学年末の終業式は、冬と春が互いに背中を押し合っているみたいな温度だった。体育館の床は冷たく、上履き越しに薄い氷みたいな感触が伝わる。壇上の国旗は乾いていて、風もないのに布の端が「もうすぐだよ」と言うふうにわずかに揺れた。校長の話は、例によって季節の比喩に数字を少し混ぜたものだったが、今日は耳に入るよりも、胸の奥のほうが先に反応する。もう何度も練習した呼吸の仕方、拍の数え方、歩幅の測り方。全部、今日のためにあった気がする。

 終業式が終わって解散になっても、教室の空気はすぐには緩まない。春の手前で固まった透明なゼリーを、日向に出して溶かすみたいに、時間がゆっくりやわらいでいく。配られた通知表に視線だけ落として、俺は鞄にしまった。青いペンは最後まで真ん中のペン立てに挿しておいた。今日、この色が必要になる場所は、まだ残っている。

 放課後の図書室は、学期の終わりの匂いがした。埃っぽいのに、少し甘い。誰かが返し忘れていた絵本のページの間に、飴の包み紙が挟まっているのを葛西が見つけ、無言で俺に見せてくる。俺が肩をすくめると、葛西は印鑑の台にスタンプを戻しながら言った。

「“別れる練習”じゃなくて、“続ける稽古”をして」

 いつものように、声だけが軽くて、中身は重い。「わかった」と頷くと、彼女は小さく笑って、貸出処理に戻った。カウンターの隅には、小さな紙箱――相談箱――が置いてあって、口に貼ったクラフトテープの角が少しだけ反り返っている。たぶん春休みの間は閉じる。紙は、季節を超えるけれど、少し休むことだってできる。

 俺は、奥の席に座って、律に渡す“最後の紙の手紙”を書いた。最後、と書いても、終わりじゃない。この学校での“最後”という意味だ。便箋の白は、まだ怖い。けれど、怖さの種類は変わった。以前は“言ったら壊れる”という恐怖だったのが、今は“言わずに残すと薄まる”という恐怖に移った。書くことで濃くなる。濃くなった言葉は、時間に溶けにくい。

 ——律へ。
 ——“ド&”のカレンダー、春からの色を決めました。土曜は濃い青、隔週日曜は薄い青、水曜の“&”は点の青。
——“半分こ”は、パンだけじゃなく、寂しさにも使う。偏ったら、指で戻す。
——“逃げないで言う”の練習は終わり。今日から本番。
——拍は四つ。ときどき八つ。
——“行ってきます”の言い方は、まだ下書きです。
——けれど、“さよなら”は、書かない。

 ペン先を上げると、指に残った青の匂いが、少しだけ甘く感じられた。紙を封筒に入れて、表に小さく名前を書いた。自分で書いた律の苗字の曲線を、指の腹でなぞる。今日はこの紙を、俺の手で渡す。

 図書室の鍵を閉めるのを葛西と一緒に手伝う。貸出カードの束を輪ゴムで留め、台帳を棚に仕舞い、ブラインドを半分だけ下ろす。「またね」と言うかわりに、葛西は小さく手を振った。言葉を少なくするのは、別れの儀式ではなく、継続の挨拶だ。彼女はそれを知っている。俺も、少しだけ覚えた。

 夕方の風は冷たいが、指を刺すほどではない。サロンへ向かう道は、冬のアスファルトの匂いが濃い。雑居ビルの階段を上がると、軽い金属の匂いがした。扉を開けると、いつもの女性が「いらっしゃい」と言って、三脚を一本、折りたたみ椅子を五脚ほど出してくれた。

「今夜は、小さな発表会って聞いたけど」

「はい。観客は、三脚一台と——」
 俺は振り返り、律を見る。「俺、一人」
「それと、私もちょっとだけ、壁から拍手するわね」

 女性はウィンクして、受付に戻った。俺たちは笑って、アップライトの前に座る。楽譜立ては空。置くべき譜面は、胸の内側に入っている。

「湊」
「ん」
「譜めくり、お願い」
「了解」

 譜面はないけれど、ページをめくるふりをする。合図に、拍に、息に、指に、タイミングが合っているか確認するための、二人だけの作法。最初の音は“ド”。次に“レ”。震えは少しあるが、震えながら前へ進む音は、もう怖くない。律の右手が上の和音を掴み、左手が低音を支える。C、G、Am、F。世界でいちばんありふれている進行を、世界でいちばん慎重に鳴らす。

 途中で“&”を入れる。俺の小さな合図。二拍目に、タン。四拍目に、タン。律の肩がそのリズムで微かに上下して、音はすっと前に伸びた。扉の向こうの廊下を誰かが通る音がした。靴底のゴムが床を擦る音。以前はそれがノイズだった。今日は、曲の外側を流れる自然音に聞こえる。音と音じゃないものの境界線は、演奏する人間の呼吸で決まる。

