昼前から、空はずっと湿り気を含んでいた。窓の外の桑の葉が重たそうに揺れ、校庭の白線は、午前の体育で引き直したばかりなのに、ところどころ滲んでいる。予鈴が鳴るころ、細かい粒の雨がようやく降りはじめた。
昇降口を出て最初の軒下。傘を開こうとして、俺はすぐに失敗する。骨の起点が少しだけ折れ曲がっているのか、親骨一本ぶんだけ、いつも開きが悪いのだ。カチ、と留め具の音が遅れる。雨粒が先に肩口を叩く。
朝比奈律は、ため息も冗談も挟まず、自然な動きで自分の傘をこちらに傾けた。俺の肩先に、小さく丸い影ができる。雨はその黒の輪郭で弾かれ、肩の布地を逃げていく。
「こういうの、言わないほうがいいんだよね」
律が言う。俺はうなずいた。
「うん。『守ってやったぞ』っていう注釈は、相手の逃げ場を先に埋める。恩着せがましさは、いつも出口を狭めるから。ただ、覚えておいてくれるのは、次の“安心”になる」
律は「了解」と短く笑い、差し出した傘の角度を、さらに一度だけ調整した。斜め。俺にとっては過不足のない角度。傘の布がこすれる音が、少しだけ低くなる。控えめなやり直しは、言葉のいらない了解の印だ。
昇降口から半分こに歩く校舎裏の通路。制服の裾がときどきふれて、また離れる。すれ違う生徒は、雨を嫌って足早だ。俺たちは遅い。わざとではない、癖のような遅さ。雨の粒が小さいほど、会話は柔らかい。ぼそぼそと、声の輪郭だけが傘の内側で温もりに変わる。
「掲示、見た?」
「なにを」
「文化祭、クラスの公演、演劇になったって」
「ああ、さっき。脚本原案は演劇部から一本借りて、うちのクラス用に短くするやつだろ」
「映像研が準備ドキュメンタリーを撮るっていう噂もついてた」
「それは緊張する」
律は肩で笑い、傘の外に視線だけ滑らせた。校舎の端を、黒いレンズがひとつ横切る。確かに、撮られている。準備の手元、配布用紙へ書かれる丸、貼り出される“係決め”。そういうものを丁寧に拾うのが映像研の“優しさ”だと、誰かが言っていた。けれど律は、人前のレンズがやや苦手だ。ピアノの話をほのめかしていたときの、あの緊張した沈黙を、俺はまだ具体的には知らない。まだ——知らない。
「相談、さ」
「うん」
「“実地演習”だと思っていい?」
「まあ、今日は雨だし、行き交う人数も減る。話しかけの練習にはいい。相手の気配が薄いときのほうが、歩幅あわせの誤差が減るから」
「終演後、図書室を誘うのって、アリ?」
「帰り道の歩幅が合ってたら、合図にして。『今日、もう五分だけ一緒に居たい』っていう、重くない“願い”の言い換えにする。図書室はその翻訳先」
「翻訳先」
「うん。『告白』って原語は、まだ使わないほうがいい」
律は「翻訳先、ね」と面白そうに繰り返し、傘の柄に手を滑らせて、また高さを戻す。
中庭を横切って、二棟と三棟のあいだ。一瞬だけ雨が弱まる。湿った紫陽花の葉が、指で撫でたみたいに光る。俺は傘をたたみかけて、やっぱり下ろす。律はその判断の速度に合わせ、何も言わない。言わないことは拒絶ではなく、許可の形をしている。今日は、そのことを何度も確かめる日になる。
*
昼のホームルームで、担任が配った紙の最上段に〈演劇〉の二文字。短いどよめき。黒板脇で掲示を押さえる係の指先に、画鋲の銀色が光る。係決めの表に“広報”“ポスター”“小道具”“フロア”“音響”“舞台進行”。名前が、黒いマジックで穴を埋めていく。
「三浦はポスターでいい?」
「うん」
「朝比奈はフロア」
「はい」
乾いた返事の後ろで、映像研の上級生がカメラを持ち、静かな身振りで「ここ座って」「はい、回します」と言う。マイクの先に小さな風防。律が視線を一瞬だけ落とすのが見える。胸の中心で、糸を一本引く。乱れないように。
