翌週の朝、昇降口の床はうっすら濡れていた。夜の間に降った雨が、まだ靴底に冷たさを残している。ローファーが鳴らす音が二つ、同じテンポで並ぶ。
律がわざと俺の一歩後ろに下がり、足並みを合わせる。
「湊、さ。例の件、進展」
「出席番号?」
「いや、恋愛相談のほう」
「ほう。では“今日の問診票”をどうぞ」
「えらそう」
「保健委員なので」
そう口にしたものの、胸の内側はほんの少しだけ早足だった。律の「進展」という言葉は、いつだって俺の心拍に直結する。
「その子、体育の持久走は後ろから三番目」
ロッカーの扉が金属音を立てた。
「カフェオレは好きだけど、コーヒーは苦手」
「……」
「図書室の端の席が落ち着くらしい」
靴べらを持つ手が止まる。
どれも、俺。あまりにも、俺。
律は気づかないふりをして、靴を履き替える。ローファーをかかとまで押し込みながら、何でもない続きのように言う。
「だからさ、話しかけるタイミング、狙いたくて」
俺は喉に留まった言葉をひとつ飲み込み、「朝の昇降口は混むから避ける。昼休み、廊下の角を“相手の歩幅”で追い越して、相手が驚かない速度で声をかける。話題は重くしない」と“講義調”で返した。
「歩幅ね」
「そう、歩幅。合わせるには、まず自分の歩幅を知る」
「湊の歩幅は?」
「二十センチくらい短め」
律は笑う。「それ、俺が知ってる湊の情報」
「うるさい」
そう返してロッカーを閉める。金属の冷たさが指に残った。
教室に上がる階段。踊り場で窓の外を見ると、灰色の雲がまだ低い。廊下の端から、吹奏楽部の音階練習が細く届いた。
席に着くと、律が前のめりに話を続けた。
「で、今日の作戦。体育は持久走だし、たぶん最後の方に一緒に歩く時間がある。疲れてるときって、話しかけられたくないかな」
「人による」
「その子は?」
俺は青ペンをくるりと回してから言う。
「“言葉が短くて済む質問”だと、そんなに辛くない。『水いる?』『このあと図書室行く?』とか。はい/いいえで答えられるものから始める」
「なるほど」
「それと、守る約束をひとつだけ作る。『終わったら甘いもの食べよう』とか」
「約束か」
「返せなくても、相手に借金を背負わせない約束。軽くて、でも実在するやつ」
「ふむ……先生、今日も講義冴えてる」
「受講料はカフェ一杯」
「了解」
青ペンの先で、ノートの端に小さな丸をいくつも並べた。文字を並べるより、その微小な点々が、心の平衡を保ってくれる気がする。均一であればあるほど、呼吸も揃う。
午前の体育。グラウンドには薄い風が走り、白線をなでていく。ホイッスルの音が空に突き刺さり、班ごとにスタートする。
走り出した瞬間にわかった。やっぱり俺は後ろから三番目だ。肺が早々に熱くなり、耳の端がじんじんする。
律がさりげなく外側のレーンに回り、俺から半歩だけ前を走る。前じゃない。横でもない。その間の、ちょうどいいところ。
「ペース、落とそ」
「……いい」
「やせ我慢しない」
「してない」
息はうまく吸えなくて、しかし律の声はやわらかく薄く、風よりも低い。
「終わったら、甘いもの」
言われた瞬間、喉の奥に小さな水音がした。
「なに」
「ベーカリー。クリームパン半分こ」
半分こ。その語感が、靴紐みたいに胸の中央で結び目を作る。
走り終えるころ、空が明るみはじめた。息が荒く、視界が少し霞む。
「水いる?」
「……うん」
律が差し出すボトルに口をつける。冷たい水が喉を滑る。必要以上の言葉は要らなかった。はい、といいえの中間で、それでもちゃんと伝わっている、と思えた。
