火曜日の朝、昇降口の空気は、いつもよりざらついていた。マットの上で靴底が細かく鳴り、誰かの低い笑い声が同じ言葉を何度も反芻している。いやな種類の流行語が生まれるときの、あの湿度だ。
「聞いた?」「特定しかけ」「映像研の先輩でしょ」
廊下の端で、スマホの画面が幾つも同じ投稿を映す。@相談くん。校内の“恋バナ収集アカウント”は、ずっと匿名でいるはずだった。だれがやってるかより、書かれている“悩み”が主役のはずだった。なのに、今朝に限っては、だれが、が全てになっていた。
教室に入るなり、隣の席の男子が声を潜めて言う。
「三浦、見た? 相談くんの話」
「見た」
「映像研の三年の先輩って噂。てか、複数人で回してたってさ。最後の数日は“校内の誰か”が代理投稿とか」
「“誰か”って誰」
「知らね。けどさ、昨日の固定見た? “歩幅”とか“半分こ”とか、あれ——」
そこまで言って、彼の視線が俺の口角に止まった。俺は笑わなかった。笑うと片口角が上がる。笑いに見えるけれど、実は口の中で血を止めるための嚙みしめだ。
休み時間、また別の声。
「“歩幅”って、だれでも言うくね?」
「いやでも、あの“半分こ”ネタ、あのベーカリーのことじゃん」
「あー写真上がってたよね。駅前の。偶然だって」
偶然は、しばしば証拠不足の隠れ蓑になる。けれど、こういうときに限って偶然は味方をしない。タイムラインは軽口と憶測で肥大し、匿名の賢しら顔が薄い正義を配る。引用の連鎖のどこかで、俺と律のDMの言い回しに似た断片が、切り取られてネタ化していた。
〈“沈黙を嫌な間にしない”って、詩人かよ〉
〈“半分こは譲らないための優しさ”、名言風で草〉
〈“歩幅”流行らせたいの?〉
草の連打。笑いの絵文字。軽いのに刃物の切れ味。薄い紙で指先を切るみたいな痛みが、何度も同じ場所を裂く。個人攻撃でもない、ただのネタ。けれど、俺には個人的にしか当たらない。
黒板の字が霧に溶け、青ペンが紙の上で空回りする。授業後、映像研の先輩が廊下の角で小さく謝っていた。「あくまで相談の“まとめ”で、特定意図はないから」「最後の数日、代理の子がいてさ」「俺も正直、誰か分からない」。弁解は丁寧で、言い訳ではなかった。でも、うまく説明された傷ほど、後で痛い。理解が追いつくほど、遅れて出血する。
律は午前じゅう黙っていた。いつもなら、俺の青ペンの回転数で冗談を差し込むタイミングを見抜くのに、今日は視線だけで様子を測り続けていた。四限が終わり、廊下へ出たとき、ようやく口を開く。
「湊」
「うん」
「昼、一緒に図書室いこう」
「……いく」
昼休み、端の席に並んで座る。葛西が貸出カウンターの中で、紙袋を畳んでいた。俺たちに気づくと、軽く顎で奥を指した。黙っていられるひとがいる場所の安心感は、噛みしめるとあたたかい。
律が机にスマホを伏せたまま言う。
「“歩幅”も“半分こ”も、俺たちの言葉だよ。使ってるのが俺たちだけじゃないのは分かってる。でも、俺たちの使い方は俺たちの体温であって、タイムラインの室温じゃない」
「うん」
「俺たちの言葉を、他人のラベルで薄めさせない」
真顔だった。ふざける余地がないときの律は、柔らかい音のまま固い決意を持つ。その音は、俺の中の真面目さに直接触れてくる。
「……俺、逃げそうになった」
「知ってる」
「今朝、“既読も何もつけないで一週間”案とか、脳内会議した」
「却下」
「早」
「湊が離れると、俺、調子悪いから」
その台詞、前にも聞いた。前よりずっと、今は優しく響く。俺の逃げ癖に連動するメトロノームが、いい具合に揺れ幅を狭められていくのがわかる。
そこへ、カウンターの向こうから葛西が何気ない口調で言った。
「ねえ、図書委員の権限で“新設”していい?」
「新設?」