作業に取りかかると、時間は一気に加速する。ポスターの余白に文字を置く位置、比率。目を引く色を使いながら、主張が強すぎない程度に引き算していく。写真を入れるか、イラストに振るか、見出し語を何文字で切るか。俺は“見える呼吸”を紙の上につくるのが好きだ。言葉の外側に、目に見えない呼吸を置いておくと、読んだ人が迷子にならない。律はフロアの動線を小さな紙片に描いて、テーブル間の距離を測っている。椅子を何脚減らせば、混雑時にも人が回るか。レジの位置で会話が滞らないか。気づけば、俺たちは互いに“人の逃げ場”を増やす仕事をしている。誰かが身じろぎした時にも、障害物に当たらないように。恩着せがましさが通路に居座らないように。
午後の終わりごろ、映像研が「準備の様子、少しだけコメントもらっていい?」とフロア中央の机を指した。律が俺を見る。俺は首を小さく横に振り、代わりに手を上げた。
「ポスター側なら、少しだけ」
カメラがこちらに寄る。レンズが目の前で丸い瞳になり、息が薄くなる。
「今回のポスター、意識したことは?」
「通れる余白、ですかね」
「通れる、余白」
「混んでる廊下で、すれ違える幅の話に似てます。人が急いでいても、止まりやすくても、何かを足そうとした人と引こうとした人が同時に見える幅。文字も図版も、やりすぎない。……歩幅、みたいなものを、紙でやってます」
言いながら、視界の端で律が小さく笑うのが見えた。カメラが「ありがとうございます」と引いていくと、胸の硬さが遅れてほどける。律が近づき、低い声で「ナイス翻訳」とだけ言って、フロア図に戻った。俺はただうなずく。
*
放課後、雨は一段強くなっていた。教室の窓が、ガラリと雨粒に飾られて、外の色を無数に砕く。図書室に寄って備品を返す。カウンターの中、葛西ほのかがスタンプの日付を変えている。
「三浦くん」
「うん」
「最近、顔つきが変わったね」
差し出された図書カードに印鑑がぽんと落ちる。
「悪い意味じゃなくて。なんていうか……視線の拾い方が違う」
「拾い方?」
「前より遠くを見てる感じ。舞台の袖から客席の後ろまで確認してるみたいな」
「演劇モードだからかも」
「だといいけど」
彼女は笑って、台本の束を抱え直した。
「文化祭、映像入るんでしょ。カメラ、苦手な子もいるし、みんなの“逃げ場”残してあげて。ポスター、楽しみにしてるよ」
「ああ、通れる余白」
「そう、それ」
葛西の笑いは淡い。強く押せば簡単に崩れそうに見えて、実は芯がある。俺たちは互いに「おつかれ」と小さく言葉を置いて、すれ違った。
帰り際、昇降口の明かりが白く濁るほど、雨は細かく、量を増している。コンビニ傘の透明が、回転する車のライトに色を混ぜられて、目が痛い。靴紐がほどけていることに気づいたのは、片足で踊ったみたいになってからだった。しゃがもうとした俺より早く、律が傘を地面に近づけて角度を作り、俺の足の甲に指を伸ばした。
「ほどけそうなときは、言わないで直す。これも“口に出さない優しさ”?」
律の声は、雨の音より一段低い。
喉の奥が、熱くなった。
頷く以外の選択肢が、どこかに消える。
結び目がきゅっと締まり、皮の表面が少しだけ濡れる。
「ありがとう」
「うん」
それ以上言うと、何かが溢れる。唇を固く閉じる。閉じた唇は、言えなかった言葉の代わりに、雨の味を受け取る。
*
夜。
机の上に、作りかけのレイアウトを広げる。余白と文字列の距離を、定規で測りながら、スマホを伏せる。鳴らないように。鳴ったら、何かが崩れる気がするから。
けれど、遠慮なく鳴るのが通知だ。
光った画面に、見慣れたアカウント名。――@相談くん。
最新のポストが、タイムラインの上段に固定されている。
【相談】好きな子が、自分に似すぎています。
手の震え方、遅刻の癖、青ペン一本で揃えるノート。