昼休み。図書室の扉に手をかけたところで、俺は足を引き返した。
――端の席が落ち着く。
律が口にしたそのフレーズが、扉の木目をやけにくっきり見せる。俺は扉から手をはなし、購買へ向かった。
揚げパンの列は長く、奥の冷蔵庫からカフェオレを取り出す。会計の鈴の音。
窓際のベンチに座って、ストローを噛んだ。砂糖の甘さが口の中に広がる。カフェオレは好き。でも、コーヒーは苦手。
自分で自分のプロフィールを、律の口を通じて読み上げられたみたいで、可笑しいのに、少しだけ痛い。
午後の授業が終わると、教室は一瞬だけ真空になる。椅子が引かれる音、机に物をしまう音、それらがすべて吸い込まれて、また吐き出される。
鞄に教科書を詰めていたら、律が近づいてきて囁いた。
「今日さ、ベーカリー寄れる?」
「……うん」
言った瞬間、自分の声が小さく上ずったのが、自分でもわかった。
通学路の角を曲がったところにあるベーカリーは、午後になると窓ガラスが焼き色のにおいで曇る。店内へ入ると、パンの名前が印刷された小さな札が整列している。
列に並ぶ間、俺は息を整えながら、おしゃべり用の軽い話題を探す。――失敗しない話題。傷つけない話題。
順番が来て、クリームパンを二つ、トレイに乗せた。律が塩パンを追加する。
レジの音。カタン、と釣り銭の皿。
店の外に出ると、ベンチには午後の光がうすく差し込んでいた。
「じゃ、半分こ」
「うん」
俺がクリームパンを手で割る。クリームの黄色がやわらかく露出し、湯気がしゅっと立つ。反射で、クリームの多いほうを律に差し出そうとしたとき、律がその手を軽く押し戻した。
「それ、やめて」
「え?」
「湊が“譲る役”になるの、好きじゃない。ほんとの半分こにしよう」
心臓が小さく跳ねた。
俺は何度も知っていたはずなのに、“譲る”が最短距離の平和だと。反射のようにそれを選び続けてきたのに。
それを、やんわり否定されることの奇妙な救い。
「……わかった。ほんとの半分」
真ん中に指を入れて、丁寧に割る。左右の重さを量り、やっときっちり平等だと思えたところで、律に渡す。
クリームの甘さが、口にゆっくり広がった。
なんでもない午後、なんでもないベンチ。それだけのことが、こんなにも記憶になる。
「塩パンも?」
「うん。こっちはしょっぱいほうを譲る」
「それは譲るじゃない?」
「たしかに」
二人で笑い、また半分こにした。
パンくずが膝に落ちる。律が指先で払う仕草すら、やさしい。
帰り際、律が言った。
「今日、言いそうになったんだよな」
「なにを」
「“朝弱いよね”って。危なかった」
「……たしかに危ない」
「言ったら、たぶん相手は『なんで知ってるの』ってなる」
「なる。知ってることを“提示”しすぎると、相手は窮屈に感じる」
「うん」
「口に出さない優しさ、のほうが伝わることある」
言いながら、自分に向けているみたいで、胸の内側がきゅっと締まる。
俺は“講義調”に拍車をかけて続ける。
「たとえば、遅刻ギリギリの日は朝の『おはよう』を文字じゃなくスタンプだけにするとか、返事が短い日は話題を畳むとか。沈黙は嫌なわけじゃない。呼吸のリズムみたいに、寄せては返すものだから」
「寄せては返す」
「そう。歩幅と同じ」
律は細く息を吐いた。
「湊の講義、録音したい」
「無断転載禁止」
「じゃ、今度文字でくれ」
「検討」
検討、という言葉に逃げ場を作って、俺は笑った。律も笑った。笑い方は、いつも通り片口角が上がるやつ。見慣れた癖が、今日は少し眩しい。
帰宅して、宿題のページを開こうとしたとき、スマホが震いた。
