開場一時間前、雨はまだ糸の太さを定めきれないまま、空から細かく降り続いていた。校門前のアスファルトは乳白色の薄膜をまとい、傘の骨で叩くたびに小さな鈴の音みたいな反射が生まれる。
ポスターを貼り直し、角を手の腹でなでて空気を抜く。紙の下に取り残された泡が、ぎゅっと鳴く。通れる余白は、今日のために何度も測りなおした。入口、整列、会計、退出。人の呼吸が滞らないように、矢印は短く、指示は柔らかく。
教室の時計が九時を指す。ドアを開ける前、律が短く言った。
「行こう」
たった二音の合図。喫茶は開いた。
最初の一時間で、紙コップの山がひとつ減る。無糖ミルクのうすい甘さ、焼き菓子の素朴な匂い、湿った傘の滴り。寸劇の方は想像以上に受けた。客席がひとつ笑うと、別の笑いが反射して増幅する。映像研のカメラは静かに動き、ピンマイクは俺たちの生活音を拾う。
律はフロアの中心に立ち、遠すぎず近すぎない距離で手を動かしていた。列の蛇行を直し、入り口の“わからない”顔を最初の席に連れていく。声は通るけれど、尖らない。雨の日の駅の係員みたいな、安心の音量。
休憩時間。隣のクラスの女子が三人、律を囲んだ。
「朝比奈くん、写真撮ってもらってもいい?」
「いいよ」
スマホが三台、カシャ、と濡れた音を立てる。画面に映る笑顔の輪の中で、律は少しだけ首を傾けて、中心になりすぎない位置取りをしていた。
胸が、チクリとした。
痛みは小さいから、逆に刺さっている場所がはっきりわかる。俺は売上シートの数字を確認するふりをして、視線を糸のように細くした。
「三浦くん、これ、追加の紙コップ。倉庫から」
映像研の先輩が箱を置き、ふとカメラを上げる。
「今の気持ち、ひと言で?」
まっすぐなレンズは、しばしば正解を求める。答えはすでにそこにある、と信じ切った目だ。
俺は躊躇して、それから短く言った。
「歩幅を、間違えた」
先輩の眉が、わずかに動いた。それ以上は問われない。レンズが離れ、息がひとつ分戻る。
文化祭の喧噪は、ふとしたきっかけで水位を変える。鈴の音みたいな笑い、紙の角が机で擦れる乾いた音、誰かが転びかけて生まれた小さな悲鳴。そういう音の隙間に、俺の言葉は静かに沈む。誰の耳にも届かず、けれど自分にだけ届く、正解のない合図。
終演のベル。外は相変わらず小雨だ。客の波が引いた教室に、湿った空気だけが残る。
片付けの区切りが付いた頃、空き教室に呼ばれた。律が紙コップを二つ持っている。湯気の白さが、蛍光灯の下で淡くほどけた。
「ホットココア。砂糖は調整できなかった」
「だいじょうぶ」
口に含むと、舌の上で“安全”だけが広がる。甘さに驚きがない。だから安心する。
「昨日のDM、返せなくてごめん」
「忙しかったでしょ」
「ううん。考えてた」
律は紙コップの縁を見つめる。
「『相談』って言い方、俺の逃げ道だって」
息が止まった。
「終わらせたい。『その子』じゃなくて、湊に話したい」
空気が傾いた。
机の脚がわずかに軋むほど、ほんの少し。
その“ほんの少し”が、俺を真っ直ぐに刺す。
返事を探す間に、教室のドアが遠くなった気がして、俺はそこを指差すみたいに言った。
「片付け、もう一回見てくる」
逃げた。たぶん、いちばん幼稚な方法で。紙コップの縁に指を掛けたまま離れ、廊下へ出る。
背後で律が何か言った気がしたが、雨の音に溶けて確かめられなかった。
*
夕方、仕込みの残りを片づけていると、@相談くんの固定に新しいポストが上がった。
〈『相談』の影に隠れている人へ〉
指が勝手に開く。
言わなければ、ずっと“相談役”のまま。