気づくたびに、これは私の“理想像”の投影なのかと思ってしまいます。
それとも、ほんとうに“その人”を見ているのか。
どちらだと思いますか。
コメント欄はすぐに賑わう。
「自己投影しすぎ」「近いほど見誤る」「片想いあるある」「それは勘違い」
軽い言葉ほど、歯の当たりがよくてよく噛める。けれど、栄養にはならない。俺はスマホを裏返し、青ペンをもう一度持った。線を引く。紙の上のガイドになる、薄い線。
“好きな子が自分に似すぎている”と書かれた一文は、他人事なら笑って飲み込める。俺にとっては、魚の骨みたいにひっかかる。飲み込めば喉に刺さり、吐き出せば舌を傷つける。
窓を少し開ける。夜の雨が、網戸に細い音を置いていく。遠くを、救急車のサイレンが通る。誰かの夜が、動いている。誰かの痛みは、俺の痛みとは違う。違っていて、当然だ。
違うものたちが一緒にいるために、言葉はある。言葉が間に合わないとき、沈黙がある。沈黙が誤解を呼ぶとき、仕草がある。仕草が届かない場所には、傘の角度がある。角度を変えるための、小さな手つきがある。それらの総称を、俺たちは今日、“口に出さない優しさ”と呼んだ。
*
翌朝、雨の層は薄くなっていた。昇降口のマットはまだ濡れている。教室へ向かう階段の踊り場で、映像研の“準備ドキュ”が回っていた。
「昨日の準備で気づいたこと、ひとこといただいてもいいですか」
俺のほうにレンズが向く。咄嗟に、視界の端を確認する。律は一段下、手すりに肘を置いてこちらを見ている。
「ええと……」
言葉を選ぶ。
「誰かを待たせないための段取りって、結局は“見えない相手”と一緒に歩く練習だな、と思いました」
「見えない相手」
「はっきり顔が浮かんでいる誰か、というより、『かもしれない』で輪郭がぼやける人。雨で来られない人、途中で疲れる人、騒がしい場所が苦手な人。そういう相手も同時に想定しながら、通れる通路を残す。今日はそれだけで充分でした」
レンズの奥で誰かがゆっくり頷き、RECの赤い点が消える。
律が小さく片手を上げる。それだけで、階段の踊り場に息が吹き戻る。
教室に入ると、机の上に薄いメモが置かれていた。律の字だ。
〈放課後、図書室、五分だけ〉
五分だけ。翻訳の言い換え。重くない願い。
放課後、指定の時間に行くと、端の席は空いていた。透明のカップに入った小さな飴がふたつ、机の中央に置かれている。
「どっちがいい?」
「色の薄いほう」
選ばなかった色の飴を律が口に放る。
「終演後、ここに来ようって言ってみる。……『五分だけ』を添えて」
「うん」
「歩幅が合ってたら、っていう合図、忘れないようにする」
「大丈夫。忘れそうになったら、靴紐がほどける」
「なんで」
「ほどけそうなとき、言わないで直す練習、俺にも必要だから」
俺が冗談まじりに言うと、律は短く笑い、鞄から小さなカッターマットを取り出して、細い紐を切った。
「なにそれ」
「フロアの紐。結びなおす練習」
「まじめ」
「まじめ。——湊の言う“翻訳先”、俺、けっこう好きだよ」
言葉の端に、雨上がりの光みたいなぬくもりが宿る。俺は声には出さず、飴の包み紙を静かに丸めた。丸めた音が、図書室の音の底に沈んでいく。
*
夜。
@相談くんの新しい投稿には、ハートの印が多すぎた。
俺はいいねも引用もせず、青ペンのキャップを閉じた。
窓の外に、もう雨はない。アスファルトの面だけが、昨夜の証拠をわずかに光らせている。
ベッドサイドに置いた傘は、まだ完全には乾いていない。布に触れると、ひんやりとして、指に雨の形が残る。
明日、晴れたら、傘は不要になる。
けれど、角度のことは、晴れていても忘れないほうがいい。
言わなくても、伝わることはある。
言わなければ、届かないこともある。
その境目を何度も跨ぎながら、俺はようやく眠った。
夢の中で、傘はなかった。