通知の多くはどうでもいい。誰かのストーリー、課題の共有。
ただ、ひとつだけ、脈拍に直結するアイコンがある。
Xのタイムラインに、見慣れない投稿が流れてきた。
――@相談くん。
いつの間にか校内で話題になっている匿名アカウント。恋バナを募集して、共感を煽るみたいな文体でまとめる。
今日のポストはこうだ。
【相談】好きな子がいます。身近すぎて、視界から外せない距離にいます。
彼の歩幅に合わせるつもりが、気づけば同じ靴になっていて、
何を言っても自分のプロフィールを読み上げているみたい。
どうしたらいいですか。
“身近すぎる”という文字列が、刃物みたいに画面の奥で光る。
コメント欄には軽いリアクションが並んでいる。
「それは自己投影しすぎ」「身近な人は錯覚しがち」「自分のこと好きになれ」
笑いのスタンプ、ハートのスタンプ。
俺はため息を一つ、深く吐いて、スマホを伏せた。
身近すぎる、なんて言葉、俺にとっては刃先だ。
その刃は痛みを切り分けるためにあるんじゃない。痛みそのものだ。
翌日の放課後、図書室に葛西がやってきた。
「この前の読み合わせ、ありがとう。差し入れ」
紙袋には、小さな焼き菓子がいくつか。
「いいの? 俺、あんまり役に立ってないけど」
「立ってたよ。湊くん、セリフの“間”がわかるから」
「間」
「そ。黙ってる時間の重さ。軽くできる人って、すごく貴重」
彼女はいつものように、声の角を丸めて笑う。
「最近、顔がちょっと疲れてる。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て」
「……努力します」
「“努力します”は、してない人が使うやつだよ」
「相変わらず手厳しい」
「脚本は直球じゃ通らないから」
直球。
俺は遠くで笑いながら、心のどこかで“迂回路”という言葉を探す。
直球が投げられないとき、人は長いバウンドを選ぶ。
その間に、ボールの勢いは落ち、手の届くところで拾えるようになる。
でも、たまに、失速しすぎて届かなくなる。
帰り支度をしていると、律からDMが来た。
〈“朝弱いよね”って言いそうになった。危なかった〉
俺は机に肘をつき、軽く笑ってから返す。
〈知ってることの提示は窮屈さに繋がる。口に出さない優しさのほうが伝わる〉
自分に言い聞かせるように、句読点を慎重に置く。
送信してすぐに既読がついた。
少し間をおいて、律から返事。
〈了解。じゃあ次の宿題は?〉
〈ベーカリーで“半分こ作戦”。ほんとの半分〉
〈行こう〉
文字だけなのに、息の温度が伝わる気がした。
行こう、という二文字だけで、今日の空気が少し甘くなる。
ベーカリーのレシートが鞄のポケットにまだ残っていた。日付と時刻、クリームパン×2、塩パン×1。
レシートの紙は薄く、折り目がつきやすい。
レシートを指でなぞるうちに、ほんの少しだけ未来の段取りを考える自分がいて、驚いた。
未来、という言葉はいつも遠くにあって、把握しようとすると霧みたいに形を変える。
でも“半分こ”は具体的だ。手触りがある。
その手触りに、俺は救われる。
週の真ん中、校内のざわめきは少しだけ薄くなり、空気は平日に溶け込む。
掃除の時間、黒板消しをトントンすると、白い粉が舞い上がる。
窓の外には、鳥の影が飛び去るのが見えた。
律はモップを持って、俺の隣の列をゆっくり進む。
「ねえ」
「ん」
「@相談くんってさ、誰だと思う?」
「さあ。映像研の誰かがやってるって噂はあるけど」
「身近すぎる、とか、歩幅とか。言い回しが学校っぽい」
「学校の言い回しって、たぶん誰かの口癖が種になってるんだよ」
