
それにこいつ、あんまりベタベタされるの好きじゃなさそうだし。
部屋にいる間もおれと五瓶は特に会話らしい会話もなく、お互い黙って宿題をしたりスマホで動画を見ていたりと、まるで一人でいるかのごとく思い思いに過ごしていた。これだけ狭い部屋であまり親しくもない奴と二人っきりって普通なら気まずくて耐えられないと思うんだけど、五瓶との空間は不思議と息苦しさを感じない。五瓶はおれの方を気にするような様子を微塵も感じさせないし、話しかけてもこない。おれの視界に入らない位置から動かず、それでいて変に気を遣うでもなく自分の世界で自分の好きなようにしている。
そんな五瓶を、おれは心からすごい奴だと思った。
他人に気を遣わせないようにそこにいる、というのは、簡単なようで誰にでもできることではないと知っているからだ。気を遣っている気配というやつはどんなに隠そうとしても何となく伝わるもので、相手からのそういう気遣いを意識すると余計に気まずくなってしまう。でも、五瓶からはそんな気遣いや気まずさを一切感じないのだ。
どうしてだろう。他人に興味なさそうだからかな。
そんなことを考えていると、そろそろ寝る時間が近づいていることに気付く。おれは一ミリでも身長を伸ばすため、成長ホルモンの分泌される夜は遅くても十一時前には就寝するよう心がけている。
「五瓶、おれもう寝るから。寝る時は部屋の電気消してな」
ベッドに潜り込みながら声をかけると、それまで床に敷いた布団の上で本を読んでいた五瓶はふと顔を上げてこっちを向いた。
「あ、じゃあ俺も寝ます」
「そっか。電気消していい?」
「はい」
寮の消灯時間にはまだ早いけど、身長を伸ばすためにはやむを得ない。部屋の照明を消して、今度こそ自分の布団の中に潜り込む。
「おやすみー……」
「おやすみなさい」
……なんか今の、気を遣わせてしまったかもしれない。
おれがもう寝るからって、五瓶まで同じ時間に寝なくてもよかったのに。布団で横になっている五瓶は本の続きを読んでいる様子はなく、こっちに背中を向けたままじっとしている。
立場上、五瓶はおれに気を遣って当たり前なのか。どんなにおれが気を遣うなって言っても、今の五瓶はここで居候しているようなものだし、それにおれは上級生だし。気を遣っていないように見せながら、おれの生活リズムに合わせてくれてるんだ。
悪いことしたな。五瓶がここから出て行くまでの間、就寝時間くらいはおれが五瓶に合わせてやってもいいのかもしれない。
「……ん」
不意に、五瓶はごろりと寝返りを打ってこっちを向いた。
起きたのかと思ってちらとそっちを見ても、五瓶はさっきと同じように横たわったままじっとしている。暗くて顔はよく見えないけど、眠っているように見える。
「んー……」
かと思ったら、また身体の向きを変えている。さっき寝返りを打ってから数十秒しか経っていない。
おれは息を潜めて、ベッドのすぐ横の布団で横たわっている五瓶の気配に意識を集中させた。二度目の寝返りから十秒とちょっとで、五瓶はまたごろりとこっちを向いた。
「……」
今度は声を出さなかったけど、その代わりに深いため息が聞こえてくる。
どうしたんだろう。もしかして、眠れないのかな。布団の硬さが合わなくて寝つけないのかもしれない。
先生に聞いた話では、五瓶がいた部屋は三寮の中でも特に漏水の被害が大きい場所の近くにあったらしい。備え付けの机やベッドだけでなく、布団やほとんどの衣類もずぶ濡れになってしまったと聞いている。そのため急遽予備の布団セットを寮が貸し出したのだが、身体の大きな五瓶には合っていないんじゃないのか。
「……寝れないのか?」
恐る恐る声をかけてみる。反応が返ってくることは期待していなかったけど、暗闇の中で五瓶はむくりと身体を起こした。
「はい」
腕を伸ばして枕元のクリップライトを点灯し、五瓶の方に顔を向けた。五瓶はボサボサ頭のまま宙をぼんやりと見つめている。改めて床に敷いた布団を見てみたけど、五瓶の身体が収まらないほど小さいってわけでもないようだ。やっぱり硬さが合わないのだろうか。
「布団が合わないのかな。もし寝心地が悪いなら、明日先生に言って……」
「あ、いえ。そうじゃないんです」
暗い部屋の中、電球色の光に照らし出された五瓶の横顔には濃い陰影が落ちている。そのせいか、いつもと変わらないはずの無表情が今だけは少し疲れているように見えた。
まあ、そりゃ疲れて当然だろう。漏水事故があってからまだ二日しか経っていないのに、部屋の片付けやら移動やらで休んでいる暇なんてなかっただろうし、その上慣れない部屋でよく知らない上級生と共同生活だなんて相当なストレスを感じているはずだ。この状況で熟睡できる方がどうかしている。