「“紙の相談箱”。ネットじゃなくて、紙で。質問を書いて入れてもらったら、返事は相手だけが読む“手渡し”にする。開封は図書委員二人の立会い。個人名が特定される内容は禁止。運用ルールはこれから詰めるけど、とりあえず試してみたい」
律が身を乗り出す。
「いいね、それ」
「名付けは?」
「“歩幅ポスト”とかどう?」
「べつに“相談箱”でいい」
即座に俺が否定し、葛西が声を立てずに笑った。「ラベルで薄めない」の実践が早すぎる。
「今、作る?」
彼女は、画用紙とクラフトテープを取り出し、手早く箱の口を整え始めた。側面には余白を多めに、注意事項を貼るスペースを残している。俺はペンでルール案を箇条書きに書いた。――返信は“紙で”。――宛先は“個別”。――内容は“相手が読んでも動揺しない表現で”。――沈黙を嫌な間にしない。律が紙の端を押さえ、俺はテープを引く。三人の手が、机のうえで同じ“テンポ”を刻む。コンテンツの前に“器”を整える。図書室の光は冬に近く、白が冷たく見えるのに、不思議と体温は落ちない。
箱の口が閉じた。葛西がカウンターの上に据え、静かに宣言する。
「今日から運用開始。最初の投函は——」
俺は、胸ポケットから折りたたんだ便箋を取り出した。さっきの休み時間に、トイレの隅で書いた。書くために逃げ込む場所なんて、かっこ悪いと思う。けれど、かっこ悪い行為にしか救えないタイミングがある。便箋の折り目は雑で、文字はやけにまっすぐだ。
宛先は、律。
——“相談役ごっこ”は、ここで終わりにしよう。
——これからは、同じ側のベンチで話したい。
——“歩幅”は、隣で測る。
——“半分こ”は、譲らないためにやる。
——“沈黙”は、嫌な間じゃない。
——“俺は転勤するかもしれない”。
——だから、練習は増える。
——本番も増やす。
——お願いだから、一緒に“音”を続けよう。
投函口に差し入れ、落とす直前、律が手を伸ばした。
「それ、俺が先にもらっていい?」
「規約違反」
葛西が即答し、俺と律は同時に笑った。笑いが同じ側に落ちた瞬間、どちらともなく、俺は箱に便箋を落とした。中で紙が軽く踊る音がして、静かになった。
放課後、葛西は運用初日の“裏”手続きとして、俺に手紙を返却してくれた。「“返事を書きたい相手”がはっきりしているケースは、これで合ってる」と彼女は言って、厚手の封筒をそっと俺の手に押し戻した。「二枚目、入ってるから、返事、書けるよ」。封筒の中身は空。返事を書くための白。白は怖い。でも、受け取る。怖い白にペンを入れる役割は、今日の俺の仕事だ。
校門前までの道で、律は封筒を両手で受け取り、真ん中をひと押しした。中に空気がわずかに入り、封筒がふくらむ。
「“相談役ごっこ”、終わり。了解」
「了解」
「じゃあ、まずは“親友のままの恋人”から始めよう」
言い切りの形を、彼は選んだ。提案よりも、宣言。宣言よりも、合図に近い音で。俺はうなずいた。三度も。足元の影が重なる。夕焼けは薄く、空へ還る途中で色を失いかけている。
それでも、ネットのノイズは校門を越えても追いかけてくる。駅に近づくにつれ、見知らぬ年下たちの「“歩幅”——」「“半分こ”——」といった断片が耳の後ろに張り付く。薄いラベルが空に散らばり、どこからか降ってくる。俺は歩きながら、口の中で小さく数えた。いち、に、さん、し。四拍。拍でノイズを区切る。律が隣で、針のないメトロノームみたいに、ただ並んで歩く。その並びそのものが、俺に音量の目盛りを返してくれる。
夜。ピアノサロン。ドアを開けると、昨日までよりさらに空気が澄んで感じられた。多分、俺の側の濁りが少し引いたからだ。アップライトの前に座る律。俺は横に座り、封筒から白い便箋を出した。ペン先を置く前に、律が言った。
「今日は、“ハッピーエンドのコード進行”を覚えたい」
I–V–vi–IV。音楽サイトでよく見かける“みんなの幸せ”の並び。手垢がついているほど普遍で、普遍であるほど胡散臭い。でも、胡散臭さを払えるのは、手で鳴らす人間の温度だけだ。
