翌週の朝、昇降口の床はうっすら濡れていた。夜の間に降った雨が、まだ靴底に冷たさを残している。ローファーが鳴らす音が二つ、同じテンポで並ぶ。
 律がわざと俺の一歩後ろに下がり、足並みを合わせる。
「湊、さ。例の件、進展」
「出席番号?」
「いや、恋愛相談のほう」
「ほう。では“今日の問診票”をどうぞ」
「えらそう」
「保健委員なので」
 そう口にしたものの、胸の内側はほんの少しだけ早足だった。律の「進展」という言葉は、いつだって俺の心拍に直結する。

「その子、体育の持久走は後ろから三番目」
 ロッカーの扉が金属音を立てた。
「カフェオレは好きだけど、コーヒーは苦手」
「……」
「図書室の端の席が落ち着くらしい」
 靴べらを持つ手が止まる。
 どれも、俺。あまりにも、俺。

 律は気づかないふりをして、靴を履き替える。ローファーをかかとまで押し込みながら、何でもない続きのように言う。
「だからさ、話しかけるタイミング、狙いたくて」
 俺は喉に留まった言葉をひとつ飲み込み、「朝の昇降口は混むから避ける。昼休み、廊下の角を“相手の歩幅”で追い越して、相手が驚かない速度で声をかける。話題は重くしない」と“講義調”で返した。
「歩幅ね」
「そう、歩幅。合わせるには、まず自分の歩幅を知る」
「湊の歩幅は?」
「二十センチくらい短め」
 律は笑う。「それ、俺が知ってる湊の情報」
「うるさい」
 そう返してロッカーを閉める。金属の冷たさが指に残った。

 教室に上がる階段。踊り場で窓の外を見ると、灰色の雲がまだ低い。廊下の端から、吹奏楽部の音階練習が細く届いた。
 席に着くと、律が前のめりに話を続けた。
「で、今日の作戦。体育は持久走だし、たぶん最後の方に一緒に歩く時間がある。疲れてるときって、話しかけられたくないかな」
「人による」
「その子は?」
 俺は青ペンをくるりと回してから言う。
「“言葉が短くて済む質問”だと、そんなに辛くない。『水いる?』『このあと図書室行く?』とか。はい/いいえで答えられるものから始める」
「なるほど」
「それと、守る約束をひとつだけ作る。『終わったら甘いもの食べよう』とか」
「約束か」
「返せなくても、相手に借金を背負わせない約束。軽くて、でも実在するやつ」
「ふむ……先生、今日も講義冴えてる」
「受講料はカフェ一杯」
「了解」
 青ペンの先で、ノートの端に小さな丸をいくつも並べた。文字を並べるより、その微小な点々が、心の平衡を保ってくれる気がする。均一であればあるほど、呼吸も揃う。

 午前の体育。グラウンドには薄い風が走り、白線をなでていく。ホイッスルの音が空に突き刺さり、班ごとにスタートする。
 走り出した瞬間にわかった。やっぱり俺は後ろから三番目だ。肺が早々に熱くなり、耳の端がじんじんする。
 律がさりげなく外側のレーンに回り、俺から半歩だけ前を走る。前じゃない。横でもない。その間の、ちょうどいいところ。
「ペース、落とそ」
「……いい」
「やせ我慢しない」
「してない」
 息はうまく吸えなくて、しかし律の声はやわらかく薄く、風よりも低い。
「終わったら、甘いもの」
 言われた瞬間、喉の奥に小さな水音がした。
「なに」
「ベーカリー。クリームパン半分こ」
 半分こ。その語感が、靴紐みたいに胸の中央で結び目を作る。
 走り終えるころ、空が明るみはじめた。息が荒く、視界が少し霞む。
「水いる?」
「……うん」
 律が差し出すボトルに口をつける。冷たい水が喉を滑る。必要以上の言葉は要らなかった。はい、といいえの中間で、それでもちゃんと伝わっている、と思えた。