雨もなかった。
それでも肩先が乾いていたのは、たぶん、誰かが“角度”を憶えてくれていたからだ。
昇降口を出て最初の軒下。傘を開こうとして、俺はすぐに失敗する。骨の起点が少しだけ折れ曲がっているのか、親骨一本ぶんだけ、いつも開きが悪いのだ。カチ、と留め具の音が遅れる。雨粒が先に肩口を叩く。
朝比奈律は、ため息も冗談も挟まず、自然な動きで自分の傘をこちらに傾けた。俺の肩先に、小さく丸い影ができる。雨はその黒の輪郭で弾かれ、肩の布地を逃げていく。
「こういうの、言わないほうがいいんだよね」
律が言う。俺はうなずいた。
「うん。『守ってやったぞ』っていう注釈は、相手の逃げ場を先に埋める。恩着せがましさは、いつも出口を狭めるから。ただ、覚えておいてくれるのは、次の“安心”になる」
律は「了解」と短く笑い、差し出した傘の角度を、さらに一度だけ調整した。斜め。俺にとっては過不足のない角度。傘の布がこすれる音が、少しだけ低くなる。控えめなやり直しは、言葉のいらない了解の印だ。
昇降口から半分こに歩く校舎裏の通路。制服の裾がときどきふれて、また離れる。すれ違う生徒は、雨を嫌って足早だ。俺たちは遅い。わざとではない、癖のような遅さ。雨の粒が小さいほど、会話は柔らかい。ぼそぼそと、声の輪郭だけが傘の内側で温もりに変わる。
「掲示、見た?」
「なにを」
「文化祭、クラスの公演、演劇になったって」
「ああ、さっき。脚本原案は演劇部から一本借りて、うちのクラス用に短くするやつだろ」
「映像研が準備ドキュメンタリーを撮るっていう噂もついてた」
「それは緊張する」
律は肩で笑い、傘の外に視線だけ滑らせた。校舎の端を、黒いレンズがひとつ横切る。確かに、撮られている。準備の手元、配布用紙へ書かれる丸、貼り出される“係決め”。そういうものを丁寧に拾うのが映像研の“優しさ”だと、誰かが言っていた。けれど律は、人前のレンズがやや苦手だ。ピアノの話をほのめかしていたときの、あの緊張した沈黙を、俺はまだ具体的には知らない。まだ——知らない。
「相談、さ」
「うん」
「“実地演習”だと思っていい?」
「まあ、今日は雨だし、行き交う人数も減る。話しかけの練習にはいい。相手の気配が薄いときのほうが、歩幅あわせの誤差が減るから」
「終演後、図書室を誘うのって、アリ?」
「帰り道の歩幅が合ってたら、合図にして。『今日、もう五分だけ一緒に居たい』っていう、重くない“願い”の言い換えにする。図書室はその翻訳先」
「翻訳先」
「うん。『告白』って原語は、まだ使わないほうがいい」
律は「翻訳先、ね」と面白そうに繰り返し、傘の柄に手を滑らせて、また高さを戻す。
中庭を横切って、二棟と三棟のあいだ。一瞬だけ雨が弱まる。湿った紫陽花の葉が、指で撫でたみたいに光る。俺は傘をたたみかけて、やっぱり下ろす。律はその判断の速度に合わせ、何も言わない。言わないことは拒絶ではなく、許可の形をしている。今日は、そのことを何度も確かめる日になる。
*
昼のホームルームで、担任が配った紙の最上段に〈演劇〉の二文字。短いどよめき。黒板脇で掲示を押さえる係の指先に、画鋲の銀色が光る。係決めの表に“広報”“ポスター”“小道具”“フロア”“音響”“舞台進行”。名前が、黒いマジックで穴を埋めていく。
「三浦はポスターでいい?」
「うん」
「朝比奈はフロア」
「はい」
乾いた返事の後ろで、映像研の上級生がカメラを持ち、静かな身振りで「ここ座って」「はい、回します」と言う。マイクの先に小さな風防。律が視線を一瞬だけ落とすのが見える。胸の中心で、糸を一本引く。乱れないように。