「C、G、Am、F」
「うん」
律の左手が“ド-ソ-ラ-ファ”を掴み、右手が上で和音を作る。俺は四拍を数え、二拍目と四拍目に合いの手の“&”を小さく挟む。カチ、&、カチ、&。律が笑う。笑いながら、“G”を少し強めに打つ。幸福の進行は、強さと弱さの順番を何度でもやり直せる点で、救いだ。
「さっきの返事、今、書いていい?」
「もちろん」
便箋に、俺は短い言葉を置いた。文章にしない。音符を並べるみたいに、点で。
——“親友のままの恋人”を、やろう。
——“歩幅”は、録音じゃなく、毎回合わせ直す。
——“半分こ”は、パンだけじゃなく、寂しさにも使う。
——“遠距離”は、軽くなくやる。
——“&”は、離れても俺が鳴らす。
——“転勤”は、逃げずに言えてよかった。
——“ありがとう”の言い方、増やす。
書き終えて封筒に戻し、律に渡した。律は慎重に受け取り、胸ポケットへしまった。しまう所作が、楽譜を閉じるときに似ている。丁寧に。指の腹全体で紙を保護するみたいに。
ハッピーエンドのコードをもう一周。三周目、四周目。重ねるほど、音は主張をやめて、床に溶ける。床に溶けた音は、立っている自分の重心を“ここ”に置き直す。外のノイズが、ガラス越しの雨みたいに遠くなる。
弾き終えて、しばらく沈黙した。沈黙は嫌な間じゃない。ソファの縫い目をなぞるみたいな、手触りのある静けさ。律がふいに、鍵盤の蓋に指を置いた。
「今日、もしまたタイムラインで“歩幅”がからかわれても、俺、返さないことにした」
「うん」
「返さないのは“無視”じゃなくて、“俺たちの音量を守る”だから」
「うん」
「湊、怖くなったら言って。逃げそうになったら、俺、ごり押しでは止めない。方向だけ、ゆっくり直す。メトロノームみたいに」
「頼む」
頼む、という二音は、信頼の短縮形だ。何度使っても磨耗しない。
「そうだ。相談箱、名前、どうする?」
「“相談箱”。それでいい」
「ふふ」
笑う律の横顔に、スポットの白が落ちる。白は、悪くない。色が決まらない余白だから。俺たちの標語だ。通れる余白。
サロンを出ると、夜風は冷たく、やけに静かだった。ネオンの色の分布だけが街を地図みたいに切っている。信号の前で、律が小さくつぶやく。
「ねえ、湊」
「ん」
「“相談役ごっこ”、終わったね」
「終わった」
「じゃあ、次の“ごっこ”やる? “夫婦ごっこ”」
「早い」
「“未来ごっこ”」
「それは、練習」
「練習?」
「うん。本番の回数を増やすための、ちゃんとした練習」
律は笑い、俺も笑った。笑いは同じ側へ落ちる。赤信号が青に変わり、俺たちは歩き出した。肩が触れ、離れ、また触れる。通り過ぎる二人組の会話の端に「“半分こ”さ」なんて単語が乗った。耳は拾ったが、心は拾わなかった。拾わない自由。拾いすぎた数週間の反動で、今は選んでいい。
家に戻ってから、俺は机の上でペンを取った。青いインクの最初の線は、いつだって緊張する。ノートの見開きの上に、今日の項目を並べた。
——匿名のラベルは、身体の温度を奪う。
——言葉は、所有物ではないけれど、“使い方”には体温が残る。
——体温を守る。
——“相談役”の椅子から、同じ側のベンチへ。
——紙の相談箱=手渡しの救い。
——ネットのノイズは、拍で区切る。
——ハッピーエンドのコード進行は、練習を重ねたぶんだけ本番に近づく。
——“&”は、明日も鳴らす。
書きながら、胸のどこかが静かに満たされていく。満たすというより、詰め物を外した空洞を、空洞のまま許す感覚に近い。空洞は、悪ではない。音が響くための空間だ。