言えば、壊れるか、形が変わるかのどちらか。
それでも、誰かの“逃げ道”になっている言葉が、
あなた自身の“行き止まり”であることを、忘れないで。
まるで、俺たちのことだ。
偶然で済ませるには、言葉の温度が合いすぎていた。
“バズ”の音は、時々、救急車に似ている。誰かを運びながら、誰のことも助けられていない感じ。
俺はスマホを伏せる。伏せた直後、画面がまた震えた。誰かの共感、誰かの皮肉。
机の端で、紙束を揃える音を強める。行き止まりの手前で、紙の角はやけに鋭い。
帰りの昇降口。
葛西が折り畳み傘を差し出してくれた。
「持ってる」
「それでも、貸す」
彼女の傘は、俺のより骨が強そうだった。雨の粒が当たると音が低い。
「二人は、たぶん大丈夫だよ」
俺は笑えず、うなずけず、ただ傘を受け取った。
「どうして、そんなふうに言えるの」
と言えたらよかったのに、言えなかった。問いは喉で丸くなり、飲み込まれて消えた。
校門を出る手前で一度だけ足を止める。
傘の内側は灰色で、外の世界は水彩のにじみみたいにぼやけている。
“終わらせたい”という言葉は、選び間違えると暴力になる。
“終わらせる”という動詞には、必ず“始める”が付属しているのに、そのセットに目が向くまで時間が要る。
俺は、何を始めるのか。
そして、何を終わらせるのか。
*
夜。
シャワーの湯で耳の中まで赤くしても、今日の音は残っていた。客席の拍手、女子たちのスマホのシャッター、映像研の先輩の「いまの気持ち、ひと言で?」、律の「終わらせたい」。
ベッドに横になり、天井の白に息を合わせる。
スマホの画面は伏せたまま、バイブだけが一定の間隔で鳴る。
通知のバリエーションは三つ。@相談くんの拡散、文化祭タグの写真の波、クラスメイトの「打ち上げどうする」。
律からは何も来ない。
来ない、という事実が、ひとつの言葉のように胸に置かれる。
言葉が、ない。
ないことが、ある。
それでも、存在する。
眠れないときの対処法を、俺は幾つも覚えた。
青ペンで今日の項目を箇条書きにする。息を数える。電車の時刻表を頭で逆算する。
今日はどれも効かない。
効かない日があることを、許したくない気持ちが強すぎて、余計に冴える。
明かりをつけ、机に向かい、白紙を一枚引き抜く。
〈通れる余白〉
題名みたいに書いて、線を引く。
線の幅は、昨日より少しだけ広くする。
広げるほど、どこかを削ってしまう。
削った部分に、具体的な名前が浮かびそうで、怖くなる。
スマホが静かになった。
夜の底の方に、急に波が引くみたいな静けさ。
俺はベッドに戻り、目を閉じた。
眠れない夜の出口は、たいてい、翌朝の雑音だ。
それまで、何も壊れませんように。
そう祈ること自体が、壊れる可能性の存在証明みたいで、矛盾に笑いそうになる。笑えないのに、笑おうとする癖が、舌の裏に薄い傷を作る。
*
翌日。
小雨は、やはり糸の太さを決めかねていた。
教室の窓に水滴の列ができ、外の景色が等間隔で歪む。
文化祭の後片付けは、予想より早く終わった。ポスターを剥がす角度、糊残りの拭き取り、掲示板の穴の数。
映像研が「昨日の素材、少しだけ確認させて」と言って、ノートPCの画面を見せてきた。
再生されるのは、喫茶の列、寸劇のラスト、拍手。
突然、画面が俺の横顔になる。
「今の気持ち、ひと言で?」
音声が、昨日の俺を呼ぶ。
俺は、昨日の俺の声を聞く。
「歩幅を、間違えた」
横で見ていた律が、ちいさく息を飲んだ気がした。
カメラの赤い点はとうに消えているのに、画面の中で俺はまだ、うまく息をしていない。