「誰の?」
「さあ」
律が少しだけ声を落とす。
「俺さ、ああいう“まとめ”って得意じゃないんだよね。個別の温度が削られる気がして」
俺は頷いた。
「温度って、削れるとき一番冷たくなるから」
「そう、冷えるよな」
モップの先が床でくるりと回る。小さな音。
律は続ける。
「湊は、まとめるの上手だけど、削らないまとめ方する」
「ほめすぎ」
「ほんと」
褒め言葉は、案外扱いに困る。受け取り方を間違えると、どこかに尖りが残って刺さる。
俺は“ありがとう”を言わないかわりに、モップを律の列へ少しだけ伸ばして重ねた。二本の先が、床のほこりを同じ方向へ押し出す。
言葉にしない合図。
俺たちの間にある、たぶん最古の言語。
放課後の図書室は、いつもより人が多かった。試験範囲が配られたばかりで、みんな机を埋める。
端の席――俺の席には、先客がいた。
仕方なく別の列に座り、教科書を開く。
斜め前に、律の背中。
その距離で、俺は不意に思った。
“端の席が落ち着く”というのは、孤独の選択じゃない。
視界に入る情報を自分で整えるための、一種の防御。
そして、防御は攻撃の反語ではなく、やさしさの別名でもある。
やさしさは、たぶん、どこかで怖がりとつながっている。
俺自身がそうだから。
閉館時間が近づき、人がまばらになる。
葛西がカウンターの中で印鑑を押しながら、俺に声をかけた。
「湊くん、脚本の直し、また見てくれる?」
「いいよ」
「『間』の取り方、やっぱり湊くんのほうが上手いから」
「そればっかり」
「大事なんだってば」
葛西は印鑑を置いて、真顔になった。
「……でも、無理しないで。湊くん、最近ほんとに顔が細い。お菓子、ちゃんと食べた?」
「袋、すでにからっぽ」
「よし」
「よし?」
「そういう確認の“よし”」
彼女は笑って、印鑑を片づけた。
俺はその笑いに救われながらも、心の奥底では別の問いが渦を巻く。
――俺はいつまで“相談役”でいられるだろう。
その役割を続けることでしか、隣にいられないんだろうか。
半分こを、どこまでほんとうに半分にできるだろう。
帰り道、街灯がひとつずつ灯る。
歩幅を合わせる練習を、俺はもう長いこと続けている。
でも、練習はいつか本番に引き渡されるべきで、本番のない練習は、ただの儀式になってしまう。
儀式は、時々、傷の上をなぞるだけだ。
自宅に着き、机に青ペンを置く。
ノートの余白に、今日の講義を箇条書きした。
――沈黙を嫌な間にしない
――知っていることを提示しない
――“半分こ”は譲らないための優しさ
――歩幅は声より先に合う
書きながら、文字の端がじんわり滲んだ。
窓を開けると、遠くで電車の音が通り過ぎる。
あの音は、誰かの帰り道の証拠で、誰かの別れの合図でもある。
俺が選びたいのは、前者だけだ。
その夜遅く、布団に入ってから、またスマホが鳴った。
律から、短いメッセージ。
〈今日の半分こ、またやりたい〉
胸が、やさしく沈む。
眠りの手前で、俺は返した。
〈また、やろう〉
送信ボタンを押した直後、もう一度だけ画面が光った。
〈今度は、塩パン先に〉
くだらない。けれど、生きのびるのに必要な種類のくだらなさだと思った。
目を閉じる。
“身近すぎる”という刃物は、たしかに俺を傷つける。
でも“半分こ”というガーゼを重ねれば、出血は少しだけ止まる。
そして、止血の仕方を覚えることは、強さの別名だ。
眠る直前、もうひとつだけ、心に浮かんだ文をノートの余白に書いた。
――俺は今日も、相談役だ。
――でも、線はいつでも引き直せる。
青い線は、まだ乾いていなかった。