さっき浴場から戻る途中で友達がこぼしていた不満を思い出して、胸の奥がちくりと痛んだ。ここにいる生徒たちが三寮から来た奴らをどう思っているのか、五瓶ももうとっくに気付いているのだろう。もしかしたら、食堂や浴場で誰かに面と向かって何か言われたのかもしれない。
「何か、誰かに嫌なこと言われたのか?」
もしそうだとしても、五瓶がそれを正直に話してくれるとは思っていない。でもおれは、聞かずにはいられなかった。
「いえ。何も」
相変わらず五瓶はこっちを見ようとしない。わずかにうつむいて、抑揚のない声で答えるだけ。
「困ってることがあれば言ってな。いろいろあって疲れてるだろうけど……おれにできる範囲で、力になるから」
「本当ですか」
「ん? まあ、うん。おれにできる範囲でなら」
珍しく五瓶がわずかに食いついてきたので、おれは念を押すように同じことを繰り返し言った。力になりたいと思う気持ちに嘘はないけど、おれにできることなどたかが知れている。あまり期待を持たせるのはかえって不誠実だろう。
すると、五瓶はいきなり身体ごとこっちを向いて真っ直ぐにおれを見上げた。
「小高先輩、俺と一緒に寝てくれませんか」
ボサボサの前髪の隙間から、おれを真っ直ぐに見つめる目が覗いている。その眼差しは真剣そのもので、とても冗談を言っているようには見えなかった。
「……」
うんとも嫌とも言えず、おれはただぽかんとしていた。いや、返事なんてするまでもなく拒否一択なのは分かりきっているんだけど。
どういうことだ。もしかしてこいつ、寝ぼけてんのかな。
五瓶は布団の上で座り直し、小さな声でぽつぽつと話し始めた。
「俺、実家で小さい頃から猫飼ってたんです。すごく俺に懐いてて、夜はいつも一緒に寝てたんですけど……去年の冬に死んじゃって」
「え……」
そこで五瓶は、少しばつが悪そうにおれから目を逸らした。
「あ、いえ、違うんです。今もまだ引きずってるとかではないんです。死んじゃう一年くらい前にはもう病気だって分かってたんで、結構長く生きてたし、いつかこういう日が来るだろうなって覚悟はしてて……むしろ、よく一年ももってくれたなって思ってるくらいで」
おれも実家に子供の頃からずっと一緒に育ってきた柴犬がいるから、大切な家族を亡くした五瓶の喪失感には痛いほど共感できる。今はまだ元気だけど、いつか必ず別れなければならない時はやってくるのだ。長期の休みで帰省する度に次はいつ会えるんだろう、あと何回会えるんだろうと考えずにはいられない。その時を想像するだけで涙が堪えられなくなって、実家から寮に戻った日の夜はいつも一人で泣いているくらいだ。
五瓶は大丈夫なんだろうか。見ただけじゃ胸の内でどう思っているのかは分からないけど、こいつにも大切な家族のことを思って一人で泣いた夜があったのかな。
五瓶は自分の手に視線を落としたまま、静かに続けた。
「だけど、それまでずっとあの子と毎晩一緒に寝てたから、突然いなくなっちゃうと……なんか、一人でどうやって寝たらいいのか全然分かんなくて。寝つきが悪くなって受験勉強にも支障が出てきたから、あの子と同じくらいの大きさで手触りもよく似てるクッションを買って、それを抱き枕みたいに抱きしめて寝るようにしたら、ちゃんと眠れるようになったんです」
思いのほか、五瓶の話し声は滑らかで聞き取りやすい。静かに滔々と話す五瓶の低い声は耳に心地良くて、おれは黙ってその声に耳を傾けていた。
「ここの寮に来た時もそのクッションを持ってきて、あの子だと思って毎晩一緒に寝てたんですけど、この間の漏水でずぶ濡れになっちゃったんです。乾かしても手触りが前とは全然違う感じになっちゃったから、今はクリーニングに出してるんですけど、完全に元の状態に戻すのは難しいかもって言われて」
「……そっか」
ただのクッションでも、五瓶にとっては大切な愛猫とほとんど変わらない存在だったのだろう。そんなに大切なものを手放してしまったら眠れなくなるのは当たり前だ。
はあ、と深いため息をついて、五瓶は項垂れている。
「……あれがないと、寝られないんです。どんな体勢で横になっても、なんか収まりが悪いっていうか」
「なるほどな。だからさっきから何回も寝返り打ってたのか」
話を聞いて、おれは五瓶が不憫になった。漏水事故の被害に遭った時点でもう既に不憫だけど、愛猫のことを聞かされた後では今の五瓶の心情を思うと何とかしてあげたいと思わずにはいられない。
「はい。だから、小高先輩が一緒に寝てくれたらよく眠れると思うんですけど」