視線を外し、窓の外を見た。
雨の線のむこうで、誰かが傘を閉じて走っていく。肩先が一瞬濡れて、すぐに乾く。
その濡れた一瞬のために、今日という時間が丸ごと薄くなっている。そう思うと、おかしくて、つらい。
片付けが終わり、教室が昼の静けさを取り戻したころ、律が言った。
「今日の五限、図書室、いい?」
“いい?”という問いは、いつでも逃げ道になる。“来て”じゃない。“来られる?”でもない。
「五分だけなら」
五分だけ。昨日の言い換え。
俺は、首だけでうなずいた。
図書室の端は、空いていた。
昨日の飴の包み紙が、まだ紙くず入れの中にあった。
律は椅子に座って、両手を膝の上で組む。
「昨日の続き、聞いてほしい」
「……聞くだけ」
「うん」
息を合わせる。図書室の空調の音と、ページを捲る音の合間で。
「俺、『相談』を言い訳にしてた。誰かに“好きだよ”って言うとき、外に向けるより先に、湊に向けたかったから。けど、それじゃずるい。だから終わらせたい。終わらせないと、始められない」
俺は、机の縁を指で押した。木目の線が指先に沈む。
「言葉、選ぶの上手いね」
「練習した」
「練習のほうが、本番ぽいことある」
「わかる」
沈黙が落ちた。落ちて、俺たちの間で整頓される。
五分のうちの、三分半が過ぎた気がした。
律が続ける。
「湊。——好きだよ、って言いかけたの、昨日だけじゃない。何回も、言いかけた。『その子』に向けて。『その子』って誰か、湊はわかってたと思う。俺も、わかってた」
机の下で靴の先同士が触れ合い、すぐ離れた。
俺は、答えなかった。
答えないことが、今は唯一の暴力にならずに済む方法だった。
図書委員のベルが、閉館十分前を告げる。
「戻ろう」
「うん」
立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
図書室を出るとき、律がさらに低い声で言った。
「雨がやんだら、話そう」
昨日の一行が、口の温度を持って手渡された。
俺はうなずくふりをして、うなずかなかった。喉の内側で動いたのは、うなずきに似た別の動きだ。
廊下の窓に額を寄せる。外の雨脚は——まだ、迷っている。
※
放課後を過ぎても、雨はやまなかった。
屋上の排水口が詰まったらしく、廊下の天井から小さな雫が垂れている。蛍光灯がその水滴に反射して、ぽつりぽつりと光る。
放送部のマイクチェックの声が、空っぽになった教室に遠く響く。
文化祭の二日目が終わり、学校の中は“お祭り”の残り香で満ちていた。
紙コップ、パンフレット、ガムテープ。浮かれた後の静けさだけが残る。
律はまだ残っていた。舞台セットを解体する手伝いをしていたらしい。
濡れた髪をかき上げ、息を吐く。その仕草が、やけにゆっくりだった。
「もう上がっていいって言われたけど、片付けだけ見届けたくて」
俺は頷く。
「映像研の人がさ、昼の映像、編集してくれるって」
「うん」
「……湊の“歩幅を間違えた”ってとこ、使われてた」
「え?」
「さっき、モニターで流してた。最後の“終演の余韻”のBGMの下に、あの言葉、重ねてあった」
律の声は冗談めいていたが、少しだけ掠れていた。
俺は何も言えなかった。
あの言葉が“俺の本音”だと知っているのは、きっと彼だけだから。
窓の外を見た。
校庭は雨に濡れて、ライトが滲んでいる。
映像の中で切り取られた“歩幅の間違い”が、現実の空気を染めていくような気がした。
「湊」
「ん」
「……もし、映像に残らなかったとしても、俺は覚えてたと思う」
「なにを」
