文化祭の準備は、授業の合間に水が染みるみたいに広がっていった。黒板の左隅には“喫茶×短い寸劇”という太字が貼られ、日ごとに付箋が増える。仕入れ、当日の人員、段取り、レジ配置、舞台の袖。廊下の掲示板は、予定表と色見本で秋の葉脈みたいに細かく埋まっていく。

 俺はポスターと脚本小物の係になった。机いっぱいに画用紙とインク見本を広げて、題字の線を何度も引き直す。余白の比率、視線の導線、通れる余白。紙の上で“歩幅”を設計するのは、相変わらず楽しい。
 律はフロアの段取り係。椅子とテーブルの間隔を定規で測って、ラッシュ時の通路を想定し、客の滞留を減らすために“待機の円”をテープで床に描く。彼は、混雑の中にも“逃げ場”を残すことにやたら敏感で、その敏感さが救いの形をしているのを、俺は知っている。

 その上を、映像研のカメラが滑っていく。手元のカット、引いた全景、会話の破片。ピンマイクは、黒い泡みたいに音を拾う。笑い声、紙が擦れる音、遠くの廊下のチャイム。
「はい、音入ります」
 上級生の声で空気が一段静まる。その静けさにも、音は潜んでいる。鉛筆が折れる小さな音、テープを引きちぎるきしみ。俺たちの生活は、思っているよりずっと“録れる”。

 昼休み、ポスターの初稿を黒板横に貼ると、数人がすぐ集まってきた。
「字、綺麗」「色かわいい」「このイラストだれ?」
 誰かが俺を振り返り、さらに別の誰かが律を見て、軽いテンポで言う。
「朝比奈ってモテるよね、彼女いないの?」
 軽い。軽いけれど、刃物は軽いほどよく入る。
「さあ」
 俺は笑って誤魔化した。笑い方だけは上手い。片口角だけが上がる、自分の癖を、意識的に。
「真面目そうなのに、さりげなく優しいもんね」「フロアの案内とか、あの距離の取り方、反則」
 “距離の取り方”。俺の胸の奥で、文字が熱を持って立ち上がる。
 律は「仕事中」とだけ笑ってやり過ごし、テーブルの角度を三センチずらす。視線の当たりを変え、通路を一本増やす。そういうことが、彼にはできる。

 放課後、ポスター用の小道具を探しに美術準備室へ行く。額、紐、紙片。薄暗い部屋には、古い舞台の匂いがこもっている。木の箱を開けると、誰かの忘れた台本が出てきて、鉛筆でなぞった“間”の記号が、ページの端を焦がしていた。
「——湊」
 背後から呼ばれて振り向くと、律が立っていた。
「これ、持てる?」
 彼の腕には折り畳みのイーゼルが二つ。俺が片方を受け取ると、金属の冷たさが掌に移る。
「さっきのさ」
「うん」
「言われると、まだ慣れない」
「モテるって?」
「彼女いるのってやつ」
「まあ、テンプレのやりとりだし」
「でも、湊が笑ってるの見て、少し安心した」
「俺の顔で?」
「うん。湊の笑い方は、“逃げ場はある”っていう合図に見える」
 俺は応えず、イーゼルの脚の角度を、ほんのわずかに直した。
 合図。合図を誤読し続けたら、どこへ辿り着くのだろう。そんな考えが、部屋の暗がりの奥で湿気を含む。

 夜、家に戻って机に座ると、スマホが短く震えた。画面には、朝比奈律の名前。
〈今日、言いかけた。 “好きだよ”って〉
 その一行が、静かな音で胸に落ちた。
 俺に、なのか。“その子”に、なのか。
 答えを想像するための仮説はいくつも作れる。それを全部回避するための冗談も、たぶん用意できる。けれど、どれで返しても、俺は俺を守りすぎる。
 “怖い”が先に立った。
 既読をつけたまま、返信を閉じる。
 机の上で青ペンを握り直すと、指が汗で滑った。紙の上に一本線を引く。意味のない線。印刷のトンボみたいな、逃げ場。
 その夜は、いつもより長い。

 翌朝、俺は律を避けた。
 半歩分。ほんの半歩。それだけ離れて歩くと、会話のテンポは遅れる。冗談を言うタイミングは、ズレる。
 廊下で肩が触れる手前の空気に、二人分の慎重さが混ざって、まるで山肌の段差の上を歩くみたいに足元が不安定になる。
「湊、今日の搬入、四限終わりで——」
「うん、ポスター先に貼っとく」
 彼の言葉を最後まで聞かず、必要最低限の返答だけ置いて、視線を黒板に逃がす。
 冗談の棘は、刺すためじゃなく、近づかせないために生えた。
 屋上でカフェオレを飲むときも、手すり一つ分、距離を置く。風はやわらかい。けれど手すりの鉄は、冷たい。

「俺、なにかした?」
 律が言う。
「してない」
 しているのは俺だ。
「なら、よかった」
「……よくない」
「どっち」
「わからない」
 カフェオレのストローを曲げて、元に戻す。柔らかいものを無理に真っ直ぐにしようとすると、すぐ白くひびが入る。
 律はストローを見て、何も言わない。言わないことが、今は少し苦しい。

 その日の放課後、俺は匿名の@相談くんに、初めて自分から投げた。
〈距離の取り方って、どうしてますか〉
 投稿してすぐ、反応は雪崩のように広がった。
「歩幅のメタファーいいね」「相手の呼吸に合わせろ」「距離を置くのも優しさ」「近づく勇気を持て」「一回突き放せ」「試し行動やめな」
 軽い助言の間に、きつい言葉が混ざる。
 スクロールする指がしびれて、俺はスマホを伏せた。
 “歩幅”は、便利な説明になる。だからこそ、その言葉を使うたびに、何かを置き去りにしている気がした。俺の“歩幅”と、律の“歩幅”が、同じ単語にまとまるたび、微妙な差異が削られる。