 昼休み。図書室の扉に手をかけたところで、俺は足を引き返した。
 ――端の席が落ち着く。
 律が口にしたそのフレーズが、扉の木目をやけにくっきり見せる。俺は扉から手をはなし、購買へ向かった。
 揚げパンの列は長く、奥の冷蔵庫からカフェオレを取り出す。会計の鈴の音。
 窓際のベンチに座って、ストローを噛んだ。砂糖の甘さが口の中に広がる。カフェオレは好き。でも、コーヒーは苦手。
 自分で自分のプロフィールを、律の口を通じて読み上げられたみたいで、可笑しいのに、少しだけ痛い。

 午後の授業が終わると、教室は一瞬だけ真空になる。椅子が引かれる音、机に物をしまう音、それらがすべて吸い込まれて、また吐き出される。
 鞄に教科書を詰めていたら、律が近づいてきて囁いた。
「今日さ、ベーカリー寄れる?」
「……うん」
 言った瞬間、自分の声が小さく上ずったのが、自分でもわかった。

 通学路の角を曲がったところにあるベーカリーは、午後になると窓ガラスが焼き色のにおいで曇る。店内へ入ると、パンの名前が印刷された小さな札が整列している。
 列に並ぶ間、俺は息を整えながら、おしゃべり用の軽い話題を探す。――失敗しない話題。傷つけない話題。
 順番が来て、クリームパンを二つ、トレイに乗せた。律が塩パンを追加する。
 レジの音。カタン、と釣り銭の皿。
 店の外に出ると、ベンチには午後の光がうすく差し込んでいた。
「じゃ、半分こ」
「うん」
 俺がクリームパンを手で割る。クリームの黄色がやわらかく露出し、湯気がしゅっと立つ。反射で、クリームの多いほうを律に差し出そうとしたとき、律がその手を軽く押し戻した。
「それ、やめて」
「え?」
「湊が“譲る役”になるの、好きじゃない。ほんとの半分こにしよう」
 心臓が小さく跳ねた。
 俺は何度も知っていたはずなのに、“譲る”が最短距離の平和だと。反射のようにそれを選び続けてきたのに。
 それを、やんわり否定されることの奇妙な救い。
「……わかった。ほんとの半分」
 真ん中に指を入れて、丁寧に割る。左右の重さを量り、やっときっちり平等だと思えたところで、律に渡す。
 クリームの甘さが、口にゆっくり広がった。
 なんでもない午後、なんでもないベンチ。それだけのことが、こんなにも記憶になる。
「塩パンも?」
「うん。こっちはしょっぱいほうを譲る」
「それは譲るじゃない?」
「たしかに」
 二人で笑い、また半分こにした。
 パンくずが膝に落ちる。律が指先で払う仕草すら、やさしい。

 帰り際、律が言った。
「今日、言いそうになったんだよな」
「なにを」
「“朝弱いよね”って。危なかった」
「……たしかに危ない」
「言ったら、たぶん相手は『なんで知ってるの』ってなる」
「なる。知ってることを“提示”しすぎると、相手は窮屈に感じる」
「うん」
「口に出さない優しさ、のほうが伝わることある」
 言いながら、自分に向けているみたいで、胸の内側がきゅっと締まる。
 俺は“講義調”に拍車をかけて続ける。
「たとえば、遅刻ギリギリの日は朝の『おはよう』を文字じゃなくスタンプだけにするとか、返事が短い日は話題を畳むとか。沈黙は嫌なわけじゃない。呼吸のリズムみたいに、寄せては返すものだから」
「寄せては返す」
「そう。歩幅と同じ」
 律は細く息を吐いた。
「湊の講義、録音したい」
「無断転載禁止」
「じゃ、今度文字でくれ」
「検討」
 検討、という言葉に逃げ場を作って、俺は笑った。律も笑った。笑い方は、いつも通り片口角が上がるやつ。見慣れた癖が、今日は少し眩しい。