「今日の全部。雨の匂いとか、カフェの音とか、湊がカップを受け取るときの手の震えとか」
「……律」
「ちゃんと、話そう。雨がやんだら」
その言葉は昨日の再演だった。でも、昨日よりも静かで、深かった。
喉の奥で“わかった”が形にならない。
それでも、逃げようとした足が止まる。
「俺、相談役のままでいたかったのかも」
自分でも驚くほど素直に、口が勝手に動いた。
「その方が、楽だから」
「楽?」
「律の話を聞いてる間は、俺は“安全”でいられる。傷つかない位置にいられる」
「でも、それって」
「うん。ずるい。俺が一番逃げてた」
律が近づく。
傘の下で寄り添うみたいな距離。
湿った制服の匂い。
心臓の音が、ふたり分になって響く。
「俺さ、湊のこと、好きだよ」
その瞬間、外で雷が鳴った。
ほんの一瞬、音の波がふたりを包む。
俺は何も返せなかった。
言葉が壊れる音を、聞きたくなかったから。
息を吸う。
雨のにおい。
小さな窓から吹き込む風が、ポスターを一枚、ふわりと揺らす。
そこには“通れる余白”の文字。
俺が書いた、いつものフレーズだ。
律がそれを見て、小さく笑った。
「ねえ、湊。これ、通れる?」
“余白”を指差して、問う声は真剣だった。
「今は、まだ無理」
「じゃあ、待つ」
「……そんな簡単に言うなよ」
「簡単じゃないよ」
律はゆっくり首を振った。
「待つって、けっこう痛いから」
外の雨音が少しだけ弱まった。
それは、やみかけの合図。
けれど完全にはやまない。
まるで、俺たちの距離みたいに。
帰り道、校門の前で葛西が傘をさして立っていた。
「湊くん、これ。さっきまで控室に忘れてたでしょ?」
彼女が差し出したのは、俺のポスター用の青ペンだった。
ペン先にインクが溜まっていて、まだ乾ききっていない。
俺は受け取り、礼を言おうとした。
けれど、葛西が先に口を開いた。
「ねえ、三浦くん」
「なに?」
「二人は、たぶん大丈夫だよ」
その言い方は、微笑みよりも確信に近かった。
理由を聞きたかった。
“どうしてそんなふうに言えるの”と。
でも、口が動かない。
その問いを立てた瞬間に、何かが壊れそうで。
雨がまた少し強くなった。
傘の上で音がはねる。
葛西は笑いながら、「じゃあ、またね」と言って振り返る。
その背中を見送りながら、俺は空を見上げた。
雲の切れ間に、夕焼けの名残が薄く差していた。
雨は、まだ完全にはやんでいない。
でも、もう“やみはじめている”と思えた。
家に着くと、机の上に紙コップがひとつ置いてあった。
昼に飲んだホットココア。律が差し出してくれたものだ。
紙の底に、乾いたチョコ色の線が残っている。
その端に、青ペンで小さく書かれていた。
〈雨がやんだら、話そう〉
俺はその文字を指でなぞった。
触れたところから、微かに温度が戻ってくる気がした。
それはきっと、雨の残り香でも、ココアの熱でもなくて――
律の声の温度だった。
スマホを開くと、@相談くんの投稿がまたひとつ増えていた。
「傘の下で迷っている人へ」
雨は、止むことよりも、やみかけを見つけるほうが難しい。
でも、誰かと半分の傘をさすと、
やみかけの空でも、十分に歩ける。
“歩幅”という言葉はなかった。
けれど、行間の温度が、もう誰かを指しているのを感じた。
俺は投稿に“いいね”も押さず、ただ画面を閉じた。
窓の外。
傘の音がひとつ、またひとつ減っていく。
遠くでカラスが鳴く。
夜が降りてくる。
そして俺は、明日を想像する。
やっと“話せる”明日を。
通れる余白の向こう側で、
もう一度、歩幅を合わせ直す練習をする。