スマホを開く。@相談くんは、今夜は静かだった。騒ぎは一段落したらしい。画面を閉じる前に、保存したドラフトをひとつ捨てた。匿名に預けて済む話ではない。預ければ軽くなるけれど、軽くなったぶん、どこかが薄くなる。薄くなって困る場所は、もうわかっている。俺たちの声は、ここ——紙と鍵盤と、歩幅の間に置く。
ベッドに横になり、目を閉じた。静かさの底で、今日覚えたコードが小さくループする。C、G、Am、F。そこに、俺の“&”が短く差し込まれる。タン。笑う。ひとりで笑える夜は、悪くない。
明日、図書室の“相談箱”に、最初の誰かの紙が落ちるかもしれない。開封の立会いは、たぶん俺と葛西。返事は、便箋に。相手だけが読む。手渡しで。紙は重い。重いから、救いになる。重さは、存在の証明だ。軽いものは、風で飛ぶ。飛ぶ自由も必要だけれど、戻ってくる方法を同時に覚えたい。
“親友のままの恋人”。宣言は今日、可視化された。ラベルじゃない。俺たちの言い方。ネットに合わせない、音量の決め方。ピアノの鍵盤は、五十二枚の白鍵と、三十六枚の黒鍵でできている。そのうちのどれを押すかで曲が決まり、その日の指の温度で同じ曲が変わる。明日も、押す。明後日も、押す。春になって離れても、画面越しに押す。押せなかった日は、“ド”と“&”だけ鳴らす。
眠りに落ちる直前、ふと思う。
“清算”という言葉は、借りをゼロにすることだと思っていた。けれど今は、借りを「半分こ」にすることだと分かる。誰かの肩に全部の重さを乗せない。誰かの重さを“無いこと”にしない。半分の重さで、二人が立つ。——それなら、歩ける。歩幅を合わせられる。
明日の朝、昇降口で新しい噂話が生まれても、俺は青ペンをポケットに入れ、律と並んで歩くだろう。同じベンチの同じ側。通れる余白を自分たちで測り、ネットの室温じゃなく体温で喋る。そう決めたから。そう、清算したから。
おやすみ、と画面に打って消し、結局は打たずに目を閉じた。明日は言葉ではなく、拍で挨拶する。昇降口で、いち、に、さん、し。律が気づいて笑う。俺も笑う。笑いは、また同じ側へ落ちる。ハッピーエンドのコード進行の、最初の“C”が、まぶたの裏でやわらかく光った。
「聞いた?」「特定しかけ」「映像研の先輩でしょ」
廊下の端で、スマホの画面が幾つも同じ投稿を映す。@相談くん。校内の“恋バナ収集アカウント”は、ずっと匿名でいるはずだった。だれがやってるかより、書かれている“悩み”が主役のはずだった。なのに、今朝に限っては、だれが、が全てになっていた。
教室に入るなり、隣の席の男子が声を潜めて言う。
「三浦、見た? 相談くんの話」
「見た」
「映像研の三年の先輩って噂。てか、複数人で回してたってさ。最後の数日は“校内の誰か”が代理投稿とか」
「“誰か”って誰」
「知らね。けどさ、昨日の固定見た? “歩幅”とか“半分こ”とか、あれ——」
そこまで言って、彼の視線が俺の口角に止まった。俺は笑わなかった。笑うと片口角が上がる。笑いに見えるけれど、実は口の中で血を止めるための嚙みしめだ。
休み時間、また別の声。
「“歩幅”って、だれでも言うくね?」
「いやでも、あの“半分こ”ネタ、あのベーカリーのことじゃん」
「あー写真上がってたよね。駅前の。偶然だって」
偶然は、しばしば証拠不足の隠れ蓑になる。けれど、こういうときに限って偶然は味方をしない。タイムラインは軽口と憶測で肥大し、匿名の賢しら顔が薄い正義を配る。引用の連鎖のどこかで、俺と律のDMの言い回しに似た断片が、切り取られてネタ化していた。
〈“沈黙を嫌な間にしない”って、詩人かよ〉
〈“半分こは譲らないための優しさ”、名言風で草〉
〈“歩幅”流行らせたいの?〉
草の連打。笑いの絵文字。軽いのに刃物の切れ味。薄い紙で指先を切るみたいな痛みが、何度も同じ場所を裂く。個人攻撃でもない、ただのネタ。けれど、俺には個人的にしか当たらない。