指で触れるのをやめ、そっとページを閉じる。
ページの向こう側で、明日という紙が、薄く鳴った気がした。
律がわざと俺の一歩後ろに下がり、足並みを合わせる。
「湊、さ。例の件、進展」
「出席番号?」
「いや、恋愛相談のほう」
「ほう。では“今日の問診票”をどうぞ」
「えらそう」
「保健委員なので」
そう口にしたものの、胸の内側はほんの少しだけ早足だった。律の「進展」という言葉は、いつだって俺の心拍に直結する。
「その子、体育の持久走は後ろから三番目」
ロッカーの扉が金属音を立てた。
「カフェオレは好きだけど、コーヒーは苦手」
「……」
「図書室の端の席が落ち着くらしい」
靴べらを持つ手が止まる。
どれも、俺。あまりにも、俺。
律は気づかないふりをして、靴を履き替える。ローファーをかかとまで押し込みながら、何でもない続きのように言う。
「だからさ、話しかけるタイミング、狙いたくて」
俺は喉に留まった言葉をひとつ飲み込み、「朝の昇降口は混むから避ける。昼休み、廊下の角を“相手の歩幅”で追い越して、相手が驚かない速度で声をかける。話題は重くしない」と“講義調”で返した。
「歩幅ね」
「そう、歩幅。合わせるには、まず自分の歩幅を知る」
「湊の歩幅は?」
「二十センチくらい短め」
律は笑う。「それ、俺が知ってる湊の情報」
「うるさい」
そう返してロッカーを閉める。金属の冷たさが指に残った。
教室に上がる階段。踊り場で窓の外を見ると、灰色の雲がまだ低い。廊下の端から、吹奏楽部の音階練習が細く届いた。
席に着くと、律が前のめりに話を続けた。
「で、今日の作戦。体育は持久走だし、たぶん最後の方に一緒に歩く時間がある。疲れてるときって、話しかけられたくないかな」
「人による」
「その子は?」
俺は青ペンをくるりと回してから言う。
「“言葉が短くて済む質問”だと、そんなに辛くない。『水いる?』『このあと図書室行く?』とか。はい/いいえで答えられるものから始める」
「なるほど」
「それと、守る約束をひとつだけ作る。『終わったら甘いもの食べよう』とか」
「約束か」
「返せなくても、相手に借金を背負わせない約束。軽くて、でも実在するやつ」
「ふむ……先生、今日も講義冴えてる」
「受講料はカフェ一杯」
「了解」
青ペンの先で、ノートの端に小さな丸をいくつも並べた。文字を並べるより、その微小な点々が、心の平衡を保ってくれる気がする。均一であればあるほど、呼吸も揃う。
午前の体育。グラウンドには薄い風が走り、白線をなでていく。ホイッスルの音が空に突き刺さり、班ごとにスタートする。
走り出した瞬間にわかった。やっぱり俺は後ろから三番目だ。肺が早々に熱くなり、耳の端がじんじんする。
律がさりげなく外側のレーンに回り、俺から半歩だけ前を走る。前じゃない。横でもない。その間の、ちょうどいいところ。
「ペース、落とそ」
「……いい」
「やせ我慢しない」
「してない」
息はうまく吸えなくて、しかし律の声はやわらかく薄く、風よりも低い。
「終わったら、甘いもの」
言われた瞬間、喉の奥に小さな水音がした。
「なに」
「ベーカリー。クリームパン半分こ」
半分こ。その語感が、靴紐みたいに胸の中央で結び目を作る。
走り終えるころ、空が明るみはじめた。息が荒く、視界が少し霞む。
「水いる?」
「……うん」
律が差し出すボトルに口をつける。冷たい水が喉を滑る。必要以上の言葉は要らなかった。はい、といいえの中間で、それでもちゃんと伝わっている、と思えた。
昼休み。図書室の扉に手をかけたところで、俺は足を引き返した。