 最後の“C”が落ち、余韻がひとつ呼吸をする。静けさが、音の部屋に戻ってくる。俺が両手を膝に置くと、律がふっと笑って、ささやいた。

「湊がいると、拍手が怖くない」

 手元の空気が、少しだけ熱を持った。拍手は、誰かの承認の音であると同時に、終わりの合図でもある。彼にとって、その二重性はいつも刃物だったのだと思う。刃を鈍らせる方法はひとつしかない。刃に当たる皮膚のほうを、少し厚くする。皮膚は、重なった時間の数で厚くなる。俺が隣にいることが、その重なりの単位になるなら、どれだけでも重ねたい。

 俺は“観客一号”として、静かに拍手した。音量は、空間の大きさに合わせた。大きくしない。小さくしすぎない。中間に温度がある。

「ここに湊がいるから、音が止まらない」
「俺も、ここに律がいるから、拍が迷子にならない」

 言ったあと、俺たちは少し笑った。言葉は、言い慣れれば軽くなる。けれど、今日の言い慣れは、軽さを悪い方向へは連れて行かない。何度も言ってたしかめた先に、はじめて届く重さもある。反復は、空虚と親戚じゃない。反復は、安心の遠い親戚だ。

「もう一曲」
「うん」

 二曲目は、今日のために決めていた短いワルツ。三拍子。歩幅の数え方が少し違う。数え間違えると、踊りがぎこちなくなる。だからこそ、ふたりで数える。いち、に、さん。いち、に、さん。三拍子の二拍目は、少しだけ背中を押す。押しすぎないように。手首ではなく、背中を。以前、俺が口にした約束の形だ。

 終わったあと、俺は譜めくりのふりを一度だけして、手元の封筒を取り出した。便箋の入った封筒。短い手紙。律が受け取る。封を切る音が、紙の小さな羽音に聞こえた。彼は目で読んで、指で読むみたいに、文の端を大事に撫でた。

「ありがとう」
「こちらこそ」

 それだけで充分だ。手紙は、口よりもゆっくりだが、口よりも深く届くときがある。どちらも必要で、どちらかだけでは足りない。俺たちは、その順番をこの数ヶ月で学んだ。
 受付の女性が、壁のあたりから軽く拍手をくれた。「いい夜だね」と言って。俺たちは礼をした。小さな発表会は、これで閉じる。

 外に出ると、空気はさらに冷たく、星は薄かった。街灯の光がいつもより均一で、道路の白線がくっきり見える。駅までの道を歩く。肩が触れて、すぐ離れる。今夜は、ここから先が新しい。

「——手、繋ぐ?」
 律が言った。
 俺は頷いた。頷くだけでは足りない。だから、手を出した。自分の手のひらの形が、こんなにも緊張するなんて思わなかった。
 律の手は少し冷たく、皮膚の内側に、鍵盤の冷たさが残っている気がした。指と指の隙間に、空気が一瞬入り、それから消える。俺は握り直す。交差点で離さずに済むように、ちゃんと握り込む。
 信号が赤になる。手を離さない。次の青で、一歩だけ進む。歩幅は、もう測らなくても合う。でも、合っていることを確認する作業は続ける。確認は、ルーティンじゃない。合図だ。

「遠距離の段取り、もう一度確認する?」
「うん。アラーム、まずは水曜の“&”」
「夜十時。十七分から二十七分」
「その不思議な三分刻み」
「“十七”は、世界のどこかの音楽番組のスタート時刻っぽいから」
「わけのわからない理由、好き」
「ありがと」

「チケットアプリは?」
「“新幹線e”登録済み。モバイルSuicaと紐付け完了」
「映画は“同時再生”用に『Watch Party』入れた」
「サロンの夜の予約、四月ぶん押さえた?」
「押さえた。先生にも伝えてある。オンライン切替の準備も」
「手紙は?」
「月末交換。紙で。——“重さ”が必要なときは増やす」
「了解」
「“了解”の言い方、最近好き」
「俺も」

 段取りの確認は、祈りに似ている。抜け漏れを潰す動作は、恐れを言い換える作業でもある。恐れは、形式を持たせると弱くなる。形式は、本番のためにある。
 駅の灯りが近づく。改札の前で、手を解いた。俺たちの手のひらが、お互いの形を少しだけ覚えているのがわかる。皮膚の表面に、見えないインクで、線が引かれたみたいに。

 ホームに上がる。発車ベルの鳴らない時間帯の静けさ。柔らかいアナウンスの声。ホームの端で、風が少し強い。律が、ポケットから小さな紙を出して、俺に渡した。封筒ではない。折りたたんだメモ。広げると、そこには三行だけ書いてあった。