 図書室に逃げ込む。
 閉館前の静けさは、毎回少しちがう。今日の静けさには、ガラスの上で雨粒が乾き切っていないみたいな、ざらつきがある。
 カウンターの中で葛西が、台本の束を輪ゴムで留めている。
「三浦くん」
「うん」
「無理、してない?」
 いつもより低い声だった。
「してないよ」と言おうとして、声が出なかった。
 “だいじょうぶ”は、何度も使われ過ぎて、意味が薄くなった言葉だ。いま口に出したら、俺のほうがひび割れる気がした。
 葛西は、輪ゴムを指で弾いて小さな音を出し、目を細めた。
「大丈夫って、言えないときが大丈夫じゃないときだから、それで正解」
「正解って、ある?」
「ある。少なくとも今は、ここに来たことが正解」
 彼女はそう言って、カウンターの端にミントの飴を置いた。
 俺は礼を言わず、包み紙だけを指で撫でる。丁寧に折り目を付けると、ささくれ立った気持ちの端に、ふいに蓋がかかる。
「三浦くん」
「うん」
「“好きなものの話”を、しばらく他人に任せてみるのも、手だよ」
「……任せる先、あるかな」
「あると思うけどね」
 葛西は、それ以上は言わなかった。言わないまま、返事だけを待ってくれる人は、少ない。

 教室に戻る途中、階段の踊り場で、律に会った。
 人の流れが途切れる静かな一瞬。
「湊」
「なに」
「……離れると、俺、調子悪い」
 静かな声だった。
 壁にかかった避難経路図の赤い矢印の隣で、彼はまっすぐ立っていた。
「依存は、よくない」
「依存じゃない。湊がいい」
 耳の奥が、熱くなる。
 その場でうまく笑う方法も、冗談に変える逃げ道も、全部、頭の中で用意できた。けれど、どれも、口に出たら嘘になる。
「……ごめん」
 それだけ言って、俺はすれ違った。
 ほんの数秒で終わる逃走。階段を二段飛ばしで下りる間、心臓が脈を打つたびに、“距離”という単語が背中を叩く。
 廊下の角を曲がるとき、映像研のカメラがこちらを向いていて、俺は反射的に顔を逸らした。フレームの外へ。記録の外へ。逃げ場へ。

 その夜、スマホにたった一行だけ通知が灯った。
〈雨がやんだら、話そう〉
 短い。短いのに、行間が深い。言いわけも指示もない。“約束”でも“強制”でもない。ただの提案。
 俺は画面を閉じ、ベッドサイドの傘を見た。昨日の雨の形が、まだ少し残っている。
 雨がやむ、とは、いつのことだろう。
 天気の話ではなく、俺の中の小さな気圧のこと。
 前線は、どこで切り替わるだろう。
 傘の布を軽くつまむと、指先に冷たい感触が移った。それを拭うためのタオルは遠く、代わりに胸のところで拳を握る。
 “歩幅”。“沈黙”。“口に出さない優しさ”。
 どれも守り札で、どれも攻め手じゃない。俺はいつ、攻めの言葉を、口にできるだろう。
 その問いは、返事の宛先を失ったまま、天井の白さに滲んでいく。

 翌日。
 俺は、さらに半歩、距離を足した。
 冗談の棘は、鋭さを増し、笑いの角は丸くなりすぎた。
 フロアの動線を測る律の背中が、いつもより遠い。
 カメラは今日も回っている。記録に残るのは、表の準備だけ。裏の逃走は、映らない。

 夕方、ポスターの最終版が刷り上がった。インクの匂いが少し強い。俺は端を揃えて、軽く叩く。紙の束が整う音は、いつでも心拍を一本にそろえてくれる。
 掲示板に貼りながら、思う。
 距離の計算は、紙の上では正確なのに、人に向けると、すぐ失敗する。
 通れる幅を残すつもりが、誰も通れない隙間になってしまう。
 俺はまた、誤差を増やした。
 誤差は小さなうちは笑えるが、いつか段差になる。段差は、誰かをつまずかせる。

 帰り支度のチャイムが鳴る。
 昇降口の外で、空はまだ薄く濡れている。地面の色が夕方の手前で少しだけ重い。
 ポケットの中で、スマホが静かに温度を帯びる。画面は見ない。
 見ないこともまた、誰かに向けた“角度”だ。
 雨は、いつやむ。
 俺は傘をささず、軒の下を歩いた。傘を持っているのに、ささない。持っているからこそ、ささない。
 濡れない距離を探しながら、濡れることを、少しだけ選ぶ。
 それが、今の俺の“計算”だった。
 たぶん、間違っている。
 でも、間違いは、いまはまだ、俺のほうを守った。

 夜半、机に広げた図面の端に、雨粒がひとつ落ちて、紙がわずかに波打った。
 窓が少し開いていたらしい。
 閉めて、軽く拭う。
 “雨がやんだら、話そう”
 その一行は、紙の波の上で、静かに揺れている。
 やむのを待つのではなく、やませる手立てがあるのかもしれない。
 けれど、やませるのは、俺だけではできない。
 傘の柄を握るのが二人であるように、前線の切り替えは、二人でしか起こせない。

 アラームを一つ減らして、灯りを落とす。
 まぶたの裏で、フロアの動線図がゆっくり回る。
 通れる余白。
 そこに、俺たちは、たどり着けるだろうか。
 遠い、ということは、ゼロではない、ということだ。
 俺はそう書いて、ノートを閉じた。
 青の線が、まだ乾いていなかった。