――端の席が落ち着く。
律が口にしたそのフレーズが、扉の木目をやけにくっきり見せる。俺は扉から手をはなし、購買へ向かった。
揚げパンの列は長く、奥の冷蔵庫からカフェオレを取り出す。会計の鈴の音。
窓際のベンチに座って、ストローを噛んだ。砂糖の甘さが口の中に広がる。カフェオレは好き。でも、コーヒーは苦手。
自分で自分のプロフィールを、律の口を通じて読み上げられたみたいで、可笑しいのに、少しだけ痛い。
午後の授業が終わると、教室は一瞬だけ真空になる。椅子が引かれる音、机に物をしまう音、それらがすべて吸い込まれて、また吐き出される。
鞄に教科書を詰めていたら、律が近づいてきて囁いた。
「今日さ、ベーカリー寄れる?」
「……うん」
言った瞬間、自分の声が小さく上ずったのが、自分でもわかった。
通学路の角を曲がったところにあるベーカリーは、午後になると窓ガラスが焼き色のにおいで曇る。店内へ入ると、パンの名前が印刷された小さな札が整列している。
列に並ぶ間、俺は息を整えながら、おしゃべり用の軽い話題を探す。――失敗しない話題。傷つけない話題。
順番が来て、クリームパンを二つ、トレイに乗せた。律が塩パンを追加する。
レジの音。カタン、と釣り銭の皿。
店の外に出ると、ベンチには午後の光がうすく差し込んでいた。
「じゃ、半分こ」
「うん」
俺がクリームパンを手で割る。クリームの黄色がやわらかく露出し、湯気がしゅっと立つ。反射で、クリームの多いほうを律に差し出そうとしたとき、律がその手を軽く押し戻した。
「それ、やめて」
「え?」
「湊が“譲る役”になるの、好きじゃない。ほんとの半分こにしよう」
心臓が小さく跳ねた。
俺は何度も知っていたはずなのに、“譲る”が最短距離の平和だと。反射のようにそれを選び続けてきたのに。
それを、やんわり否定されることの奇妙な救い。
「……わかった。ほんとの半分」
真ん中に指を入れて、丁寧に割る。左右の重さを量り、やっときっちり平等だと思えたところで、律に渡す。
クリームの甘さが、口にゆっくり広がった。
なんでもない午後、なんでもないベンチ。それだけのことが、こんなにも記憶になる。
「塩パンも?」
「うん。こっちはしょっぱいほうを譲る」
「それは譲るじゃない?」
「たしかに」
二人で笑い、また半分こにした。
パンくずが膝に落ちる。律が指先で払う仕草すら、やさしい。
帰り際、律が言った。
「今日、言いそうになったんだよな」
「なにを」
「“朝弱いよね”って。危なかった」
「……たしかに危ない」
「言ったら、たぶん相手は『なんで知ってるの』ってなる」
「なる。知ってることを“提示”しすぎると、相手は窮屈に感じる」
「うん」
「口に出さない優しさ、のほうが伝わることある」
言いながら、自分に向けているみたいで、胸の内側がきゅっと締まる。
俺は“講義調”に拍車をかけて続ける。
「たとえば、遅刻ギリギリの日は朝の『おはよう』を文字じゃなくスタンプだけにするとか、返事が短い日は話題を畳むとか。沈黙は嫌なわけじゃない。呼吸のリズムみたいに、寄せては返すものだから」
「寄せては返す」
「そう。歩幅と同じ」
律は細く息を吐いた。
「湊の講義、録音したい」
「無断転載禁止」
「じゃ、今度文字でくれ」
「検討」
検討、という言葉に逃げ場を作って、俺は笑った。律も笑った。笑い方は、いつも通り片口角が上がるやつ。見慣れた癖が、今日は少し眩しい。
帰宅して、宿題のページを開こうとしたとき、スマホが震いた。
通知の多くはどうでもいい。誰かのストーリー、課題の共有。
