夕暮れの通学路は、茜色の光がゆったりと電柱の影を伸ばし、どこか一日の終わりの匂いを漂わせていた。
悠は鞄を背中に軽く揺らしながら、はぁ、と深いため息をこぼした。
その吐息さえ、今日一日の重たさを象徴しているようだ。

(今日は……本当に色々ありすぎた……)

(弁当の送り主が神谷だったって分かって……)

(しかも、遼って名前呼びまでお願いされて……)

(あれ何?そういう……なんというか、距離感?)

(いや、でも遼だし……あの人、クールで何考えているか意味わからんとこあるし……)

(いやにしても……やっぱ俺、キャパオーバー……)

心臓のあたりだけが、ずっと騒がしい。
気温も風も穏やかで、景色も綺麗なのに、心の中だけはざわついて仕方ない。

(……帰ったら、晃にも何か言われんのかな……)

(勢いよく隣の家から出てきて、神谷と何あった?とか……)

(ああもう、考えたくない……)

そんなときだった。

「――裏切ったの!?」

鋭い声が、まるで空気を裂くように背後から飛んできた。

「えっ――」

振り返るよりも先に、風を切る音が耳を刺した。

視界に飛び込んできたのは、涙と怒りに濡れた瞳をした女子。
その手には、光を反射してきらりと光る――ハサミ。

「は……?」

理解よりも恐怖が勝った。
足が自然と後ろに下がる。

女子はそのまま悠に飛びかかってきた。

「ちょっ――危なっ!」

反射的に身を引いた瞬間、心臓がひゅっと冷たくなる感覚。
背中に汗が一気に吹き出す。

(なんで!?誰!?俺、なんかした!?いや絶対してねぇよ!?)

そんな混乱の中――

「危ない!」

聞き慣れた、低く鋭い声。

ドッと風が巻き起こり、悠の横を影が駆け抜ける。

気づけば女子の手はぐっと後ろへねじられ、後ろから押さえ込まれていた。

「離せッ……ッ痛い、やめ……!」

「暴れんな。危ないから」

女子を制圧していたのは――神谷遼だった。

「り、遼……!?」

遼の表情は、見たことがないほど冷ややかだった。
その鋭さに悠は一瞬、息を呑む。

「誰?」

押さえつけられながら、女子の視線が悠へ突き刺さる。

「……えっ?いやいや、お前こそ誰だわ!!」

もう叫んだ。叫ぶしかなかった。
恐怖と混乱が一気に口から漏れる。

そのとき――

「悠!?今の悲鳴、お前か!?」

ばたばたと駆け寄ってくる足音の塊。
幼馴染の佐伯晃、その後ろには先生。
さらに、通報によるパトカーの赤色灯が遠くで回っている。

「おい、何が……って、美咲……?」

晃の声色が、一気に変わる。
怒りでも驚きでもない、もっと複雑な響きを帯びていた。

女子――美咲は唇を震わせ、視線が揺れた。

「……え?晃くん……?」

その瞬間、表情がばらばらと崩れ落ちる。

晃が息をのんで、きつく言い放った。

「美咲、お前……まさか悠を俺だと思ったのか?」

「……だって……後ろ姿が……似てて……カーディガン……あなたがいつも……それに……香水も……一緒、で……」

(カーディガン……晃が貸してくれたやつ……香り……さっき晃にかけられたから……?うそだろ……それで刺されかけたの……?)

美咲は悠と晃を見比べ、顔を青くして固まっていく。

「悠!すまん!俺がモテるばっかりに!!」

「知らん!!知らんがな!?なんで俺が刺されかけてんの!?」

「美咲にさ、告白されて付き合ったら、思ってた以上に……その……メンヘラでさ……!」

「知るか!!元カノの処理くらい責任持て!!佐伯晃!!」

「悠!ほんと悪かったって!俺もさすがに心臓キュッてなったわ!」

「俺はリアルに死ぬかと思ったよ!!」

「いやだってさ、あいつ、付き合って二日目で家の前まで来るようになってさ……晃くんが忘れないようにマーキング♡って俺の服借りるし!」

「うわぁ……やっぱりお前の見る目が問題じゃん!もう、理由はわかった!怖い!でも俺を巻き込むな!!」

「後ろ姿似てんだよ、お前」

「お前が勝手に俺に自分のカーディガン着せて、香水吹きかけてきたんだろ!!」

その後の事情聴取と先生+警察の確認により、誤解による暴走という事で処理され、事件はひとまず収束した。

遼は最後まで冷静に対応し、美咲を警察に引き渡したあと、黙って悠のもとへ歩み寄る。

「家まで送る」

その声音は淡々としていたが、拒否を許さない強さがあった。

「え……あ、いや……」

悠が戸惑っても、遼は歩き出した。
歩幅が自然と悠に合わせられていて、断るタイミングさえ奪われる。

夕暮れが夜に溶け始め、街灯が一つずつ点く。
ふたりの影が並んで伸びていく。

しばらく沈黙が続き、悠が小さく口を開いた。

「……その……さ。さっきは……本当に、ありがとう。助けてくれて……」

遼は横目でちらりと悠を見て、静かに言った。

「悠がいつもこの道通るの、知ってるから」

「……え?」

「たまたま悠の後ろを歩いてたら、変な女がいたんだよ。お前の方、ずっと見てて……嫌な予感した」

「そんな……すごい偶然……」

「偶然じゃなかったら?」

遼の声は静かで、深い。
胸の奥にゆっくり沈んでいく。

(……なんでそんなに知ってるの?)

(俺の通学路とか……家の方向とか……)

(そんなの、普通、知ら……)

(いや……友達だから?)

(友達って、こんなに……守ってくれるもんなの?)

戸惑いで足元がぐらつく。
そんな悠の表情を見て、遼が急に思い出したように声を上げる。

「あ、そうだ。香水」

「え……?」

遼は突然悠の肩をつかみ、ぐっと引き寄せた。
距離が近い。近すぎて心臓が変な動きをする。

次の瞬間、遼の手からスプレーの音がカチッと響いた。

ふわりと、落ち着く香りが悠の首元に落ちる。

「っ……ちょ、なに……?」

「佐伯の匂い、まだ残ってたから。これで間違えられない」

遼は少しだけ視線をそらす。

「……勝手にかけて、ごめん」

悠は一度瞬きをしたあと、首元に触れた。
手にかすかについた香りをかいで、ふっと笑った。

「ううん。ありがとう。……好きだよ。こっちの香りの方が」

遼の動きがぴたりと止まる。

目がわずかに開かれ、それから、ゆっくりと柔らかな表情に変わる。

頬がほんの少し上がった。

「……そう」

その声は控えめなのに、悠の胸の奥まで温かく染みていくほど、嬉しそうだった。

ふたりはそのまま歩き続ける。
街灯が変わるたび、影が寄り添うように重なっていく。

(……なんでだろ。こんなに……安心するなんて)

香水の香りと夜風に包まれながら、悠の胸には、はじめての守られている実感が、静かに、確かに灯った。