日曜の朝、雨がやっと上がった。
 濡れたアスファルトは、太陽を知らない光で鈍く光っている。昨日までの曇りを押し返すように、空は少しだけ高くなっていた。
 俺は駅前のベーカリーの前で、律を待っていた。

 軒先から滴る雫の間を、鳩が横切っていく。
 自動ドアの開閉音がリズムのように続き、パンの焼ける匂いが外まで流れてくる。
 律は約束の時間より五分遅れてやってきた。
 濡れた髪を後ろで軽く撫で、俺を見る。

「おはよう」
「おはよう」

 たったそれだけのやりとりなのに、息が浅くなる。
 昨日までと何も変わらないのに、昨日までとは決定的に違う。
 この“違い”をどう扱えばいいのかわからない。

 店のガラス戸の向こうで、オーブンがちょうど開いた。
 熱気が曇りガラスをくもらせ、白い煙のような香ばしい空気が押し出されてくる。
 俺たちは店に入り、トレイを取った。

 塩パンとクリームパン。
 最初に目が合ったとき、同時に同じ棚の前に立って、同時にその二つを取った。
 笑うしかなかった。
「被ったな」
「だね」
 軽く笑って、カウンターに持っていく。

 会計を終えると、律が言った。
「外、行こう。せっかくだから」

 ベーカリーの脇に、小さな公園がある。
 雨上がりの芝生は、靴底を軽く吸い込むように柔らかい。
 ベンチに座ると、雲の切れ間から光が降りてきた。
 その光の中で、律がパンの袋を開けた。

「半分こ、しよう」
「……どっちを?」
「両方。ほんとの半分こ」

 クリームパンを半分に割ると、指先に少しだけカスタードがついた。
 律がそれを見て、小さく笑った。
 俺も、笑いそうになったけど、笑えなかった。
 笑うと、たぶん涙が出ると思ったから。

 口に含むと、甘さよりも温度を感じた。
 まだ焼きたてのぬくもりが残っている。
 律は少しのあいだ黙っていた。
 何かを整理しているように、空を見て、それから俺を見た。

「湊」
「うん」
「……“相談”って、逃げだった」

 呼吸の形が変わる。
 胸の奥で、何かが“やっと動いた”音がした。

「壊れるのが怖くて、諦めるほうがもっと怖くて。
 だから、ぼかしてた。
 “好きな子”の話をすれば、気持ちを見せてもバレないと思ってた。
 でも、本当はもう隠せなかった」

 律の目がまっすぐに俺を見ていた。
 濡れた空気を押し分けてくるみたいに。

「――好きだよ、湊」

 空が、いっせいに静かになった気がした。
 鳥の声も、風の音も、遠くの車のエンジンも。
 全部が一瞬、どこかにしまわれたようだった。

 世界が“音をなくす”ほどの瞬間って、本当にあるんだ。
 それは衝撃じゃなく、着地のような静けさだった。

 俺は何かを返さなきゃと思うのに、言葉がなかった。
 律の“好き”が、いま胸の奥でまだ解凍されているみたいに、うまく温度を合わせられない。

「……俺さ」
 やっとの思いで言った。
「親友を好きになって、“親友でいられなくなる”のが怖かったんだ」

 律は何も言わなかった。
 その沈黙に、少し救われる。

「でも、壊れるって、完全に壊れることじゃないのかもしれない。
 形が変わるだけなんだ。
 たぶん、俺たちもそうなる」

 律の唇が、ほんの少しだけ緩んだ。
 風が二人の間を通っていく。

「湊の“直さなくていい癖”、俺、全部好きだよ」
「癖?」
「他人に譲るとき、ちょっと笑ってごまかすとことか。
 ありがとうを言う前に“だいじょうぶ”って言うとことか。
 あと、話を聞くとき、右手の指先で袖を触るとことか」
「……よく見てるな」
「見てる。ずっと見てた」

 律の声は淡々としていたけど、その奥に熱があった。
 俺はもう、逃げられなかった。

「律が“頼る”と“寄りかかる”を間違えそうになったら、俺、手首じゃなくて背中を押す」
「うん」
「だから、そのときはちゃんと俺のほう見て」
「見るよ」
 律は、まっすぐに言った。
 そのまっすぐさが眩しかった。