ただ、ひとつだけ、脈拍に直結するアイコンがある。
Xのタイムラインに、見慣れない投稿が流れてきた。
――@相談くん。
いつの間にか校内で話題になっている匿名アカウント。恋バナを募集して、共感を煽るみたいな文体でまとめる。
今日のポストはこうだ。
【相談】好きな子がいます。身近すぎて、視界から外せない距離にいます。
彼の歩幅に合わせるつもりが、気づけば同じ靴になっていて、
何を言っても自分のプロフィールを読み上げているみたい。
どうしたらいいですか。
“身近すぎる”という文字列が、刃物みたいに画面の奥で光る。
コメント欄には軽いリアクションが並んでいる。
「それは自己投影しすぎ」「身近な人は錯覚しがち」「自分のこと好きになれ」
笑いのスタンプ、ハートのスタンプ。
俺はため息を一つ、深く吐いて、スマホを伏せた。
身近すぎる、なんて言葉、俺にとっては刃先だ。
その刃は痛みを切り分けるためにあるんじゃない。痛みそのものだ。
翌日の放課後、図書室に葛西がやってきた。
「この前の読み合わせ、ありがとう。差し入れ」
紙袋には、小さな焼き菓子がいくつか。
「いいの? 俺、あんまり役に立ってないけど」
「立ってたよ。湊くん、セリフの“間”がわかるから」
「間」
「そ。黙ってる時間の重さ。軽くできる人って、すごく貴重」
彼女はいつものように、声の角を丸めて笑う。
「最近、顔がちょっと疲れてる。ちゃんと食べて、ちゃんと寝て」
「……努力します」
「“努力します”は、してない人が使うやつだよ」
「相変わらず手厳しい」
「脚本は直球じゃ通らないから」
直球。
俺は遠くで笑いながら、心のどこかで“迂回路”という言葉を探す。
直球が投げられないとき、人は長いバウンドを選ぶ。
その間に、ボールの勢いは落ち、手の届くところで拾えるようになる。
でも、たまに、失速しすぎて届かなくなる。
帰り支度をしていると、律からDMが来た。
〈“朝弱いよね”って言いそうになった。危なかった〉
俺は机に肘をつき、軽く笑ってから返す。
〈知ってることの提示は窮屈さに繋がる。口に出さない優しさのほうが伝わる〉
自分に言い聞かせるように、句読点を慎重に置く。
送信してすぐに既読がついた。
少し間をおいて、律から返事。
〈了解。じゃあ次の宿題は?〉
〈ベーカリーで“半分こ作戦”。ほんとの半分〉
〈行こう〉
文字だけなのに、息の温度が伝わる気がした。
行こう、という二文字だけで、今日の空気が少し甘くなる。
ベーカリーのレシートが鞄のポケットにまだ残っていた。日付と時刻、クリームパン×2、塩パン×1。
レシートの紙は薄く、折り目がつきやすい。
レシートを指でなぞるうちに、ほんの少しだけ未来の段取りを考える自分がいて、驚いた。
未来、という言葉はいつも遠くにあって、把握しようとすると霧みたいに形を変える。
でも“半分こ”は具体的だ。手触りがある。
その手触りに、俺は救われる。
週の真ん中、校内のざわめきは少しだけ薄くなり、空気は平日に溶け込む。
掃除の時間、黒板消しをトントンすると、白い粉が舞い上がる。
窓の外には、鳥の影が飛び去るのが見えた。
律はモップを持って、俺の隣の列をゆっくり進む。
「ねえ」
「ん」
「@相談くんってさ、誰だと思う?」
「さあ。映像研の誰かがやってるって噂はあるけど」
「身近すぎる、とか、歩幅とか。言い回しが学校っぽい」
「学校の言い回しって、たぶん誰かの口癖が種になってるんだよ」
「誰の?」
「さあ」
律が少しだけ声を落とす。
「俺さ、ああいう“まとめ”って得意じゃないんだよね。個別の温度が削られる気がして」