黒板の字が霧に溶け、青ペンが紙の上で空回りする。授業後、映像研の先輩が廊下の角で小さく謝っていた。「あくまで相談の“まとめ”で、特定意図はないから」「最後の数日、代理の子がいてさ」「俺も正直、誰か分からない」。弁解は丁寧で、言い訳ではなかった。でも、うまく説明された傷ほど、後で痛い。理解が追いつくほど、遅れて出血する。
律は午前じゅう黙っていた。いつもなら、俺の青ペンの回転数で冗談を差し込むタイミングを見抜くのに、今日は視線だけで様子を測り続けていた。四限が終わり、廊下へ出たとき、ようやく口を開く。
「湊」
「うん」
「昼、一緒に図書室いこう」
「……いく」
昼休み、端の席に並んで座る。葛西が貸出カウンターの中で、紙袋を畳んでいた。俺たちに気づくと、軽く顎で奥を指した。黙っていられるひとがいる場所の安心感は、噛みしめるとあたたかい。
律が机にスマホを伏せたまま言う。
「“歩幅”も“半分こ”も、俺たちの言葉だよ。使ってるのが俺たちだけじゃないのは分かってる。でも、俺たちの使い方は俺たちの体温であって、タイムラインの室温じゃない」
「うん」
「俺たちの言葉を、他人のラベルで薄めさせない」
真顔だった。ふざける余地がないときの律は、柔らかい音のまま固い決意を持つ。その音は、俺の中の真面目さに直接触れてくる。
「……俺、逃げそうになった」
「知ってる」
「今朝、“既読も何もつけないで一週間”案とか、脳内会議した」
「却下」
「早」
「湊が離れると、俺、調子悪いから」
その台詞、前にも聞いた。前よりずっと、今は優しく響く。俺の逃げ癖に連動するメトロノームが、いい具合に揺れ幅を狭められていくのがわかる。
そこへ、カウンターの向こうから葛西が何気ない口調で言った。
「ねえ、図書委員の権限で“新設”していい?」
「新設?」
「“紙の相談箱”。ネットじゃなくて、紙で。質問を書いて入れてもらったら、返事は相手だけが読む“手渡し”にする。開封は図書委員二人の立会い。個人名が特定される内容は禁止。運用ルールはこれから詰めるけど、とりあえず試してみたい」
律が身を乗り出す。
「いいね、それ」
「名付けは?」
「“歩幅ポスト”とかどう?」
「べつに“相談箱”でいい」
即座に俺が否定し、葛西が声を立てずに笑った。「ラベルで薄めない」の実践が早すぎる。
「今、作る?」
彼女は、画用紙とクラフトテープを取り出し、手早く箱の口を整え始めた。側面には余白を多めに、注意事項を貼るスペースを残している。俺はペンでルール案を箇条書きに書いた。――返信は“紙で”。――宛先は“個別”。――内容は“相手が読んでも動揺しない表現で”。――沈黙を嫌な間にしない。律が紙の端を押さえ、俺はテープを引く。三人の手が、机のうえで同じ“テンポ”を刻む。コンテンツの前に“器”を整える。図書室の光は冬に近く、白が冷たく見えるのに、不思議と体温は落ちない。
箱の口が閉じた。葛西がカウンターの上に据え、静かに宣言する。
「今日から運用開始。最初の投函は——」
俺は、胸ポケットから折りたたんだ便箋を取り出した。さっきの休み時間に、トイレの隅で書いた。書くために逃げ込む場所なんて、かっこ悪いと思う。けれど、かっこ悪い行為にしか救えないタイミングがある。便箋の折り目は雑で、文字はやけにまっすぐだ。
宛先は、律。
——“相談役ごっこ”は、ここで終わりにしよう。
——これからは、同じ側のベンチで話したい。
——“歩幅”は、隣で測る。
——“半分こ”は、譲らないためにやる。
——“沈黙”は、嫌な間じゃない。
——“俺は転勤するかもしれない”。
——だから、練習は増える。
——本番も増やす。
——お願いだから、一緒に“音”を続けよう。
投函口に差し入れ、落とす直前、律が手を伸ばした。
「それ、俺が先にもらっていい?」
「規約違反」
葛西が即答し、俺と律は同時に笑った。笑いが同じ側に落ちた瞬間、どちらともなく、俺は箱に便箋を落とした。中で紙が軽く踊る音がして、静かになった。