 帰宅して、宿題のページを開こうとしたとき、スマホが震いた。
 通知の多くはどうでもいい。誰かのストーリー、課題の共有。
 ただ、ひとつだけ、脈拍に直結するアイコンがある。
 Xのタイムラインに、見慣れない投稿が流れてきた。
 ――@相談くん。
 いつの間にか校内で話題になっている匿名アカウント。恋バナを募集して、共感を煽るみたいな文体でまとめる。
 今日のポストはこうだ。

【相談】好きな子がいます。身近すぎて、視界から外せない距離にいます。
彼の歩幅に合わせるつもりが、気づけば同じ靴になっていて、
何を言っても自分のプロフィールを読み上げているみたい。
どうしたらいいですか。

 “身近すぎる”という文字列が、刃物みたいに画面の奥で光る。
 コメント欄には軽いリアクションが並んでいる。
「それは自己投影しすぎ」「身近な人は錯覚しがち」「自分のこと好きになれ」
 笑いのスタンプ、ハートのスタンプ。
 俺はため息を一つ、深く吐いて、スマホを伏せた。
 身近すぎる、なんて言葉、俺にとっては刃先だ。
 その刃は痛みを切り分けるためにあるんじゃない。痛みそのものだ。

 翌日の放課後、図書室に葛西がやってきた。
「この前の読み合わせ、ありがとう。差し入れ」
 紙袋には、小さな焼き菓子がいくつか。
「いいの? 俺、あんまり役に立ってないけど」
「立ってたよ。湊くん、セリフの“間”がわかるから」
「間」
「そ。黙ってる時間の重さ。軽くできる人って、すごく貴重」
 彼女はいつものように、声の角を丸めて笑う。
「最近、顔がちょっと疲れてる。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て」
「……努力します」
「“努力します”は、してない人が使うやつだよ」
「相変わらず手厳しい」
「脚本は直球じゃ通らないから」
 直球。
 俺は遠くで笑いながら、心のどこかで“迂回路”という言葉を探す。
 直球が投げられないとき、人は長いバウンドを選ぶ。
 その間に、ボールの勢いは落ち、手の届くところで拾えるようになる。
 でも、たまに、失速しすぎて届かなくなる。

 帰り支度をしていると、律からDMが来た。
〈“朝弱いよね”って言いそうになった。危なかった〉
 俺は机に肘をつき、軽く笑ってから返す。
〈知ってることの提示は窮屈さに繋がる。口に出さない優しさのほうが伝わる〉
 自分に言い聞かせるように、句読点を慎重に置く。
 送信してすぐに既読がついた。
 少し間をおいて、律から返事。
〈了解。じゃあ次の宿題は?〉
〈ベーカリーで“半分こ作戦”。ほんとの半分〉
〈行こう〉
 文字だけなのに、息の温度が伝わる気がした。
 行こう、という二文字だけで、今日の空気が少し甘くなる。

 ベーカリーのレシートが鞄のポケットにまだ残っていた。日付と時刻、クリームパン×2、塩パン×1。
 レシートの紙は薄く、折り目がつきやすい。
 レシートを指でなぞるうちに、ほんの少しだけ未来の段取りを考える自分がいて、驚いた。
 未来、という言葉はいつも遠くにあって、把握しようとすると霧みたいに形を変える。
 でも“半分こ”は具体的だ。手触りがある。
 その手触りに、俺は救われる。

 週の真ん中、校内のざわめきは少しだけ薄くなり、空気は平日に溶け込む。
 掃除の時間、黒板消しをトントンすると、白い粉が舞い上がる。
 窓の外には、鳥の影が飛び去るのが見えた。
 律はモップを持って、俺の隣の列をゆっくり進む。
「ねえ」
「ん」
「@相談くんってさ、誰だと思う?」
「さあ。映像研の誰かがやってるって噂はあるけど」
「身近すぎる、とか、歩幅とか。言い回しが学校っぽい」
「学校の言い回しって、たぶん誰かの口癖が種になってるんだよ」
「誰の?」
「さあ」
 律が少しだけ声を落とす。
「俺さ、ああいう“まとめ”って得意じゃないんだよね。個別の温度が削られる気がして」
 俺は頷いた。
「温度って、削れるとき一番冷たくなるから」
「そう、冷えるよな」
 モップの先が床でくるりと回る。小さな音。
 律は続ける。
「湊は、まとめるの上手だけど、削らないまとめ方する」
「ほめすぎ」
「ほんと」
 褒め言葉は、案外扱いに困る。受け取り方を間違えると、どこかに尖りが残って刺さる。
 俺は“ありがとう”を言わないかわりに、モップを律の列へ少しだけ伸ばして重ねた。二本の先が、床のほこりを同じ方向へ押し出す。
 言葉にしない合図。
 俺たちの間にある、たぶん最古の言語。

