冬の空は、薄い金属板みたいに光を返した。
 十二月の最初の週、昇降口の横に三者面談の時間割が貼り出され、名前と数字だけで構成された紙が、やけに人の行き先を決めてしまう見え方をしていた。貼り替えたばかりのガムテープの角が少し持ち上がっていて、そこから僅かに冷たい空気が出入りしている。

 俺の家庭は、面談の紙を見なくても、だいたいの筋書きが決まっていた。
 昨夜、夕飯の鯖味噌がまだ湯気を残しているとき、父が手帳を机の真ん中に置いた。ページを開く音が、いつもより硬い。

「三浦、春から長野な。——辞令はもう出る方向で動いてる」
 母が横から補足する。「学校の転校手続きは冬休み明けでも間に合うけど、先生には早めに話しておいたほうがいいって。住まいは不動産屋さんが候補を出してくれてるよ」

 言い方に“余地”が少ない。
 父の仕事に恨みはない。働くことに誇りがある人だ。だからこそ、家族の“歩幅”を、仕事の歩幅に揃えがちだ。
 俺は味噌の上で冷たくなりかけている生姜を口に運び、あいまいな返事をした。「……うん。先生に話す」

 言葉は短いほど責任が増す。
 逃げないで言うって、力がいる。
 ベッドに潜り込む前、スマホの画面に小さく打ち込んだ。「明日、面談。転居の件、話す」。自分へのメモだ。送信先はない。
 指先が宙に浮いたまま、別の送信先の名前が頭をよぎる。——律。
 けれど、今夜はやめておいた。未来は一行では説明できない。もし言うなら、顔を見て、拍を数えながらにしたかった。

 翌朝。
 校門をくぐると、霜柱がかすかに光った。靴底で踏むと、音が湧く。律は角のところで待っていて、俺を見ていつもどおり一歩ペースを落とす。
「おはよう」
「おはよう」
 ほんのそれだけで胸の内側の温度が整う。

「今日、三者面談?」
「うん。五限のあと」
「そっか」
 律は視線をすこし下げ、手すりの先を見た。
「終わったら、自販機行こう。甘いの二本」
「了解」
 ふだんなら「カフェオレは二人分」と軽口で返すところを、俺はただ頷いた。
 頷きの角度で、律は何かを読む。読みすぎない。読み取ることはできても、読み解き過ぎないのが律のやさしさだ。

 五限の終わり、廊下に出ると、別の家庭の面談が始まっている。
 開いたドアの向こうでは誰かの母親の笑い声が鈍く響き、遠くで担任の低い声が上書きする。「学力的にはどちらでも……」「内申は……」「来年の時期に……」。言葉は全部、事務の書類に合うように角を落とされている。
 俺の番が来た。
 担任はプリントをめくり、父は腕時計を見、母はメモ帳に線を引く。

「お父さまのご転勤、伺っております」
 担任の声は無機質に整っていた。悪意はない。
「学力的には、どちらでも対応可能だと思います。お引っ越しのタイミングをどこに置くかですね。学年末で転校という案も、年度末ギリギリでこちらの学校を修了してからという案も……」

 父はすぐに言った。「学年末が区切りもいいし、春の新学期に合わせたほうが、ね」
 “合わせたほうが、ね”。接続詞で相手の余地を削る、仕事で鍛えられた語尾だ。
 担任が頷く。「はい。たしかに。三浦くんは適応力が高いので心配は少ないかと」
 適応力——大人にとって都合のいい褒め言葉だ。俺は頷き、青ペンを指で回した。指先が浅く汗ばむ。

 面談の終盤、担任はプリントの下辺を指で叩いた。「進路希望、こちらに記入を。現状維持と転校、どちらに丸を付けておいてください」
 二者択一の丸。
 紙の上の○ひとつで、歩幅が長いか短いか決まる。
 俺はペン先を浮かせたまま、一拍だけ待った。父の視線が肩に刺さる。母は黙って見ている。
 ——この場で決める必要はない。けれど、俺の沈黙は、誰かの既定路線を強化する沈黙にもなりうる。
 俺はペンを紙に置いた。丸はまだ作らない。名前の欄だけ先に埋め、「後日、提出します」と言った。
 担任が頷く。「もちろん。期限は来週いっぱいで構いません」

 教室を出ると、空気が少し軽かった。
 重さの正体は、まだ肩に乗っている。でも、「丸を今ここで付けない」という、小さな自由の重さが加わったぶん、バランスが変わった。

 約束通り、廊下の自販機へ向かった。
 律はコインを二枚落とし、同じボタンを二度押した。ガタン、ガタン。
 温かい缶が手の中に収まり、指の腹に熱が分散する。律は缶の頭を軽く叩き、振らずに開ける。
「——引っ越すかもしれない」
 言った。
 缶の口から立つ白い湯気が、俺の言葉の出る方向と同じ角度で揺れた。
 律は一拍も置かずに頷いた。
「うん」
 そして、笑って言った。
「ついていけたら、ついていく」