「いや……おかしいだろ、その理屈は。なんでそこでおれが添い寝するって話になるんだよ」
「小高先輩ってなんか、小動物っぽいから」
「……悪かったな、チビで」
つい不機嫌な声が出てしまう。こいつ、人の気にしてることをはっきり言いやがって。
「いや、身長のことではないです。雰囲気のことを言ってます」
「バカにしてんのか」
「違いますよ」
五瓶は不思議そうにおれを見ている。おれが言っていることの意味を本当に分かってないって顔だ。
まあ、こんな図体のデカい男におれのようなチビの気持ちを理解しろと言う方が無理があるのだろう。五瓶だって悪気があってこんなことを言ってるのではない、それくらいは分かる。
どうしたものか。一緒に寝て抱き枕になってくれなどという無茶苦茶な頼み、いつもなら絶対に聞き入れることなんかできないんだけど、今の五瓶はあまりにも可哀想だ。何とかしてあげたいとは思うし、おれにできる範囲でなら力になりたいとも思ってるけど……それが男同士での添い寝って、どうなんだよ。
これが男女だったら完全にアウトだろうけど、かと言って同性ならいいって問題でもない。当人同士に何かいかがわしい思惑が全くなくても、高校生にもなって同じ布団で寝るっていう行為自体がもう既にいかがわしいし、何よりもし誰かにバレたら絶対に変な誤解を招く。そんなことになったら、おれだけじゃなく五瓶だって迷惑だろう。
黙ったまま考え込んでいる時間があまりに長過ぎたらしい。五瓶は小さくため息をついて下を向いた。
「やっぱり、ダメですか」
そこまで露骨にがっかりしたような声で言われると、何だかこっちが五瓶に悪いことをしているような気分になってしまう。おれがそう感じることを狙ってこんな態度をとっているのか、それとも全く何も考えていないのか、どちらにせよ性質が悪いと思う。
……どうせ、何も考えてないんだろうな。
そう思うと、おれ一人がこんなに迷い悩んでいるのがひどくバカらしくなってきた。
「まあ……いいよ。別に」
半ば投げやりにそう言うと、五瓶はぱっと顔を上げた。
「えっ、本当ですか?」
「抱き枕がないと寝つけないんだろ。お前、今はただでさえ疲れてんだから、夜はちゃんと寝ないと。そのためなら協力するよ」
ベッドから下りて五瓶の前に膝をついても、五瓶はぼうっとして呆けたようにおれの顔を見ている。その視線に堪えかねて、おれは掛け布団の端をぐいと引っ張った。
「ほら、早く寝るぞ。もっとそっちに寄れって」
「あ……はい」
五瓶はおれに言われてようやく布団に潜り込むと、こっちを向いて横になった。
この場合、向かい合って寝るのはおかしいよな。それじゃ抱き合ってるみたいだし。五瓶がおれを抱き枕みたいに抱きしめて寝られればいいわけだから、おれは五瓶に背中を向けて横になればいいか。
おずおずと掛け布団をめくり、五瓶の身体の前に空いたわずかなスペースで横になる。五瓶に背中を向けると、いきなり後ろから大きな腕でぎゅっと抱き寄せられた。
「わっ、ちょ……っ」
脇腹のあたりをそっと押さえる手つきは優しかったけど、五瓶の手は想像していたよりもずっと大きい。簡単にはこの腕の中から抜け出せそうにない、それを全身で感じ取った瞬間、心臓がドクンと大きく脈打つのが分かった。
「ん……落ち着く」
耳のすぐ後ろで五瓶がそう呟いた。くぐもった低い声はほとんどため息みたいで、五瓶の吐息の熱がいつまでも耳に残って冷めない。
五瓶は腰と膝を少し曲げて、そこにできた窪みにおれの身体をすっぽりと収めてしまう。
なんか、考えてたのと違う。こんなに密着するなんて思ってなかった。
「く、くっつき過ぎ……」
「すみません、こうしてないと落ち着かなくて」
五瓶が耳元で喋る度に、その低い声と熱を帯びた吐息が耳をくすぐって身体の奥がぞわぞわする。心臓が勝手に異常な速さで脈打ち出して、この音が五瓶にも伝わってしまうんじゃないかと思うと生きた心地がしなかった。
「俺が寝たら小高先輩はベッドに戻っていいですよ。俺、一度寝ついたら少しの物音くらいじゃ起きないんで」
「あ……そう」
口ではそう言っているのに、五瓶の腕はおれの身体をぎゅっと抱きしめたまま力を緩めようとしない。
これ、五瓶が眠るまでずっとこの状態でいろってことかよ。こんなんじゃおれが朝まで眠れないっての。
「……ありがと、小高先輩」
どう答えたらいいのか分からなくて黙っていると、五瓶はおれの頭の後ろにそっと顔を寄せてきた。
実家の猫と一緒に寝てた時もこんな感じだったのかな。
なんか、すごく意外だ。今までみたいに遠くから見てるだけじゃ、こいつがこんな奴だったなんて絶対に気付けなかっただろう。