雨が完全にやむまで、あと少し。
その“少し”のあいだに、
言葉を、整える。
ポスターを貼り直し、角を手の腹でなでて空気を抜く。紙の下に取り残された泡が、ぎゅっと鳴く。通れる余白は、今日のために何度も測りなおした。入口、整列、会計、退出。人の呼吸が滞らないように、矢印は短く、指示は柔らかく。
教室の時計が九時を指す。ドアを開ける前、律が短く言った。
「行こう」
たった二音の合図。喫茶は開いた。
最初の一時間で、紙コップの山がひとつ減る。無糖ミルクのうすい甘さ、焼き菓子の素朴な匂い、湿った傘の滴り。寸劇の方は想像以上に受けた。客席がひとつ笑うと、別の笑いが反射して増幅する。映像研のカメラは静かに動き、ピンマイクは俺たちの生活音を拾う。
律はフロアの中心に立ち、遠すぎず近すぎない距離で手を動かしていた。列の蛇行を直し、入り口の“わからない”顔を最初の席に連れていく。声は通るけれど、尖らない。雨の日の駅の係員みたいな、安心の音量。
休憩時間。隣のクラスの女子が三人、律を囲んだ。
「朝比奈くん、写真撮ってもらってもいい?」
「いいよ」
スマホが三台、カシャ、と濡れた音を立てる。画面に映る笑顔の輪の中で、律は少しだけ首を傾けて、中心になりすぎない位置取りをしていた。
胸が、チクリとした。
痛みは小さいから、逆に刺さっている場所がはっきりわかる。俺は売上シートの数字を確認するふりをして、視線を糸のように細くした。
「三浦くん、これ、追加の紙コップ。倉庫から」
映像研の先輩が箱を置き、ふとカメラを上げる。
「今の気持ち、ひと言で?」
まっすぐなレンズは、しばしば正解を求める。答えはすでにそこにある、と信じ切った目だ。
俺は躊躇して、それから短く言った。
「歩幅を、間違えた」
先輩の眉が、わずかに動いた。それ以上は問われない。レンズが離れ、息がひとつ分戻る。
文化祭の喧噪は、ふとしたきっかけで水位を変える。鈴の音みたいな笑い、紙の角が机で擦れる乾いた音、誰かが転びかけて生まれた小さな悲鳴。そういう音の隙間に、俺の言葉は静かに沈む。誰の耳にも届かず、けれど自分にだけ届く、正解のない合図。
終演のベル。外は相変わらず小雨だ。客の波が引いた教室に、湿った空気だけが残る。
片付けの区切りが付いた頃、空き教室に呼ばれた。律が紙コップを二つ持っている。湯気の白さが、蛍光灯の下で淡くほどけた。
「ホットココア。砂糖は調整できなかった」
「だいじょうぶ」
口に含むと、舌の上で“安全”だけが広がる。甘さに驚きがない。だから安心する。
「昨日のDM、返せなくてごめん」
「忙しかったでしょ」
「ううん。考えてた」
律は紙コップの縁を見つめる。
「『相談』って言い方、俺の逃げ道だって」
息が止まった。
「終わらせたい。『その子』じゃなくて、湊に話したい」
空気が傾いた。
机の脚がわずかに軋むほど、ほんの少し。
その“ほんの少し”が、俺を真っ直ぐに刺す。
返事を探す間に、教室のドアが遠くなった気がして、俺はそこを指差すみたいに言った。
「片付け、もう一回見てくる」
逃げた。たぶん、いちばん幼稚な方法で。紙コップの縁に指を掛けたまま離れ、廊下へ出る。
背後で律が何か言った気がしたが、雨の音に溶けて確かめられなかった。
*
夕方、仕込みの残りを片づけていると、@相談くんの固定に新しいポストが上がった。
〈『相談』の影に隠れている人へ〉
指が勝手に開く。
言わなければ、ずっと“相談役”のまま。
言えば、壊れるか、形が変わるかのどちらか。
それでも、誰かの“逃げ道”になっている言葉が、