「歩幅、合わせよう」
 俺は小さく息を吐いた。
「合わせてくれる?」
「最初から、合わせてた」

 笑い合った。
 でも手は、まだ繋がない。
 きっと、今はそれでいい。
 指先がまだ“この距離”を確かめている。

 赤信号の前で立ち止まる。
 向こう側で、風が少しだけ旗を揺らしている。
 律が口を開いた。
「……次の“相談”は、恋人同士の練習じゃなくて、本番にしたい」
 俺は頷いた。
 頷く動作に、言葉より多くの意味を込めた。

 青信号。
 渡りながら、律の肩と俺の肩が触れる。
 その一瞬、呼吸がひとつ混ざった。
 離れたあとも、空気の形がそこに残る。

 駅の改札の手前で、律が笑った。
「これから、どこ行く?」
「どこでもいい」
「“どこでもいい”って言うの、湊っぽい」
「言うな、それ」
「だって好きなんだもん」
 小さく笑って、目を逸らす。
 それだけで、十分だった。
 この瞬間だけで、一生分の“初めて”をもらった気がした。

 その夜。
 夕飯のあと、居間の電話が鳴った。
 母が受話器を取る。
 相手の声は聞こえないけれど、母の相づちのトーンが、だんだん低くなるのがわかった。

「――ええ、はい……転勤、ですか」

 その一言で、心臓が一拍遅れた。
 まるで昨日までの天気が嘘になるみたいに。

 母が電話を切って、俺を見る。
「お父さん、春から長野に転勤なの。家族も一緒に行く話で……まだ正式じゃないけど」

 耳鳴りがした。
 カレンダーの数字が、急に現実の形を持ち始める。
 三月、四月。
 卒業までには、まだ少しある。
 でも“まだある”のあとに“もうない”が続くのを、俺は知っていた。

 母が言う。
「湊は、どうしたい?」
「……どうって」
「学校のこともあるし、考えないとね」

 その“考えないとね”が、ナイフみたいに響く。
 さっきまでの幸福が、紙の上で折られたみたいに薄くなる。
 たしかに存在するのに、指で掴もうとすると消える。

 部屋に戻り、ベッドに座った。
 スマホの画面に、律とのトークがまだ開いたままだった。
 最後のメッセージは「また明日」。
 その“明日”が、いきなり輪郭を失っていく。

 指が震えた。
 「今日、楽しかった」と打ちかけて、消す。
 「好き」と打って、消す。
 「転勤」と打って、消す。
 どの言葉も“伝える”のではなく“壊す”音にしか思えなかった。

 机の上の半分こしたパンの袋が、まだ残っていた。
 中のパンくずが少しだけ湿っていて、香りが残っている。
 それを見ながら思った。

 壊れるって、完全に壊れることじゃない。
 形が変わるだけ。
 でも、その“変わる”がいつも優しいとは限らない。

 窓の外で、雨上がりの風がまた吹いた。
 雲の向こうで、きっと明日も空は続いている。
 そのことだけが、今の俺をかろうじて支えていた。

 翌朝、目が覚めても現実はそのままだった。
 机の上に、昨日の青ペンが転がっている。
 律からのメッセージ通知が一件。

「湊、今日もベーカリー行く?」

 その文を見た瞬間、胸が締めつけられた。
 この一行の明るさを、どう扱えばいいのかわからない。
 俺はスマホを伏せ、顔を両手で覆った。

 “告白=練習じゃなく本番”――律の言葉が、頭の奥で反響する。
 本番のあとに待っているものが、こんなにも静かな恐怖だなんて、誰が思っただろう。

 それでも俺は、制服に袖を通した。
 まだ言っていないことが、あまりにも多すぎたから。
 そして――
 今日という日が、ほんとうの意味での“始まり”か“終わり”になるのかは、
 もう、俺たち次第だった。

雨上がりの光は、まだ柔らかい。
世界は、昨日より少しだけ、静かに呼吸している。
その音の中で、俺は“好き”を胸に、歩き出した。