放課後、葛西は運用初日の“裏”手続きとして、俺に手紙を返却してくれた。「“返事を書きたい相手”がはっきりしているケースは、これで合ってる」と彼女は言って、厚手の封筒をそっと俺の手に押し戻した。「二枚目、入ってるから、返事、書けるよ」。封筒の中身は空。返事を書くための白。白は怖い。でも、受け取る。怖い白にペンを入れる役割は、今日の俺の仕事だ。
校門前までの道で、律は封筒を両手で受け取り、真ん中をひと押しした。中に空気がわずかに入り、封筒がふくらむ。
「“相談役ごっこ”、終わり。了解」
「了解」
「じゃあ、まずは“親友のままの恋人”から始めよう」
言い切りの形を、彼は選んだ。提案よりも、宣言。宣言よりも、合図に近い音で。俺はうなずいた。三度も。足元の影が重なる。夕焼けは薄く、空へ還る途中で色を失いかけている。
それでも、ネットのノイズは校門を越えても追いかけてくる。駅に近づくにつれ、見知らぬ年下たちの「“歩幅”——」「“半分こ”——」といった断片が耳の後ろに張り付く。薄いラベルが空に散らばり、どこからか降ってくる。俺は歩きながら、口の中で小さく数えた。いち、に、さん、し。四拍。拍でノイズを区切る。律が隣で、針のないメトロノームみたいに、ただ並んで歩く。その並びそのものが、俺に音量の目盛りを返してくれる。
夜。ピアノサロン。ドアを開けると、昨日までよりさらに空気が澄んで感じられた。多分、俺の側の濁りが少し引いたからだ。アップライトの前に座る律。俺は横に座り、封筒から白い便箋を出した。ペン先を置く前に、律が言った。
「今日は、“ハッピーエンドのコード進行”を覚えたい」
I–V–vi–IV。音楽サイトでよく見かける“みんなの幸せ”の並び。手垢がついているほど普遍で、普遍であるほど胡散臭い。でも、胡散臭さを払えるのは、手で鳴らす人間の温度だけだ。
「C、G、Am、F」
「うん」
律の左手が“ド-ソ-ラ-ファ”を掴み、右手が上で和音を作る。俺は四拍を数え、二拍目と四拍目に合いの手の“&”を小さく挟む。カチ、&、カチ、&。律が笑う。笑いながら、“G”を少し強めに打つ。幸福の進行は、強さと弱さの順番を何度でもやり直せる点で、救いだ。
「さっきの返事、今、書いていい?」
「もちろん」
便箋に、俺は短い言葉を置いた。文章にしない。音符を並べるみたいに、点で。
——“親友のままの恋人”を、やろう。
——“歩幅”は、録音じゃなく、毎回合わせ直す。
——“半分こ”は、パンだけじゃなく、寂しさにも使う。
——“遠距離”は、軽くなくやる。
——“&”は、離れても俺が鳴らす。
——“転勤”は、逃げずに言えてよかった。
——“ありがとう”の言い方、増やす。
書き終えて封筒に戻し、律に渡した。律は慎重に受け取り、胸ポケットへしまった。しまう所作が、楽譜を閉じるときに似ている。丁寧に。指の腹全体で紙を保護するみたいに。
ハッピーエンドのコードをもう一周。三周目、四周目。重ねるほど、音は主張をやめて、床に溶ける。床に溶けた音は、立っている自分の重心を“ここ”に置き直す。外のノイズが、ガラス越しの雨みたいに遠くなる。
弾き終えて、しばらく沈黙した。沈黙は嫌な間じゃない。ソファの縫い目をなぞるみたいな、手触りのある静けさ。律がふいに、鍵盤の蓋に指を置いた。
「今日、もしまたタイムラインで“歩幅”がからかわれても、俺、返さないことにした」
「うん」
「返さないのは“無視”じゃなくて、“俺たちの音量を守る”だから」
「うん」
「湊、怖くなったら言って。逃げそうになったら、俺、ごり押しでは止めない。方向だけ、ゆっくり直す。メトロノームみたいに」
「頼む」
頼む、という二音は、信頼の短縮形だ。何度使っても磨耗しない。
「そうだ。相談箱、名前、どうする?」
「“相談箱”。それでいい」