 放課後の図書室は、いつもより人が多かった。試験範囲が配られたばかりで、みんな机を埋める。
 端の席――俺の席には、先客がいた。
 仕方なく別の列に座り、教科書を開く。
 斜め前に、律の背中。
 その距離で、俺は不意に思った。
 “端の席が落ち着く”というのは、孤独の選択じゃない。
 視界に入る情報を自分で整えるための、一種の防御。
 そして、防御は攻撃の反語ではなく、やさしさの別名でもある。
 やさしさは、たぶん、どこかで怖がりとつながっている。
 俺自身がそうだから。

 閉館時間が近づき、人がまばらになる。
 葛西がカウンターの中で印鑑を押しながら、俺に声をかけた。
「湊くん、脚本の直し、また見てくれる?」
「いいよ」
「『間』の取り方、やっぱり湊くんのほうが上手いから」
「そればっかり」
「大事なんだってば」
 葛西は印鑑を置いて、真顔になった。
「……でも、無理しないで。湊くん、最近ほんとに顔が細い。お菓子、ちゃんと食べた?」
「袋、すでにからっぽ」
「よし」
「よし?」
「そういう確認の“よし”」
 彼女は笑って、印鑑を片づけた。
 俺はその笑いに救われながらも、心の奥底では別の問いが渦を巻く。
 ――俺はいつまで“相談役”でいられるだろう。
 その役割を続けることでしか、隣にいられないんだろうか。
 半分こを、どこまでほんとうに半分にできるだろう。

 帰り道、街灯がひとつずつ灯る。
 歩幅を合わせる練習を、俺はもう長いこと続けている。
 でも、練習はいつか本番に引き渡されるべきで、本番のない練習は、ただの儀式になってしまう。
 儀式は、時々、傷の上をなぞるだけだ。

 自宅に着き、机に青ペンを置く。
 ノートの余白に、今日の講義を箇条書きした。

 ――沈黙を嫌な間にしない
 ――知っていることを提示しない
 ――“半分こ”は譲らないための優しさ
 ――歩幅は声より先に合う

 書きながら、文字の端がじんわり滲んだ。
 窓を開けると、遠くで電車の音が通り過ぎる。
 あの音は、誰かの帰り道の証拠で、誰かの別れの合図でもある。
 俺が選びたいのは、前者だけだ。

 その夜遅く、布団に入ってから、またスマホが鳴った。
 律から、短いメッセージ。
〈今日の半分こ、またやりたい〉
 胸が、やさしく沈む。
 眠りの手前で、俺は返した。
〈また、やろう〉
 送信ボタンを押した直後、もう一度だけ画面が光った。
〈今度は、塩パン先に〉
 くだらない。けれど、生きのびるのに必要な種類のくだらなさだと思った。
 目を閉じる。
 “身近すぎる”という刃物は、たしかに俺を傷つける。
 でも“半分こ”というガーゼを重ねれば、出血は少しだけ止まる。
 そして、止血の仕方を覚えることは、強さの別名だ。

 眠る直前、もうひとつだけ、心に浮かんだ文をノートの余白に書いた。

 ――俺は今日も、相談役だ。
 ――でも、線はいつでも引き直せる。

 青い線は、まだ乾いていなかった。
 指で触れるのをやめ、そっとページを閉じる。
 ページの向こう側で、明日という紙が、薄く鳴った気がした。