あなた自身の“行き止まり”であることを、忘れないで。
まるで、俺たちのことだ。
偶然で済ませるには、言葉の温度が合いすぎていた。
“バズ”の音は、時々、救急車に似ている。誰かを運びながら、誰のことも助けられていない感じ。
俺はスマホを伏せる。伏せた直後、画面がまた震えた。誰かの共感、誰かの皮肉。
机の端で、紙束を揃える音を強める。行き止まりの手前で、紙の角はやけに鋭い。
帰りの昇降口。
葛西が折り畳み傘を差し出してくれた。
「持ってる」
「それでも、貸す」
彼女の傘は、俺のより骨が強そうだった。雨の粒が当たると音が低い。
「二人は、たぶん大丈夫だよ」
俺は笑えず、うなずけず、ただ傘を受け取った。
「どうして、そんなふうに言えるの」
と言えたらよかったのに、言えなかった。問いは喉で丸くなり、飲み込まれて消えた。
校門を出る手前で一度だけ足を止める。
傘の内側は灰色で、外の世界は水彩のにじみみたいにぼやけている。
“終わらせたい”という言葉は、選び間違えると暴力になる。
“終わらせる”という動詞には、必ず“始める”が付属しているのに、そのセットに目が向くまで時間が要る。
俺は、何を始めるのか。
そして、何を終わらせるのか。
*
夜。
シャワーの湯で耳の中まで赤くしても、今日の音は残っていた。客席の拍手、女子たちのスマホのシャッター、映像研の先輩の「いまの気持ち、ひと言で?」、律の「終わらせたい」。
ベッドに横になり、天井の白に息を合わせる。
スマホの画面は伏せたまま、バイブだけが一定の間隔で鳴る。
通知のバリエーションは三つ。@相談くんの拡散、文化祭タグの写真の波、クラスメイトの「打ち上げどうする」。
律からは何も来ない。
来ない、という事実が、ひとつの言葉のように胸に置かれる。
言葉が、ない。
ないことが、ある。
それでも、存在する。
眠れないときの対処法を、俺は幾つも覚えた。
青ペンで今日の項目を箇条書きにする。息を数える。電車の時刻表を頭で逆算する。
今日はどれも効かない。
効かない日があることを、許したくない気持ちが強すぎて、余計に冴える。
明かりをつけ、机に向かい、白紙を一枚引き抜く。
〈通れる余白〉
題名みたいに書いて、線を引く。
線の幅は、昨日より少しだけ広くする。
広げるほど、どこかを削ってしまう。
削った部分に、具体的な名前が浮かびそうで、怖くなる。
スマホが静かになった。
夜の底の方に、急に波が引くみたいな静けさ。
俺はベッドに戻り、目を閉じた。
眠れない夜の出口は、たいてい、翌朝の雑音だ。
それまで、何も壊れませんように。
そう祈ること自体が、壊れる可能性の存在証明みたいで、矛盾に笑いそうになる。笑えないのに、笑おうとする癖が、舌の裏に薄い傷を作る。
*
翌日。
小雨は、やはり糸の太さを決めかねていた。
教室の窓に水滴の列ができ、外の景色が等間隔で歪む。
文化祭の後片付けは、予想より早く終わった。ポスターを剥がす角度、糊残りの拭き取り、掲示板の穴の数。
映像研が「昨日の素材、少しだけ確認させて」と言って、ノートPCの画面を見せてきた。
再生されるのは、喫茶の列、寸劇のラスト、拍手。
突然、画面が俺の横顔になる。
「今の気持ち、ひと言で?」
音声が、昨日の俺を呼ぶ。
俺は、昨日の俺の声を聞く。
「歩幅を、間違えた」
横で見ていた律が、ちいさく息を飲んだ気がした。
カメラの赤い点はとうに消えているのに、画面の中で俺はまだ、うまく息をしていない。
視線を外し、窓の外を見た。
雨の線のむこうで、誰かが傘を閉じて走っていく。肩先が一瞬濡れて、すぐに乾く。