 笑い方は軽いのに、中身は重い。
 その重さが、俺を少し痛めた。
「現実的には、たぶん難しい」
「うん。わかってる」
「サロン、あるし。先生の通院も、あるし」
「うん。サロン、夜借りられるの、簡単じゃないし。病院も、いきなりは変えない方がいいって言われてる。……だから、言ってみた。最初に“無理”で囲まないために」
 無理で囲まない。
 律の言い方はいつも、入口を塞がない。
 俺は缶の縁に口をつけてから、提案を口にした。
「歩幅、広げすぎない遠距離を設計しよう。曜日と“会いに行く”の優先順位、先に決める」
「設計」
「うん。段取りフェチ、発動」
「頼もしい」
 律は笑い、スマホを取り出した。
「カレンダー、開こう。——共有のやつ作る?」
「作る。名前、どうする」
「“ド&”」
「即答だな」
「だめ?」
「最高」
 俺もスマホを開き、学校のWi-Fiに繋ぐ。二人の間に生まれた共有カレンダーに、俺は最初の予定を置いた。
 ——毎週土曜:練習(ピアノサロン or オンライン)
 ——隔週日曜:映画デート(同時再生/劇場/近場の美術館)
 律が横から指を伸ばし、追記する。
 ——水曜夜:オンライン“&”(10分、拍合わせ)
 ——月末:互いの手紙交換(紙)
 ——試験前週:休止(“大丈夫”だけ送る)
「“休止”のルール、いいね」
「逃げじゃない休み。儀式じゃない確認」
「通れる余白、だ」
 律はそう言って、缶を持つ左手の指で俺の手の甲を軽く叩いた。タン。
 “&”の短い合図。
 缶の中の砂糖が、少しだけ甘くなった気がした。

 その日の放課後、図書室の奥で葛西が俺たちを手招きした。
「台本、読んだ?」
「文化祭のやつ?」
「うん。後日談を、二人で書いてほしいの」
「後日談?」
「演劇ってさ、ハッピーエンドで幕が降りたあとに、観客の中で続くじゃん。二人がその“続き”の言葉を書いてくれたら、読者の拍がそろう気がして。……“言語化の宿題”、背負ってくれる?」
 律が俺を見る。俺も律を見る。視線の往復で、もう半分は決まっていた。
「やる」
「やる」
 葛西は嬉しそうに笑った。「締め切り、二週間後。長くなくていい。一人千字ずつくらい」
「千字」
「うん。“二人で同じ未来を見る練習”だから」
 ——練習。
 その言葉は、ピアノの鍵盤だけのものじゃない。言葉にも歩幅があり、未来にも拍がある。
 葛西は二枚の便箋を渡してくれた。「下書きは紙でやること。スマホでやると、ネットの室温に引っ張られるから」
 俺は頷き、封筒を鞄にしまった。紙は重い。重いから、届く。

 家に帰って机に向かう。
 進路希望の紙は、昼間のまま白い。左側に“現状維持”、右側に“転校”。俺は丸を付けず、下の余白に短く書いた。
 ——設計中。
 たぶん担任は困る。でも、今の俺にとっては、それが正確だった。
 青ペンでゆっくり書くと、線に小さな震えが出る。震えは恥じゃない。震えは、体温の痕跡だ。

 便箋も広げた。葛西の宿題。
 タイトルは付けないまま、最初の一行だけ書く。
 ——終演後の喫茶で、二人は同じ側のベンチに座った。
 ペンを持つ手の甲に、今日の自販機の熱がまだ残っている。
 書くたびに、自分の言葉の骨格が見える。骨は見えてしまうと怖い。でも、その骨が俺の姿勢を作る。——逃げないで話すこと。たったそれだけで、こんなにも難しく、そして甘い。

 翌日。
 朝のホームルームで、担任がまた進路の紙に触れた。「未提出の人は、期限厳守でお願いします」
 黒板の上の時計がぎし、と鳴った。時間は、どの家庭にも等しく残酷だ。
 休み時間、律と廊下の窓際に立つ。冬の光は薄く、校庭の土の粒が全部見えるみたいに精細だ。
「昨日、書いた。後日談の下書き」
 律が言う。
「読みたい?」
「読みたい」
 律は胸ポケットから便箋を取り出し、半分だけ俺に見せた。
 ——“親友のままの恋人”は、席替えみたいだ。並び順が変わっても、黒板は同じ位置にある。
「……ずるい。すき」
「褒め言葉でしょ、それ」
「うん」
 笑い合った瞬間、遠くの階段の方から小さなざわめきが流れてきた。「三年の進路、九割決まったって」「特進クラス全員合格圏だって」。数字のざわめきは、時々、自分の言葉を掻き消す。
 律が窓ガラスに指先を当て、曇りガラスみたいな白い跡を描いた。
「湊。俺、病院の先生に相談した。もし引っ越しの話がほんとになったら、オンラインのカウンセリングに切り替える練習、今から始めるって」
「……ありがとう」
「音のほうは、先生に“無理しない伴走”で行く。——“ついていけたら、ついていく”は、やっぱり言ってよかった。言わないことより、言って修正するほうが、俺には合ってる」
 “言って修正”。
 俺にはまだ難しい動作だ。でも、隣でやってくれる人がいるなら、見よう見まねでやってみたい。