「ふふ」
笑う律の横顔に、スポットの白が落ちる。白は、悪くない。色が決まらない余白だから。俺たちの標語だ。通れる余白。
サロンを出ると、夜風は冷たく、やけに静かだった。ネオンの色の分布だけが街を地図みたいに切っている。信号の前で、律が小さくつぶやく。
「ねえ、湊」
「ん」
「“相談役ごっこ”、終わったね」
「終わった」
「じゃあ、次の“ごっこ”やる? “夫婦ごっこ”」
「早い」
「“未来ごっこ”」
「それは、練習」
「練習?」
「うん。本番の回数を増やすための、ちゃんとした練習」
律は笑い、俺も笑った。笑いは同じ側へ落ちる。赤信号が青に変わり、俺たちは歩き出した。肩が触れ、離れ、また触れる。通り過ぎる二人組の会話の端に「“半分こ”さ」なんて単語が乗った。耳は拾ったが、心は拾わなかった。拾わない自由。拾いすぎた数週間の反動で、今は選んでいい。
家に戻ってから、俺は机の上でペンを取った。青いインクの最初の線は、いつだって緊張する。ノートの見開きの上に、今日の項目を並べた。
——匿名のラベルは、身体の温度を奪う。
——言葉は、所有物ではないけれど、“使い方”には体温が残る。
——体温を守る。
——“相談役”の椅子から、同じ側のベンチへ。
——紙の相談箱=手渡しの救い。
——ネットのノイズは、拍で区切る。
——ハッピーエンドのコード進行は、練習を重ねたぶんだけ本番に近づく。
——“&”は、明日も鳴らす。
書きながら、胸のどこかが静かに満たされていく。満たすというより、詰め物を外した空洞を、空洞のまま許す感覚に近い。空洞は、悪ではない。音が響くための空間だ。
スマホを開く。@相談くんは、今夜は静かだった。騒ぎは一段落したらしい。画面を閉じる前に、保存したドラフトをひとつ捨てた。匿名に預けて済む話ではない。預ければ軽くなるけれど、軽くなったぶん、どこかが薄くなる。薄くなって困る場所は、もうわかっている。俺たちの声は、ここ——紙と鍵盤と、歩幅の間に置く。
ベッドに横になり、目を閉じた。静かさの底で、今日覚えたコードが小さくループする。C、G、Am、F。そこに、俺の“&”が短く差し込まれる。タン。笑う。ひとりで笑える夜は、悪くない。
明日、図書室の“相談箱”に、最初の誰かの紙が落ちるかもしれない。開封の立会いは、たぶん俺と葛西。返事は、便箋に。相手だけが読む。手渡しで。紙は重い。重いから、救いになる。重さは、存在の証明だ。軽いものは、風で飛ぶ。飛ぶ自由も必要だけれど、戻ってくる方法を同時に覚えたい。
“親友のままの恋人”。宣言は今日、可視化された。ラベルじゃない。俺たちの言い方。ネットに合わせない、音量の決め方。ピアノの鍵盤は、五十二枚の白鍵と、三十六枚の黒鍵でできている。そのうちのどれを押すかで曲が決まり、その日の指の温度で同じ曲が変わる。明日も、押す。明後日も、押す。春になって離れても、画面越しに押す。押せなかった日は、“ド”と“&”だけ鳴らす。
眠りに落ちる直前、ふと思う。
“清算”という言葉は、借りをゼロにすることだと思っていた。けれど今は、借りを「半分こ」にすることだと分かる。誰かの肩に全部の重さを乗せない。誰かの重さを“無いこと”にしない。半分の重さで、二人が立つ。——それなら、歩ける。歩幅を合わせられる。
明日の朝、昇降口で新しい噂話が生まれても、俺は青ペンをポケットに入れ、律と並んで歩くだろう。同じベンチの同じ側。通れる余白を自分たちで測り、ネットの室温じゃなく体温で喋る。そう決めたから。そう、清算したから。
おやすみ、と画面に打って消し、結局は打たずに目を閉じた。明日は言葉ではなく、拍で挨拶する。昇降口で、いち、に、さん、し。律が気づいて笑う。俺も笑う。笑いは、また同じ側へ落ちる。ハッピーエンドのコード進行の、最初の“C”が、まぶたの裏でやわらかく光った。