その濡れた一瞬のために、今日という時間が丸ごと薄くなっている。そう思うと、おかしくて、つらい。
片付けが終わり、教室が昼の静けさを取り戻したころ、律が言った。
「今日の五限、図書室、いい?」
“いい?”という問いは、いつでも逃げ道になる。“来て”じゃない。“来られる?”でもない。
「五分だけなら」
五分だけ。昨日の言い換え。
俺は、首だけでうなずいた。
図書室の端は、空いていた。
昨日の飴の包み紙が、まだ紙くず入れの中にあった。
律は椅子に座って、両手を膝の上で組む。
「昨日の続き、聞いてほしい」
「……聞くだけ」
「うん」
息を合わせる。図書室の空調の音と、ページを捲る音の合間で。
「俺、『相談』を言い訳にしてた。誰かに“好きだよ”って言うとき、外に向けるより先に、湊に向けたかったから。けど、それじゃずるい。だから終わらせたい。終わらせないと、始められない」
俺は、机の縁を指で押した。木目の線が指先に沈む。
「言葉、選ぶの上手いね」
「練習した」
「練習のほうが、本番ぽいことある」
「わかる」
沈黙が落ちた。落ちて、俺たちの間で整頓される。
五分のうちの、三分半が過ぎた気がした。
律が続ける。
「湊。——好きだよ、って言いかけたの、昨日だけじゃない。何回も、言いかけた。『その子』に向けて。『その子』って誰か、湊はわかってたと思う。俺も、わかってた」
机の下で靴の先同士が触れ合い、すぐ離れた。
俺は、答えなかった。
答えないことが、今は唯一の暴力にならずに済む方法だった。
図書委員のベルが、閉館十分前を告げる。
「戻ろう」
「うん」
立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
図書室を出るとき、律がさらに低い声で言った。
「雨がやんだら、話そう」
昨日の一行が、口の温度を持って手渡された。
俺はうなずくふりをして、うなずかなかった。喉の内側で動いたのは、うなずきに似た別の動きだ。
廊下の窓に額を寄せる。外の雨脚は——まだ、迷っている。
※
放課後を過ぎても、雨はやまなかった。
屋上の排水口が詰まったらしく、廊下の天井から小さな雫が垂れている。蛍光灯がその水滴に反射して、ぽつりぽつりと光る。
放送部のマイクチェックの声が、空っぽになった教室に遠く響く。
文化祭の二日目が終わり、学校の中は“お祭り”の残り香で満ちていた。
紙コップ、パンフレット、ガムテープ。浮かれた後の静けさだけが残る。
律はまだ残っていた。舞台セットを解体する手伝いをしていたらしい。
濡れた髪をかき上げ、息を吐く。その仕草が、やけにゆっくりだった。
「もう上がっていいって言われたけど、片付けだけ見届けたくて」
俺は頷く。
「映像研の人がさ、昼の映像、編集してくれるって」
「うん」
「……湊の“歩幅を間違えた”ってとこ、使われてた」
「え?」
「さっき、モニターで流してた。最後の“終演の余韻”のBGMの下に、あの言葉、重ねてあった」
律の声は冗談めいていたが、少しだけ掠れていた。
俺は何も言えなかった。
あの言葉が“俺の本音”だと知っているのは、きっと彼だけだから。
窓の外を見た。
校庭は雨に濡れて、ライトが滲んでいる。
映像の中で切り取られた“歩幅の間違い”が、現実の空気を染めていくような気がした。
「湊」
「ん」
「……もし、映像に残らなかったとしても、俺は覚えてたと思う」
「なにを」
「今日の全部。雨の匂いとか、カフェの音とか、湊がカップを受け取るときの手の震えとか」
「……律」