 昼休み、図書室の相談箱に新しい紙が落ちた音がした。
 葛西が俺を呼ぶ。「立会い、お願い」
 開封の瞬間、紙の重さが指から指へ渡る。
 ——“隣の席の彼に話しかけるタイミングがわかりません”。
 質問は、世界一よくある悩みだった。
 俺は便箋に短い返事を書く。
 ——“二歩先から声をかけない。半歩後ろから、歩幅を合わせてから”。
 投函者のクラスと名前は、きちんと匿名化されている。返事は封筒に入れ、図書室の貸出カウンターで受け渡す段取りになっている。
 紙の距離は、ネットより遠くて、でも、届き方が近い。

 放課後、俺と律はサロンへ向かった。
 ベンチに座り、まずは“ド”。
 それから“レ”。
 メトロノームの針が左右に揺れる。
 律の指は、昨日より少し滑らかだ。今日は俺の“&”を四拍ごとに入れず、八拍に一度だけ入れてみる。
 律が弾きながら囁く。「今日の“&”、甘い」
「カフェオレ味」
「だと思った」
 笑って、C–G–Am–F。“ハッピーエンドのコード進行”を繰り返す。
 終わりに近いところで、俺はそっと言った。
「提出、来週にする。丸はまだ付けない」
「うん」
「“設計中”って書いた」
「良いね」
「逃げじゃなくて、構築」
「そう」
 律は最後の“C”を柔らかく置いた。余韻の白が、部屋の隅まで届く。
「湊。逃げないで言ってくれて、ありがとう」
「こちらこそ、ついてきてくれてありがとう」
 言い合って、黙る。沈黙は嫌な間じゃない。鍵盤の蓋を下ろす音が、今日の会話の最後の句点になった。

 帰宅後、机に座る。
 進路の紙の上で青ペンを回す。
 手は、震えなかった。
 丸はまだ付けないけれど、線は真っ直ぐ引ける。
 紙の上で、俺は俺の歩幅を測る。測り方を、やっと覚え始めた。
 逃げないで話すことは、こんなにも難しく、そして甘い。
 甘さは、後から来る。砂糖が舌で溶ける速度で、遅れてやってくる。
 俺は便箋の続きを書いた。
 ——映画のあと、二人は別々の駅へ歩きだす。信号が赤になったら、立ち止まり、同じ方向を見て、心の中で四拍数える。青になったら、一歩だけ出す。
 ——遠くなることは、ゼロになることじゃない。
 ——“&”は、離れても鳴る。
 ペン先が紙の目を滑る。
 書き終えたとき、窓の外で誰かの足音が規則正しく通り過ぎた。冬の足音。
 音は、怖くない。
 怖いときは、“ド”に戻ればいい。
 戻って、また“レ”へ。
 進むことは、戻ることと同じくらい、練習が要る。

 スマホが震えた。
 律から一行。
〈“ド&”、今週の土曜はサロン、来週はオンラインにしよう〉
 俺は返す。
〈了解。映画は隔週、次は劇場で〉
〈OK。ポップコーンは“半分こ”じゃなく、一人一個〉
〈それは譲れない優しさ〉
 やり取りは短い。短いのに、骨格がある。
 俺は進路の紙をクリアファイルに差し込み、机の隅に立てて置いた。
 丸を付ける前に、言葉を付けた。
 言葉を付けたことで、丸はもう、怖い形ではなくなりつつある。
 カレンダーには青い点が増え、歩幅の設計図は少しずつ線を増やす。
 甘さは喉の奥に残り、苦さは舌の両側で薄く広がる。
 バランスの取り方は、まだ拙い。
 でも今の俺たちには、メトロノームがあり、“&”があり、紙がある。
 そして、——言う相手がいる。

 電気を消す前、俺は小さく声に出した。
「一歩」
 暗闇の中、ひとりの足音が返ってくる。
 そのすぐ隣に、もうひとりの足音が重なる。
 二者択一の紙の上で、俺は二人で歩く練習を続ける。
 丸を付ける手は、もう震えない。
 震えない代わりに、ゆっくり、正確に置く。
 置くのは、明日じゃない。
 今日、ここで決めないという決定を、もう決めたから。

 おやすみ、と打たずに、目を閉じる。
 まぶたの裏で、“ハッピーエンドのコード進行”が静かに回る。C、G、Am、F。
 そこへ小さな“&”が、きちんと、遅れずに入った。