作業に取りかかると、時間は一気に加速する。ポスターの余白に文字を置く位置、比率。目を引く色を使いながら、主張が強すぎない程度に引き算していく。写真を入れるか、イラストに振るか、見出し語を何文字で切るか。俺は“見える呼吸”を紙の上につくるのが好きだ。言葉の外側に、目に見えない呼吸を置いておくと、読んだ人が迷子にならない。律はフロアの動線を小さな紙片に描いて、テーブル間の距離を測っている。椅子を何脚減らせば、混雑時にも人が回るか。レジの位置で会話が滞らないか。気づけば、俺たちは互いに“人の逃げ場”を増やす仕事をしている。誰かが身じろぎした時にも、障害物に当たらないように。恩着せがましさが通路に居座らないように。
午後の終わりごろ、映像研が「準備の様子、少しだけコメントもらっていい?」とフロア中央の机を指した。律が俺を見る。俺は首を小さく横に振り、代わりに手を上げた。
「ポスター側なら、少しだけ」
カメラがこちらに寄る。レンズが目の前で丸い瞳になり、息が薄くなる。
「今回のポスター、意識したことは?」
「通れる余白、ですかね」
「通れる、余白」
「混んでる廊下で、すれ違える幅の話に似てます。人が急いでいても、止まりやすくても、何かを足そうとした人と引こうとした人が同時に見える幅。文字も図版も、やりすぎない。……歩幅、みたいなものを、紙でやってます」
言いながら、視界の端で律が小さく笑うのが見えた。カメラが「ありがとうございます」と引いていくと、胸の硬さが遅れてほどける。律が近づき、低い声で「ナイス翻訳」とだけ言って、フロア図に戻った。俺はただうなずく。
*
放課後、雨は一段強くなっていた。教室の窓が、ガラリと雨粒に飾られて、外の色を無数に砕く。図書室に寄って備品を返す。カウンターの中、葛西ほのかがスタンプの日付を変えている。
「三浦くん」
「うん」
「最近、顔つきが変わったね」
差し出された図書カードに印鑑がぽんと落ちる。
「悪い意味じゃなくて。なんていうか……視線の拾い方が違う」
「拾い方?」
「前より遠くを見てる感じ。舞台の袖から客席の後ろまで確認してるみたいな」
「演劇モードだからかも」
「だといいけど」
彼女は笑って、台本の束を抱え直した。
「文化祭、映像入るんでしょ。カメラ、苦手な子もいるし、みんなの“逃げ場”残してあげて。ポスター、楽しみにしてるよ」
「ああ、通れる余白」
「そう、それ」
葛西の笑いは淡い。強く押せば簡単に崩れそうに見えて、実は芯がある。俺たちは互いに「おつかれ」と小さく言葉を置いて、すれ違った。
帰り際、昇降口の明かりが白く濁るほど、雨は細かく、量を増している。コンビニ傘の透明が、回転する車のライトに色を混ぜられて、目が痛い。靴紐がほどけていることに気づいたのは、片足で踊ったみたいになってからだった。しゃがもうとした俺より早く、律が傘を地面に近づけて角度を作り、俺の足の甲に指を伸ばした。
「ほどけそうなときは、言わないで直す。これも“口に出さない優しさ”?」
律の声は、雨の音より一段低い。
喉の奥が、熱くなった。
頷く以外の選択肢が、どこかに消える。
結び目がきゅっと締まり、皮の表面が少しだけ濡れる。
「ありがとう」
「うん」
それ以上言うと、何かが溢れる。唇を固く閉じる。閉じた唇は、言えなかった言葉の代わりに、雨の味を受け取る。
*
夜。
机の上に、作りかけのレイアウトを広げる。余白と文字列の距離を、定規で測りながら、スマホを伏せる。鳴らないように。鳴ったら、何かが崩れる気がするから。
けれど、遠慮なく鳴るのが通知だ。
光った画面に、見慣れたアカウント名。――@相談くん。
最新のポストが、タイムラインの上段に固定されている。
【相談】好きな子が、自分に似すぎています。
手の震え方、遅刻の癖、青ペン一本で揃えるノート。
気づくたびに、これは私の“理想像”の投影なのかと思ってしまいます。
それとも、ほんとうに“その人”を見ているのか。
どちらだと思いますか。