 ——“好きだよ”の言い方、もう練習いらないね
 ——次は“会いに行く”の言い方を、増やす
 ——“ただいま”と“おかえり”を、拍で合わせよう

 読んで、顔を上げる。律が笑った。笑い方は、いつもの片口角が上がるやつだ。俺は笑い返しながら、ゆっくり言った。

「うん。本番しかない」

 その瞬間、遠くのホームで、別の電車のベルが短く鳴った。遅れて、俺たちのいるホームのスピーカーが小さく光る。ライン上に、人の影が長く伸びる。発車の直前、世界は少しだけ集中する。
 改札のほうから、家族連れが走ってくる音。ベビーカーの小さな車輪の音。誰かの「待って!」という声。俺たちは顔を見合わせ、同時に口を開いた。言葉の中身は違うけれど、拍は同じ。

「行ってきます」

 さよならは言わない。言わなくても、言ったのと同じくらい、いや、それよりもはっきり伝わることがある。いってらっしゃい、と返すこともできたけど、俺はそれを飲み込んだ。今日は、送り出す日じゃない。ふたりで、行く日だ。
 ドアが閉まる。窓ガラス越しに、律の顔が一瞬ゆがむ。ガラスは、世界をやわらかく歪める。歪むから、残酷さが薄まる。
 車体が動く。律は、窓に近づいて、手を上げる。俺も手を上げる。手のひらと手のひらが、窓の両側で重なる。物理的には触れていないのに、皮膚が熱を持つ。
 視界の端で、車内の電光掲示板がゆっくり流れる。次は、**。
 音が遠ざかる。風が少し追いかける。ホームの白線が、静かに元に戻る。
 俺は深呼吸をして、ベンチに座った。ベンチの板が冷たい。冷たさは悪くない。熱を覚えるための基準だ。
 ポケットからスマホを出して、“ド&”のカレンダーを見る。土曜の青、日曜の薄青、水曜の点の青。通知のオンを確認する。重複のバッジが付いていないか確認する。
 「本番しかない」——さっき言ったその言葉が、画面のガラスに薄く反射している。自分で口にした言葉は、予想よりも重かった。持てないほどではない。持ち続けるには、両手が要る。だから、俺は鞄のベルトを右肩から左手に持ち替えた。重さを分散させる。半分こ。
 ホームのベンチに座っていると、足元を風が巡る。冬の匂いの中に、遠くの焼きたてパンの記憶が少し混ざる。塩パンの端の塩の粒の硬さ。クリームパンの温度。
 半年前の俺なら、ここで「大丈夫」と自分に言い聞かせたはずだ。今は言わない。大丈夫じゃないときもある。大丈夫じゃないときは、“ド”に戻る。戻って、“レ”へ。
 そして、オンラインの“&”で、拍をひとつ足す。離れても鳴る、短い合図。今日、それを覚えた。

 夜、家に帰って机に座る。進路の紙は、まだ同じ位置にある。丸は、まだ付けない。けれど、左の欄と右の欄の真ん中に小さく線を引いた。——設計完了(暫定)。
 ノートを開いて、今日の項目を青で書く。

 ——“続ける稽古”は、儀式じゃなく、段取り。
 ——拍手は、誰かといると怖くない。
 ——手を繋ぐ練習は、交差点で本番になる。
——“好きだよ”は、もう練習しない。
——“行ってきます”で、未来の扉が開く。
——“ただいま”は、これから作る。

 窓の外では、風が少し強くなっていた。電線が鳴る。街の遠くで救急車のサイレンが小さく反復する。重なった音は、ひとつの曲じゃない。けれど、拍を数えれば、どの音にも歩幅がある。俺は目を閉じて、四拍を数えた。いち、に、さん、し。
 スマホが震える。通知はひとつ。律から。
〈着。駅のベンチ、硬い〉
 俺は返した。
〈こっちも。明日の“&”、十七分から〉
〈了解。おやすみの前に“ド”一回〉
〈うん。ド〉
〈&〉

 たった二文字が、今日のすべてを凝縮する時がある。画面を伏せて、部屋の灯りを落とす。暗闇に目が慣れる。暗闇は、悪くない。最初の一歩が見えるまでの、準備の色だ。
 布団に潜り、耳を枕に預ける。自分の心臓の音が、床下の管を流れる水音に似てくる。拍と拍の間に、薄い沈黙。嫌な間じゃない。
 “さよならの稽古”は、今日、やめた。
 “はじめての本番”は、もう始まっている。
 明日の朝、目が覚めたら、俺は最初の“ド”を小さく鳴らす。
 そして、行ってきます、と言う。
 新しい通学路でも、同じ空を見上げる。
 遠距離は、距離の名前じゃない。リズムの名前だ。
 そのリズムを忘れないように、枕元にメモを置いた。
 ——十七分、“&”。

 目を閉じる。
 青い線が、まぶたの裏で音に変わる。
 C、G、Am、F。
 そこに、小さな“&”。
 タン。
 音は止まらない。
 止めない。
 もう、練習じゃないから。
 本番しか、ないから。