俺は頷いた。
「温度って、削れるとき一番冷たくなるから」
「そう、冷えるよな」
モップの先が床でくるりと回る。小さな音。
律は続ける。
「湊は、まとめるの上手だけど、削らないまとめ方する」
「ほめすぎ」
「ほんと」
褒め言葉は、案外扱いに困る。受け取り方を間違えると、どこかに尖りが残って刺さる。
俺は“ありがとう”を言わないかわりに、モップを律の列へ少しだけ伸ばして重ねた。二本の先が、床のほこりを同じ方向へ押し出す。
言葉にしない合図。
俺たちの間にある、たぶん最古の言語。
放課後の図書室は、いつもより人が多かった。試験範囲が配られたばかりで、みんな机を埋める。
端の席――俺の席には、先客がいた。
仕方なく別の列に座り、教科書を開く。
斜め前に、律の背中。
その距離で、俺は不意に思った。
“端の席が落ち着く”というのは、孤独の選択じゃない。
視界に入る情報を自分で整えるための、一種の防御。
そして、防御は攻撃の反語ではなく、やさしさの別名でもある。
やさしさは、たぶん、どこかで怖がりとつながっている。
俺自身がそうだから。
閉館時間が近づき、人がまばらになる。
葛西がカウンターの中で印鑑を押しながら、俺に声をかけた。
「湊くん、脚本の直し、また見てくれる?」
「いいよ」
「『間』の取り方、やっぱり湊くんのほうが上手いから」
「そればっかり」
「大事なんだってば」
葛西は印鑑を置いて、真顔になった。
「……でも、無理しないで。湊くん、最近ほんとに顔が細い。お菓子、ちゃんと食べた?」
「袋、すでにからっぽ」
「よし」
「よし?」
「そういう確認の“よし”」
彼女は笑って、印鑑を片づけた。
俺はその笑いに救われながらも、心の奥底では別の問いが渦を巻く。
――俺はいつまで“相談役”でいられるだろう。
その役割を続けることでしか、隣にいられないんだろうか。
半分こを、どこまでほんとうに半分にできるだろう。
帰り道、街灯がひとつずつ灯る。
歩幅を合わせる練習を、俺はもう長いこと続けている。
でも、練習はいつか本番に引き渡されるべきで、本番のない練習は、ただの儀式になってしまう。
儀式は、時々、傷の上をなぞるだけだ。
自宅に着き、机に青ペンを置く。
ノートの余白に、今日の講義を箇条書きした。
――沈黙を嫌な間にしない
――知っていることを提示しない
――“半分こ”は譲らないための優しさ
――歩幅は声より先に合う
書きながら、文字の端がじんわり滲んだ。
窓を開けると、遠くで電車の音が通り過ぎる。
あの音は、誰かの帰り道の証拠で、誰かの別れの合図でもある。
俺が選びたいのは、前者だけだ。
その夜遅く、布団に入ってから、またスマホが鳴った。
律から、短いメッセージ。
〈今日の半分こ、またやりたい〉
胸が、やさしく沈む。
眠りの手前で、俺は返した。
〈また、やろう〉
送信ボタンを押した直後、もう一度だけ画面が光った。
〈今度は、塩パン先に〉
くだらない。けれど、生きのびるのに必要な種類のくだらなさだと思った。
目を閉じる。
“身近すぎる”という刃物は、たしかに俺を傷つける。
でも“半分こ”というガーゼを重ねれば、出血は少しだけ止まる。
そして、止血の仕方を覚えることは、強さの別名だ。
眠る直前、もうひとつだけ、心に浮かんだ文をノートの余白に書いた。
――俺は今日も、相談役だ。
――でも、線はいつでも引き直せる。
青い線は、まだ乾いていなかった。
指で触れるのをやめ、そっとページを閉じる。
ページの向こう側で、明日という紙が、薄く鳴った気がした。