コメント欄はすぐに賑わう。
「自己投影しすぎ」「近いほど見誤る」「片想いあるある」「それは勘違い」
軽い言葉ほど、歯の当たりがよくてよく噛める。けれど、栄養にはならない。俺はスマホを裏返し、青ペンをもう一度持った。線を引く。紙の上のガイドになる、薄い線。
“好きな子が自分に似すぎている”と書かれた一文は、他人事なら笑って飲み込める。俺にとっては、魚の骨みたいにひっかかる。飲み込めば喉に刺さり、吐き出せば舌を傷つける。
窓を少し開ける。夜の雨が、網戸に細い音を置いていく。遠くを、救急車のサイレンが通る。誰かの夜が、動いている。誰かの痛みは、俺の痛みとは違う。違っていて、当然だ。
違うものたちが一緒にいるために、言葉はある。言葉が間に合わないとき、沈黙がある。沈黙が誤解を呼ぶとき、仕草がある。仕草が届かない場所には、傘の角度がある。角度を変えるための、小さな手つきがある。それらの総称を、俺たちは今日、“口に出さない優しさ”と呼んだ。
*
翌朝、雨の層は薄くなっていた。昇降口のマットはまだ濡れている。教室へ向かう階段の踊り場で、映像研の“準備ドキュ”が回っていた。
「昨日の準備で気づいたこと、ひとこといただいてもいいですか」
俺のほうにレンズが向く。咄嗟に、視界の端を確認する。律は一段下、手すりに肘を置いてこちらを見ている。
「ええと……」
言葉を選ぶ。
「誰かを待たせないための段取りって、結局は“見えない相手”と一緒に歩く練習だな、と思いました」
「見えない相手」
「はっきり顔が浮かんでいる誰か、というより、『かもしれない』で輪郭がぼやける人。雨で来られない人、途中で疲れる人、騒がしい場所が苦手な人。そういう相手も同時に想定しながら、通れる通路を残す。今日はそれだけで充分でした」
レンズの奥で誰かがゆっくり頷き、RECの赤い点が消える。
律が小さく片手を上げる。それだけで、階段の踊り場に息が吹き戻る。
教室に入ると、机の上に薄いメモが置かれていた。律の字だ。
〈放課後、図書室、五分だけ〉
五分だけ。翻訳の言い換え。重くない願い。
放課後、指定の時間に行くと、端の席は空いていた。透明のカップに入った小さな飴がふたつ、机の中央に置かれている。
「どっちがいい?」
「色の薄いほう」
選ばなかった色の飴を律が口に放る。
「終演後、ここに来ようって言ってみる。……『五分だけ』を添えて」
「うん」
「歩幅が合ってたら、っていう合図、忘れないようにする」
「大丈夫。忘れそうになったら、靴紐がほどける」
「なんで」
「ほどけそうなとき、言わないで直す練習、俺にも必要だから」
俺が冗談まじりに言うと、律は短く笑い、鞄から小さなカッターマットを取り出して、細い紐を切った。
「なにそれ」
「フロアの紐。結びなおす練習」
「まじめ」
「まじめ。——湊の言う“翻訳先”、俺、けっこう好きだよ」
言葉の端に、雨上がりの光みたいなぬくもりが宿る。俺は声には出さず、飴の包み紙を静かに丸めた。丸めた音が、図書室の音の底に沈んでいく。
*
夜。
@相談くんの新しい投稿には、ハートの印が多すぎた。
俺はいいねも引用もせず、青ペンのキャップを閉じた。
窓の外に、もう雨はない。アスファルトの面だけが、昨夜の証拠をわずかに光らせている。
ベッドサイドに置いた傘は、まだ完全には乾いていない。布に触れると、ひんやりとして、指に雨の形が残る。
明日、晴れたら、傘は不要になる。
けれど、角度のことは、晴れていても忘れないほうがいい。
言わなくても、伝わることはある。
言わなければ、届かないこともある。
その境目を何度も跨ぎながら、俺はようやく眠った。
夢の中で、傘はなかった。
雨もなかった。
それでも肩先が乾いていたのは、たぶん、誰かが“角度”を憶えてくれていたからだ。