「ちゃんと、話そう。雨がやんだら」
その言葉は昨日の再演だった。でも、昨日よりも静かで、深かった。
喉の奥で“わかった”が形にならない。
それでも、逃げようとした足が止まる。
「俺、相談役のままでいたかったのかも」
自分でも驚くほど素直に、口が勝手に動いた。
「その方が、楽だから」
「楽?」
「律の話を聞いてる間は、俺は“安全”でいられる。傷つかない位置にいられる」
「でも、それって」
「うん。ずるい。俺が一番逃げてた」
律が近づく。
傘の下で寄り添うみたいな距離。
湿った制服の匂い。
心臓の音が、ふたり分になって響く。
「俺さ、湊のこと、好きだよ」
その瞬間、外で雷が鳴った。
ほんの一瞬、音の波がふたりを包む。
俺は何も返せなかった。
言葉が壊れる音を、聞きたくなかったから。
息を吸う。
雨のにおい。
小さな窓から吹き込む風が、ポスターを一枚、ふわりと揺らす。
そこには“通れる余白”の文字。
俺が書いた、いつものフレーズだ。
律がそれを見て、小さく笑った。
「ねえ、湊。これ、通れる?」
“余白”を指差して、問う声は真剣だった。
「今は、まだ無理」
「じゃあ、待つ」
「……そんな簡単に言うなよ」
「簡単じゃないよ」
律はゆっくり首を振った。
「待つって、けっこう痛いから」
外の雨音が少しだけ弱まった。
それは、やみかけの合図。
けれど完全にはやまない。
まるで、俺たちの距離みたいに。
帰り道、校門の前で葛西が傘をさして立っていた。
「湊くん、これ。さっきまで控室に忘れてたでしょ?」
彼女が差し出したのは、俺のポスター用の青ペンだった。
ペン先にインクが溜まっていて、まだ乾ききっていない。
俺は受け取り、礼を言おうとした。
けれど、葛西が先に口を開いた。
「ねえ、三浦くん」
「なに?」
「二人は、たぶん大丈夫だよ」
その言い方は、微笑みよりも確信に近かった。
理由を聞きたかった。
“どうしてそんなふうに言えるの”と。
でも、口が動かない。
その問いを立てた瞬間に、何かが壊れそうで。
雨がまた少し強くなった。
傘の上で音がはねる。
葛西は笑いながら、「じゃあ、またね」と言って振り返る。
その背中を見送りながら、俺は空を見上げた。
雲の切れ間に、夕焼けの名残が薄く差していた。
雨は、まだ完全にはやんでいない。
でも、もう“やみはじめている”と思えた。
家に着くと、机の上に紙コップがひとつ置いてあった。
昼に飲んだホットココア。律が差し出してくれたものだ。
紙の底に、乾いたチョコ色の線が残っている。
その端に、青ペンで小さく書かれていた。
〈雨がやんだら、話そう〉
俺はその文字を指でなぞった。
触れたところから、微かに温度が戻ってくる気がした。
それはきっと、雨の残り香でも、ココアの熱でもなくて――
律の声の温度だった。
スマホを開くと、@相談くんの投稿がまたひとつ増えていた。
「傘の下で迷っている人へ」
雨は、止むことよりも、やみかけを見つけるほうが難しい。
でも、誰かと半分の傘をさすと、
やみかけの空でも、十分に歩ける。
“歩幅”という言葉はなかった。
けれど、行間の温度が、もう誰かを指しているのを感じた。
俺は投稿に“いいね”も押さず、ただ画面を閉じた。
窓の外。
傘の音がひとつ、またひとつ減っていく。
遠くでカラスが鳴く。
夜が降りてくる。
そして俺は、明日を想像する。
やっと“話せる”明日を。
通れる余白の向こう側で、
もう一度、歩幅を合わせ直す練習をする。
雨が完全にやむまで、あと少し。
その“少し”のあいだに、
言葉を、整える。



